ALC建材「ヘーベル」を戸建てブランドに仕立てた住宅事業参入

素材を売るか、家ごと売るか——化繊会社・旭化成工業はなぜ住宅産業へ踏み込んだか

更新:

時期 1972年9月
意思決定者 宮崎輝 社長
論点 多角化と住宅産業参入
概要
1972年9月、旭化成工業が軽量気泡コンクリート(ALC)「ヘーベル」を構造材とする戸建て住宅「ヘーベルハウス」の本格展開に踏み切り、同年11月に旭化成ホームズを設立して住宅産業へ参入した経営判断。宮崎輝社長が進めた多角化のなかでも、化学の技術系譜から外れた「飛び地」への参入であった。
背景
宮崎氏は1967年の業界誌取材で「日本で一番足らぬのは住」と語り、軽いコンクリートで壁・屋根・床をつくる時代の到来を予見していた。建材進出はソ連技術の失敗で累積赤字30億円近くを抱えたが、西独ヘーベル・ガストン社の技術へ切り替えた「ヘーベル」が1967年に立ち上がり、住宅参入の足場となった。
内容
素材の外販に留めず、自社ブランドの戸建て住宅として販売するところまで踏み込んだ。発足直後に販売不振へ陥ると代理店制度を廃止して直販体制を一から築き直し、都筑馨太氏・山口信夫氏ら畑違いの人材を事業責任者に起用して立て直した。
含意
工費高・不動産ノウハウ不足という後発のハンデを、首都圏集中と二世帯住宅という市場の切り取りで逆手に取った。1988年3月期には住宅部門の売上高が初めて繊維部門を上回り、祖業を抜く収益の柱として今日まで続く事業に育った。
筆者の見解

素材の企業化と産業への参入は別の決断であった

この判断の要は、「素材の企業化」と「住宅産業への参入」が別々の決断として積み重なっている点にある。1961年からの徹底多角化はヘーベルという素材を生んだが、それを戸建てブランドに仕立てるかどうかは、また別の問いであった。素材の外販に留まれば建材メーカーの一部門で終わったところを、施工と販売まで抱える住宅業へ踏み込んだことで、繊維や石油化学とは景気の律動が異なる収益源を手に入れた、とみることができる。

一方でこの事業は、技術が一本の線でつながるという旭化成の多角化の説明から外れた飛び地であったことを、宮崎氏自身が認めている。飛び地を成立させたのは、素材の特性から逆算した首都圏集中や二世帯住宅という市場の切り取り方であり、その定着が後年の選択と集中の時代にも住宅を手放させなかった。2015年の杭打ちデータ偽装が、信頼を軸に築かれたこの事業の来歴を揺らした事実も含めて、参入から半世紀の歩みは、多角化の成否が参入後の作り込みに懸かることを示している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

化繊会社が見た「住の不足」

旭化成工業は1960年代、宮崎輝社長のもとでナイロン・建材・合成ゴムの三新規事業を軸に多角化を進めていた。宮崎氏は1967年の業界誌の取材で、合成繊維にもやがて需要のサイクルが来るとみて、繊維以外の分野を持つ必要を語り、力を入れる分野としてバイオケミカルと並べ「将来は建材」を名指ししていた。多角化の次の柱を建材に置く考えは、住宅参入の5年前にすでに言葉になっていた[1]

同じ取材で宮崎氏は、衣食住のうち日本にもっとも足りないのは住であると述べ、都市への人口集中と生活様式の変化を見据えて、壁・屋根・床そのものをつくる軽いコンクリートの時代が来ると語っていた。化繊会社の社長が住の不足に次の成長の種を見た発言であり、素材から住宅へ向かう構想の原点がここにあった[2]

ソ連建材の失敗と西独ヘーベルへの入れ替え

建材への進出は1963年4月の建材事業部の設置に始まった。最初はソ連から軽量気泡コンクリート「シリカリチート」を導入し、同年11月に生産を開始したが、頑丈で大型の建材は繊細さが求められる日本の住宅に合わず、コスト高で採算が取れなかった。累積赤字は30億円近くにのぼり、宮崎氏は事業継続の断念に追い込まれた[3]

それでも建材自体はあきらめず、西独駐在員の情報から同国ヘーベル・ガストン社の軽量気泡コンクリートに行き着き、十分な調査のうえで導入契約を結んだ。1967年8月に生産を開始した「ヘーベル」はコンクリートの4分の1の軽さで断熱・耐火に優れ、ビル・工場・一般住宅と用途を広げて建材事業の柱に育った。素材の失敗を撤退ではなく技術の入れ替えで立て直した経過が、住宅参入の足場をつくった[4][5]

