寳酒造の源流は、京都伏見で天保13年(1842年)から酒造業を営んできた四方家[1]にさかのぼる。四方卯之助氏は1905年(明治38年)に四方合名会社を設立[2]し、味淋・白酒・焼酎の三品目で創業した。1897年には『寳』の商標をみりんで登録[3]している。1916年(大正5年)には四国・宇和島から後の会長・大宮庫吉氏を迎えて新式焼酎の製造を始め[4]、伏見工場を拡張した。四方合名時代の生産石数は焼酎8万石・味淋2万石・本直し5千石・白酒3百石[5]。焼酎の壜詰品は同社が創始し、『タカラ』といえば焼酎という定評[6]を全国で得ていた。1925年9月、四方合名会社は株式会社組織へ改組[7]され、資本金55万円[8]の寳酒造株式会社が京都市伏見区竹中町に設立された。定款が掲げた事業目的は『酒類、酒精、清涼飲料水、医薬用品、調味料等の製造および販売』[引用元]で、設立と同時に四方合名会社を吸収合併し、伏見と木崎の二工場体制[9]で操業を始めた。
株式会社となった寳酒造は合併で生産拠点を広げ、1926年10月に千葉県市川の帝国酒造[10]、1929年6月に東京王子の大正製酒、同年9月に広島県鞆の鞆保命酒屋、1939年1月に山口県防府の日本酒造を合併し、資本金を664万8千円へ[11]積み増した。大正製酒から引き継いだ王子工場は、1964年5月に松戸工場へ統合[12]されている。新式焼酎が勃興した大正年間には全国に業者が乱立して出血競争となり、寳酒造が主唱して全国新式焼酎聯盟会を組織し、全業者の生産制限を実行[13]した。1933年4月には松竹梅酒造を設立[14]し、清酒『松竹梅』を伏見・灘の両工場と傍系の都酒造・呉竹酒造を加えた四工場で生産を始めた。1938年3月には木崎工場を東亜酒精興業へ譲渡[15]した。
日華事変以後は食糧統制から酒類原料の割当統制が始まり、1941年の大日本酒類販売会社の設立とともに酒類の配給も統制されて重点配給[16]となった。清酒の生産は戦前の年間400万〜450万石から1938年以降に急減し、1948酒造年度には67万石[17]まで落ちた。原料不足と統制下の制約のなかで、寳酒造は工場能力の大部分を政府用アルコールの生産へ振り向け[18]、あわせて各酒類の供給も続けた。1940年4月には満州新京に満州松竹梅酒造を設立[19]して満州の日本酒メーカーとして操業し、1943年4月には香港に香港麦酒酒精工場を建設[20]して熱帯地での麦酒生産に踏み込んだが、いずれも終戦とともに接収された。戦争末期には王子工場が戦災で全焼[21]している。
酒精の生産力は国策会社への出資にも向けられ、1943年3月には航空用高級燃料の製造を目的とする東亜化学興業[22](後の協和醗酵工業)の設立に加わった。同社は東洋紡績・大日本麦酒・合同酒精・第一生命保険・寳酒造・日本酒類の6社が資本金2000万円を共同出資[23]し、山口県防府市の東洋紡績人絹工場を買収して発足している。1940年4月には大黒葡萄酒が社長として大宮庫吉氏を迎え[24]、寳酒造の傍系会社となった。社長は四方家から二代続いたのち、三代に大宮庫吉氏が就任し、元大蔵大臣の石渡荘太郎氏を最高顧問[25]に迎えている。戦後の生産品目は焼酎・味淋・本直し・白酒に清酒・合成清酒・ウイスキー・葡萄酒などが加わり、専売アルコールを木崎・楠・防府・島原・高鍋の五工場で、清酒添加用アルコールを全工場で生産[26]する構成となった。
戦後の寳酒造は他社の買収と官営工場の払下げで生産設備を積み増し、1947年6月に大黒葡萄酒から白河工場(2003年3月廃止)を買収[27]した。同年9月には日本酒精を吸収合併して木崎・楠・防府の三工場を継承[28]し、長崎市の旭酒造[29]もあわせて取り込んでいる。1949年5月、東京・大阪・名古屋の各証券取引所の開設に伴って株式を上場[30]し、同年7月には京都証券取引所にも上場[31]した。1952年10月には政府から専売アルコール工場の払下げ[32]を受け、長崎県島原と宮崎県高鍋(現・黒壁蔵)の二工場[33]を取得。1952年11月に中央酒類を吸収合併[34]して市川・灘第一・鹿児島の三工場を加え、1954年12月には摂津酒造から灘第二工場(現・白壁蔵)を買収[35]した。
