1959年4月、東京タングステンに勤務していた大村進氏が焼結金属工業を設立した[1]。大村は東京帝国大学工学部を出て同社に入り、そこで重ねた焼結理論の研究を土台に独立している[2]。焼結濾過体を用いた空気圧機器向けフィルターの製造を祖業とし、翌1960年に空気圧補助機器の完成品製造に参入して部品供給から完成品メーカーへと主力を移した。空気圧制御の工程は圧縮空気の作成・除湿・圧力調整・方向制御で構成されるが、1971年までに圧縮空気浄化機器とシリンダーの生産を開始し、コンプレッサーを除く主要機構の一貫生産体制を整えた。[3]部品メーカーとしての立ち上がりから完成品・主要機構の垂直統合までを12年という短期間で完了した計算となる。戦後の工作機械・自動車・電機産業の成長期にあり、空気圧制御という工程領域への総合的な対応力が市場から強く求められていた時代背景もあった。
創業からの短期間で主要機構の内製化に踏み込んだ背景には、顧客である工作機械メーカー・自動車メーカーの要求仕様が多岐にわたり、個別部品の組み合わせでは対応しきれないという現場の事情があった。主要機構を自社で一貫して設計・生産することで、カスタマイズ能力と納期対応力を他社との差別化要素として前面に押し出していく戦略が、この期間を通じて固まった。焼結金属という素材技術から出発したSMCが、空気圧制御という工程全体の専門メーカーに転換する過程は、単なる事業拡張ではなく、顧客の工程設計そのものに食い込む形の成長だったと言える。工場現場の日常業務に根ざした技術的な蓄積が、垂直統合を支える土台となった。
大村進氏は、空気とのつながりが強くなったと述べ、フィルター部品から空気圧機器全般への展開は自然な流れであったと回顧している[4]。特定部品にとどまらず全工程をカバーするラインナップの広さは、顧客にとっての利便性となり、他社への切り替えを困難にする囲い込み効果を生んだ。1970年代に入るころには、SMCは単なる部品メーカーではなく、空気圧制御システム全体を提案できる総合メーカーとして業界内で認識されるようになっていた。フィルター部品を足がかりにしながらも、個別部品の組み合わせでは実現しにくい一体設計への対応力が、他社に先行する形で武器となっていった構図であり、後の即納体制につながる基礎は、垂直統合の完成と並行して築かれた。
1960年の大阪営業所を皮切りに名古屋(1963年)・広島(1967年)と営業所を順次新設し[5]、主要な工業地帯をカバーした。1987年3月末には全国5営業所(東京・名古屋・大阪・厚木・広島)・38出張所・97[6]社の代理店体制が整備されていた。特徴的なのは代理店に在庫保有を禁止した判断であり、品目数約24万点の在庫管理を自社本社に集約して供給精度と在庫効率を同時に確保する設計である。[7]代理店に在庫を持たせないことで、顧客への最終価格・納期・品質の責任をSMC本社が直接引き受けるという、当時の工業用機器流通としては異例の仕組みが出来上がった。代理店網を持ちながら在庫責任をSMCに集中する構造は、本社の管理負担を重くする代わりに流通全体の在庫効率を高める選択であり、同業他社と比較しても独特な経営設計となった。
1976年3月期には売上高106億円を突破した。トヨタ自動車・デンソー・日立製作所・富士電機・千代田化工などが顧客に名を連ね、愛知県には豊田出張所を設置してきめ細かく対応する体制を整えた。営業所にPLの結果責任を持たせる分権的な組織運営を採用し、直接販売を優先する方針を一貫させた。工業地帯ごとの顧客需要の違いを営業所単位で吸収し、本社の在庫管理と連動させる組織設計は、以後のSMCの収益力の根幹となった。代理店頼みではなく自社の営業網で顧客と直接対話する体制が、品目数24万点規模のラインナップを支える基盤となった。営業所ごとの損益を明確化することで、各地域の顧客状況を経営層が詳細に把握できる組織となった。
代理店の位置づけそのものも他社とは異なっていた。同業他社が元卸・卸・小売という多段の経路を敷いていたのに対し、SMCは代理店を客先とは考えず自社の営業所を補助するパートナーと位置づけ、ユーザーへの直販を基本に据えた[8]。代理店はユーザーへ直接販売している小売商社のなかから選び、営業所や出張所では手の届きにくい小規模なユーザーや遠隔地の顧客を受け持たせている[9]。卸機能を経路から外したぶん流通マージンが消え、売上総利益率は同業他社を上回る水準に置かれた[10]。その裏返しとして在庫は本社へ積み上がり、1987年3月期の棚卸資産は98億円、回転期間は3.74か月に達している[11]。流通を短くする利得と在庫を抱える重さを、同じ帳簿の上で引き受ける構図だった。
1986年4月、創業以来の社名『焼結金属工業』をSMC株式会社[12]へ改めた。SMCは旧社名の英語名Sintered Metal Companyの頭文字であり[13]、創業時から製品の商標として使い、1967年に資本参加した豪州子会社を皮切りに海外各社の社名にも一貫して用いてきた呼称である。[14]海外売上が積み上がるにつれ、現地で広く知られるSMCと国内の正式社名との食い違いが取引の障害となり、商標・海外名に合わせる改称に踏み切った。豪州を皮切りにシンガポール・米国・英国・ドイツ・イタリアへと現地法人を設け、上場前には主要30カ国に販売とサービスの網を敷いていた。[15]焼結金属の部品メーカーから空気圧機器の専業メーカーへ事業の中身が変わったことを、社名でも明確にする節目となった。
