1928年の判断は、値の通らない雑貨貿易に見切りをつけ、輸入品が占める写真機を自らつくる立場に転じるというものであった。買って売る側から、つくって値を決める側へ移る選択である。パリで測距儀に引きつけられた一個人が、父の反対と恐慌の逆風のなかで独立に踏み切った背景には、加工度の高い独創的な製品でなければ日本の商いは立ち行かないという、外遊で得た危機感があった。
出発こそ輸入部品に依存したものの、田嶋氏はドイツ人技術者の離反をむしろ機として国産化へ向かい、独創を旨とする社風を育てた。その志向は、国産初の二眼レフや宇宙へ運ばれたカメラ、事務機への多角化へと形を変えて受け継がれた。祖業のカメラ事業そのものは2006年に終わったが、光学と精密の技術は計測やセンシングとして今のコニカミノルタに残る。1928年に町工場が選んだ光学という一点は、社名が消えたあとも事業の中身として残った。