川崎製鉄LSI事業推進部の発足によるASIC事業への参入と、川崎マイクロエレクトロニクスへの分社
鉄が赤字に沈む数年に、なぜ汎用メモリではなく受託設計のASICだったか
- 概要
- 1985年、川崎製鉄がLSI事業推進部を発足させ、特定用途向け集積回路(ASIC)の設計・販売に参入した経営判断。1990年に宇都宮工場が竣工して本格的な営業活動に入り、2001年7月に川崎マイクロエレクトロニクスとして分社した。
- 背景
- 1984年3月期の当期純利益は8億円まで落ち、1985年9月のプラザ合意後は高炉5社が1985年度下半期から実質赤字に沈んだ。鉄鋼各社は設備の休止と人員削減を進めながら、エレクトロニクス・情報通信・新素材への進出を並行させた。
- 内容
- 汎用メモリではなく受託設計のASICを選び、パッケージングと微細化の先端プロセスは外部の専業メーカーへ委ねる水平分業の生産体制を組んだ。1994年に米国サンノゼへ販売子会社を設け、米国・カナダ・台湾・ヨーロッパへ販路を広げた。
- 含意
- 自前でシリコンウエハーへ進んで赤字に悩んだ新日本製鉄とは対照的に、製造設備を抱え込まない形を選んだ。ただし規模は連結売上高の1%前後にとどまり、2012年にメガチップスへ85億円で売却されて事業は他社へ移った。
抱えるか、手放すかの線引き
売上高1兆923億円に対し、1984年3月期の当期純利益は8億円だった。その翌年に川崎製鉄が次の柱として選んだのは、汎用メモリではなく受託設計のASICで、製造設備も自前では抱えなかった。高炉メーカーが半導体に持ち込めるものは資金と土地であって、微細化の設備競争を続ける体力でも、量産品の値下げ合戦を勝ち抜く経験でもない。設計と顧客対応で稼ぐ形は、自社にない資源を最小限しか要求しない。
ただ、規模は最後まで小さかった。2006年3月期のLSI事業の売上高は360億円で連結の1%、2012年3月期でも241億円だった。参入時に避けたはずの規模の問題は、設計の側にも回ってきた。リーマン・ショック後に単独では競争力を保てなくなり、85億円でメガチップスへ渡った。一方、同じ新素材研究から出たニッケル超微粉は川鉄鉱業へ移され、世界シェア50%を占めた。どこまでを自社で持つかという線引きが、二つの事業の行き先を分けたといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
本業の利益が消えた二年
1985年3月期の川崎製鉄は、売上高1兆2,214億円、経常利益432億円、当期純利益204億円を計上した。ただし直前の1984年3月期は、売上高1兆923億円に対して経常利益25億円、当期純利益8億円まで落ちている。1980年3月期の経常利益927億円、1981年3月期の917億円と並べると、数年で利益がほぼ消えた計算になる。国内の鉄鋼市場は成熟し、電炉メーカーが品種を広げていた[1]。
1985年9月のプラザ合意による急激な円高は、この状態をさらに深くした。高炉5社の業績は1985年度下半期から1987年度上半期まで実質的な赤字が続き、有価証券の多額の売却などを考慮に入れた1986年度の実質赤字は4,000億円に達して、中間配当も一斉に取りやめられている。1985年度の粗鋼生産は4年ぶりに1億トンを割った[2]。
高炉各社が同時に描いた脱・鉄の絵
各社の対応は、設備の休廃止と人員削減にとどまらなかった。資本参加や異業種との資本提携に加え、エレクトロニクス・情報通信・新素材にも各社が同時に進出している。新日本製鉄は1995年度を最終年次とする中長期事業計画で、売上高目標を4兆円に置いた。構成は総合素材60%、エンジニアリング10%、エレクトロニクス・情報通信システム20%、社会開発・生活開発10%で、製鉄事業を50%以下に下げる目標とした[3]。
川崎製鉄も1987年から1988年度にかけて千葉の厚板工場と製鋼工場を休止し、1986年度末に1万9,100人だった人員を1989年度末に1万3,800人へ、5,300人減らす合理化計画を発表した。半導体は、その柱の候補として合理化計画の発表より前に社内で動き始めていた。人員を減らす作業と新しい事業を立てる作業が、同じ数年に重なっている[4]。
決断
1985年、LSI事業推進部
1985年、川崎製鉄はLSI事業推進部を発足させた。手がけたのはASIC、すなわち特定用途向け集積回路である。顧客が必要とする機能仕様を大規模集積回路としてシリコン半導体の上に実現し、設計から供給までを請け負う受託型の事業にあたる。1990年に宇都宮工場が竣工すると本格的な営業活動を開始し、以後もASICを中心とする半導体メーカーとして続いた[5]。
