旭化成「油漬け」体質の脱皮へ原子力・電子・医薬に賭けた第二次多角化
- 概要
- 二度の石油危機で石油化学と合繊が『油漬け』の重荷に変わった1980年前後、宮崎輝社長がウラン濃縮・原子力発電から電子材料・医薬まで、脱石油の新規事業群へ相次いで投資する方針を打ち出した経営判断。繊維依存からの脱皮を果たした第一次多角化に続く、第二次の事業入れ替えであった。
- 背景
- 1972年のエチレンセンター完成で念願の総合化学化を達成した直後、1973年秋の石油危機が直撃した。1976年3月期には戦後初の経常赤字に陥り、1980年3月期には原燃料コストの上昇だけで500億円にのぼった。減益そのものより、企業構造が石油に漬かっているという弱点が問題とされた。
- 内容
- イオン交換膜研究から派生した化学交換法ウラン濃縮の実験プラントに5年間で120億円を投じ、水島では原子力発電所の共同建設の企業化調査を進めた。
- 含意
- 原子力は当面の果実が期待できない『金食い虫』と同時代誌に評され、実用化に至らなかった。一方、同じ文脈で蒔かれたLSIと医薬・医療は宮崎氏が残した次代の成長事業となり、賭けの成否は事業ごとに大きく分かれた。
二度目の脱皮が示すもの
この判断は、1961年の徹底多角化と対で読むと輪郭がはっきりする。第一次多角化は繊維一本足という弱点への解であり、その到達点が石油化学であった。ところが石油危機によって、解であったはずの石油化学そのものが弱点に転じた。第二次多角化は自らの成功の産物からの脱皮であり、多角化を重ねても『何に依存しているか』という問いは消えないことを示す事例とみることができる。
賭けの成績表もまた示唆に富む。旗頭であった原子力は実用の果実を結ばず、脇に並んでいた電子と医薬が次代の柱候補に育った。10年先を見て面で種を蒔く宮崎流は、個別の的中率では測れない一方、外れた種の後始末は後継の経営に残された。健全な赤字部門という哲学が成立するには、赤字に耐える体力と、見切りの規律との均衡が要る。その均衡が崩れたとき何が起きるかは、1990年代の選択と集中が引き受けた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
総合化学化の達成と石油危機の直撃
旭化成工業は1972年4月、岡山県水島で山陽エチレンのエチレンセンターを完成させ、念願だった総合化学会社への脱皮を果たした。計画から完成まで7年、総投資は当時の売上高に匹敵する規模で、宮崎輝社長が『ルビコン川を渡る気持ち』[引用元]と語った社運を賭けた一手であった。繊維依存という1961年以来の課題は、これでひとまず解を得たかにみえた[1]。
しかし1973年秋の石油危機が、この構図を根底から覆した。消費の低迷と原材料費・人件費の高騰で収益は急速に悪化し、1976年3月期には23億円の経常赤字に陥った。赤字への転落は戦後初めてのことであった。宮崎氏は遊休土地や保有株式の売却で3年間に200億円の益出しを行って配当をつなぎ、この間に3割近い人員削減にも踏み切った[2]。
「油漬け」と名指しされた企業構造
第二次石油危機は、減量経営で持ち直しかけた収益を再び直撃した。1980年3月期の原燃料コストの上昇は500億円にのぼり、1981年3月期にも原燃料だけで400億円強、電力料で33億円の負担増が見込まれた。同社は1973年からエネルギー効率化推進委員会を設けて省エネルギーを進め、エネルギー原単位を半分に下げていたが、そうした改善の積み重ねにも限界がみえていた[3]。
問題は目先の減益ではなく、事業構造そのものにあると経営陣はみていた。石油化学への進出で念願の脱繊維は達成したものの、石油危機以降のとどまるところを知らない石油製品の値上がりが経営基盤を揺るがしていた。経営計画を担当する弓倉礼一常務は、減益というミクロの波動よりも、既存製品をつる式に広げてきた企業構造が『油漬け』という弱点を抱えていることこそ大きな問題である、と語っていた[4]。
