ダイフク の歴史

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創業 1937年
母体 坂口機械製作所として創業
創業地 大阪府大阪市
創業
1937年5月、大阪市で資本金30万円の株式会社坂口機械製作所として設立した。鍛圧機械を作る町工場で、1939年7月に御幣島工場(現在の大阪本社)を新設している。1941年5月には兼松商店が経営へ加わり、1944年3月に兼松機工、1947年8月に大福機工へと商号を二度改めた。戦後は累積赤字6,000万〜7,000万円で不渡り寸前まで追い込まれ、社員の約4割を整理し工場も譲渡している。1961年10月に大阪証券取引所第二部へ上場し、1984年5月にダイフクへ商号を変更した。
決断
自前で育てる時間を買い、需要先ごと会社を取り込んできた。親会社の兼松に追加融資を断たれた大福機工は、1952年にスイスのビューラー社から、1957年に米ジャービス・ビー・ウェブ社からチェン・コンベヤの技術を導入し、トヨタ自動車の量産ラインへ納めた。導入した技術をもとに1965年に日本初の無人搬送車、翌1966年に日本初の高層自動倉庫を製品化し、搬送機械の専業として国内に定着した。2007年12月にはその技術提携先だったウェブ社の全株式を取得し、空港手荷物搬送へ入った。技術を教わった相手を半世紀後に買収したことが、自動車・半導体・空港・EC物流という需要先の異なる4事業を一つの会社へ集めた。
現況
稼ぐ場所は日本ではなく、北米と東アジアに散っている。2025年12月期の売上高6,607億円は、日本1,820億円、アメリカ1,697億円、台湾941億円、中国837億円、韓国477億円で、海外が72%を占める。1983年のDaifuku U.S.A.設立から40年余りで、アメリカは日本にほぼ並ぶ市場になった。半導体・液晶工場向けのクリーンルーム搬送とEC物流倉庫の自動化が同時に伸び、営業利益は1,008億円、純利益は781億円といずれも過去最高を更新した。2024年には87年続けた3月決算を12月へ移し、暦年で決算を組む海外子会社と期を合わせている。
競合
競うのは搬送機械の性能ではなく、工場と倉庫の自動化をひとまとめに請け負えるかどうかである。国内ではBTインダストリーズを買収した豊田自動織機がフォークリフトから自動倉庫へ広げ、ユニキャリアを取得した三菱ロジスネクストも車両側から重なってくる。半導体工場のクリーンルーム搬送では、非上場の村田機械が主な相手になる。海外では独KIONのデマティックや米ハネウェルが同じ案件を争い、地域ごとに顔ぶれが入れ替わる。買収で揃えた4事業と5地域の分散が、特定の産業の設備投資が止まった年でも受注を保つ構造を作った。
ダイフク:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2025年12月期

設立ストーリー 坂口機械製作所の創業と兼松資本による搬送機械への転換 (1937年〜)

坂口機械製作所の創業と兼松商店の経営参加

1937年5月、坂口機械製作所は大阪市西淀川区で設立された。資本金30万円[1]の独立系の機械工場で、エアハンマー・圧延機・鋼板矯正機・水圧プレスといった製鉄用の鍛圧機械を主力とし[2]、起重機やドレッジャーなども手がけた。従業員は約150名だ[3]った。設立直後の日華事変にともない鉄鋼業が歴史的な拡張期に入ると、大阪地区の製鋼所向け需要が同社の生産を押し上げ、1938年・1939年と相次ぐ増資で資本を厚くした。1939年には御幣島工場(現在の大阪本社の所在地)を新設し[4]、木造工場や鍛造工場を備えて従業員も約400名へ増えた。西淀川の工場地帯で、製鉄補助機械の担い手として知られる規模へ育った。

  • ダイフク 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1937年5月 坂口機械製作所として大阪で設立(資本金30万円)
    • [4]1939年7月 御幣島工場(現大阪本社所在地)を新設
  • 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
    • [2]主力は製鉄用の鍛圧機械(エアハンマー・圧延機・鋼板矯正機・水圧プレス等)
    • [3]創業時の従業員は約150名(社史)

