持株会社化と研磨材事業への経営資源集中——中野光雄社長体制と中期経営計画「変身06-10」

祖業の紡績はなぜ主役の座を譲ったのか——持株会社化と研磨材集中が示した富士紡グループの選択

更新:

時期 2005年9月
意思決定者 中野光雄 代表取締役社長
論点 事業ポートフォリオの再構築と経営体制の刷新
概要
2005年9月、慢性的な繊維事業不振に直面していた富士紡績は持株会社制へ移行して富士紡ホールディングスへ改称し、研磨材事業の現場を率いてきた中野光雄氏を第12代社長に登用、中期経営計画「変身06-10」を打ち出した経営判断。
背景
1990年代末からの紡績・繊維工場の操業休止とアジア生産拠点の再編が進む一方、非繊維事業が業績を下支えする構図が続き、繊維専業からの脱却が課題として浮上していた。
内容
会社分割によりフジボウファイバーなどの事業会社を切り出して持株会社へ改組し、柳井化学工業社長を務めた中野光雄氏を社長に据え、「利益なくして事業なし」を掲げる中計で不採算事業の縮小と研磨材事業への設備投資を集中させた。
含意
構造改革費用と減損の計上を経て、FY08(2009年3月期)に11期ぶりの復配を実現し、研磨材事業を軸とする収益構造への転換を軌道に乗せた。
筆者の見解

紡績会社が下した選択

この経営判断の核心は、持株会社化という組織形態の変更そのものよりも、誰を社長に据えたかという一点にあったとみることができる。繊維畑の出身者ではなく、柳井化学工業で研磨材事業を率いてきた中野光雄氏を社長に選んだことは、グループの経営資源をどの事業へ振り向けるかという意思表示を、人事という最も分かりやすい手段で示す選択であった。持株会社制は事業ごとの収益責任を明確にする仕組みにすぎず、その仕組みを何のために使うかを決めたのは、研磨材事業の現場を知る経営者の登用だったといえる。

もっとも、この転換は決算に痛みを伴った。FY07・FY08と2期連続で構造改革費用と減損損失を計上し、11期ぶりの復配にたどり着くまでには、和歌山工場や豊浜工場といった繊維関連拠点の縮小を避けられなかった。1896年に鮎沢川の水力を動力源として始まった紡績会社が、研磨材という半導体産業の消耗材で主力事業を築き直すまでの道のりは、祖業へのこだわりを手放す決断があってはじめて開けたとうかがえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

繊維事業の縮小とアジア生産再編

1995年9月、富士紡績は電子器事業所を分離してフジボウ電子株式会社を設立し、1970年に着手した電子部品事業を独立採算の子会社へ切り出した。並行して繊維関連の子会社統廃合も進めたが、1999年3月にタイフジボウガーメントが生産を中止、同年9月に八尾工場、2000年7月に鷲津工場がそれぞれ操業を休止し、創業期から稼働を続けてきた紡績工場の選別が加速した。国内の生産拠点を絞り込む一方で、海外への生産移管も同時に進めていた[1][2]

2001年から2002年にかけては、韓国富士紡・富士紡(常州)服装・富士紡(香港)・富士紡服飾股份など、アジア各地での子会社設立が相次いだ。国内拠点の縮小と歩調を合わせる形で生産の海外シフトを進めた一方、2002年12月には1972年に資本参加したタイテキスタイルの株式を全量売却し、老舗の合弁からの撤退も同時に実行している。こうしたなか、FY03(2004年3月期)の連結決算は売上高480億円・経常利益22億円で着地したが、この経常利益は繊維事業の不振を電子・化学・研磨材といった非繊維事業の伸長が補う構造によって支えられていた[3][4]

柳井化学工業が育てたもう一つの技術

非繊維事業の中核をなしたのが、山口県柳井に拠点を置く柳井化学工業株式会社であった。1939年に設立された化学子会社は、半世紀余りを経て半導体ウエハーや液晶パネル向けのCMP(化学機械研磨)研磨材という新領域に参入していた。研磨パッドは不織布やポリウレタンフォームを基材とする「布の応用製品」であり、富士紡グループが1981年に大分紡績工場で始めた不織布生産の技術が、半導体研磨という新市場への応用先として結びついた経緯があった[5]