工場網は14を数え[36]、総生産能力は一日の蒸溜能力で醪1万6千石、焼酎に換算して年産百余万石[37]に達した。1954年3月期の生産販売石数は焼酎33万石・味淋1万石・本直し1万4千石・清酒3千5百石ほかの総計49万4千石[38]で、金額では127億8千万円[39]だった。焼酎で全国の3割、味淋と本直しで7割、専売アルコールで2割[40]を供給し、寳酒造はわが国酒造界の第一位[41]を占めた。資本金は1947年9月の2580万円[42]から増資を重ね、1953年10月には23億8千万円[43]となった。1953年11月には愛媛県青果販売農業協同組合連合会と提携してジュースの生産販売[44]を始め、松山・王子の二工場で精製したタカラポンジュースは年間1千万本[45]を出荷した。1955年9月、麦酒製造の免許を得た[46]寳酒造は、木崎工場を拡張整備してタカラビールの生産[47]に入った。
1955年9月1日の新工場建設認可では、麦酒三社が各10万石だったのに対し、寳酒造には12万石[48]が第一期分として認められた。1957年4月、寳酒造は木崎麦酒工場を建設[49]してビール事業へ参入[50]した。焼酎・清酒・本みりんを主力とする酒造業者にとってビールは市場規模の大きい領域で、前会長の大宮庫吉氏が社運を賭けて始めた事業[51]でもあり、資本金を積み増して設備投資へ振り向けた[52]。1959年10月には札幌工場(2003年3月廃止)を建設[53]し、1962年3月には京都麦酒工場を新設[54]して関西市場へ進出した。1964年5月には市川・王子の両工場を統合して松戸工場を新設[55]し、同年10月には摂津酒造と本辰酒造を吸収合併[56]して大阪・長野の二工場を継承した。
だが事業は軌道に乗らず、当時のビール流通では問屋が特定の銘柄だけを扱う専売的な慣行[57]が根を張り、先行するアサヒビールなど大手の壁は厚く、後発の寳酒造は販売ルートを築けなかった[58]。京都に第二工場を建てて拡大を狙った[59]ことが、かえって失敗を決定的にした。タカラビールは1957年の発売から5年後に関西進出も失敗[60]し、1962年度から5期連続の無配[61]に陥った。ビール事業は在来の酒類で稼いだ利益を食いつぶす重荷[62]となり、1966年3月期の経常利益は0.63億円[63]まで落ち込んだ。1966年に大宮隆氏が社長へ就任した[64]時点で、この不採算事業が経営を最も強く圧迫していた。
大宮隆社長にとって、撤退の対象は養父である前会長・大宮庫吉氏が悲願として始めた事業[65]だった。それでも『このまま続けると会社がつぶれる』[引用元](日経ビジネス 1992年3月2日号)と判断し、就任直後の最初の仕事としてビールからの全面撤退[66]を決めた。撤退は取引先への説明から始まり、大宮隆社長は得意先を回って事情を説き、取引銀行を間に立てて[67]工場の売却を進めた。1967年7月に京都麦酒工場を麒麟麦酒へ[68]、1968年4月に木崎麦酒工場をサッポロビールへ譲渡[69]。参入から10年でビール事業から全面的に退いた[70]。あわせて過剰人員の整理に着手し、13年間で1000人を超える削減[71][72]を実施した。
ビールを切り離した寳酒造は、味淋・焼酎・合成酒・アルコールという在来の主力[73]へ経営資源を絞り直した。撤退の効果は数字に表れ、1966年3月期に0.63億円まで落ちた経常利益は、1967年3月期には5.05億円へ持ち直している[74]。麦酒部門の分離によって不採算部門が解消され、在来の主製品を中心とした安定成長の見通し[75]がついたと、当時の会社側も総括した。宝ホールディングスは創立100周年を前に、1957年の参入から10年での撤退という失敗を糧に、新たな成長事業として着手したのがバイオ事業[76]だったと振り返っている。撤退で事業を縮小するさなかに設けた中央研究所[77]が、そのバイオ事業の源流である。
1970年9月、寳酒造は滋賀県大津市に中央研究所[78]を開設した。田辺脩博士を所長に迎え、わずか5人で研究を始めた[79]小さな拠点だったが、その年間運営費は約1億円[80]に達した。1965年度の経常利益が6300万円[81]しかなかった会社にとっては利益を上回る規模の固定費であり、社内からは大変な時期に目先の利益につながらないものを、という反対の声が相次いだ[82]。大宮隆社長は『永年、発酵技術で食べさせてもらった恩返しを少しでも社会にすべきだ』[引用元](日経ビジネス 1992年3月2日号)という論理で研究所の存続を守り、縮小のなかでも研究員だけは増やした。当時常務だった大宮久氏も『将来、必ずバイオの時代が来る。……『やるか、やらないか』だ』[引用元](週刊東洋経済 2000年8月5日号)と社内を説き伏せ、事業の立ち上げに加わっている。
