三井金属鉱業神岡鉱山の段階的縮小と、銅箔・TABなど電子材料への事業転換

世界有数の鉛・亜鉛鉱山を畳みながら、資源会社はどこに次の柱を据えたか

時期 2001年4月
意思決定者(推定) 宮村真平 社長
論点 基幹鉱山の縮小と事業構造の組み替え
概要
三井金属鉱業は、円高とイタイイタイ病補償で競争力を失った神岡鉱山を1978年から段階的に縮小し、2001年に約130年続いた自山からの採掘を止めた。並行して1976年の米Oak-Mitsui設立を皮切りに銅箔・TABなど電子材料へ軸を移し、2001年の中期経営計画「MAP500」で電子材料をコア事業と定めた。
背景
神岡鉱山は世界的な鉛・亜鉛鉱山として同社の収益を支えてきたが、1971年のニクソンショック以降の円高で国際競争力を失った。1972年にはイタイイタイ病の補償が発生して無配へ転落し、鉱山は収益の柱であると同時に重い負担の源にもなった。
内容
1978年の一時帰休から人員削減と坑道閉鎖を重ね、1986年には神岡鉱業所を子会社として分離した。一方で1976年に銅箔の現地生産、1980年に上尾銅箔工場、1989年にTABテープと電子材料を積み上げ、銅製錬と同じ電解の技術を新分野へ転用した。
含意
極薄銅箔はスマートフォン向けで世界シェアの大半を握る主力事業へ育ち、資源会社は先端材料メーカーへ性格を変えた。ただし非鉄金属市況への依存は残り、2009年3月期には金属価格の急落で672億円の最終赤字を計上した。
筆者の見解

資源会社が祖業をどう畳んだか

神岡鉱山の縮小を、斜陽の資源事業をたたんだ整理として読むと、この転換の芯は見えにくくなる。三井金属が電子材料で足場を築けたのは、銅を製錬する電解の工程が、電解銅箔をつくる工程とほとんど重なっていたからであった。手放したのは自山からの採掘という川上であって、金属を電気の力で扱う技術そのものではない。約130年続いた鉱山を畳みながら、そこで磨いた金属の扱いを川下の部材へ載せ替えた点に、単なる撤退とは異なるこの判断の性格がうかがえる。

もっとも、この転換を成功と呼べるのは、極薄銅箔がその後に世界シェアの9割を握ったからにすぎない。神岡の縮小は1978年から2001年まで23年をかけ、その間の業績はたびたび赤字に沈んだ。電子材料へ軸を移してなお、2009年3月期には金属市況の急落で672億円の赤字を出しており、資源会社の体質は容易には抜けなかった。祖業をいつ、どの速さで畳み、稼いだ技術を次の柱へどう移すか——三井金属の23年は、その問いに時間をかけて答えた事例として読むことができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

神岡を核とする非鉄一貫体制

三井金属鉱業の収益を長く支えてきたのは、岐阜県と富山県の境にある神岡鉱山であった。三井組が1874年に払い下げを受けて以来、同社は鉛と亜鉛の産出で国内に並ぶもののないこの鉱山を核に、採掘から製錬、加工までを一社で抱える垂直統合の体制を築いてきた。神岡はカナダのサリバンやオーストラリアのブロークンヒルと並ぶ規模で知られ、資源会社としての同社の性格そのものを形づくっていた[1][2]

神岡で採れた精鉱は、大牟田や彦島の製錬所で電気亜鉛地金へと仕上げられた。1913年の大牟田亜鉛製煉工場を皮切りに、同社は鉱石を輸入して国内で地金にする流れを主導し、非鉄金属の一貫メーカーとして地歩を固めた。1969年の講演で尾本信平副社長は神岡の埋蔵鉱量を4,000万トンと述べ、新たに見つかる鉱量が採掘量を上回ると語っている。会社の収益は、この一つの鉱山と亜鉛相場に強く結びついていた[3][4]

円高と補償が突きつけた行き詰まり

神岡を支えにした事業構成は、1970年代に入って二つの逆風にさらされた。ひとつは為替であった。1971年のニクソンショックを機に円高が進むと、国産鉱石は輸入鉱石に価格で押され、国内鉱山の競争力は落ちていった。いまひとつは公害の補償であった。神岡鉱山の排水に含まれたカドミウムが神通川流域のイタイイタイ病の原因とされ、1972年に補償が発生すると、三井金属は無配へと転落した[5]

