この創業が示すのは、独立系の企業であれば途中で息切れしかねない約10年の赤字を、富士通という大企業の収益が肩代わりした経緯である。1956年から1965年にかけての技術蓄積は、市場がまだ立ち上がらない時期に基盤特許と量産設計を仕込む時間を与えた。その懐の深さがあってこそ、分社後のファナックは競合が短期には埋められない技術の差を手にしていたとみられる。社内事業として育てられた技術が、分社で独立して一気に開花した経緯が読み取れる。
もう一つ見えてくるのは、分社が単なる組織の付け替えではなく、稲葉氏の経営観を丸ごと注ぎ込む転機であった点である。借入を嫌う自己資金主義、損益分岐点比率を30%以下に抑える体質づくり、汎用品への集中と工作機械本体を避ける立ち位置は、いずれも社内事業のままでは徹底しにくい選択であった。都市を離れて富士山麓へ移った立地も含め、独立して初めて可能になった一連の判断が、その後のファナックの高収益体質を形づくっていったといえる。