1935年に医学博士の代田稔氏が乳酸菌『シロタ株』を強化培養し、福岡で『ヤクルト』を発売したのが事業の始まりである。だが商標権は無秩序のまま全国各地の販売店が獲得し、戦後復興期に一時は販売権を持つ業者が600社を超え[1]、製造・販売業者たちは会社やグループの様をなさない状態にあった。販売体制の混乱を収拾するために、1955年4月、東京都中央区西八丁堀に資本金200万円で株式会社ヤクルト本社が設立された[2]。本社は商標権と工業所有権を一元管理し[3]、各地の業者に原液製造権と販売権を与え、売上高に応じてロイヤリティを徴収するフランチャイズ方式を採用した。
ところが本社設立後も内部対立は止まなかった。利害がからむと本社内部でも激しい対立が生まれ、バラバラという有様で、本社の発言力は皆無に等しかった。誰が本社を運営すべきかという論点に対し、最終的に長崎地区の販売権を持つ松園尚巳氏が中心人物となる[4]。松園氏は戦後にヤクルトを知り、1953年に200万円という大金を投じて長崎地区販売権を取得し[5]、長崎で基盤を固めた後に首都圏進出を狙って藤沢に関東ヤクルトを設立していた[6]。関東ヤクルトの営業苦戦に対し松園氏は婦人配達員という業界初の販売方式を打ち出し、設立わずか5年で全国150業者のトップ[7]の売上を達成して本社での発言権を獲得した。これが後にヤクルトレディと呼ばれる訪問販売部隊の出発点である。
販売現場の労働は過酷を極めた。松園尚巳氏が後年に振り返った実感では、面識のない家庭の主婦に売り込もうとしても八割は外交員というだけで門前払いになり、話を聞いてもらえた残りも大半は疑ってかかるため、百軒歩いて一軒とれるかどうかという勝負だった[8]。それでも松園氏は全国の販売業者に対し、ヤクルトが全体として飛躍するには今の乱立状態ではダメだ、小さい田舎会社では社員も誇りを持てず人材も集まらない、目先の利益にこだわらず将来に目を開いて協力しようと説き続けた。1963年、松園氏は本社専務に就任して経営権を握り[9]、ヤクルトレディの全国導入を指揮する立場に立った。
1968年、松園氏は『配達労働の革命』を提唱[10]した。瓶容器からプラスチック容器への切り替えで生産・配達コストを下げ、ヤクルトレディの報酬を2倍にする破格の提案だったが、地方瓶工場を傘下に持つ既得権層が真っ向から反対した。日ごろから迫力あふれる松園氏の言動を心よからず思っていた役員の一人が緊急動議を出し、その場の投票で松園氏はヤクルト本社から一時追放[11]される事態にまで発展した。反対派の論拠はプラスチックになれば全国160のびん工場は60まで集約可能となる、100工場のスクラップ費用が300億円、プラスチック容器のための新たな機械投資が180億円、計480億円[12]、今の状態でも十分に儲かっているのに、なぜ好んで各地の業者が損をかぶらなければいけないのかというものだった。
最終的にプラ容器移行案は通過したが、この騒動で全事業者の4分の1[13]がヤクルトから脱退した。松園氏はヤクルトをひっかき回す男、気違い専務と揶揄されながらもプラ容器化を完遂し、1970年にヤクルト本社の社長に就任した[14]。1969年には株式会社サンケイアトムズ(現ヤクルト球団)の株式を取得してプロ野球興行事業に参入し[15]、ヤクルトスワローズはのちに全国的なブランド認知の柱となった。1970年2月には各地のヤクルト製造会社の合理化・統廃合に伴い自社初の製造部門として藤沢工場を設置し[16]、創業期の地方乱立状態を本社主導の体制へ刷新する作業を進めた。
プラ容器への転換が採算に直結する理屈は単純だった。びんは回収・保管・洗浄という工程を回して初めて次の配達に使えるため、消費者一人に一本を届ける裏側でおよそ十一本の空きびんが流通過程に滞留する[17]。中身は一本でも容器は十一本という空回りを、使い捨て容器はまるごと消せる。ヤクルトレディが毎日運ぶ荷も軽くなり、一人あたりの配達効率が上がる[18]。既得権を持つ地方の瓶工場から見れば損失でしかないが、配達を担う女性と本社から見れば、報酬を二倍にする原資はここにしかなかった。追放の動議が飛び出したのは、この損得の線がそのまま社内の対立線と重なっていたからである。
