川崎製鉄 の歴史

創業

1950年

創業者

西山弥太郎

創業地

兵庫県神戸市

直近売上高(1985/3)

12,214億円

長期業績と転換点(1973/4〜2002/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1950年に独立した川崎製鉄は、資本金5億円の会社でありながら銑鋼一貫製鉄所の建設に踏み切ったのか
A 薄鋼板で全国首位に立っていても、銑鉄を他社から買う平炉メーカーである限り、原価の主導権は持てない。1950年8月に川崎重工業から製鉄部門を分離して神戸市で発足した川崎製鉄は、資本金5億円・年産33万トンの規模でありながら、翌1951年2月に千葉市の埋立地で銑鋼一貫製鉄所の建設に着手した。初代社長の西山弥太郎氏は日本銀行の一万田尚登総裁の反対を押し切り、1953年6月に第1高炉へ火入れしている
Q なぜ千葉が完成して間もない1961年に、川崎製鉄は水島という二つ目の一貫製鉄所へ踏み切ったのか
A 高炉は着工から稼働まで年単位を要する。需要が伸びる時期には、先に用地を造成して炉を据えた会社が生産量を伸ばせる。千葉は薄板を主軸とする製鉄所で、厚板・H形鋼・棒鋼・線材まで品種を広げる余地に乏しかった。川崎製鉄は1961年7月、岡山県倉敷市に水島製鉄所を開設する。1970年に稼働した3号高炉は炉内容積3,363立方メートルに達し、1974年には高炉4基で粗鋼年産1,200万トン体制を組んで、粗鋼生産の世界順位は1973年の7位から1974年に6位へ上がった
Q なぜ2002年に川崎製鉄は単独での存続ではなく、NKKとの経営統合を選んだのか
A 設備を先に作って量で伸びる形は、需要が伸び続けるあいだしか成り立たない。1999年度、支配力基準の連結導入で連結子会社は209社へ増え、不動産子会社へ過去に売却した利益約500億円が消去されて約250億円の連結欠損金が残った。中期経営計画で掲げた3年間の連結フリーキャッシュフロー目標2,500億円は、新日鉄の5,000億円・NKKの4,000億円を下回る。2001年4月に統合を発表し、2002年9月の共同株式移転で上場を廃止した

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1950年〜 川崎重工業から分かれた製鉄部門が、千葉で銑鋼一貫に踏み切るまで

  1. 1950年川崎重工業から製鉄部門を分離し資本金5億円で川崎製鉄を設立、初代社長に西山弥太郎が就任
  2. 1951年千葉市南方海岸の埋立地で銑鋼一貫の千葉製鉄所の建設に着手
  3. 1953年千葉製鉄所の第1高炉に火入れし、平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ移行
  4. 1954年千葉製鉄所の第1期工事が完成、熔鉱炉700トン1基・平炉100トン3基・コークス炉・分塊圧延機が稼働
  5. 1956年世界銀行と2,000万ドルの借款契約を締結、千葉のホットストリップミル・コールドストリップミルに充当(1958年1月に高炉・コークス炉向け800万ドル、1960年12月に厚板工場向け600万ドルを追加)

川崎製鉄の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

造船所の一工場として育った鋼板技術と、製鉄部門の分離独立

川崎製鉄の鉄は、造船所の一工場から始まった。1906年、川崎造船所は造船所用の鋳鍛鋼品を作る目的で分工場を設け、1907年7月には造船用鋼材の自給と車両製造を兼ねて兵庫東尻池に兵庫工場を開いた。第一次世界大戦で輸入鋼材が途絶えると同工場は繁忙をきわめ、1917年に神戸市脇浜の埋立地へ主力工場として葺合工場を新設して、翌1918年から中板・厚板の製造に入った。1924年には、需要が多いにもかかわらず製造が難しく大半を輸入に頼っていた薄鋼板の圧延に国内で初めて成功する。1937年の生産実績は約34万トンに達した。造船会社の内製部門が、薄板という民需の主力品種で全国有数の供給者に育った。 [1][2][3]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」/日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「機械-信用を得た国産品」
    • [1]明治39年(1906年)5月に川崎造船所が造船所用鋳鍛鋼品製造の目的で分工場を設立し兵庫分工場と呼び翌年に鋳鋼品製造を開始(日本産業史 第1巻)、明治40年(1907年)7月に造船用鋼材自給と車輌製造の目的で兵庫東尻池に兵庫工場を開設(会社銀行八十年史)。両者は年が食い違うのではなく、1906年5月の分工場設立と1907年7月の兵庫工場開設という別の出来事で、本文の併記は正しい
    • [2]1917年5月に兵庫県神戸市に葺合工場を開設、大正7年(1918年)に中板・厚板の製造を開始、大正13年(1924年)に薄鋼板の圧延製造に初めて成功
  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
    • [3]昭和12年(1937年)における生産実績は約34万トン