研究の土台は酒造で長く磨いてきた発酵の技術にあり、焼酎や酒精を造る過程で蓄えた微生物の知見を足がかりに、寳酒造は酒精製造技術から生物工学へ研究範囲を広げた[83]。それでも寳酒造は毎年売上高の1%を研究開発費として確保[84]し、中央研究所は1981年時点で90人体制[85]へ増えた。1970年に開いたこの研究所は、2002年4月の会社分割でタカラバイオへ承継される[86]まで、酒類事業と同じ法人のなかにあった。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/2531/manifest.json https://the-shashi.com/api/2531/history.json https://the-shashi.com/api/2531/timeline.json https://the-shashi.com/api/2531/executives.json https://the-shashi.com/api/2531/shareholders.json https://the-shashi.com/api/2531/financials.json https://the-shashi.com/api/2531/financials-longterm.json https://the-shashi.com/api/2531/segments.json https://the-shashi.com/api/2531/regions.json https://the-shashi.com/api/2531/workforce.json | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1925〜1956年四方合名の改組から合併を重ね、酒造界第一位に立つまで | 寳酒造を設立 | ★ | ||
| 大正製酒を吸収合併、王子工場(1964年5月松戸工場に統合)に | ★ | |||
| 大黒葡萄酒より白河工場(2003年3月廃止)を買収 | ★ | |||
| 日本酒精を吸収合併 | ★ | |||
| 木崎・楠・防府の3工場を継承 | ★ | |||
| 東京、大阪、名古屋の各証券取引所開設に伴い株式上場 | ★ | |||
| 京都証券取引所に株式を上場 | ★ | |||
| 政府より専売アルコール工場の払下げを受領 | ★ | |||
| 中央酒類を吸収合併 | ★ | |||
| 摂津酒造より灘第二工場を買収 | ★ | |||
| 1957〜1976年ビール参入の失敗と、撤退のさなかに置いた中央研究所 | 木崎麦酒工場を新設(1968年4月サッポロビールに譲渡) | ★ | ||
| 札幌工場(2003年3月廃止)建設 | ★ | |||
| ビール事業からの撤退と二工場のキリン・サッポロへの売却 1966年に社長へ就任した大宮隆氏は、就任直後の最大の懸案として、1957年に参入したビール事業からの撤退を決めた。京都麦酒工場を1967年に麒麟麦酒へ、木崎麦酒工場を1968年にサッポロビールへ売却し、あわせて大規模な人員削減を進めた。前会長・大宮庫吉氏が社運を賭けて始めた事業を、後継の社長が畳んだ判断であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 市川・王子の両工場を統合し松戸工場を新設 | ★ | |||
| 摂津酒造と本辰酒造を吸収合併 | ★ | |||
| 大阪・長野の2工場を継承 | ★ | |||
| 大宮隆 | 中央研究所の設置による発酵・遺伝子工学への種まき 1970年9月、宝酒造は滋賀県大津市に中央研究所を設置した。酒精製造で培った発酵技術を土台に、生物工学・遺伝子工学へ研究範囲を広げる拠点で、後のタカラバイオの源流となる。ビール撤退で人員と設備を整理していた再建期に、大宮隆社長が反対を押し切って踏み切った投資であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1977〜2001年焼酎「純」の復権と、絶頂期に始めた海外酒類・バイオへの先行投資 | 大宮隆 | NUMANO SAKE CO.を株式取得 | ★ | |