松園尚巳社長は1973年に全国8社のヤクルト原液工場の買収を完了し[19]、ヤクルト本社の『大政奉還』を果たした。フランチャイズ各社が握っていた製造機能を本社が一括統合する体制が、創業から18年を経てようやく整った形である。1971年に化粧品の本格販売を開始[20]、1975年に医薬品の本格販売を開始し[21]、乳製品単品依存からの脱却を試みた。だが同じ1973年の時点で、販売本数の伸びがやや頭打ちの現状では多角化は至上命題だという評価が、社外からすでに向けられていた[22]。乳酸菌飲料という創業商品の市場が日本国内では飽和に向かう兆候は、上場前から見えていた。
1964年3月、ヤクルトグループ初の海外事業所として台湾[23]ヤクルトが営業を開始した。1978年8月にはシンガポールヤクルト[24]、1990年2月にインドネシアヤクルト[25]、1992年6月にオーストラリアヤクルト[26]、1996年3月にヨーロッパヤクルトと、海外事業所の設立[27]は計画的に積み上がった。創業期の地方乱立を本社主導で再統合した松園体制は、その同じフランチャイズ統合の論理を海外展開へ転用し始めていた。国内が飽和に向かうほど、海外で同じ訪問販売モデルを移植する以外に成長の余地は残されていない構造が、この時点で既に組み込まれていた。
本社の権限がなぜここまで弱かったのかは、この組織の成り立ちに由来する。コカ・コーラ型のフランチャイズが本社を先に置いて各地に加盟店を作るのに対し、ヤクルトは各地の製造・販売会社が先にあり、それらが共同で本社を設立するという逆向きの順序をとった[28]。本社が握っていたのは商標権と特許だけで、実務は宣伝広告の代行にとどまる調整・連絡機関に近かった[29]。地方会社の整理・統合を進め、生みの親にあたる原液製造会社の株式まで買い取って管轄下に置くには、十余年を要している[30]。大政奉還という言葉が選ばれたのは、この親子逆転の道のりを一語で言い表せたからである。
1980年1月、ヤクルト本社は東京証券取引所市場第二部に上場し[31]、翌1981年7月に第一部へ昇格した[32]。創業から25年でフランチャイズの乱立を本社主導に統合し[33]、製造機能を直営化したうえでの上場である。上場直後の1984年12月、ヤクルト薬品工業を吸収合併して医薬品の開発・製造[34]に本格進出し、1986年2月に富士裾野工場[35]、1987年7月に富士裾野医薬品工場と[36]東日本の生産・物流拠点を相次いで設置した。乳製品・医薬品・化粧品の三本柱体制を制度的に整える時期である。
1984年、ヤクルトは三菱商事と提携し、無店舗販売の共同子会社『リプソン』(ヤクルト51%・三菱商事49%)を設立した。発案者は松園尚巳社長と言われ、両社の肝いりの事業としてスタートした。事業運営に携わった熊谷直樹常務は[37]、ありきたりの新規事業には終わらせず、両社の力を結集して通信販売業界に革命をおこしてやろうと意気込んだ。事業構想は、全国に約6万人いるヤクルトの女性販売員[38]にカタログ誌『こっとんぽけっと』を配らせ、注文をとる、商品の品揃えは三菱商事に、商品の宅配は日本通運にお願いする、カタログを見ながら対話方式で売り込めば一般の通販よりはるかに効率が上がるだろうというものだった。
参入の時機は業界の熱気に押されてもいた。1985年には町の時計店が家具を、燃料店がワンピースを売り出すというように、伸び悩む売上を一気に広げる狙いでカタログ販売への新規参入が雪崩を打っており、乳酸菌飲料メーカーがCDプレーヤーを扱うことも奇異ではなかった[39]。ただしヤクルト側の動機はもう一段手前にあり、重要な販売チャネルであるヤクルトおばさんの士気を高めるため副収入の道を用意することが最大の理由だった[40]。通販そのものを多角化の一環と捉える三菱商事とは前提が異なり、この食い違いは後に両社の歩調を乱す原因となる[41]。