ASICの事業に求められる条件は三つあった。設計プラットフォームの上で顧客の仕様を満たすデザインが実現すること、そのデザインがプロセス技術とパッケージ技術の組み合わせによるハードウェア上で動作すること、設計の開始から完成までの期間が短いことである。通信やマルチメディアでは機器の高性能化と多様化が進み、製品の寿命が短くなるほど、この三つの条件は厳しくなる。量産設備の規模と価格で決まる汎用品とは、必要な能力が違った[6]。
作るところを全部は持たない
パッケージングは当初から専業メーカーと協業し、プロセスについても1999年に台湾のファウンドリー専業であるUMCと、共同開発を含む戦略的な提携を結んでいる。微細化の先端プロセスはUMCを中心とするファウンドリー専業メーカーが製造し、特殊プロセスは宇都宮工場が担う。共同開発を伴うため、外部に出しても製造条件には通じていた。製造設備を自前で抱えない水平分業の生産体制を、高炉メーカーの半導体部門が組んだ[7]。
同じ時期に、新日本製鉄は逆の入り方をしていた。1980年代半ばにニッテツ電子を設立してシリコンウエハーへ単独で進出したものの、技術の蓄積がないことが露呈して赤字経営に悩む。1993年にミネベア系のエヌ・エム・ビーセミコンダクターを買収した際は、日立製作所と技術提携を結んでDRAM市場に足場を築くことをねらっている[8]。
結果
世界へ広げた販路と、連結1%という規模
宇都宮工場の竣工で営業が本格化すると、販路は日本国内から米国、カナダ、台湾、ヨーロッパへ広がった。1994年にはサンノゼへ販売子会社Kawasaki LSI U.S.A.を設立し、同本社とボストン支店にデザインセンターを開設している。2002年には台湾支店を置いた。応用領域は通信のLAN・MAN、デジタルカメラや液晶プロジェクタの画像・マルチメディア、液晶コントローラやUSBのPC関係、W-CDMA・GPSの無線・携帯に及ぶ[9]。
2001年7月、半導体事業は川崎製鉄の子会社として分社独立した。2002年9月のNKKとの共同株式移転を経て、2003年4月にJFEホールディングス傘下の半導体事業会社となる。ただし鉄鋼本体に対する規模は小さいままだった。JFEホールディングスの2006年3月期で、LSI事業の売上高は360億円、連結売上高に占める比率は1%にとどまる。新日本製鉄が中長期計画で掲げたエレクトロニクス・情報通信20%とは、桁の違う水準である[10][11]。
2012年、メガチップスへの譲渡
2008年のリーマン・ショック後、需要が急減した。川崎マイクロエレクトロニクスは2010年に宇都宮工場を閉鎖するなどの整理を進めたが、単独での立て直しには至らない。2012年4月20日、JFEホールディングスは同社を85億円でメガチップスへ売却し、半導体事業から撤退すると発表した。2012年3月期の売上高は241億円で、今後の競争力強化には他社との提携が欠かせないという判断だった。メガチップスは同年7月に全株式を取得し、2013年4月に経営統合した[12][13]。
本体で抱えなかった技術もある。川崎製鉄は1990年当時、新素材研究の一環として銅微粉の用途開発を進めていたが、銅よりニッケル超微粉のほうが将来性があるとして方向を変えた。ただし事業化が難しく、子会社の川鉄鉱業へ研究を移している。川鉄鉱業は1995年12月に千葉製造所で月産2トンから生産を始め、積層セラミックコンデンサの内部電極向けで1999年度に世界シェア50%を占めた。素材加工の売上は1996年度の17億円から1999年度に56億円弱へ伸びた[14]。
- JFE技報 No.1(2003年6月)「川崎マイクロエレクトロニクス」
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「鉄鋼-徹底合理化と多角化に挑む」
- 川崎製鉄 会社年鑑(単体業績)
- JFEホールディングス 有価証券報告書(2006年3月期・連結)
- 日本経済新聞(2012年4月20日)「JFE、半導体事業から撤退 メガチップスに子会社売却」
- 週刊東洋経済 2000年8月12日号「[ニュービジネス創造]牽引 川鉄鉱業 川鉄から事業継承、ニッケル超微粉がIT革命に乗る」
- 株式会社メガチップス 沿革