1950年8月、製鉄部門は川崎重工業から分離して川崎製鉄となった。企業再建整備法をはじめとする戦後の諸法令による制約に加え、直接の関連が薄い造船業と同じ経営のもとに置かれることが製鉄の拡張を妨げていた。資本金5億円の第二会社として発足し、初代社長には葺合工場で製鋼・製板を率いた西山弥太郎氏が就いた。1950年の生産は年33万トンで、普通鋼圧延鋼材の全生産量では全国第4位にとどまる。ただし薄鋼板と高級仕上鋼板ではそれぞれ第1位を占めた。高炉を持たず、銑鉄を他社から買う平炉メーカーとしての独立である。 [4][5]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
    • [4]昭和25年(1950年)8月、川崎重工業から製鉄部門を分離し資本金5億円の第二会社として川崎製鉄が創立、初代社長に西山弥太郎が就任
    • [5]昭和25年の生産は年間33万トン、普通鋼圧延鋼材の全生産量では全国第4位、薄鋼板・高級仕上鋼板では第1位
  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」/日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「機械-信用を得た国産品」
    • [1]明治39年(1906年)5月に川崎造船所が造船所用鋳鍛鋼品製造の目的で分工場を設立し兵庫分工場と呼び翌年に鋳鋼品製造を開始(日本産業史 第1巻)、明治40年(1907年)7月に造船用鋼材自給と車輌製造の目的で兵庫東尻池に兵庫工場を開設(会社銀行八十年史)。両者は年が食い違うのではなく、1906年5月の分工場設立と1907年7月の兵庫工場開設という別の出来事で、本文の併記は正しい
    • [2]1917年5月に兵庫県神戸市に葺合工場を開設、大正7年(1918年)に中板・厚板の製造を開始、大正13年(1924年)に薄鋼板の圧延製造に初めて成功
  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
    • [3]昭和12年(1937年)における生産実績は約34万トン
    • [4]昭和25年(1950年)8月、川崎重工業から製鉄部門を分離し資本金5億円の第二会社として川崎製鉄が創立、初代社長に西山弥太郎が就任
    • [5]昭和25年の生産は年間33万トン、普通鋼圧延鋼材の全生産量では全国第4位、薄鋼板・高級仕上鋼板では第1位

日銀総裁の反対を越えて着手した千葉の銑鋼一貫

独立の翌年、川崎製鉄は千葉市南方海岸の埋立地に一貫製鉄所を建設すると決め、1951年2月に着手した。既設の工場は戦時中に増やしたものが多い。1939年に岩手県久慈町へ粒鉄の久慈工場、1941年に西宮へ電気炉による特殊鋼の工場、1943年に愛知県半田市へ鋳鍛鋼品の知多工場を開いている。いずれも平炉と圧延を持つだけで、銑鉄は外部から買う。主力の薄板は近代生活の必需資材として需要が伸びる一方、質でも量でも原価でも既設設備は合理化の限界にきていた。計画の最終目標はホットストリップミルとコールドストリップミル各1基、これに原材料を高速かつ連続的に供給する製銑・製鋼・分塊の各設備で、資本金5億円で発足した会社が構想する規模ではない。 [6][7][8]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
    • [6]昭和26年(1951年)2月、千葉市南方海岸埋立地に最新鋭の銑鋼一貫工場を目ざして建設に着手
    • [7]計画の最終目標はホットストリップミル・コールドストリップミル各1基と、製銑・製鋼・分塊等の付帯設備
    • [8]昭和14年(1939年)に岩手県久慈町へ久慈工場(ロータリーキルンによる粒鉄)、16年(1941年)に西宮工場(電気炉による特殊鋼)、18年(1943年)に愛知県半田市へ知多工場(電気炉による鋳鍛鋼品)を開設

計画は金融界の反対にあった。日本銀行の一万田尚登総裁は「ペンペン草を生やす」と述べて反対したと日本産業史は記録している。反対を押し切って建設は進み、1953年6月に千葉の第1高炉へ火入れした。この時期、鉄鋼業では42社が参加する第一次合理化計画が1951年から動いていた。1950年7月からの1年間で特需発注は3億4,000万ドルに近く、動乱前の滞貨推定額1,000億円を上回る規模で、金属を筆頭に機械・繊維が7割を占めている。特需と輸出の急増が、戦後初めて経営者に近代化への意欲を与えた。翌1954年1月には富士製鉄広畑で戦後最初の連続式ストリップミルが動き始める。千葉の一貫化は、この合理化計画と特需の数年に重なった。 [9][10][11]