決断
原子力に求めた活路
構想はウラン濃縮に留まらなかった。旭化成グループの石油化学コンビナートがある水島地区では、三菱化成工業や川崎製鉄などの隣組と共同で50万キロワット級の原子力発電所を建設する企業化調査が静かに進んでいた。『原子力発電所をつくれば、電力料は現在の3分の1以下に下がる』[引用元]と宮崎輝社長はメリットを力説し、豪州ではウラン資源開発の足がかりも探った。ウラン鉱から燃料、発電までの一貫構想であった[6]。
10年先を見た2000億円の新規事業開発
原子力はあくまで旗頭であり、狙いは脱石油の事業群を面で育てることにあった。同社は今後10年間に2000億円の新規事業を開発しなければ経済の伸びに応じた成長は難しいと考え、一時中断していた炭素繊維の研究を再開するなど開発を急いだ。既存技術から枝を伸ばす同社流の展開図には、磁気テープやホール素子などのエレクトロニクス、人工臓器や医薬品、二世帯住宅までが新規開発事業として並んでいた[7]。
果実が遠い事業への投資を支えたのは、宮崎氏の『健全な赤字部門』の哲学であった。将来性のある赤字部門を体力の範囲で抱え続けることが企業の活力につながるという考えで、宮崎氏は後年のインタビューでも、成功の可能性が3割あれば新事業に挑戦する、5年間で100億円の累積赤字が出てもやり通す、と自らの基準を語っている。『経営者は常に10年先を考えて決断しなければならない』[引用元]という持論が、この第二次多角化の土台にあった[8][9]。
結果
実らなかった原子力、育った電子と医薬
原子力への賭けは、同時代の誌面ですでに厳しくみられていた。実験プラントの処理能力は想定される実用プラントより1ケタ以上小さく、実用化への道は相当に長い。国家プロジェクトが中心の領域だけに一企業の裁量の余地は狭く、『当たれば大きいが、外れれば“マンモスの牙”になりかねない』[引用元]——旭化成が過去に経験した最大の冒険であった石油化学進出よりも、はるかに不確かな要素の多いプロジェクトと評されていた[10]。
13年後の1993年、同じ日経ビジネスの誌面が旭化成の成長を託す先として挙げたのは、原子力ではなく、宮崎氏が進出を決めたLSIと医薬・医療の二つの新規事業であった。宮崎県延岡市には350億円を投じたLSI工場が建ち、医薬・医療は1992年1月の東洋醸造合併で新薬開発に年約120億円を注ぐ体制となっていた。脱石油を掲げて面で蒔いた種のうち、実を結びつつあったのは電子と医薬という別の枝であった[11][12]。
薄い果実と、次代へ持ち越された整理
ただし第二次多角化の果実は、宮崎氏の在世中には薄いままであった。エレクトロニクスや医薬品など多角化事業分野の経常利益は1993年3月期時点でなお21億円強にすぎず、全社の経常利益は1991年3月期の755億円から1993年3月期には352億円へ半減していた。誌面は拡大路線の遺産を『負の遺産』と呼び、このまま背負い続ければジリ貧になるのは確実と書いた[13]。
1992年4月に宮崎氏が急逝すると、山口信夫会長と弓倉礼一社長の二人三脚体制は『成長を前提にしない経営』[引用元]を掲げ、事業をコアビジネスと撤退対象に仕分ける作業へ移った。油漬け脱皮の文脈で蒔かれた事業群も、この仕分けの対象となった。石油依存という弱点への解が、次には多角化の膨張という新しい問いを生んだのであり、その整理は1990年代の『選択と集中』に持ち越された[14]。
- 日経ビジネス 1980年12月29日号
- 日経ビジネス 1987年8月17日号
- 日経ビジネス 1993年9月6日号
- 宮崎輝「私の履歴書」(日本経済新聞連載、1983年12月)
- 旭化成工業 会社年鑑 1986年版(単体業績)