競争力の低下は、業績にはっきりと表れた。単体の当期損益は1978年3月期に45億円、1979年3月期に31億円、1982年3月期に54億円と、1970年代後半から1980年代前半にかけてたびたび赤字に沈んだ。世界有数の産出量を誇ったことが、かえって縮小の判断を遅らせ、対応は同業他社より後手に回った。強みであったはずの鉱山の規模が、身軽になる妨げにもなっていた[6]

決断

神岡鉱山の段階的な縮小と分離

三井金属が神岡の縮小に入ったのは1978年であった。この年に一時帰休を実施して規模の縮小を始め、1981年には再建計画を立てて人員の削減に着手した。1985年のプラザ合意でふたたび円高が進むと経営はいっそう苦しくなり、1986年には希望退職者の追加募集に踏み切った。採掘量を一気に絞るのではなく、雇用と地域への影響を見ながら坑道を順に閉じていく、時間をかけた縮小であった[7]

縮小を機動的に進めるため、1986年には神岡鉱業所を切り出して子会社の神岡鉱業を設立した。鉱山事業を本体から分けることで、縮小の判断を身軽に下せる体制を整えた。1994年には鉱石からの鉛製錬を止め、1995年には人員の2割削減を柱とする神岡再建計画を立てた。そして2001年6月、神岡鉱業は亜鉛・鉛鉱石の採掘を中止した。1874年の払い下げから約130年続いた自山からの採掘に、区切りがついた[8][9]

電子材料への転換

縮小と並行して、三井金属は金属の技術を別の製品へ載せ替える道を探った。銅の製錬に用いる電解の工程は、プリント基板向けの電解銅箔をつくる工程とほぼ同じであった。同社は1976年に米国でOak-Mitsuiを設立して銅箔の現地生産に入り、1980年には三井金属箔を吸収合併して上尾銅箔工場を設けた。鉱山と製錬で積み上げた金属の扱いが、電子部品の材料という川下の領域へ延びていった[10][11]

1989年には半導体向けのTABテープをつくる子会社を設け、銅箔に続く電子材料の柱を育てた。1993年に社長へ就いた宮村真平氏は、銅箔などの電子材料を軸に収益基盤を組み直すことに力を注ぎ、1997年には製造業に先がけてベースアップを廃し、年収管理型と呼ぶ賃金制度を敷いた。2001年の中期経営計画「MAP500」で、同社は電子材料をコア事業と定め、資源会社からの転換を計画の上で明文化した[12][13]

結果

銅箔で世界シェアを握る

主力を移した先の電子材料は、やがて世界で存在感を放つ事業へ育った。とりわけ極薄銅箔は、スマートフォンのICパッケージ基板向けで2012年時点の世界シェア9割を占め、五つの主力事業の一つに数えられるまでになった。髪の毛の100分の1という薄さの銅箔を、破れやすさを抑えながら量産する技術で、三井金属は先行した。鉱山と製錬で培った金属の扱いが、微細化を求められる先端部材の要求に応えた[14]

転換は業績の回復にもつながった。2002年3月期に3,734億円であった連結売上高は、2022年3月期に過去最高益を更新し、2024年3月期の売上高は6,466億円へと伸びた。もっとも、非鉄金属の市況に業績が揺さぶられる構造は残り続けた。リーマンショックが直撃した2009年3月期には、金属価格の急落で672億円の最終赤字を計上している。電子材料の比重を高めてなお、資源会社の体質は簡単には抜けきらなかった[15][16]

出典・参考
  • 三井金属鉱業 有価証券報告書【沿革】
  • 三井金属鉱業「沿革」(会社公式、https://www.mitsui-kinzoku.com/company/c_history/)
  • 新日本経済 1956年6月号「神岡鉱山・世界に誇る鉛・亜鉛の優良鉱山」
  • 証券アナリストジャーナル 1970年第8巻第1号「三井金属鉱業の現状と将来」(尾本信平 三井金属鉱業副社長)
  • 週刊東洋経済 2012年3月17日号「[特集 「素材」革命!]通信・IT 薄さ1ミクロンでスマホ向け世界一 三井金属鉱業の極薄銅箔」
  • 日本経済新聞(2022年6月21日)「宮村真平氏が死去 元三井金属社長」
  • 三井金属鉱業 会社年鑑(単体業績)
  • 三井金属鉱業 有価証券報告書(連結)

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