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「朝鮮動乱の刺激」
    • [9]昭和28年(1953年)6月、「ペンペン草を生やす」という一万田日銀総裁の反対を押し切って設立された川崎製鉄(西山弥太郎社長)の千葉銑鋼一貫工場の第一高炉が火入れ
    • [10]昭和26年(1951年)から42社を含む鉄鋼第一次合理化計画が発足、昭和29年(1954年)1月に富士製鉄広畑で戦後最初の連続式ストリップミルが稼働
    • [11]昭和25年7月から26年6月の1年間の特需発注高は3億4,000万ドルに近く、動乱勃発前の滞貨推定額1,000億円を上回る。内容は金属を筆頭に機械・繊維が7割を占めた

資金は増資でつないだ。資本金は1951年に10億円、1952年に20億円、1953年に40億円と倍額増資を重ね、いずれもおもに千葉の建設資金へ充てている。1954年9月、熔鉱炉700トン1基・平炉100トン3基・コークス炉1基・分塊圧延機1基と付帯設備一式が第1期工事として完成し、稼働に入った。ここで川崎製鉄は平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ変わる。並行して葺合に亜鉛鍍金設備と酸素・水素・アセチレンの各工場、西宮に連続式帯鋼圧延機と鋼管工場、千葉にワイヤロープ・熔接棒・メタルラスの工場を設け、計量器やドラム缶といった二次製品にも手を伸ばした。1955年時点の製品は30種、年間生産実績50万トン、販売金額は250億円を超え、輸出が販売の約25%を占めた。 [12][13][14]

  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
    • [12]資本金は昭和26年10億円、27年20億円、28年40億円と倍額増資を重ね、おもに千葉製鉄所新設資金に充当
    • [13]昭和29年(1954年)9月、熔鉱炉700トン1基・平炉100トン3基・コークス炉1基・分塊圧延機1基および付帯設備一式を第1期工事として完成、平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ
    • [14]1955年時点で製品は30種、年間生産実績50万トン、販売金額250億円超、輸出は販売の約25%
  • 会社銀行八十年史(1955年)「川崎製鉄」
    • [6]昭和26年(1951年)2月、千葉市南方海岸埋立地に最新鋭の銑鋼一貫工場を目ざして建設に着手
    • [7]計画の最終目標はホットストリップミル・コールドストリップミル各1基と、製銑・製鋼・分塊等の付帯設備
    • [8]昭和14年(1939年)に岩手県久慈町へ久慈工場(ロータリーキルンによる粒鉄)、16年(1941年)に西宮工場(電気炉による特殊鋼)、18年(1943年)に愛知県半田市へ知多工場(電気炉による鋳鍛鋼品)を開設
    • [12]資本金は昭和26年10億円、27年20億円、28年40億円と倍額増資を重ね、おもに千葉製鉄所新設資金に充当
    • [13]昭和29年(1954年)9月、熔鉱炉700トン1基・平炉100トン3基・コークス炉1基・分塊圧延機1基および付帯設備一式を第1期工事として完成、平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ
    • [14]1955年時点で製品は30種、年間生産実績50万トン、販売金額250億円超、輸出は販売の約25%
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「朝鮮動乱の刺激」
    • [9]昭和28年(1953年)6月、「ペンペン草を生やす」という一万田日銀総裁の反対を押し切って設立された川崎製鉄(西山弥太郎社長)の千葉銑鋼一貫工場の第一高炉が火入れ
    • [10]昭和26年(1951年)から42社を含む鉄鋼第一次合理化計画が発足、昭和29年(1954年)1月に富士製鉄広畑で戦後最初の連続式ストリップミルが稼働
    • [11]昭和25年7月から26年6月の1年間の特需発注高は3億4,000万ドルに近く、動乱勃発前の滞貨推定額1,000億円を上回る。内容は金属を筆頭に機械・繊維が7割を占めた

1959年〜 世界銀行の借款で据えた圧延機と、水島まで広げた二つの一貫製鉄所

  1. 1961年岡山県倉敷市に水島製鉄所を開設し、千葉と並ぶ二極体制に入る
  2. 1965年系列の東京亜鉛鍍金が川鉄鋼板へ商号変更し、三剛鉄板・新日本鍍金の2社を吸収合併
  3. 1966年西山弥太郎社長が病床で後任に藤本一郎副社長を指名し、役員会が社長昇格を決定(西山は翌8月に死去)