1988年の上場時点で空気圧機器が売上の9割以上を占める専業メーカーとなり[16]、用途ごとに形状や容量の異なる製品を組み合わせるため品種数は24万種類を超えていた。[17]国内シェアは1986年度に42%へ達し、第2位の21%の2倍に相当する規模を握った。世界市場でも約10%を占め、世界3大メーカーの一角に並んだ。[18]技術者が社員の4分の1を占め、売上高比6%前後[19]を研究開発に充て、各年度の売上の約1割を新製品が生み出していた。多様な業種へ同時に供給できるラインナップの広さと、直販に近い流通で価格・納期・品質の責任を本社が引き受ける販売設計とがかみ合い、SMCは経常利益率11〜13%という高い水準を数年にわたり保っていた。[20]
数字の面でも専業化の効果ははっきり表れていた。売上高は1978年3月期の126億円から1987年3月期の502億円へ10年で4.0倍に、経常利益は10億円から64億円へ6.1倍に伸びている[21]。1970年代後半は石油危機の影響で一時業績が沈んだが、その後は自動車や工作機械の設備関連需要が支えとなり、1983年以降はNC工作機械や産業用ロボットの普及が新規の設備投資を押し上げた[22]。上場直前の1987年3月期は円高不況で売上がわずかに減ったものの、市場占有率は41.9%で業界首位を保ち、従業員は2,377人を数えている[23]。素材の部品屋から工程の専門メーカーへ移った二十八年の道のりを、上場が外から確かめた。
1968年に草加第1工場を新設し[24]、関東圏を中心に複数の工場を増設した。SMCは5000種類の基本形を在庫保持し、営業所からFAXで受注[25]が届き次第加工して数十万種類の最終製品を生産する方式を採用した。需要予測には数学専攻の社員を専任で配置し、統計学に基づく在庫水準の算定を行うという、当時の工業用機器メーカーとしては特異な運営が始まった時期でもある。1983年にはオンライン受発注システムを稼働させ、受注から納入まで平均48時間以内の即納を達成した。生産面では受注の継続性と生産量を勘案し、共通性のある工程までを見込生産で進めてそこから先を受注生産に切り替える折衷的な方式を採った[26]。工業用機器の発注は個別仕様が多く在庫化が難しいとされてきたなか、基本形の在庫と最終加工の組み合わせで大量品目に即応する仕組みが、SMCを他社と区別する競争優位の核となり始めた。
髙田芳行社長は、予測も科学的にやるという方向を取ったのが良かったと述べ、数理統計学に基づく在庫管理によって確信を持った設備投資[27]ができたと振り返っている。在庫リスクを許容する代わりに高い利益率を確保するという方針は、SMCの競争優位の核心となった。多品種少量生産が前提の工業用機器業界において、在庫を戦略資源として積極的に抱え込むという逆説的な選択が、即納サービスの土台となり、結果として他社が容易に真似できない収益構造を生み出すこととなった。営業所がPL責任を持ち、本社が在庫と統計を握るという分業が、このモデルを物理的に支えていた構造である。同業他社が真似しにくい理由は、この組織設計と在庫戦略をセットで長期にわたり運用し続ける経営上の覚悟にあった。
1987年12月23日に東京証券取引所第2部に上場し、[28]1989年に髙田芳行氏が代表取締役社長に就任した。髙田氏は創業期から専務を務めており、以後約30年にわたってトップダウンでSMCを率いる。1996年には円高対応として海外生産比率10%を目標に置き、米国・中国の現地法人で工場を増設した。もっとも、上場は資金調達が目的ではなかった。上場翌月の1988年1月、大村進社長は証券アナリスト協会の企業分析部会で、1992年3月期までの5年間に国内だけで約250億円の設備投資を計画している[29]が、その資金は利益と償却だけで十分に賄える見通しだと述べている。在庫を抱えるモデルは設備投資と在庫資金の積み増しを前提とするため、資本市場に足場を置いた意味は調達額よりも、投資を止めずに済む余地を先に確保した点にあった。創業家出身ではない髙田社長のトップダウン経営が形を取り始める。
2000年に中国での現地生産を本格化し、北京で6万坪の用地を確保[30]してSMC北京製造を通じた生産を開始した。国内の即納体制をグローバルに展開する方針が明確化された時期であり、中国の工業集積地が拡大するタイミングに合わせて、生産拠点を先行投入する判断が働いた。即納体制のグローバル化は、単に海外で生産するだけでなく、在庫を前提とした出荷設計を各地域でも再現することを意味していた。欧米と中国の両方に生産・販売網を張り出す構想が、この時期から始まった。工業用機器メーカーにとって、在庫を伴う即納体制を海外で再現するには、本社と現地法人の密接な情報連携が前提となる。数理統計モデルを海外にも適用する挑戦が、始まっていた。