1988年、ヤクルトは累計損失50億6500万円を計上してリプソンを清算した[42]。設立から4年での撤退である。専務の熊谷直樹氏が挙げた敗因の第一は品揃えだった。衣料品や家電、寝装・寝具、家具・インテリアを中心に30歳から35歳の主婦を狙ったが、ありきたりの商品では市販品と競合するため高級輸入品も取り入れ、1点あたりの平均価格をやや高めのゾーンに設定した[43]。カタログでは本物志向をしきりに掲げたものの、これが庶民性を売り物にしてきたヤクルトおばさんの像と噛み合わなかった[44]。
第二の敗因は販売基盤の前提にあった。大部分の販売員が客と顔を合わせるのは月に一度の集金時くらいで、当初狙った密なやりとりは成り立たなかった[45]。熊谷氏はのちに、事業コンセプトそのものが間違っていた、通信販売に近道はなく地道に取り組むしかないという教訓に尽きると総括している[46]。1987年度までに全国展開を終えて売上高450億円、1989年度に1000億円という計画を掲げ[47]、それを前提に大型コンピューターを備えた受注センターと大勢の社員雇用という固定費を先に抱え込んだ。売上を伸ばして資金繰りを楽にするという発想から抜け出せなくなり、撤退の判断は遅れた。
リプソン清算後も本業の販売本数は伸び悩んだ。1997年には、20年以上にわたって安定成長を続けてきた同社の経営手法が曲がり角を迎えたという評価が向けられている。収益の柱である乳飲料の販売本数はここ10年あまり1日1100万本[48]の水準で横ばいで、乳飲料の立て直しだけでなく化粧品など新分野を育てることが欠かせず、30年来の販売方法に限らず新しい販路を開く発想の転換が要るのではないかという問いが投げられた[49]。1本あたりの単価も配達の網も動かせないまま、伸びしろだけが細っていた。創業以来の訪問販売モデルは、日本国内では成熟期に入っていた。
1998年、ヤクルトは財テク損失として1075億円の特別損失を計上した[50]。バブル崩壊後の含み損が一気に表面化したかたちで、財テクの神様と呼ばれた熊谷直樹副社長は同年退任し、後に脱税容疑で逮捕された。リプソン清算の敗軍の将と評された経営陣が、本業の販売停滞期に本業以外の運用益で穴埋めしようとして致命的な損失を計上した経緯は、上場後20年弱の経営の歪みを象徴する事件として残った。1996年に堀澄也氏が第5代社長に就任し[51]、財テク問題を引き継ぐ形で立て直しを迫られる体制が始まる。
これら国内多角化の挫折の裏で、海外の訪問販売モデル移植は同時並行で進んだ。1990年2月のインドネシアヤクルト、1992年6月のオーストラリアヤクルト、1996年3[52]月の欧州統括会社設立で、海外拠点は1990年代を通じて10カ国超に広がった。国内で訪問販売モデルの拡張余地が乏しくなるほど、海外で同じモデルを展開する誘因が強まる構造が定着し、2000年代以降のアジア・新興国シフトの基盤がこの時期に積み上がった。
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|---|---|---|---|---|
| 1955〜1969年地方フランチャイズの統合と松園尚巳氏によるプラ容器革命 | ヤクルト本社を設立 | ★ | ||
| 研究所(後に中央研究所京都分室と名称を変更)を設置 | ★ | |||
| 本社移転 | ★ | |||
| 初の海外拠点として台湾ヤクルトを設立 | ★★ | |||
| 国立研究所(後に中央研究所と名称を変更)を設置 | ★ | |||
