三井金属神岡鉱山の段階的縮小と、銅箔・TABなど電子材料への事業転換
- 概要
- 三井金属鉱業は、円高とイタイイタイ病補償で競争力を失った神岡鉱山を1978年から段階的に縮小し、2001年に約130年続いた自山からの採掘を止めた。並行して1976年の米Oak-Mitsui設立を皮切りに銅箔・TABなど電子材料へ軸を移し、2001年の中期経営計画"MAP500"で電子材料をコア事業と定めた。
- 背景
- 神岡鉱山は世界的な鉛・亜鉛鉱山として同社の収益を支えてきたが、1971年のニクソンショック以降の円高で国際競争力を失った。1972年にはイタイイタイ病の補償が発生して無配へ転落し、鉱山は収益の柱であると同時に重い負担の源にもなった。
- 内容
- 1978年の一時帰休から人員削減と坑道閉鎖を重ね、1986年には神岡鉱業所を子会社として分離した。一方で1976年に銅箔の現地生産、1980年に上尾銅箔工場、1989年にTABテープと電子材料を積み上げ、銅製錬と同じ電解の技術を新分野へ転用した。
- 含意
- 極薄銅箔はスマートフォン向けで世界シェアの大半を握る主力事業へ育ち、資源会社は先端材料メーカーへ性格を変えた。ただし非鉄金属市況への依存は残り、2009年3月期には金属価格の急落で672億円の最終赤字を計上した。
筆者の見解
資源会社が祖業をどう畳んだか
神岡鉱山の縮小を、斜陽の資源事業をたたんだ整理として読むと、この転換の芯は見えにくくなる。三井金属が電子材料で足場を築けたのは、銅を製錬する電解の工程が、電解銅箔をつくる工程とほとんど重なっていたからであった。手放したのは自山からの採掘という川上であって、金属を電気の力で扱う技術そのものではない。約130年続いた鉱山を畳みながら、そこで磨いた金属の扱いを川下の部材へ載せ替えた点に、単なる撤退とは異なるこの判断の性格がうかがえる。
もっとも、この転換を成功と呼べるのは、極薄銅箔がその後に世界シェアの9割を握ったからにすぎない。神岡の縮小は1978年から2001年まで23年をかけ、その間の業績はたびたび赤字に沈んだ。電子材料へ軸を移してなお、2009年3月期には金属市況の急落で672億円の赤字を出しており、資源会社の体質は容易には抜けなかった。祖業をいつ、どの速さで畳み、稼いだ技術を次の柱へどう移すか——三井金属の23年は、その問いに時間をかけて答えた事例として読むことができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
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