髙田芳行社長は、組織を小さなグループに分けて各班が自立[31]して仕事を選ぶ『ホロン経営』を掲げた。背景には、権限を現場へ委ねて小さな単位で動かすほうが速いという発想と、製品が30万品目に及び伝票処理すら本社で一括しきれないという事情があった。営業では4営業所体制を15営業所体制へ細分化し[32]、その下に地域の出張所を置いて各班へ自主運営を任せ、工場も160ほどのグループに分けて独自の工夫を競わせた。源流は古く、経理を介さず各班が自分たちで損得を計算する『油算』と呼ぶ独立採算を30年来続けており[33]、部門別採算よりさらに小さな単位まで利益責任を下ろす運営が分権の土台を形づくっていた。
設備投資の判断にも同じ思想が貫かれた。髙田社長は、売れる見込みが立てば生産能力を前もって備えるべきだとして、需要が表面化する前に投資を先行させる方針を取り、競合に先んじた設備能力[34]を強みへ変えた。投資の裏づけとなる需要予測は勘に頼らず、数学を専攻した4〜5人の専任班が数理統計を用いて精度を高めた。[35]『予測を科学的に行う方向を取ったのが良かった』[引用元]と振り返るとおり、統計に基づく確信が大型投資の決断を支えた。在庫リスクを抱える即納体制も、先行投資と科学的予測という二つの構えがあって初めて持続でき、SMCの高い利益率を内側から支える経営思想として根づいていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1959〜1988年焼結フィルターから空気圧機器総合メーカーへの転換 | 焼結金属工業を設立 | ★ | ||
| 営業所と出張所の新設・全国を緻密にカバー | ★ | |||
| 焼結フィルターから空気圧補助機器の製造への転換と、主要機構の内製化 焼結濾過体の製造販売を目的に1959年に設立された焼結金属工業は、1961年9月に空気圧補助機器(エア三点セット)の製造・販売を始め、部品の供給者から空気圧機器の作り手へ移った。以後10年をかけて駆動機器・方向制御機器まで自社製品とし、1971年にコンプレッサーを除く主要機構をそろえた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| SMCオーストラリアに資本参加 | ★ | |||
| 草加第1工場を新設・即納体制を拡充 | ★ | |||
| 駆動機器(エアシリンダ)の製造・販売開始 | ★★ | |||
| 方向制御機器(直動形電磁弁)の製造・販売開始 | ★ | |||
| SMCシンガポールを設立 | ★ | |||
| 売上高100億円を突破 | ★ | |||
| SMCアメリカを設立 | ★ | |||
| SMCイタリアに資本参加 | ★ | |||
| SMCに商号変更 | ★ | |||
| SMCシンガポール製造を設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部への株式上場と社名のSMCへの変更 1987年12月23日、空気圧機器専業のSMC(旧・焼結金属工業)が東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。準備は1982年ごろに始まり、1986年4月の社名変更を挟んで5年を費やしている。上場翌月の講演で大村進社長は、1992年3月期までの国内250億円の設備投資を利益と償却で賄えるとの見通しを示しており、資金繰りに追われた公開ではなかった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 1989〜2000年48時間即納体制の確立と東証上場への道 | 髙田芳行氏がSMC代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 釜石工場・筑波技術センターを新設 | ★ | |||
| SMC中国製造を設立 | ★ | |||
| SMC韓国を設立 | ★ | |||
| 海外生産比率10%を目標設定 | ★ | |||
| 現地生産を本格化 | ★★ | |||
| 2001〜2018年グローバル展開の加速と創業家経営の世代交代 | 丸山勝徳 | 丸山勝徳氏がSMC代表取締役社長に就任、髙田芳行氏は代表取締役会長に就任 | ★ | |
| 丸山勝徳 | ノーブルスビル工場を新設 | ★ | ||
| 丸山勝徳 | リーマンショックで減収 | ★ | ||
| 丸山勝徳 | SMCベトナム製造を設立 | ★ | ||
| 丸山勝徳 | 調査会社がSMCの会計上の疑義を表明 | ★★ | ||
| 丸山勝徳 | SMC天津製造を設立 | ★ | ||
| 丸山勝徳 | 高田芳行氏が代表取締役会長を退任 | ★ | ||
| 丸山勝徳 | 子会社の再編 | ★ | ||
| 髙田芳樹 | 高田芳樹氏が代表取締役社長就任 | ★ | ||
| 髙田芳樹 | 東京証券取引所プライム市場に移行 | ★ | ||
| 髙田芳樹 | 本社を移転 | ★ |
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事実根拠:出所(SMC)