「ヘーベル」で住宅参入(1972年・旭化成の決断) 更新:2026/07/21 論点 建材を足がかりに住宅へ参入するか 旭化成:業績の推移 売上高(億円)当期純利益率(%)データ出所 ALC建材を戸建てブランドに仕立て直した事業領域の拡張 何をなぜ決めたか:ALC建材を戸建てブランドに仕立て直した事業領域の拡張 概要 1972年9月、旭化成工業が軽量気泡コンクリート(ALC)"ヘーベル"を構造材とする戸建て住宅"ヘーベルハウス"の本格展開に踏み切り、同年11月に旭化成ホームズを設立して住宅産業へ参入した経営判断。宮崎輝社長が進めた多角化のなかでも、化学の技術系譜から外れた"飛び地"への参入であった。 背景 宮崎氏は1967年の業界誌取材で 『日本で一番足らぬのは住』 と語り、軽いコンクリートで壁・屋根・床をつくる時代の到来を予見していた。建材進出はソ連技術の失敗で累積赤字30億円近くを抱えたが、西独ヘーベル・ガストン社の技術へ切り替えた"ヘーベル"が1967年に立ち上がり、住宅参入の足場となった。 内容 素材の外販に留めず、自社ブランドの戸建て住宅として販売するところまで踏み込んだ。発足直後に販売不振へ陥ると代理店制度を廃止して直販体制を一から築き直し、都筑馨太氏・山口信夫氏ら畑違いの人材を事業責任者に起用して立て直した。 含意 工費高・不動産ノウハウ不足という後発のハンデを、首都圏集中と二世帯住宅という市場の切り取りで逆手に取った。1988年3月期には住宅部門の売上高が初めて繊維部門を上回り、祖業を抜く収益源として今日まで続く事業に育った。 いつ何が起きたか 8件 考察:素材の企業化と産業への参入は別の決断であった 考察 考察:素材の企業化と産業への参入は別の決断であった この判断の要は、"素材の企業化"と"住宅産業への参入"が別々の決断として積み重なっている点にある。1961年からの徹底多角化はヘーベルという素材を生んだが、それを戸建てブランドに仕立てるかどうかは、また別の問いであった。素材の外販に留まれば建材メーカーの一部門で終わったところを、施工と販売まで抱える住宅業へ踏み込んだことで、繊維や石油化学とは景気の律動が異なる収益源を獲得した、とみられる。 一方でこの事業は、技術が一本の線でつながるという旭化成の多角化の説明から外れた飛び地であったことを、宮崎氏自身が認めている。飛び地を成立させたのは、素材の特性から逆算した首都圏集中や二世帯住宅という市場の切り取り方であり、その定着が後年の選択と集中の時代にも住宅を手放させなかった。2015年の杭打ちデータ偽装が、信頼を軸に築かれたこの事業の来歴を揺らした事実も含めて、参入から半世紀の歩みは、多角化の成否が参入後の作り込みに懸かることを示している。 Yutaka Sugiura, 2026年7月 参考文献 参考文献 参考化繊月報 1967年3月号「旭化成社長宮崎輝氏にきく」宮崎輝「私の履歴書」(日本経済新聞連載、1983年12月)日経ビジネス 1989年1月16日号日経ビジネス 1992年3月30日号日経ビジネス 2001年1月29日号旭化成 有価証券報告書【沿革】旭化成工業 会社年鑑 1976年版(単体業績) 次に読む決断 旭化成の意思決定1968年旭化成旭化成水島コンビナート建設売上高に匹敵する1000億円を投じた石油化学への本格進出1968年1980年旭化成旭化成石油依存の収益構造から脱却原子力・電子・医薬という三分野に賭けた第二次多角化1980年同じ問い:高付加価値への転換1971年日清食品HD日清食品HDカップヌードルの発売発売を機に始まった、即席麺という商品そのものの再発明1971年1977年森永乳業森永乳業ビフィズス菌ビヒダスの発売他社が扱わない菌を製品の軸に据えた独自路線への踏み出し1977年1984年トクヤマトクヤマ東工場で多結晶シリコン製造開始自社の塩素と水素を生かした、半導体ウエーハ原料の国産化への参入1984年1990年三菱レイヨン三菱レイヨンコートルズ・グラフィル買収炭素繊維での成形品重視の川下路線と、米プリプレグ・原糸2社の買収1990年2003年東京建物東京建物「Brillia」へブランド統一郊外マンション分譲への参入と、市場別5ブランドの一本化2003年 × 出所