事業の拡大とともに、坂口機械製作所は商社資本を後ろ盾に取り込んだ。1939年ごろから橋梁メーカー日本橋梁とその親会社・岩井商店が経営に関与し、1941年5月には総合商社の兼松商店(現兼松)が出資して経営に参加した[5]。岩井と兼松が並ぶ後援はほどなく整理され、1941年末には岩井が手を引いて兼松が単独で同社を支えた[6]。原材料統制で取引品目の細った繊維商社が重工業へ進むなかで、兼松は有望な機械工場として同社に資本を入れた。1943年には陸海軍両省の監督工場に指定され[7]、鍛圧機械や起重機とあわせて戦時標準船のレシプロエンジンの生産にもあたった。1944年3月には商号を兼松機工へ改め、東京営業所[8]も設けて関東へ営業基盤を広げた。坂口嘉兵衛社長らに代わって[9]、兼松出身の役員が経営の中核に並んだ。

  • ダイフク 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1941年5月 兼松商店(現兼松)が経営に参加
    • [8]1944年3月 商号を兼松機工へ変更し東京営業所を設置
  • 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
    • [6]岩井商店の関与を経て1941年末に兼松が単独後援へ(社史)
    • [9]創業時の社長は坂口嘉兵衛(社史)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]1943年 陸海軍両省の監督工場に指定され戦時標準船のレシプロエンジンを生産(明治百年)
  • ダイフク 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1937年5月 坂口機械製作所として大阪で設立(資本金30万円)
    • [4]1939年7月 御幣島工場(現大阪本社所在地)を新設
    • [5]1941年5月 兼松商店(現兼松)が経営に参加
    • [8]1944年3月 商号を兼松機工へ変更し東京営業所を設置
  • 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
    • [2]主力は製鉄用の鍛圧機械(エアハンマー・圧延機・鋼板矯正機・水圧プレス等)
    • [3]創業時の従業員は約150名(社史)
    • [6]岩井商店の関与を経て1941年末に兼松が単独後援へ(社史)
    • [9]創業時の社長は坂口嘉兵衛(社史)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]1943年 陸海軍両省の監督工場に指定され戦時標準船のレシプロエンジンを生産(明治百年)

大福機工への改称と戦後の存続危機

1945年3月、空襲を避けて京都府福知山市に福知山工場を新設し[10]、生産を地方へ分散させた。終戦後の1947年8月、兼松の持株のもとで兼松機工の名が独占禁止法に触れる懸念から、商号を大福機工へ改めた[11]。新社名は、大阪の『大』と福知山の『福』を組み合わせた造語で[12]、当時の専務・妹尾一日の発案による。中国向けの取引で縁起がよく、響きに親しみがある点も選定の理由だった。取引先から大福さんと呼ばれて定着したものの、事業の中身は戦時標準船エンジンの仕掛品が工場に残るなど、終戦直後の混乱が尾を引いた。

  • ダイフク 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1945年3月 京都府福知山市に福知山工場を新設
    • [11]1947年8月 商号を大福機工へ変更
    • [12]「大福」は大阪の「大」と福知山の「福」を組み合わせた造語(妹尾一日専務の発案・兼松機工の名が独禁法に触れる懸念からの改称)

朝鮮戦争の特需も及ばず、大福機工は6,000万〜7,000万円の累積赤字を抱え[13]、不渡り寸前まで追い込まれた。親会社の兼松も苦境にあり、存続の可否をめぐって社内の意見は割れたが、紙一重で生き残った。赤字圧縮のため社員の約4割を整理し、発祥の大和田工場や泉尾工場を売却して資金を捻出した[14]。1953年10月には福知山工場を福知山大福機工として分離独立させ[15]、1957年4月に売却して[16]、生産を本社御幣島へ集約した。各地に広げた工場を畳み、御幣島一拠点へ絞り込む整理が、この時期に固まった。

  • 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
    • [13]累積赤字6,000万〜7,000万円・社員の約4割を整理(社史)
    • [14]大和田工場・泉尾工場を売却して資金捻出(社史)
  • ダイフク 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1953年10月 福知山工場を福知山大福機工として分離独立
    • [16]1957年4月 福知山大福機工を売却
  • ダイフク 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1945年3月 京都府福知山市に福知山工場を新設
    • [11]1947年8月 商号を大福機工へ変更
    • [15]1953年10月 福知山工場を福知山大福機工として分離独立
    • [16]1957年4月 福知山大福機工を売却
    • [12]「大福」は大阪の「大」と福知山の「福」を組み合わせた造語(妹尾一日専務の発案・兼松機工の名が独禁法に触れる懸念からの改称)
  • 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
    • [13]累積赤字6,000万〜7,000万円・社員の約4割を整理(社史)
    • [14]大和田工場・泉尾工場を売却して資金捻出(社史)

