宝ホールディングス中央研究所の設置による発酵・遺伝子工学への種まき
再建で戦線を縮めるさなか、大宮隆社長はなぜ目先の利益にならぬ研究所に賭けたか
- 概要
- 1970年9月、宝酒造は滋賀県大津市に中央研究所を設置した。酒精製造で培った発酵技術を土台に、生物工学・遺伝子工学へ研究範囲を広げる拠点で、後のタカラバイオの源流となる。ビール撤退で人員と設備を整理していた再建期に、大宮隆社長が反対を押し切って踏み切った投資であった。
- 背景
- 1957年参入のビール事業から撤退し、工場売却と人員削減を進めていた時期で、1966年3月期の経常利益は0.63億円まで落ち込んでいた。年間1億円の運営費を要する研究所の新設には、社内外から「大変な時期に目先の利益につながらないものを」という反対が相次いだ。
- 内容
- 田辺脩博士を所長に迎え、わずか5人で研究を始めた。酒造で長く用いてきた発酵技術を出発点に、制限酵素など遺伝子工学の基礎研究へ資源を集中し、毎年売上高の1%を研究開発費として確保する方針を続けた。
- 含意
- 中央研究所は日本初の制限酵素の開発、PCR関連試薬の国内独占販売、ゲノム受託解析へと成果を重ね、2002年にタカラバイオへ承継された。半世紀後のコロナ禍のPCR需要ピークまで届いた事業の芽が、この再建期の一投資に発している。
目先の利益にならない投資という賭け
この決断の核心は、最も苦しい時期に、最も回収の遠い投資を選んだことにある。経常利益を上回る運営費を研究所に投じるという判断は、当時の財務からみれば合理性を説明しにくい。それでも大宮隆社長が反対を押し切れたのは、酒造で得た発酵技術への確信と、縮小一辺倒では会社が痩せるという危機感が重なっていたからだとみられる。撤退と投資を同じ時期に決めた経営の呼吸に、この判断の性格がうかがえる。
ただ、この投資が半世紀後のPCR需要ピークまで届いたことをもって、先見の明とだけ評するのは物語を単純にしすぎる。研究所が成果を出すまでには二十年近い歳月がかかり、その間の地道な基礎研究と、後を継いだ経営者たちの判断の積み重ねがあった。ひとつの投資が長い時間を経て事業に結実するとき、そこには最初の決断と同じだけの、続ける決断が要る。中央研究所の来歴は、そのことを静かに示しているといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
再建期に問われた「次の柱」
1970年前後の宝酒造は、ビール事業の失敗を整理している最中であった。1957年に参入したビールから撤退し、二つの麦酒工場を売却して人員を大きく削減する再建のさなかにあった。1966年3月期の経常利益は0.63億円まで落ち込み、縮小に次ぐ縮小で社内の空気は沈みがちであった。守りを固めるだけでは会社の士気が保てないという危機感が、経営陣のなかにあった[1][2]。
一方で、宝酒造には酒造で長く磨いてきた発酵の技術があった。焼酎や酒精を造る過程で蓄えた微生物と発酵の知見は、当時まだ産業化の途上にあった生物工学と地続きであった。清酒・焼酎・本みりんという成熟した市場の外に、この技術を伸ばせる領域があるのではないか——再建で追われる日々のなかで、経営はそこに次の柱の可能性を見ていた[3]。
決断
反対を押し切った1億円の投資
1970年9月、宝酒造は滋賀県大津市に中央研究所を設けた。田辺脩博士を所長に迎え、わずか5人で研究を始めた小さな拠点であった。ただ、その年間運営費は約1億円に達した。1965年度の経常利益が6300万円しかなかった会社にとって、利益を上回る規模の固定費を研究所に投じる決断であり、社内からは「大変な時期に目先の利益につながらないものを」という反対の声が相次いだ[4][5]。
大宮隆社長は反対を押し切った。「永年、発酵技術で食べさせてもらった恩返しを少しでも社会にすべきだ」という論理で研究所の存続を守り、縮小のなかでもスタッフだけは増やし続けた。撤退という守りと、研究所という攻めを同時に動かした点に、この判断の性格が表れている。当時常務であった大宮久氏も「将来、必ずバイオの時代が来る。やるか、やらないかだ」と社内を説き伏せ、事業の立ち上げに加わった[6][7]。
結果
半世紀をかけて開いた芽
中央研究所は時間をかけて成果を積み上げた。設立当初こそキノコの人工栽培などが目立つ程度であったが、やがて日本初の遺伝子工学試薬・制限酵素の開発に成功する。その実績を武器に、1988年には米パーキンエルマー社のPCR関連製品の日本独占販売権を獲得し、1990年にはゲノム受託解析を事業化した。基礎研究を最優先で続けたことが、遺伝子工学の主要技術を押さえる強みへとつながっていった[8]。
バイオ事業は1999年度に年商100億円規模へ育ち、営業利益で30億円ほどを稼ぐまでになった。2002年には中央研究所がタカラバイオへ承継され、酒類とバイオという二つの事業を別法人へ分ける持株会社化の前提となる。さらにその先には、コロナ禍のPCR検査試薬需要でグループが業績のピークを記録する場面が待っていた。1970年の小さな研究所は、半世紀をかけて会社のもう一本の柱へと育ったとみることができる[9][10]。
- 日経ビジネス 1981年11月2日号「ケーススタディ 宝酒造」
- 日経ビジネス 1992年3月2日号「有訓無訓 苦しい時こそワンマンたれ」
- 週刊東洋経済 2000年8月5日号「[特集]変革のみやこ京都 宝酒造 バイオ事業に賭けろ!」
- 宝ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- 宝ホールディングス 有価証券報告書(1966年3月期・1971年3月期・単体)