ニチロ家庭用・業務用の調理冷凍食品への集中と、ライン直結の商品開発体制への移行

水産で稼ぐか、調理冷凍食品で稼ぐか——「そばめし」が問うた開発と生産の距離

時期 2001年2月
意思決定者(推定) 松村直幹 冷凍食品担当常務
論点 事業構成と商品開発体制
概要
1990年代に子会社がコンビニエンスストア向けで広げた調理冷凍食品を、ニチロが1999年発売の「そばめし」を機に主力へ据え、全社一本の開発部を解体して生産ラインに直結した開発体制へ移した判断。買収と中国の生産拠点を重ね、2007年3月期には加工食品事業が連結売上高の6割を占めた。
背景
宮畜産(後のニチロサンフーズ)が1993年からセブン-イレブン向けに餃子を納入して売上を伸ばし、冷凍食品の市場規模も1998年に7,475億円へ拡大していた。少量多品種・業務用中心の生産は、大手とは異なる開発の速さを求めていた。
内容
1999年9月発売の「そばめし」は包材1,000箱から始まり、1か月で3,000箱、4か月で1万箱に伸びた。全社一本の開発部を解体してラインに直結させ、若手の提案をまず小さく作らせる。売れてもライン増設は急がず、売り止めを繰り返した。
含意
商品を当てる目利きではなく、外れても安く出せる仕組みを整えた点に特徴がある。集中は2003年のアクリフーズ子会社化などで加速したが、財務は重くなり、2005年3月期には71億8,600万円の当期純損失を計上した。
筆者の見解

外れる前提で、安く出す

松村直幹常務は発売前のそばめしを「こんなもの売れない」(週刊東洋経済 2001/2/24)と見ていた。それでも商品は世に出て、1,000箱で足りるはずの包材は1か月で3,000箱、4か月で1万箱に伸びた。ここで効いたのは商品を当てる目利きではなく、外れると見込んだ商品でもいちばん安いデザイナーと1,000箱の包材で出せる仕組みであった。全社一本の開発部を解体して生産ラインに直結させた体制は、外れる前提の試作を安く数多く回すために選ばれたとみられる。

ただし、この作り方には取りこぼしが伴った。めったにライン増設に踏み切らない方針のため売り止めが繰り返され、2001年2月14日からの関東以東の売り止めは再開の見通しすら立たなかった。集中をアクリフーズの子会社化や中国工場で補うと財務が重くなり、2005年3月期には71億8,600万円の当期純損失と12.0%の自己資本比率として現れた。2007年3月の商品開発センター新設も、ラインへ預けた開発を規模に見合う体制へ戻す必要が生じたためだとみられる。小さく試す仕組みは、事業が大きくなるほど作り直しを迫られる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

子会社が拾ったコンビニエンスストアの需要

ニチロの調理冷凍食品は、本体ではなく子会社の側から広がった。1962年に家畜の枝肉や内臓を売る宮畜産として設立された会社は、1968年11月に日魯漁業の子会社となり、冷凍調理食品の製造販売を本格的に始めた。1993年にセブン-イレブン向けの餃子の納入を開始すると売上が急拡大し、1994年には子会社の新潟フレッシュデリカを設立して新工場を建て、同じ年に商号をニチロサンフーズへ改めた。1999年には長野工場を建てている[1][2]

小田勝也社長の説明によれば、ニチロサンフーズの1999年3月期は売上高88億5,400万円・経常利益4億4,600万円で、売上に占めるセブン-イレブン向けは親会社経由の分を含めて約26%にのぼった。品目別ではハンバーグ28%、フライ20%、餃子19%が上位を占め、約700品目をそろえて納入先ごとの注文に応じていた。業務用と家庭用の比率は9対1で、多量少品種でレギュラー品の多い大手とは反対の、少量多品種の生産に寄っていた[3][4]

拡大する冷凍食品市場と、相場に揺れる水産

市場そのものが伸びていた。日本冷凍食品協会の統計で1998年の冷凍食品の市場規模は7,475億円に達し、業務用と家庭用の比率はおよそ7対3で近年ほとんど動いていなかった。小田社長は、欧米に比べて消費量が少ないこと、食生活の簡便化に合うこと、技術的な開発余地が大きいことの三つを挙げ、調理冷凍食品を最も成長が見込める分野と位置づけた。輸入価格と国内市況が連動しなければ損益が振れる水産品や畜産品とは、収益の読み方が違っていた[5][6]

伸びる市場を取るための仕組みも、すでに動いていた。ニチロサンフーズは納入ベンダー6社が参加する月4回の定例会合を推進役として、月3品を目標に新商品を作り、小田社長自身がセブン-イレブンの惣菜パン開発部会のリーダーを務めていた。強みは情報力・商品開発力・コスト競争力の三つに集約されると小田社長は述べている。2000年春には、念願だった家庭用として親会社ニチロのOEMで4品の出荷が始まった[7][8]