技術提携による搬送機械(マテハン)への転換

御幣島へ集約した大福機工は、運搬機械(マテハン)に活路を求めた。最初の運搬機械は戦時下に手がけたロコモチーブ(機関車)で[17]、戦後は荷役運搬機械を旗印に総合メーカーを目指し、第一号機のスタッカーから1948年のパイラーへと自社製の搬送機を広げた。兼松の専務だった益田乾次郎は、スイスのビューラー社との技術提携をまとめるべく相手側代表を説き伏せ[18]、1952年に妹尾社長がスイスへ渡って提携にこぎ着けた[19]。導入したのは、穀物や石炭・セメントなどのばら物をトラフ内のチェンで送るバルクベヤと、可搬式の垂直搬送機SKTで、第一号機は四日市倉庫向けのバルクベヤだった[20]。味の素や東京瓦斯、八幡製鉄の貯炭場など食糧・電力・鉄鋼の各分野へ納入が広がり、はじめの二年で受注が伸びて、累積赤字に苦しんだ収益が上向いた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [17]最初の運搬機械は戦時下のロコモチーブ、戦後は第一号機スタッカー製造に着手し1948年にパイラーを手がけた(明治百年)
  • 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
    • [18]兼松の専務だった益田乾次郎がスイスのビューラー社との技術提携をまとめた(社史)
    • [19]1952年 妹尾社長がスイスへ渡りビューラー提携に至る(社史)
    • [20]バルクベヤ・SKTを導入、第一号機は四日市倉庫向けバルクベヤ(社史)

もう一筋の提携は、米国の搬送機械メーカー、ジャービス・ビー・ウェブ社との間で結ばれた。1954年夏、兼松の田口重雄が日本人として初めてデトロイトのウェブ本社を訪ね[21]、床下チェンで台車を引くトウベヤや自動車工場向けのチェン・コンベヤに着目した。売り込みは自動車各社に当初阻まれたが、1956年、鋼板矯正機の納入で縁のあったトヨタ車体の小島吉郎を介して、トヨタ自動車工業がウェブ・コンベヤの採用を決めた[22]。1957年12月、ウェブ社との技術提携が正式に許可され[23]、同社のコンベヤはトヨタ車体・本社工場・元町工場へ相次いで納入された。自動車の量産ラインを搬送機械で支える事業が立ち上がった。

  • 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
    • [21]1954年夏 兼松の田口重雄が日本人として初めて米ジャービス・ビー・ウェブ社を訪問(社史)
    • [22]1956年 トヨタ車体の小島吉郎を介しトヨタ自動車工業がウェブ・コンベヤ採用を決定(社史)
    • [23]1957年12月 ウェブ社との技術提携が正式許可(社史)

ウェブとの提携には難所があった。チェン・コンベヤの心臓部である鍛造チェンを、業界の有力会社が手がけないなか、大福機工は鍛圧機械で培った技術を頼りに国産化へ挑んだ[24]。ビューラーとの先約との競合は、ばら物と重量物で住み分ける解釈で整理し、両提携を併存させた。終戦直後に存続を危ぶまれた機械工場は、二つの技術提携を支えに、運搬機械の専業メーカーへと姿を変えた。後に空港やEC物流まで広げる搬送機械事業の骨格が、トヨタ向けコンベヤの量産とともにこの時期に定まった。

