三菱商事との合弁通販子会社リプソンの設立と清算
6万人のヤクルトレディを通販網に転じる構想は、なぜ4年で50億円の損失に終わったか
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- 概要
- 1984年、ヤクルト本社が三菱商事と共同で無店舗販売の子会社リプソンを設立し(ヤクルトが51%出資)、約6万人のヤクルトレディにカタログ誌「こっとんぽけっと」を配布させる通信販売に参入したが、1988年に累計損失50億6500万円を計上して清算した経営判断。発案者は松園尚巳社長、事業運営は熊谷直樹常務が担った。
- 背景
- 乳飲料の販売本数が頭打ちとなって多角化が課題となるなか、1980年代前半のカタログ通販ブームを追い風に、6万人の訪問販売網の士気と副収入を支える新事業として通販が構想された。三菱商事の多角化目的とは動機が異なっていた。
- 内容
- 品揃えを三菱商事、宅配を日本通運、決済を日本信販が担い、毎日各家庭を回る販売員が対話方式でカタログ販売する座組であった。1989年度に売上1000億円を掲げ、大型コンピューターの受注センターと大量採用で固定費を先行させた。
- 含意
- 高級輸入品志向がヤクルトおばさんの庶民的イメージと合わず、月1回の集金接点では密な対話も成立しなかった。熊谷専務は「事業コンセプトそのものが間違っていた」と総括し、通信販売に近道はないという教訓が残った。
既存チャネルの転用という読み
この失敗の中心にあるのは、強みだと思われた資産が、別の事業ではそのまま強みにならなかった事実である。6万人の販売員という日本でも稀な訪問網は、毎日の飲料配達という一点に最適化されており、月1回の集金でしか客と向き合わない販売員に、カタログの対話販売まで担わせる余力は乏しかった。既存チャネルを新規事業へ転用すれば効率が上がるという読みは、チャネルの性格を細かく見れば、必ずしも成り立たないものであったとみられる。
もう一つ残るのは、撤退の速さと遅さが同居していた点である。1000億円という目標を掲げて固定費を先に抱えた構えは、走りながら方向を直す余裕を奪い、コンセプトの練り直しよりも売上の確保を優先させた。それでも4年で見切りをつけ、累計50億円あまりの損失を本業の体力で吸収したことは、傷を広げない判断でもあった。通信販売に近道はないという熊谷専務の言葉は、既存の顧客基盤を持つ企業が新しい売り方へ踏み込むときに立ち返るべき論点を残しているとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
頭打ちの本業と多角化という課題
ヤクルト本社にとって、本業の乳酸菌飲料は1970年代に入ると伸びが鈍り始めていた。東京証券取引所への上場をめぐる1973年の取材で、日経ビジネスは同社の販売本数の伸びがやや頭打ちで、多角化は至上命題だと伝えている。1980年に東証二部へ上場し、医薬品や化粧品を加えた多角化を進めていた同社にとって、6万人規模に育った訪問販売網(ヤクルトレディ)をどう生かすかは、次の成長を左右する問いであった[1]。
通販への参入には、ヤクルト固有の事情もあった。後にリプソンを率いた熊谷直樹常務は、三菱商事にとって通販は多角化の一環だが、ヤクルトにとっては別の意味があったと述べ、ヤクルト製品の重要な販売チャネルであるヤクルトおばさんの士気を高めるため、副収入を上げる方法を考えることが一番大きな動機だったと振り返っている。毎日各家庭を回る販売員の接点を、飲料以外の商いにも広げられるという読みがそこにあった[2]。
カタログ通販ブームという追い風
1980年代前半、日本ではカタログを使った無店舗販売への新規参入が相次いでいた。1985年の読売新聞は、町の時計店が家具を、燃料店がワンピースを、乳酸飲料メーカーがコンパクトディスクプレーヤーを売ると、業種を越えた参入の熱気を伝え、その多くが伸び悩む売上を一気に拡大する狙いだと紹介している。宅配便やクレジットカードが普及し、商品を個人へ直接届ける条件が整いつつあった時期で、既存の顧客基盤を持つ企業ほど通販を有望な多角化先と見ていた[3]。
