神岡鉱山を止め電子材料へ(2001年・三井金属の決断)更新:2026/07/25論点基幹鉱山を縮小し電子材料へ転換するか三井金属:業績の推移売上高(億円)当期純利益率(%)データ出所鉱山の段階的縮小と、銅箔・TABを収益源とする事業への転換何をなぜ決めたか:鉱山の段階的縮小と、銅箔・TABを収益源とする事業への転換概要三井金属鉱業は、円高とイタイイタイ病補償で競争力を失った神岡鉱山を1978年から段階的に縮小し、2001年に約130年続いた自山からの採掘を止めた。並行して1976年の米Oak-Mitsui設立を皮切りに銅箔・TABなど電子材料へ軸を移し、2001年の中期経営計画"MAP500"で電子材料をコア事業と定めた。背景神岡鉱山は世界的な鉛・亜鉛鉱山として同社の収益を支えてきたが、1971年のニクソンショック以降の円高で国際競争力を失った。1972年にはイタイイタイ病の補償が発生して無配へ転落し、鉱山は収益源であると同時に重い負担の源にもなった。内容1978年の一時帰休から人員削減と坑道閉鎖を重ね、1986年には神岡鉱業所を子会社として分離した。一方で1976年に銅箔の現地生産、1980年に上尾銅箔工場、1989年にTABテープと電子材料を積み上げ、銅製錬と同じ電解の技術を新分野へ転用した。含意極薄銅箔はスマートフォン向けで世界シェアの大半を占める主力事業へ育ち、資源会社は先端材料メーカーへ性格を変えた。ただし非鉄金属市況への依存は残り、2009年3月期には金属価格の急落で672億円の最終赤字を計上した。いつ何が起きたか9件考察:資源会社が祖業からどう撤退したか考察考察:資源会社が祖業からどう撤退したか神岡鉱山の縮小を、斜陽の資源事業をたたんだ整理として読むと、この転換の芯は見えにくくなる。三井金属が電子材料で足場を築けたのは、銅を製錬する電解の工程が、電解銅箔をつくる工程とほとんど重なっていたからであった。売却したのは自山からの採掘という川上であって、金属を電気の力で扱う技術そのものではない。約130年続いた鉱山を閉鎖しながら、そこで磨いた金属の扱いを川下の部材へ載せ替えた点に、単なる撤退とは異なるこの判断の性格がうかがえる。もっとも、この転換を成功と呼べるのは、極薄銅箔がその後に世界シェアの9割を占めたからにすぎない。神岡の縮小は1978年から2001年まで23年をかけ、その間の業績はたびたび赤字を計上した。電子材料へ軸を移してなお、2009年3月期には金属市況の急落で672億円の赤字を計上しており、資源会社の体質は容易には抜けなかった。祖業からいつ、どの速さで撤退し、稼いだ技術を次の収益源へどう移すか——三井金属の23年は、その問いに時間をかけて答えた事例として読むことができる。Yutaka Sugiura, 2026年7月参考文献参考文献参考三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】三井金属鉱業「沿革」(会社公式、https://www.mitsui-kinzoku.com/company/c_history/)新日本経済 1956年6月号証券アナリストジャーナル 1970年第8巻第1号(尾本信平 三井金属鉱業副社長)三井金属鉱業 会社年鑑(単体業績)三井金属鉱業 有価証券報告書(連結)次に読む決断三井金属の意思決定1950年三井金属三井金属神岡鉱業として独立三井鉱山からの金属部門の切り離しと、東京証券取引所への上場1950年1972年三井金属三井金属イタイイタイ病賠償受諾控訴審敗訴を受けた責任の全面的な引き受けと、公害防止協定・土壌復元の締結1972年同じ問い:構造改革による選択と集中2026年ホンダホンダ四輪電動化戦略の見直し北米EVモデルの開発中止と、四輪事業1兆5,778億円の損失計上2026年1999年三菱ケミカルグループ三菱ケミカルグループ四日市エチレン停止赤字事業の撲滅を通じた「脱・総合」への路線の切り替え1999年2025年グンゼグンゼアパレル事業の構造改革主力事業の再構築と、機能ソリューション・メディカルへの中核の移行2025年2025年フジクラフジクラAI・データセンターへ集中需要の伸びる領域への資源の集約と、電線大手という自己規定の刷新2025年2002年KDDIKDDIauのCDMA一本化とPDC除却二方式併走の解消と稼働中設備1,283億円の一期での償却2002年×出所