  • 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
    • [24]鍛造チェンの国産化に挑戦(業界有力会社が手がけないなか・社史)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [17]最初の運搬機械は戦時下のロコモチーブ、戦後は第一号機スタッカー製造に着手し1948年にパイラーを手がけた(明治百年)
  • 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
    • [18]兼松の専務だった益田乾次郎がスイスのビューラー社との技術提携をまとめた(社史)
    • [19]1952年 妹尾社長がスイスへ渡りビューラー提携に至る(社史)
    • [20]バルクベヤ・SKTを導入、第一号機は四日市倉庫向けバルクベヤ(社史)
    • [21]1954年夏 兼松の田口重雄が日本人として初めて米ジャービス・ビー・ウェブ社を訪問(社史)
    • [22]1956年 トヨタ車体の小島吉郎を介しトヨタ自動車工業がウェブ・コンベヤ採用を決定(社史)
    • [24]鍛造チェンの国産化に挑戦(業界有力会社が手がけないなか・社史)
    • [23]1957年12月 ウェブ社との技術提携が正式許可(社史)

ウェブ・コンベヤの量産と東阪名3市場への上場

トヨタ向けに量産が始まったウェブ・コンベヤは、自動車の大量生産の波に乗って受注を伸ばした。東洋工業(現マツダ)をはじめ自動車・物流の各社が顧客に加わり[25]、大福機工は搬送機械の専業メーカーとして成長軌道に入った。1960年には年間売上高12億円・月商1億円の水準に達し、兼松からの借入も完済[26]した。鋼板矯正機やローラーコンベヤ、スタッカー、クレーンなど製品の幅も広がり、高度成長期の設備投資を取り込んで、単体売上高は1969年3月期の99億円から1973年3月期の350億円へ伸びた[27]

  • 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
    • [25]東洋工業(現マツダ)など自動車・物流各社が顧客に加わった(社史)
    • [26]1960年 年間売上高12億円・月商1億円に到達、兼松からの借入を完済(社史)
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [27]単体売上高 1969年3月期99億円→1973年3月期350億円

資本市場への参加も同じ時期に進んだ。1961年10月に大阪証券取引所市場第二部へ上場した[28]。1963年1月には愛知県小牧市に小牧工場を新設し[29]、トヨタなど東海の自動車産業に近い生産拠点を構えた。1969年8月には東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部に同時指定され[30]、創業から32年で全国規模の公開企業へ並んだ。搬送機械の専業として高度成長期の需要を取り込み、株式公開で資金調達の幅を広げた。

  • ダイフク 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1961年10月 大阪証券取引所市場第二部に上場
    • [29]1963年1月 愛知県小牧市に小牧工場を新設
    • [30]1969年8月 東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部に同時指定
  • 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
    • [25]東洋工業(現マツダ)など自動車・物流各社が顧客に加わった(社史)
    • [26]1960年 年間売上高12億円・月商1億円に到達、兼松からの借入を完済(社史)
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [27]単体売上高 1969年3月期99億円→1973年3月期350億円
  • ダイフク 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1961年10月 大阪証券取引所市場第二部に上場
    • [29]1963年1月 愛知県小牧市に小牧工場を新設
    • [30]1969年8月 東京・大阪・名古屋の各証券取引所市場第一部に同時指定

オイルショックの試練と滋賀事業所・海外進出の始動

高度成長の終わりは、設備投資型の搬送機械事業を直撃した。第一次石油危機後の反動で、単体売上高は1973年3月期の350億円から1974年3月期214億円、1975年3月期177億円へ落ち込み[31]、経常利益も大幅に縮んだ。需要が細るなかで、大福機工は生産体制の立て直しを進めた。1975年4月、京都府八幡市に電子機器子会社コンテックを設立すると同時に、日野工場(現在の滋賀事業所)を新設し[32]、東阪の中間に位置する主力生産拠点を整えた。1999年の大阪工場集約まで続く、滋賀を中核に据えた生産集約の方針が、この拠点整備から定まった。

  • 会社年鑑(1976年版)
    • [31]単体売上高 1973年3月期350億円→1974年3月期214億円→1975年3月期177億円
  • ダイフク 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1975年4月 コンテックを設立し日野工場(現滋賀事業所)を新設

国内で生産を絞り込む一方、大福機工は海外へ目を向けた。1983年2月、米国にDaifuku[33] U.S.A.(現Daifuku Automotive America)を設立し、北米市場へ初めて進出した。自動車工場向けの無人搬送車(AGV)やコンベヤシステムの北米需要に応える拠点で、提携で学んだ自動車搬送の技術を、今度は自前の現地法人で売る試みだった。1957年にウェブ社の技術を導入してから四半世紀[34]、搬送機械の専業として国内で固めた力を、海外へ広げる動きがここから始まった。次の時代の世界展開は、この北米進出を足がかりに加速する。