決断
三菱商事との合弁でリプソンを設立
1984年、ヤクルト本社は三菱商事と共同で、無店舗販売の子会社リプソンを設立した。ヤクルトが51%を出資し、発案者は松園尚巳社長と言われる。事業運営にあたった熊谷直樹常務は、ありきたりの新規事業には終わらせず、両社の力を結集して通信販売業界に革命をおこしてやろう[4]と意気込んでいた。総合商社と乳酸菌飲料の最大手が組む肝いりの事業として、リプソンは動き出した。
リプソンの構想は、既存の訪問販売網をそのまま通販の入り口に転じるものであった。全国に約6万人いる女性販売員にカタログ誌「こっとんぽけっと」を配らせて注文をとり、商品の品揃えは三菱商事、宅配は日本通運、決済は日本信販のカードが担う。毎日ヤクルトを届ける販売員なら各家庭の主婦や娘の好みを把握しており、カタログを見ながら対話方式で売り込めば一般の通販よりはるかに効率が上がると見込んでいた[5]。
固定費先行の壮大な計画
事業の立ち上げは、最初から大きな絵に沿って進んだ。熊谷常務は、1987年度までに全国展開を終えて売上高450億円、1989年度には1000億円という計画を描き、それを前提に大型コンピューターを備えた受注センターを構え、大勢の社員を雇い入れた。掲げた1000億円という目標は、当時のヤクルト本体の単体売上高(1984年1月期で1124億円)に迫る規模で、無店舗販売の新会社が数年で並ぶには重い数字であった。先に固定費を抱え込んだ構えが、後の経営判断を縛る重荷になった[6][7]。
結果
清算と敗因の分析
1988年、ヤクルトは累計損失50億6500万円を計上してリプソンを清算した。熊谷専務は敗因をいくつか挙げている。第一に品揃えの誤りで、30歳から35歳の主婦を狙った衣料や家電、寝具などの取扱商品に、市販品との競合を避けるため高級輸入品を加え、平均価格を高めに置いて本物志向を打ち出した。これが、庶民性を売りものにするヤクルトおばさんのイメージと合わなかった[8]。
第二に、頼みとした販売網そのものが通販の前提を満たしていなかった。熊谷専務によれば、大部分の販売員が客と顔を合わせる機会は月1回の集金時くらいで、当初狙った密なコミュニケーションは期待できなかった。加えて、多角化の一環と見る三菱商事と、レディの士気向上を主眼とするヤクルトとでは通販への思惑が異なり、両社の歩調は次第に合わなくなっていた。毎日の配達という強みは、通販の設計図が想定したほど厚くはなかった[9][10]。
「事業コンセプトそのものが間違っていた」
熊谷専務の総括は率直であった。これはもう、事業コンセプトそのものが間違っていた、通信販売という事業に近道はなく、地道に取り組むしかないという教訓を得たに尽きると述べている。日経ビジネスも、通販大手の千趣会や高島屋が30年近い歴史を基盤にしていることを引き、50億6500万円の累計損失は授業料として決して高くないはずだと総括した。本体の単体売上高が1985年1月期で1160億円に達していたヤクルトにとって、この損失は本業の体力で吸収できる範囲にとどまった[11][12][13]。
リプソンの清算は、新しい販路を短期で作る難しさを残した。本業の乳飲料も1990年代に伸び悩み、1997年の日経ビジネスは、20年以上安定成長を続けた同社の経営手法が曲がり角を迎えた、収益の柱である乳飲料の販売本数はここ10年あまり1日1100万本の水準で横ばいだと伝え、伝統ある販売方法に限らず新しい販路の開拓を含めた発想転換が必要かもしれないと問いを投げた。訪問販売という創業以来のモデルは、国内では成熟期に入っていた[14]。
- 日経ビジネス 1988年10月24日号「敗軍の将、兵を語る 熊谷直樹(ヤクルト本社専務)」
- 日経ビジネス 1973年2月5日号「上場で試される『独創的大企業』」
- 日経ビジネス 1997年6月2日号「婦人部隊34年ぶり改革・化粧品とともにテコ入れ」
- 読売新聞 1985年7月14日朝刊「カタログ販売全盛」
- ヤクルト本社 会社年鑑(単体業績)