1950年〜 川崎重工業から分かれた製鉄部門が、千葉で銑鋼一貫に踏み切るまで
- 1950年川崎重工業から製鉄部門を分離し資本金5億円で川崎製鉄を設立、初代社長に西山弥太郎が就任
- 1951年千葉市南方海岸の埋立地で銑鋼一貫の千葉製鉄所の建設に着手
- 1953年千葉製鉄所の第1高炉に火入れし、平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ移行
- 1954年千葉製鉄所の第1期工事が完成、熔鉱炉700トン1基・平炉100トン3基・コークス炉・分塊圧延機が稼働
- 1956年世界銀行と2,000万ドルの借款契約を締結、千葉のホットストリップミル・コールドストリップミルに充当(1958年1月に高炉・コークス炉向け800万ドル、1960年12月に厚板工場向け600万ドルを追加)
川崎製鉄の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
造船所の一工場として育った鋼板技術と、製鉄部門の分離独立
川崎製鉄の鉄は、造船所の一工場から始まった。1906年、川崎造船所は造船所用の鋳鍛鋼品を作る目的で分工場を設け、1907年7月には造船用鋼材の自給と車両製造を兼ねて兵庫東尻池に兵庫工場を開いた。第一次世界大戦で輸入鋼材が途絶えると同工場は繁忙をきわめ、1917年に神戸市脇浜の埋立地へ主力工場として葺合工場を新設して、翌1918年から中板・厚板の製造に入った。1924年には、需要が多いにもかかわらず製造が難しく大半を輸入に頼っていた薄鋼板の圧延に国内で初めて成功する。1937年の生産実績は約34万トンに達した。造船会社の内製部門が、薄板という民需の主力品種で全国有数の供給者に育った。 [1][2][3]
- 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」/日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「機械-信用を得た国産品」
- [1]明治39年(1906年)5月に川崎造船所が造船所用鋳鍛鋼品製造の目的で分工場を設立し兵庫分工場と呼び翌年に鋳鋼品製造を開始(日本産業史 第1巻)、明治40年(1907年)7月に造船用鋼材自給と車輌製造の目的で兵庫東尻池に兵庫工場を開設(会社銀行八十年史)。両者は年が食い違うのではなく、1906年5月の分工場設立と1907年7月の兵庫工場開設という別の出来事で、本文の併記は正しい
- [2]1917年5月に兵庫県神戸市に葺合工場を開設、大正7年(1918年)に中板・厚板の製造を開始、大正13年(1924年)に薄鋼板の圧延製造に初めて成功
- 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
- [3]昭和12年(1937年)における生産実績は約34万トン
1950年8月、製鉄部門は川崎重工業から分離して川崎製鉄となった。企業再建整備法をはじめとする戦後の諸法令による制約に加え、直接の関連が薄い造船業と同じ経営のもとに置かれることが製鉄の拡張を妨げていた。資本金5億円の第二会社として発足し、初代社長には葺合工場で製鋼・製板を率いた西山弥太郎氏が就いた。1950年の生産は年33万トンで、普通鋼圧延鋼材の全生産量では全国第4位にとどまる。ただし薄鋼板と高級仕上鋼板ではそれぞれ第1位を占めた。高炉を持たず、銑鉄を他社から買う平炉メーカーとしての独立である。 [4][5]
- 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
- [4]昭和25年(1950年)8月、川崎重工業から製鉄部門を分離し資本金5億円の第二会社として川崎製鉄が創立、初代社長に西山弥太郎が就任
- [5]昭和25年の生産は年間33万トン、普通鋼圧延鋼材の全生産量では全国第4位、薄鋼板・高級仕上鋼板では第1位
- 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」/日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「機械-信用を得た国産品」
- [1]明治39年(1906年)5月に川崎造船所が造船所用鋳鍛鋼品製造の目的で分工場を設立し兵庫分工場と呼び翌年に鋳鋼品製造を開始(日本産業史 第1巻)、明治40年(1907年)7月に造船用鋼材自給と車輌製造の目的で兵庫東尻池に兵庫工場を開設(会社銀行八十年史)。両者は年が食い違うのではなく、1906年5月の分工場設立と1907年7月の兵庫工場開設という別の出来事で、本文の併記は正しい
- [2]1917年5月に兵庫県神戸市に葺合工場を開設、大正7年(1918年)に中板・厚板の製造を開始、大正13年(1924年)に薄鋼板の圧延製造に初めて成功
- 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
- [3]昭和12年(1937年)における生産実績は約34万トン
- [4]昭和25年(1950年)8月、川崎重工業から製鉄部門を分離し資本金5億円の第二会社として川崎製鉄が創立、初代社長に西山弥太郎が就任
- [5]昭和25年の生産は年間33万トン、普通鋼圧延鋼材の全生産量では全国第4位、薄鋼板・高級仕上鋼板では第1位
日銀総裁の反対を越えて着手した千葉の銑鋼一貫
独立の翌年、川崎製鉄は千葉市南方海岸の埋立地に一貫製鉄所を建設すると決め、1951年2月に着手した。既設の工場は戦時中に増やしたものが多い。1939年に岩手県久慈町へ粒鉄の久慈工場、1941年に西宮へ電気炉による特殊鋼の工場、1943年に愛知県半田市へ鋳鍛鋼品の知多工場を開いている。いずれも平炉と圧延を持つだけで、銑鉄は外部から買う。主力の薄板は近代生活の必需資材として需要が伸びる一方、質でも量でも原価でも既設設備は合理化の限界にきていた。計画の最終目標はホットストリップミルとコールドストリップミル各1基、これに原材料を高速かつ連続的に供給する製銑・製鋼・分塊の各設備で、資本金5億円で発足した会社が構想する規模ではない。 [6][7][8]