  • ダイフク 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1983年2月 米国にDaifuku U.S.A.(現Daifuku Automotive America)を設立=北米市場初進出
  • 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
    • [34]1957年のウェブ社技術導入から四半世紀後の北米進出
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [31]単体売上高 1973年3月期350億円→1974年3月期214億円→1975年3月期177億円
  • ダイフク 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1975年4月 コンテックを設立し日野工場(現滋賀事業所)を新設
    • [33]1983年2月 米国にDaifuku U.S.A.(現Daifuku Automotive America)を設立=北米市場初進出
  • 大福機工 運搬機械の前衛(ダイヤモンド社, 1967)
    • [34]1957年のウェブ社技術導入から四半世紀後の北米進出

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ダイフクの沿革1937〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1937〜1957年坂口機械製作所の創業と兼松資本による搬送機械への転換坂口機械製作所として設立
御幣島工場を新設
兼松商店が経営に参加★★
兼松機工に商号変更し東京営業所を開設
福知山工場新設
大福機工に商号変更
福知山工場を分離して福知山大福機工を設立
福知山大福機工を売却
ビューラー社・ジャービス・ビー・ウェブ社との技術提携による搬送機械への転換

戦後の存続危機を紙一重で切り抜けた大福機工は、鍛圧機械の在来事業に代わる柱として運搬機械(マテハン)を選んだ。1952年にスイスのビューラー社と、1957年に米国のジャービス・ビー・ウェブ社と相次いで技術提携を結び、ばら物搬送のバルクベヤと自動車工場向けチェン・コンベヤを手にして、搬送機械の専業メーカーへと業態を転換した。

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★★★
1958〜1983年搬送機械専業としての株式公開と国内生産体制の確立大阪証券取引所市場第二部に上場
東京証券取引所市場第二部に上場
小牧工場新設
名古屋証券取引所市場第二部に上場
東京・大阪・名古屋各証券取引所市場第一部に上場指定
コンテックを設立し日野工場を新設
Daifuku U.S.A.設立による北米市場への初進出

1983年2月、大福機工は米国シカゴに初の海外現地法人Daifuku U.S.A.(現Daifuku Automotive America)を設立し、北米市場へ初めて進出した。自動車工場向けの無人搬送車やコンベヤシステムの需要に応える拠点で、1957年にジャービス・ビー・ウェブ社から技術を導入した市場へ、四半世紀を経て売り手として出た。

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★★★
1984〜2014年株式会社ダイフクへの改称とグローバル搬送機械専業への飛躍ダイフクに商号変更
Daifuku Canada設立
Daifuku Mechatronics設立
Daifuku Malaysia設立しに新た館を滋賀事業所に開設
先鋒自動化(後の台灣大福高科技設備)を買収
Clean Factomationとインドネシアにダイフク現法を設立
ATS設立
大阪工場の生産設備を滋賀事業所に集約
大福自動化物流設備(上海)を設立
竹内克己キトーの物流システム事業を譲り受け★★
竹内克己Daifuku India設立
竹内克己小牧工場の生産設備を滋賀事業所に移転
竹内克己技術提携先であった米ジャービス・ビー・ウェブ社の買収と空港システム事業への参入

2007年12月、ダイフクは米国の搬送機械大手ジャービス・ビー・ウェブ社の全株式を取得し子会社化した。1957年に自動車工場向けチェン・コンベヤの技術を供与された相手を、半世紀を経て傘下に収めた買収で、自動車搬送の北米基盤と空港手荷物搬送という新しい事業領域を一度に得た。

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★★★
北條正樹Logan Teleflexを買収★★
北條正樹日立プラントテクノロジーのエレクトロニクスクリーン搬送事業を譲受★★
北條正樹Daifuku Webb HoldingがWynright Corporationを買収★★
北條正樹NZのBCS Groupを買収
2015〜2025年EC・半導体特需とガバナンス改革・暦年決算への移行下代博Scarabee Aviation Groupを買収★★
下代博上場子会社コンテックの株式公開買付を実施
下代博プライム市場へ移行
下代博決算期を3月31日から12月31日に変更
出典・参考

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