川崎製鉄の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

世界銀行の借款で据えた最新鋭の連続圧延機

千葉の中核となる圧延設備は、世界銀行の借款で据えた。1956年12月19日に2,000万ドルのストリップミル向け借款契約に調印し、1958年1月29日には1,000トン高炉とコークス炉に向けて800万ドル、1960年12月20日には厚板工場の新設に向けて600万ドルを追加している。3次あわせて3,400万ドル。外貨が乏しかった当時、世界銀行の融資は電力・鉄鋼・造船など基幹産業に絞られていた。日本銀行が巨額の借入と生産能力向上の必要性に懸念を示していたことも、世界銀行の記録に残る。 [15][16]

1958年、米国から導入した熱間連続圧延機と冷間連続圧延機が千葉で完成した。第一銀行で審査を担当していた井上薫氏は、これを「日本の鉄鋼業近代化のさきがけと評された」設備として書き残している。公職追放で各企業の経営者が若返り、企業が競って海外の最新技術を導入していた時期にあたる。技術そのものを銀行が評価できない以上、融資の可否は「結局は経営者が信用できる人であるかどうかを判断の基準とせざるを得なかった」と井上氏は述懐する。後発の平炉メーカーが世界銀行と市中銀行から巨額を引き出せた背景には、設備の内容と並んで、西山弥太郎社長個人への信用があったとみられる。 [17][18][19]

    • [17]川崎製鉄が米国のホット・ストリップ・ミルおよびコールドストリップ・ミルの技術を導入し千葉に完成したのが昭和33年(1958年)、「日本の鉄鋼業近代化のさきがけと評された」。JFEスチールの千葉地区沿革も1958年に第2高炉火入れ・第1冷間圧延工場操業開始(銑鋼一貫体制確立)と記す。なお井上薫氏は同じ段で「その第一号高炉の火入れ式」に触れているが、第1高炉の火入れは1953年6月(日本産業史 第2巻)であり、本文はストリップミル完成(1958年)と第1高炉火入れ(1953年)を取り違えていない
  • 私の履歴書 経済人22「井上薫」(日本経済新聞社)
    • [18]井上薫は第一銀行で審査を担当し、「結局は経営者が信用できる人であるかどうかを判断の基準とせざるを得なかった」と述べている
    • [19]「パージで各企業の経営者も若返っていた」「企業は競って海外の最新技術を導入し、できるだけ多くの資金を調達して、設備の拡充に振り向けた」
    • [15]1956年12月19日調印2,000万ドル(千葉工場ホット及びコールドストリップミル)、1958年1月29日調印800万ドル(千葉工場1,000トン高炉及びコークス炉)、1960年12月20日調印600万ドル(千葉工場厚板工場新設)
    • [16]日本銀行が巨額な借入や生産能力向上の必要性について懸念を表明していた
    • [17]川崎製鉄が米国のホット・ストリップ・ミルおよびコールドストリップ・ミルの技術を導入し千葉に完成したのが昭和33年(1958年)、「日本の鉄鋼業近代化のさきがけと評された」。JFEスチールの千葉地区沿革も1958年に第2高炉火入れ・第1冷間圧延工場操業開始(銑鋼一貫体制確立)と記す。なお井上薫氏は同じ段で「その第一号高炉の火入れ式」に触れているが、第1高炉の火入れは1953年6月(日本産業史 第2巻)であり、本文はストリップミル完成(1958年)と第1高炉火入れ(1953年)を取り違えていない
  • 私の履歴書 経済人22「井上薫」(日本経済新聞社)
    • [18]井上薫は第一銀行で審査を担当し、「結局は経営者が信用できる人であるかどうかを判断の基準とせざるを得なかった」と述べている
    • [19]「パージで各企業の経営者も若返っていた」「企業は競って海外の最新技術を導入し、できるだけ多くの資金を調達して、設備の拡充に振り向けた」

水島という二度目の賭けと、西山弥太郎の退場

1961年7月、川崎製鉄は岡山県倉敷市に水島製鉄所を開いた。千葉が動き始めてまだ数年、世界銀行への返済も終わらないうちの二つ目の一貫製鉄所である。開設直前にあたる同年4月期(半期)の製品別売上は、ホットストリップ・コールドストリップ製品が41.7%、厚鋼板16.3%、けい素鋼板・けい素鋼帯11.9%、亜鉛鉄板5.8%で、葺合以来の薄板系が過半を占めていた。水島は千葉の複製ではなく、厚板・H形鋼・棒鋼・線材・鋳鍛鋼まで品種を広げる場となる。埋立地の造成は製鉄所の敷地にとどまらない。川崎重工業が1960年代前半に造船所の候補地を探した際、西山社長は高梁川西側のE地区を勧めている。川崎重工業はヘドロ層の厚さを理由に1964年7月に断ったが、水島の埋立が製鉄所の敷地を越える規模で進んでいたことは、のちに川崎重工業社長となる砂野仁氏の回想に残る。 [20][21][22]