| 大宮隆 | 米国本土での清酒製造を開始 | ★★ | ||
| 久木田稔 | 焼酎が健在なうちに進めた海外酒類ブランドの取得 1980年代半ば、焼酎ブームで業界最大手となっていた宝酒造は、本業が健在なうちに海外酒類ブランドの取得を進めた。1986年に英国のスコッチウイスキーメーカー、トマーチン・ディスティラーズを買収し、1991年には米国のバーボンメーカー、エイジ・インターナショナルの持株会社を取得した。久木田稔社長が主導した、本業のピークで次の柱を仕込む多角化であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 久木田稔 | Tomatin Distillers Plc.の資産を買収 | ★★ | ||
| 久木田稔 | スコッチウイスキーの製造を開始 | ★ | ||
| 久木田稔 | AADC Holding Company,Inc.の株式を一部取得 | ★ | ||
| 大宮久 | 宝生物工程(大連)有限公司を設立 | ★ | ||
| 大宮久 | 合弁で北京寛宝食品有限公司を設立 | ★ | ||
| 2002〜2026年持株会社化と海外日本食流通への主力交代、タカラバイオの再統合 | 大宮久 | 持株会社化による酒類・バイオ二事業の分割 2002年4月、寳酒造は物的分割により酒類・食品・酒精事業を新設の宝酒造株式会社へ、バイオ事業を新設のタカラバイオ株式会社へ承継し、自身は持株会社の宝ホールディングス株式会社へ移行した。1925年の設立から77年目に、収益サイクルの異なる二事業を別法人へ分けた組織再編で、意思決定は大宮久社長が主導した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 大宮久 | 会社分割により新設のタカラバイオがバイオ事業を承継 | ★★ | ||
| 大宮久 | タカラバイオが東京証券取引所マザーズに株式上場 | ★ | ||
| 大宮久 | Clontech Laboratories,Inc.の全株式をTakara Bio USA Holdings Inc.経由取得 | ★★ | ||
| 大宮久 | 宝酒造が仏国のFOODEX S.A.S.の発行済株式80%を取得 | ★ | ||
| 柿本敏男 | 宝酒造が米国のMutual Trading Co.,Inc.を子会社化 | ★ | ||
| 柿本敏男 | Rubicon Genomics, Inc.の全株式を取得 | ★ | ||
| 柿本敏男 | WaferGen Bio-systems, Inc.の全株式を取得 | ★ | ||
| 柿本敏男 | 海外日本食材卸事業を成長の主軸に据える戦略転換 宝ホールディングスが、成熟する国内酒類に代えて、海外の日本食レストラン向け食材卸を成長の軸に据えた戦略転換。2010年のフランスFOODEX買収以降、欧州・米国・豪州の日本食材卸を相次いで傘下に収め、2017年7月に宝酒造の海外事業を分割して宝酒造インターナショナルを独立した統括会社とした。木村睦社長のもとで『日本酒を売る会社』から『日本食を売る会社』への再定義が進んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 木村睦 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 木村睦 | Kagerer & Co. GmbHの出資持分90%を取得 | ★ | ||
| 木村睦 | タカラバイオの完全子会社化TOBによる親子上場の解消 2026年2月13日、宝ホールディングスは保有比率60.91%の上場子会社タカラバイオに対し、1株1,150円・買付代金約541億円の公開買付け(TOB)を実施すると発表した。スクイーズアウトを経て完全子会社化し、上場を廃止する方針で、2002年の分割で送り出したバイオ事業を四半世紀を経て手元へ戻す判断であった。意思決定は木村睦社長が主導した。 詳細を読む | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(宝ホールディングス)