この進出を、単に早すぎた海外展開と読むのは物足りない。1959年当時、日本の部品メーカーが自ら海外へ工場を建設する例はまだ乏しく、インフレ率180%のブラジルは投資先として穏やかな相手ではなかった。それでも踏み込めたのは、点火プラグが世界のどの車にも合う規格品であったからなのだろう。特定の完成車メーカーに需要を握られる部品であれば、単独出資で見知らぬ市場へ出る判断は下しにくい。規格品という製品の性質が、現地生産という重い選択を後押ししていたといえる。
もっとも、この一歩がただちに大きな果実を生んだわけではない。インフレ率180%という環境のなかで事業が根づくには年月がかかり、進出から10年を経てなお、ブラジルは本国の収益をすぐに押し上げるほどの規模ではなかっただろう。それでも、海外に工場を持ち、現地で人を雇って生産するという経験は、輸出を続けるだけでは得られないものであった。1966年の米国、1970年代の東南アジア、1990年代の欧米へと続く現地生産の広がりを思うとき、ブラジルで踏んだ最初の一歩が後の海外展開の下敷きになったとみられる。