  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社)
    • [20]川崎重工業が造船所の候補地を物色した際、すでに岡山県水島に工場用地の造成を進めていた西山弥太郎が高梁川の西側E地区を勧めた。同社はヘドロ層が厚く造成費がかさむとして昭和39年(1964年)7月に断った
    • [21]1961年7月に岡山県倉敷市へ水島製鉄所を開設。高炉4基を持ち、厚板・薄板・H形鋼・棒鋼・線材・鋳鍛鋼など多角的に製造
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [22]1961年4月期(半期)の製品別売上構成はホットストリップ・コールドストリップ製品41.7%、厚鋼板16.3%、けい素鋼板・けい素鋼帯11.9%、亜鉛鉄板5.8%

砂野氏は、葺合工場の安全委員会で製鋼部門の災害率の高さを難詰したところ「仕事をたくさんやればケガ人が出るのはしょうがない」と憤然と反論された場面を書き残している。同じ砂野氏は下宿の主人から「西山さんは夜十二時ごろまで原書などを読んで勉強しておられた」と聞かされ、訪ねれば幹部社員の人物評を面白おかしく語る人物でもあったと記す。乾豊彦氏は「川崎グループの天皇といわれた」と評し、系列の海運会社が三井船舶と合併しかけた際に「三井船舶と一緒になるのなら川鉄の原料は積ません」と拒んで破談にさせた一件を書きとめている。 [23][24]

  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社)
    • [23]砂野仁は安全委員会で製鋼課の災害率を難詰し、西山弥太郎から「仕事をたくさんやればケガ人が出るのはしょうがない」と反論された
  • 私の履歴書 経済人21「乾豊彦」(日本経済新聞社)
    • [24]乾豊彦は西山弥太郎を「川崎グループの天皇といわれた」と評し、「三井船舶と一緒になるのなら川鉄の原料は積ません」と拒否したため合併がご破算になったと記している

1966年7月22日、病床の西山社長は後任に藤本一郎副社長を指名し、役員会がその昇格を決めた。西山氏は翌8月10日に73歳で死去する。設立から16年、平炉メーカーの分離独立から千葉・水島の二つの一貫製鉄所までを一人の社長が通した。砂野氏が藤本氏とともに病床を見舞ったとき、西山氏は「私は会社のことはすみずみまで知っているが、家のことは何も知らないのでよろしく頼む」と話したという。その4年前、川崎重工業加古川工場の開所式で新任社長として挨拶した砂野氏は、西山氏から「社長のあいさつというものはあまり流暢にやってはだめだよ。とつとつとやれ」と忠告されている。 [25][26][27]

  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社)
    • [25]昭和41年(1966年)7月22日の役員会で藤本副社長の社長昇格が決定、西山弥太郎は同年8月10日に73歳で死去
    • [26]西山弥太郎は病床で藤本一郎に「私は会社のことはすみずみまで知っているが、家のことは何も知らないのでよろしく頼む」と話した
    • [27]昭和37年(1962年)2月の川崎重工業加古川工場開所式で、新任社長の砂野仁は西山弥太郎から「社長のあいさつというものはあまり流暢にやってはだめだよ。とつとつとやれ」と忠告された
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社)
    • [20]川崎重工業が造船所の候補地を物色した際、すでに岡山県水島に工場用地の造成を進めていた西山弥太郎が高梁川の西側E地区を勧めた。同社はヘドロ層が厚く造成費がかさむとして昭和39年(1964年)7月に断った
    • [23]砂野仁は安全委員会で製鋼課の災害率を難詰し、西山弥太郎から「仕事をたくさんやればケガ人が出るのはしょうがない」と反論された
    • [25]昭和41年(1966年)7月22日の役員会で藤本副社長の社長昇格が決定、西山弥太郎は同年8月10日に73歳で死去
    • [26]西山弥太郎は病床で藤本一郎に「私は会社のことはすみずみまで知っているが、家のことは何も知らないのでよろしく頼む」と話した
    • [27]昭和37年(1962年)2月の川崎重工業加古川工場開所式で、新任社長の砂野仁は西山弥太郎から「社長のあいさつというものはあまり流暢にやってはだめだよ。とつとつとやれ」と忠告された
    • [21]1961年7月に岡山県倉敷市へ水島製鉄所を開設。高炉4基を持ち、厚板・薄板・H形鋼・棒鋼・線材・鋳鍛鋼など多角的に製造
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [22]1961年4月期(半期)の製品別売上構成はホットストリップ・コールドストリップ製品41.7%、厚鋼板16.3%、けい素鋼板・けい素鋼帯11.9%、亜鉛鉄板5.8%
  • 私の履歴書 経済人21「乾豊彦」(日本経済新聞社)
    • [24]乾豊彦は西山弥太郎を「川崎グループの天皇といわれた」と評し、「三井船舶と一緒になるのなら川鉄の原料は積ません」と拒否したため合併がご破算になったと記している