決断

売れないと見込んだ商品が生産を追い越す

「そばめし」の発売は1999年9月であった。焼きそばをぶつ切りにして炒飯に絡ませ、ソースで仕上げた冷凍食品で、冷凍食品担当の松村直幹常務は「まあまあ食える。が、こんなもの売れない」(週刊東洋経済 2001/2/24)と見ていた。売れないと見込んだ以上、費用はかけない。冷凍食品の要にあたるパッケージのデザインはいちばん安いデザイナーに任せ、包材も当初は1,000箱しか用意しなかった。それが1か月で3,000箱、4か月後には1万箱に伸びた[9]

報道が取り上げると需要はさらに膨らみ、生産が追いつかなくなった。ニチロは2000年12月22日にそばめしを売り止めにし、2001年1月22日に販売を再開したものの、売り止めの期間に作りためた220万食は10日で消えた。2月14日からは関東以東で再び売り止めに追い込まれ、販売再開の見通しは立たなかった。続けて出した「とりめし」も同じく売り止め中で、価格を改めて売り直した「いか天」は30億円の商品に育っていた[10]

開発部の解体と、生産ラインに直結した開発

ヒットが続いた理由を、週刊東洋経済は二つ挙げた。第一に、全社に一本あった開発部を解体し、生産ラインに直結した開発体制を敷いたこと。第二に、そのうえで「若い人がノビノビ発言できる雰囲気を作った」(週刊東洋経済 2001/2/24)ことであった。そばめしも若手の発想で、上の世代が良さを理解できなくても、熱のこもった提案ならとにかく作らせた。現場に判断を預ける考え方は子会社にも及び、ニチロサンフーズは直接部門と間接部門が合同で参加する工場改善で生産性30%向上を進めていた[11][12]

売れ始めても、設備投資は急がなかった。最初は小さく作り、いけるとなったら本腰を入れるものの、めったにライン増設には踏み切らない。売り止めが繰り返されたのはそのためであった。松村常務はヒット商品がいずれ飽きられるか大手の追撃を受けると見ており、「正規軍が来たら、逃げる。うちはベトコンよ」(週刊東洋経済 2001/2/24)と語っている。そばめしの次には「えびめし」、その次に「とりめし」、「いか天」の次には「えび天」を控えさせていた[13]

結果

買収と中国工場で冷凍食品の生産を積み増す

2000年代に入ると、ニチロは冷凍食品の生産能力を買収で積み増した。2003年4月に冷凍食品製造販売会社のアクリフーズを子会社化し、2004年11月にはフライやグラタン類を作るほくれいを子会社化して、2007年1月にアクリフーズへ統合した。海外では2003年1月に中国山東省へ日照日魯栄信食品有限公司を設立し、2006年6月にはアクリフーズが中国国内での「阿克力」ブランド確立のため、合弁の煙台阿克力食品有限公司を設立している[14][15]

集中の結果は、事業別の数字に表れた。2007年3月期の加工食品事業は売上高1,551億400万円・営業利益59億7,000万円、水産品事業は売上高812億9,400万円・営業利益13億3,000万円で、連結売上高2,516億9,700万円の6割超を加工食品が占め、営業利益では4倍以上の差がついた。市販用では冷凍米飯の「中華炒飯」や弁当向けの商材が伸び、子会社アクリフーズのグラタンやフライ類も好調に推移した[16]

財務の重さと、開発機能の再集約

一方で、買収と設備投資は財務に跳ね返った。2005年3月期には71億8,600万円の当期純損失を計上し、自己資本比率は12.0%まで下がっている。同年3月18日には農林中央金庫を割当先として優先株式800万株を1株1,000円で発行し、資本金は122億2,400万円となった。ニチロは有利子負債の削減を「グループ最大の財務的課題」(ニチロ 有価証券報告書 2007/6/28)と記している[17][18][19]

開発の仕組みも組み替えられた。2007年3月、ニチロはプレゼンテーション機能とテストプラント機能を備えた商品開発センターを東京都大田区に新設し、グループ各社と素材調達から商品開発・生産・営業のノウハウまで連携する方針を掲げた。同年2月には久里浜工場を閉鎖して冷凍米飯の生産を山形県の大江工場へ移し、設備を増強している。ラインに直結させて始めた開発は、冷凍食品各社を抱えた段階で、再び一か所へ集める方向に振れた[20][21]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 2001年2月24日号「驀進 ニチロ「そばめし」空前のヒット」
  • 証券アナリストジャーナル 2000年4月号「ニチロサンフーズ」
  • ニチロ 有価証券報告書(2007年6月28日提出)
  • ニチロ 有価証券報告書【沿革】

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