この分離独立を、母体が余った部門を切り出しただけの整理とみるのは、設立の性格を捉えそこなう。日本碍子が分離したのは、碍子と同根の焼結技術から生まれ、輸入依存の解消という将来性を秘めた点火プラグであった。三部門をまとめて受け継ぎながら、七年後には濾過器と耐酸モルタルを母体へ返して点火プラグ一本に絞った経緯に、専業化を貫く意思がうかがえる。技術資産を独立会社へ移し、国産化という一点に経営資源を集中した設立であったと思われる。
もっとも、その賭けが実を結ぶまでの道は平坦ではなかった。事業は設立からほどなく航空機向け軍需へ傾き、終戦で需要が消えると1945年11月に2,000名の解雇に追い込まれ、創業十年で存続が問われた。分離独立が独立企業の強みに転じたのは、自動車の普及で消耗品としての点火プラグ需要が戻り、補修用市場で価格決定力を握って以降であった。母体の技術を受け継ぐ形の設立は、その後の需要の波を独力で越える重い負担と表裏であったのだろう。