1968年〜 設備調整の時代に高炉を積み増し、半導体まで広げた多角化の二十年

  1. 1970年水島3号高炉が稼働、炉内容積3,363立方メートルは当時の国内最大級
  2. 1974年千葉製鉄所でUOプレス方式による大口径鋼管の生産を開始、パイプライン向けの受注が伸びる
  3. 1974年フィリピン・ミンダナオ島で年産500万トンの焼結工場の建設に着手、総額2億ドルを投じる全額出資会社を設立
  4. 1974年水島製鉄所の高炉が4基体制となり、4号高炉の炉内容積4,323立方メートルは国内最大となる
  5. 1985年LSI事業推進部を発足させ、高炉メーカーとして半導体(ASIC)事業に参入
  6. 1987年千葉の厚板工場・製鋼工場の休止と5,300人の人員削減を柱とする合理化計画を発表、1万9,100人の従業員を1万3,800人へ減らす計画
  7. 1990年半導体の宇都宮工場が竣工し、LSI事業の本格的な営業活動を開始

川崎製鉄の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

産業構造審議会の調整枠のなかで積み増した高炉

1960年代後半以降、高炉の新設は各社の自由にならなくなった。設備投資の過当競争を警戒する声と国際的な反響を受け、1967年度から産業構造審議会の鉄鋼部会が学識経験者・業界・需要業界の代表21人からなる委員会で設備調整を担い、一貫製鉄所の拡張は足並みを揃えるようになる。調整の初年度に通産省が各社から提出させた今後5年の高炉計画は18基に上った。川崎製鉄はこの枠のなかで水島の高炉を積み増す。1970年に稼働した水島3号高炉は炉内容積3,363立方メートルで、1965年時点の2,000立方メートル級の1.7倍にあたる。転炉も170トンの時代から250トンの時代へ移っていた。 [28][29][30]

  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「鉄鋼-新日鉄誕生し、業界安定期に」
    • [28]昭和42年度(1967年度)の産業構造審議会鉄鋼部会で学識経験者・業界・需要業界などの代表21人からなる委員会が設備調整を図ることになった
    • [29]昭和45年(1970年)に稼動した川鉄水島3号炉の炉内容積は3,363立方メートルで、昭和40年時の2,000立方メートルを上回る
    • [30]昭和42年度の設備調整に当たり通産省が各社から提出させた今後5年の高炉計画は18基に上った。転炉も170トンの時代から250トンの時代へ大型化が進んだ

増設には休止が条件として付いた。1971年度の設備調整では鹿島2号・水島4号・福山5号・君津4号の4基が認められ、同時に公正取引委員会の了解のもとで休廃止のルールが決められる。水島4号高炉(4,323立方メートル)の新設に対し、川崎製鉄は千葉3号炉・水島2号炉・水島1号炉の休止を引き受けた。1974年末の時点で水島の高炉は4基、粗鋼年産1,200万トン体制を組み、稼働能力は950万〜960万トンである。世界最大の製鉄所は日本鋼管福山、次いでソ連のマグニト・ゴルスク、第3位が水島だった。粗鋼生産の世界順位は1973年の7位から1974年に6位へ上がり、国内の粗鋼シェアは12%強を占めた。 [31][32][33]