- 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
- [6]昭和26年(1951年)2月、千葉市南方海岸埋立地に最新鋭の銑鋼一貫工場を目ざして建設に着手
- [7]計画の最終目標はホットストリップミル・コールドストリップミル各1基と、製銑・製鋼・分塊等の付帯設備
- [8]昭和14年(1939年)に岩手県久慈町へ久慈工場(ロータリーキルンによる粒鉄)、16年(1941年)に西宮工場(電気炉による特殊鋼)、18年(1943年)に愛知県半田市へ知多工場(電気炉による鋳鍛鋼品)を開設
計画は金融界の反対にあった。日本銀行の一万田尚登総裁は「ペンペン草を生やす」と述べて反対したと日本産業史は記録している。反対を押し切って建設は進み、1953年6月に千葉の第1高炉へ火入れした。この時期、鉄鋼業では42社が参加する第一次合理化計画が1951年から動いていた。1950年7月からの1年間で特需発注は3億4,000万ドルに近く、動乱前の滞貨推定額1,000億円を上回る規模で、金属を筆頭に機械・繊維が7割を占めている。特需と輸出の急増が、戦後初めて経営者に近代化への意欲を与えた。翌1954年1月には富士製鉄広畑で戦後最初の連続式ストリップミルが動き始める。千葉の一貫化は、この合理化計画と特需の数年に重なった。 [9][10][11]
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「朝鮮動乱の刺激」
- [9]昭和28年(1953年)6月、「ペンペン草を生やす」という一万田日銀総裁の反対を押し切って設立された川崎製鉄(西山弥太郎社長)の千葉銑鋼一貫工場の第一高炉が火入れ
- [10]昭和26年(1951年)から42社を含む鉄鋼第一次合理化計画が発足、昭和29年(1954年)1月に富士製鉄広畑で戦後最初の連続式ストリップミルが稼働
- [11]昭和25年7月から26年6月の1年間の特需発注高は3億4,000万ドルに近く、動乱勃発前の滞貨推定額1,000億円を上回る。内容は金属を筆頭に機械・繊維が7割を占めた
資金は増資でつないだ。資本金は1951年に10億円、1952年に20億円、1953年に40億円と倍額増資を重ね、いずれもおもに千葉の建設資金へ充てている。1954年9月、熔鉱炉700トン1基・平炉100トン3基・コークス炉1基・分塊圧延機1基と付帯設備一式が第1期工事として完成し、稼働に入った。ここで川崎製鉄は平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ変わる。並行して葺合に亜鉛鍍金設備と酸素・水素・アセチレンの各工場、西宮に連続式帯鋼圧延機と鋼管工場、千葉にワイヤロープ・熔接棒・メタルラスの工場を設け、計量器やドラム缶といった二次製品にも手を伸ばした。1955年時点の製品は30種、年間生産実績50万トン、販売金額は250億円を超え、輸出が販売の約25%を占めた。 [12][13][14]
- 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
- [12]資本金は昭和26年10億円、27年20億円、28年40億円と倍額増資を重ね、おもに千葉製鉄所新設資金に充当
- [13]昭和29年(1954年)9月、熔鉱炉700トン1基・平炉100トン3基・コークス炉1基・分塊圧延機1基および付帯設備一式を第1期工事として完成、平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ
- [14]1955年時点で製品は30種、年間生産実績50万トン、販売金額250億円超、輸出は販売の約25%
- 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
- [6]昭和26年(1951年)2月、千葉市南方海岸埋立地に最新鋭の銑鋼一貫工場を目ざして建設に着手
- [7]計画の最終目標はホットストリップミル・コールドストリップミル各1基と、製銑・製鋼・分塊等の付帯設備
- [8]昭和14年(1939年)に岩手県久慈町へ久慈工場(ロータリーキルンによる粒鉄)、16年(1941年)に西宮工場(電気炉による特殊鋼)、18年(1943年)に愛知県半田市へ知多工場(電気炉による鋳鍛鋼品)を開設
- [12]資本金は昭和26年10億円、27年20億円、28年40億円と倍額増資を重ね、おもに千葉製鉄所新設資金に充当
- [13]昭和29年(1954年)9月、熔鉱炉700トン1基・平炉100トン3基・コークス炉1基・分塊圧延機1基および付帯設備一式を第1期工事として完成、平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ
- [14]1955年時点で製品は30種、年間生産実績50万トン、販売金額250億円超、輸出は販売の約25%
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「朝鮮動乱の刺激」
- [9]昭和28年(1953年)6月、「ペンペン草を生やす」という一万田日銀総裁の反対を押し切って設立された川崎製鉄(西山弥太郎社長)の千葉銑鋼一貫工場の第一高炉が火入れ
- [10]昭和26年(1951年)から42社を含む鉄鋼第一次合理化計画が発足、昭和29年(1954年)1月に富士製鉄広畑で戦後最初の連続式ストリップミルが稼働
- [11]昭和25年7月から26年6月の1年間の特需発注高は3億4,000万ドルに近く、動乱勃発前の滞貨推定額1,000億円を上回る。内容は金属を筆頭に機械・繊維が7割を占めた