中野光雄氏は、1973年に山形大学工学部繊維工学科を卒業して富士紡績に入社した生え抜きの技術者であった。のちに同氏は日刊工業新聞のインタビューで、祖業である繊維事業に加えて研磨材や化学工業品のビジネスが大きく成長した経緯を振り返り、「発想の転換が必要だった」と新事業の発展を語っている。紡績会社の内側で四半世紀余りを過ごした技術者にとって、研磨材事業の芽生えは、繊維専業からの脱却を体感させる出来事となっていた[6][7]

決断

持株会社制移行と社名変更(2005年9月)

2005年7月、フジボウ小山株式会社は同年5月付でフジボウテキスタイル株式会社へ商号を変更したうえでフジボウ和歌山株式会社を吸収合併し、繊維関連子会社の再編を先行させた。続く同年9月には主要な事業グループを会社分割し、フジボウファイバー株式会社およびフジボウ小坂井株式会社を新設して持株会社制へ移行、社名を富士紡ホールディングス株式会社へ改めた。1896年の創業から109年を経て、一つの法人が紡績から化学まで抱え込んできた事業構造は、持株会社が傘下の事業会社を統括する体制へと組み替えられた[8][9]

同年12月には中津フジボウアパレルが敦賀フジボウアパレルを吸収合併して社名をフジボウソーイングへ変更するなど、グループ内の繊維・アパレル子会社の統廃合も並行して進めた。持株会社制への移行は、単なる法人格の分社化にとどまらず、事業ごとの収益責任を明確にし、不採算事業の縮小・撤退の判断を機動的に下せる体制を整える狙いを伴っていたとみられる[10]

中野光雄氏の社長登用と「変身06-10」

中野光雄氏は、機能資材部長・機能品事業部長を歴任したのち、2005年5月に柳井化学工業株式会社の社長に就き、研磨材事業を含む化学部門の現場を直接率いていた。翌2006年、同氏は富士紡ホールディングスの第12代社長に就任する。繊維畑ではなく、研磨材事業の現場から社長を登用したこの人事は、グループの主力を繊維から研磨材へ移していく方針を体現する布石であった[11]

持株会社化と前後して、富士紡ホールディングスは中期経営計画「変身06-10」(2006-2010年度)を策定した。同計画は「利益なくして事業なし」を理念に掲げ、不採算事業の縮小・撤退と、研磨材・化学工業品を中心とするポートフォリオの強化を方針として明示した。事業ごとの収益責任を明確にした持株会社体制と、研磨材事業出身の社長という組み合わせは、この中計を実行に移すための経営体制そのものであったといえる[12]

結果

構造改革費用の計上と研磨材投資の実行(FY07)

中計始動から2年後のFY07(2008年3月期)、富士紡ホールディングスは不採算取引の縮小、和歌山工場の減損、スパンデックス設備の除却によって、構造改革費用約20億円・減損損失12億8200万円を計上した。持株会社化の理念として掲げた「利益なくして事業なし」は、この期の決算に構造改革コストとして表れた[13]

同じFY07には、小山新工場の第1期操業が始まり、シリコンウエハー用研磨材製造設備が新設された。一方で和歌山工場は捺染事業から撤退し、小山工場ではニット事業の晒加工を取りやめた。不採算な繊維関連工程を畳みながら、その原資を研磨材の生産設備へ振り向ける構図が、この1年間の決算に集約されている[14]

11期ぶりの復配と研磨材の収益力(FY08)

続くFY08(2009年3月期)には豊浜工場で減損損失9億6500万円、工場閉鎖損失2億1500万円を計上した。一連の構造改革が一巡したこの期、富士紡ホールディングスは11期ぶりに復配を果たした。並行して壬生川新工場が稼働し、液晶ガラスG10対応の新工場建設にも着手するなど、研磨材事業の生産能力増強が加速した[15][16]

この期の直後、FY07(2008年3月期)のセグメント実績を振り返ると、不織布事業は売上86億円・営業利益24億円で、繊維事業の売上244億円・営業利益2億円と比べて売上規模は3分の1にとどまりながら営業利益は12倍に達していた。研磨材事業の母体である不織布事業の収益力の高さは、事業資源を研磨材へ集中させる判断の妥当性を裏付ける数字として残っている[17]

出典・参考