| 瓶からプラスチック容器への転換と全国原液工場の統合による本社集権体制の確立 1968年、ヤクルト本社の松園尚巳専務が瓶からプラスチック容器への転換を提案し、緊急動議で一時追放されながらも案を通し、1970年に社長へ就任、1973年に全国8社の原液工場買収を完了して本社直営体制(大政奉還)を確立した経営判断。乱立した地方フランチャイズを本社主導へ組み替えた業態転換であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| サンケイアトムズの株式を取得 | ★ | |||
| プロ野球興行事業に参入 | ★ | |||
| 1970〜1999年上場とリプソン失敗・財テク1075億円損失で揺らいだ20年 | 初の製造部門として藤沢工場を新設 | ★ | ||
| 化粧品の本格販売を開始 | ★ | |||
| ヤクルト本社と合併 | ★ | |||
| 医薬品の本格販売を開始 | ★ | |||
| シンガポールヤクルトを設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部へ株式上場 | ★ | |||
| 三菱商事との合弁通販子会社リプソンの設立と清算 1984年、ヤクルト本社が三菱商事と共同で無店舗販売の子会社リプソンを設立し(ヤクルトが51%出資)、約6万人のヤクルトレディにカタログ誌『こっとんぽけっと』を配布させる通信販売に参入したが、1988年に累計損失50億6500万円を計上して清算した経営判断。発案者は松園尚巳社長、事業運営は熊谷直樹常務が担った。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 医薬品の開発・製造を開始 | ★ | |||
| 東日本における製造・物流の拠点として、富士裾野工場を新設 | ★ | |||
| 富士裾野医薬品工場を新設 | ★ | |||
| インドネシアヤクルトを設立 | ★ | |||
| オーストラリアヤクルトを設立 | ★ | |||
| 堀澄也 | ヤクルト販売を統括するヨーロッパヤクルトを設立 | ★ | ||
| 2000〜2026年ダノン提携と新興国シフトで稼ぎ頭を作り直した四半世紀 | 堀澄也 | グループダノンとの戦略提携と、16年後の資本関係の解消 2004年3月、ヤクルト本社が世界最大級の乳製品メーカー、仏ダノンを約2割を握る筆頭株主に迎えて戦略提携を結んだ経営判断。前年に株を買い増して筆頭株主となったダノンを、欧州販売網とプロバイオティクス共同研究を得る戦略提携へと組み替えた。提携は2013年に協業覚書へ格下げされ、2018年・2020年の二段階の株式売却を経て、16年で資本関係が解消された。 詳細を読む | ★★★ | |
| 堀澄也 | 1単元の株式の数を1,000株から100株に変更 | ★ | ||
| 堀澄也 | ベルギーに研究拠点を設置 | ★ | ||
| 堀澄也 | ヤクルト事業を統括する中国ヤクルトを設立 | ★★ | ||
| 堀澄也 | グループダノンとの合弁でインドヤクルト・ダノンを設立 | ★ | ||
| 堀澄也 | 組織の統合・再編により5支店体制へ移行 | ★ | ||
| 根岸孝成 | 西日本における生産拠点として、兵庫三木工場を新設 | ★ | ||
| 根岸孝成 | ダノンとの戦略提携契約を終了 | ★ | ||
| 根岸孝成 | 本社乳製品工場の組織再編により5工場体制へ移行 | ★ | ||
| 根岸孝成 | 7棟からなる新中央研究所が竣工 | ★ | ||
| 根岸孝成 | 本社移転 | ★ | ||
| 成田裕 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 成田裕 | 普通株式1株につき2株の割合で株式分割を実施 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ヤクルト本社)