決断

素材売りに留めず、住宅ブランドとして参入

1972年9月、旭化成工業はALC「ヘーベル」を構造材に使う戸建て住宅「ヘーベルハウス」の本格展開に踏み切り、住宅事業へ本格進出した。同年11月には販売・施工を担う旭化成ホームズを設立した。宮崎氏は後年、建材で培った技術を生かして住宅部門へ進出したと振り返っている。素材を外販するに留めず、自社ブランドの家として売るところまで踏み込んだ点に、この判断の核心があった[6][7]

当時は大阪万博後の住宅ブームのさなかで、多くの企業が住宅事業へなだれ込んでいた。「猫も杓子も住宅事業に参入した。住宅をやらない会社は、馬鹿だといった空気さえあった」と、同社の住宅営業幹部は当時の熱気を振り返っている。ただ旭化成の参入は流行への相乗りだけではなく、宮崎氏がかねてから住宅事業に関心を持っていたことが決断を後押ししたと、同じ幹部は語っていた[8]

直販への立て直しと人の配置

参入の前提となった追い風は長くは続かなかった。販売代理店制度のもとでは施工責任の所在が曖昧で営業体制も弱く、住宅事業は不振を極めた。同社は代理店制度を廃止し、直販体制を一から築き直す事態にまで追い込まれた。ブームに乗った新規参入組の事業計画の甘さが次々と露呈するなかで、旭化成は販売の仕組みそのものを作り替えて事業を続けた[9]

人の面では、宮崎氏は1972年の住宅参入にあたり、もっとも若くて馬力があったという都筑馨太氏を事業部長に据え、その後任に総務・秘書畑の長い山口信夫氏を送り込んだ。畑違いの人材をあえて新規事業の責任者に置く宮崎流の人事であり、宮崎氏は後年、二人が住宅部門を旭化成の大きな柱に育ててくれたと記している[10]

結果

後発のハンデを逆手に取った首都圏戦略

住宅事業には後発ゆえのハンデが重なっていた。ALCを使う構造上、工費は他社の木質系プレハブより2割弱高く、外観のバリエーションも乏しい。不動産開発のノウハウがないため、大手のように土地と住宅をセットで売る商売もできなかった。そこで同社は販売地域を大都市圏に絞り、地震や火災に強いALCの特色が生き、所得水準の高い都市生活者に的を絞る作戦へ出た[11]

この路線を決定づけたのが二世帯住宅であった。1979年1月に共用・内階段・外階段・連棟式の4タイプを発売したが、当初は契約後のキャンセル率が15〜20%にのぼった。同社は顧客50軒100世帯からの聞き取りで親子同居の暮らし方を洗い直し、1980年には社内に二世帯住宅研究所を設けて商品を作り直した。受注棟数に占める二世帯住宅の割合は1986年の17.5%から1989年見込みの27%へ急増し、住宅部門の急成長を支える戦略商品に育った[12][13]

繊維を抜いた住宅、戸建て上位への定着

1988年3月期、住宅部門の売上高は初めて繊維部門を抜き、翌1989年3月期には1850億円が見込まれるまでになった。プレハブ住宅専業のミサワホームと肩を並べる規模であり、参入から16年で祖業の繊維を上回る柱に育った。1990年度の販売棟数は6600棟で全国7位にとどまるものの、首都圏1都3県では2位、東京都では積水ハウスを抑えて首位に立ち、都心の新築住宅の20軒に1軒がヘーベルハウスという計算になった[14][15]

その後も同社の住宅は首都圏中心の高付加価値路線を歩み、2001年には日経ビジネスが「戸建て住宅第2位」として、採算より顧客満足を優先するアフターサービスで信頼を積み上げる姿を取り上げた。宮崎氏自身、1983年の自伝の時点で住宅・建材部門の売上高が1300億円に達し最大の収益源に育ったと記しており、化繊会社の飛び地への参入は、今日まで続く収益の柱として定着した[16][17]

出典・参考
  • 化繊月報 1967年3月号「旭化成社長宮崎輝氏にきく」
  • 宮崎輝「私の履歴書」(日本経済新聞連載、1983年12月)
  • 日経ビジネス 1989年1月16日号「旭化成工業の二世帯住宅 弱点を武器に変える新市場開拓法」
  • 日経ビジネス 1992年3月30日号「旭化成工業 生活様式を提案する住宅 「2世帯」の次は「共働き」」
  • 日経ビジネス 2001年1月29日号「戸建て住宅第2位 旭化成 目先の利益より信頼、顧客満足を徹底追求」
  • 旭化成 有価証券報告書【沿革】
  • 旭化成工業 会社年鑑 1976年版(単体業績)

免責事項およびポリシー