ファナックファナック創業——富士通「3C構想」の制御部門から分社したNC専業メーカー
- 概要
- 1972年5月、富士通株式会社からNC(数値制御装置)部門が分離する形で、資本金20億円の富士通ファナック株式会社が神奈川県川崎市の富士通本社地区で発足した。原点は1956年、富士通信機の技術担当常務・尾見半左右氏が掲げた『3C構想』の制御分野で、機械技術者の稲葉清右衛門氏がNC研究の責任者に指名されたことにある。約10年の赤字を通信機事業の収益が吸収し、1965年の黒字転換を経て高収益部門に育ったNC部門が、独立採算の新会社として切り出された。
- 背景
- 1950年代半ばの富士通信機製造は通信機を本業とする電機メーカーで、尾見半左右氏がCommunicationにComputerとControlを加える『3C構想』を掲げていた。1956年、尾見氏は制御部門の責任者に稲葉清右衛門氏を指名し、米国MITが先行するNC工作機械の研究が川崎工場の小さな実験室で始まった。市場そのものが未成熟で、稲葉氏は1959年に電気・油圧パルスモータを開発するなど基盤技術を築いたが、事業は約10年赤字が続いた。
- 内容
- NC部門は参入から約10年の赤字を富士通の通信機事業の収益で吸収し、1965年に初の黒字転換を果たした。汎用NC装置の需要拡大でNC部門は富士通内部でも高収益部門に育ち、1972年4月14日の取締役会で分離独立が決定した。同年5月、資本金20億円・人員約630名の富士通ファナックが発足し、稲葉清右衛門氏が事実上の責任者となった。富士通は約4割を保有する筆頭株主として残った。
- 含意
- 独立系のベンチャーであれば存続の難しい約10年の赤字期間に、富士通の通信機事業の収益がNCの基盤技術開発を支えた経緯が、分社後の競争優位の源泉となった。稲葉氏は借入を嫌う自己資金主義と徹底した省力化を掲げ、汎用NC装置への集中で高収益体質を築いた。1980年末には山梨県の富士山麓へ本社・工場を全面移転し、都市部から距離を置く独自の事業モデルを形づくっていった。
社内事業として育てた技術が独立したとき
この創業が示すのは、独立系の企業であれば途中で息切れしかねない約10年の赤字を、富士通という大企業の収益が肩代わりした経緯である。1956年から1965年にかけての技術蓄積は、市場がまだ立ち上がらない時期に基盤特許と量産設計を仕込む時間を与えた。その懐の深さがあってこそ、分社後のファナックは競合が短期には埋められない技術の差を手にしていたとみられる。社内事業として育てられた技術が、分社で独立して一気に開花した経緯が読み取れる。
もう一つ見えてくるのは、分社が単なる組織の付け替えではなく、稲葉氏の経営観を丸ごと注ぎ込む転機であった点である。借入を嫌う自己資金主義、損益分岐点比率を30%以下に抑える体質づくり、汎用品への集中と工作機械本体を避ける立ち位置は、いずれも社内事業のままでは徹底しにくい選択であった。都市を離れて富士山麓へ移った立地も含め、独立して初めて可能になった一連の判断が、その後のファナックの高収益体質を形づくっていったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
富士通「3C構想」と NC 研究の発足
コントロール部門の具体的なテーマは当初決まっていなかったが、稲葉氏は1956年初めの自動制御研究会で、米国MITが開発したばかりのNC工作機械の技術報告を聞き、その位置制御の機構に関心を持った[3]。尾見氏の承諾を得て開発テーマをNC(数値制御)に絞り、富士通川崎工場の一角に設けた小さな実験室で、電気と機械の数名の技術者による研究を発足させた[4]。米国で先行するNC技術を国内で開拓する役割を、機械技術者の一団が担った。MITの技術報告は、その後しばらく開発陣の指針となった。
「神代の時代」——約10年の赤字と基盤技術
NC事業は1956年の着手から約10年にわたり赤字が続いた。コンピュータ本体が1台数百万円から数千万円という単価で、NCを必要とする工作機械市場そのものが未成熟であった当時、稲葉氏は1959年に電気・油圧パルスモータを開発し、工作機械の精密な位置制御を可能にする独自のNC技術を確立している[5]。富士通の通信機事業が生む安定収益がこの長い赤字を吸収し、独立系の企業であれば存続の難しい期間に、基盤技術の開発と特許の取得へ専念できた[6]。社内ではこの期間が半ば比喩的に『神代の時代』と呼ばれていた。
決断
1972年5月、資本金20億円の分社独立
結果
自己資金主義と汎用品への集中
分社にあたり稲葉氏がまず定めたのは、ファナックの企業像であった。技術で勝負し、必要な資金は借入に頼らず自己資金でまかなえる体質を築くという方針で、稲葉氏は研究開発から製造、事務までを可能な限り合理化し、長期に安定した利益を確保する会社をめざした[13]。工作機械業界は景気変動に左右されやすく、売上が3分の1に減っても利益を残せる体質づくりに専念した。稲葉氏は損益分岐点比率を30%以下に抑えるよう厳しく指示し、それを『企業体質センサー』と呼んで毎月の決算で最初に確かめていた[14]。
稲葉氏は事業領域も絞り込んだ。1973年秋の第一次オイルショックを機に、自ら発明した電気・油圧パルスモータへのユーザーの評価が揺らぐと、稲葉氏は米ゲティス社と技術提携してDCサーボモータへ転換し、市場の変化を製品刷新の好機に変えた[15]。産業用ロボットにも進出し、NC装置・サーボモータ・産業用ロボットの三本柱を1970年代後半までに固めている。1975年には西独シーメンス社とのライセンス供与を相互援助契約へ改め、両社が対等の立場で技術・製造・販売に協力する欧州市場の足がかりとした[16]。最終製品である工作機械本体には踏み込まず、部品供給者の立場を守った。
忍野への全面移転と高収益体質
製造と開発の自動化を突き詰めた稲葉氏は、NC工作機械とロボットを結んだ加工セルを核に、機械加工の自動化システムを一つの工場へ集約した。それが1980年末に富士山麓の山中湖畔に完成した富士工場であった[17]。同年12月、ファナックは本社地区を山梨県南都留郡忍野村に定め、ロボットおよびNC工作機械の製造工場を新設して全面移転に踏み切った[18]。富士山北麓の標高約1,000mという当時としては異例の立地で、広い用地を低コストで取得しつつ、研究所と量産工場を同一敷地に同居させた。
公開企業としての基盤も整えられた。ファナックは1976年11月に東京証券取引所市場第二部へ株式を上場し、1982年7月に富士通ファナック株式会社からファナック株式会社へ商号を変更して社名から親会社の冠を外した[19]。翌1983年9月には東京証券取引所市場第一部へ指定されている。汎用品への集中と忍野立地を組み合わせた事業構造のもと、1985年にはNC装置の国内シェア約70%、売上高経常利益率36.6%という全上場企業でも最高水準の収益力へ達した[20]。約630名で発足した会社が、十数年で工場自動化機器の高収益メーカーへと姿を変えた。
- 有価証券報告書(沿革)
- ロボット時代を拓く 稲葉清右衛門(PHP研究所, 1982)
- 日刊工業新聞 1972/4/15
- 日経ビジネス 1985/10/28(強さの研究・ファナック)
- SME 日本の工作機械を築いた人々・稲葉清右衛門 2014/8
- 読売新聞 1971/3/27(シーメンスへ独占販売権)