  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-飛躍への離陸期間」
    • [31]川鉄は水島4号炉(4,323立方メートル)の新設に対し千葉3号炉(1,686立方メートル)・水島2号炉(2,857立方メートル)・水島1号炉(2,156立方メートル)を休止
    • [32]昭和46年度(1971年度)の設備調整で鹿島2号炉・水島4号炉・福山5号炉・君津4号炉の4基が認められ、この時公正取引委員会の了解を得て休廃止ルールが取り決められた
  • 証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」(川出千速)
    • [33]川崎製鉄は1973年の粗鋼生産高で世界第7位、1974年見込みで第6位、国内粗鋼シェアは12%強。水島製鉄所は粗鋼年産1,200万トン体制で現在の稼働能力は950〜960万トン、世界第3位の製鉄所
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「鉄鋼-新日鉄誕生し、業界安定期に」
    • [28]昭和42年度(1967年度)の産業構造審議会鉄鋼部会で学識経験者・業界・需要業界などの代表21人からなる委員会が設備調整を図ることになった
    • [29]昭和45年(1970年)に稼動した川鉄水島3号炉の炉内容積は3,363立方メートルで、昭和40年時の2,000立方メートルを上回る
    • [30]昭和42年度の設備調整に当たり通産省が各社から提出させた今後5年の高炉計画は18基に上った。転炉も170トンの時代から250トンの時代へ大型化が進んだ
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「産業機械-飛躍への離陸期間」
    • [31]川鉄は水島4号炉(4,323立方メートル)の新設に対し千葉3号炉(1,686立方メートル)・水島2号炉(2,857立方メートル)・水島1号炉(2,156立方メートル)を休止
    • [32]昭和46年度(1971年度)の設備調整で鹿島2号炉・水島4号炉・福山5号炉・君津4号炉の4基が認められ、この時公正取引委員会の了解を得て休廃止ルールが取り決められた
  • 証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」(川出千速)
    • [33]川崎製鉄は1973年の粗鋼生産高で世界第7位、1974年見込みで第6位、国内粗鋼シェアは12%強。水島製鉄所は粗鋼年産1,200万トン体制で現在の稼働能力は950〜960万トン、世界第3位の製鉄所

石油ショックを挟んだ収益の伸びと、鉄以外への広がり

1970年代の川崎製鉄は、品種と地域の両方を広げた。1974年2月、千葉製鉄所でUOプレス方式による大口径鋼管の生産を始める。社内では相当の議論があったものの、稼働後はパイプライン向けの引き合いが絶えなかった。同じころフィリピン・ミンダナオ島北部に年産能力500万トンの焼結工場を全額出資で建設し、総額2億ドルを投じている。ブラジル・ツバロンでは、ブラジル政府とイタリアのフィンシデルとの3社合弁による一貫製鉄所の事業化調査に入った。中南米には亜鉛めっきやブリキの加工会社を複数持っていた。 [34][35]

  • 証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」(川出千速)
    • [34]昭和49年(1974年)2月、千葉製鉄所でUOプレス方式による大口径のパイプ生産を開始、パイプライン用に引き合いが集中
    • [35]フィリピン・ミンダナオ島北部海岸に年産能力500万トンの焼結工場を100%出資会社で建設、約2億ドルを投じる計画。ブラジル・ツバロンでブラジル政府・イタリアのフィンシデルとの三者合弁で一貫製鉄所のフィージビリティ・スタディを実施中

業績は1970年代を通じて伸びた。単体売上高は1971年4月期の4,263億円から1980年3月期の1兆1,479億円へ2.7倍になり、経常利益は222億円から927億円、当期純利益は95億円から501億円へ増えている。ただし伸びは一本調子ではない。1976年3月期には経常損失71億円を計上し、1984年3月期の経常利益は25億円、当期純利益は8億円まで落ちた。翌1985年3月期は売上高1兆2,214億円・経常利益432億円へ戻している。鉄鋼の収益は市況と為替に振られ、固定費の重い設備がその振れをそのまま損益に伝えた。トン当たりの設備費は千葉が4万6,000円、水島が5万4,000円で、当時の海外の新設案件は15万〜20万円だった。 [36][37]

  • 会社年鑑(1976年版ほか)
    • [36]単体売上高は1971年4月期4,263億円→1980年3月期1兆1,479億円、経常利益222億円→927億円、当期純利益95億円→501億円。1976年3月期は経常損失71億円、1984年3月期は経常利益25億円・当期純利益8億円、1985年3月期は売上高1兆2,214億円・経常利益432億円
  • 証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」(川出千速)
    • [37]日本の粗鋼トン当たり鉄鋼設備費は千葉で4万6,000円、水島で5万4,000円見当。最近は世界的にトン当たり15万〜20万円になっている

事業の構成も動いた。1975年3月期(半期)の売上構成は鋼板64%・鋼管13%・条鋼12%・めっき鋼板6%で、ほぼ鉄鋼一色である。1985年3月期(通期)になると鋼板63%・鋼管13%と鉄鋼の比重を保ちながら、エンジニアリング事業等が12%、化学製品が4%を占めた。系列にも広がりがある。1955年に資本系列下へ入れた東京亜鉛鍍金は1965年10月に川鉄鋼板へ商号を変えて三剛鉄板・新日本鍍金を吸収し、1972年には岡山県倉敷市に玉島工場を設けて東西3工場の体制を整えた。1958年に鉱山部門を分離した川鉄鉱業、鉄鋼商社の川鉄商事が周辺を固める。川鉄鉱業は1990年に川崎製鉄の新素材研究を引き継ぎ、1995年12月から生産を始めたニッケル超微粉が積層セラミックコンデンサ向けで世界シェア50%を占めた。 [38][39][40]

  • 会社年鑑 1976年版・1986年版
    • [38]1975年3月期の売上構成は鋼板64%・鋼管13%・条鋼12%・めっき鋼板6%・その他6%、1985年3月期は鋼板63%・鋼管13%・エンジニアリング事業等12%・条鋼7%・化学製品4%・その他鋼材2%
  • 証券アナリストジャーナル 1990年12月号「川鉄鋼板」(上野利夫)/週刊東洋経済 2000年8月12日号「川鉄鉱業」
    • [39]東京亜鉛鍍金は昭和30年(1955年)に川崎製鉄の資本系列下に入り、昭和40年(1965年)10月に川鉄鋼板へ社名変更すると同時に三剛鉄板・新日本鍍金の2社を吸収合併。川鉄鉱業は1958年に川崎製鉄の鉱山部門が独立して設立
  • 証券アナリストジャーナル 1990年12月号「川鉄鋼板」(上野利夫)/週刊東洋経済 2000年8月12日号「川鉄鉱業 川鉄から事業継承、ニッケル超微粉がIT革命に乗る」
    • [40]川鉄鋼板は昭和47年(1972年)に玉島工場を岡山県倉敷市に開設し東西3工場の生産体制を整えた。川鉄鉱業は1990年に川崎製鉄の新素材研究を引き継いでニッケル超微粉を事業化し、1995年12月に千葉製造所で月産2トンから生産を開始、1999年度時点で世界シェア50%
  • 証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」(川出千速)
    • [34]昭和49年(1974年)2月、千葉製鉄所でUOプレス方式による大口径のパイプ生産を開始、パイプライン用に引き合いが集中
    • [35]フィリピン・ミンダナオ島北部海岸に年産能力500万トンの焼結工場を100%出資会社で建設、約2億ドルを投じる計画。ブラジル・ツバロンでブラジル政府・イタリアのフィンシデルとの三者合弁で一貫製鉄所のフィージビリティ・スタディを実施中
    • [37]日本の粗鋼トン当たり鉄鋼設備費は千葉で4万6,000円、水島で5万4,000円見当。最近は世界的にトン当たり15万〜20万円になっている
  • 会社年鑑(1976年版ほか)
    • [36]単体売上高は1971年4月期4,263億円→1980年3月期1兆1,479億円、経常利益222億円→927億円、当期純利益95億円→501億円。1976年3月期は経常損失71億円、1984年3月期は経常利益25億円・当期純利益8億円、1985年3月期は売上高1兆2,214億円・経常利益432億円
  • 会社年鑑 1976年版・1986年版
    • [38]1975年3月期の売上構成は鋼板64%・鋼管13%・条鋼12%・めっき鋼板6%・その他6%、1985年3月期は鋼板63%・鋼管13%・エンジニアリング事業等12%・条鋼7%・化学製品4%・その他鋼材2%
  • 証券アナリストジャーナル 1990年12月号「川鉄鋼板」(上野利夫)/週刊東洋経済 2000年8月12日号「川鉄鉱業」
    • [39]東京亜鉛鍍金は昭和30年(1955年)に川崎製鉄の資本系列下に入り、昭和40年(1965年)10月に川鉄鋼板へ社名変更すると同時に三剛鉄板・新日本鍍金の2社を吸収合併。川鉄鉱業は1958年に川崎製鉄の鉱山部門が独立して設立
  • 証券アナリストジャーナル 1990年12月号「川鉄鋼板」(上野利夫)/週刊東洋経済 2000年8月12日号「川鉄鉱業 川鉄から事業継承、ニッケル超微粉がIT革命に乗る」
    • [40]川鉄鋼板は昭和47年(1972年)に玉島工場を岡山県倉敷市に開設し東西3工場の生産体制を整えた。川鉄鉱業は1990年に川崎製鉄の新素材研究を引き継いでニッケル超微粉を事業化し、1995年12月に千葉製造所で月産2トンから生産を開始、1999年度時点で世界シェア50%

円高が迫った5,300人の削減と、LSIという新しい柱

1985年9月のプラザ合意による円高で、鉄鋼各社は円ベースの輸出価格の低下を受け入れるほかなく、国内市況も輸入鋼材の価格を織り込んで下がった。高炉5社の業績は1985年度下半期から1987年度上半期まで実質的な赤字が続き、有価証券売却などを考慮した1986年度の実質赤字は5社合計で4,000億円に達して中間配当も一斉に取りやめた。川崎製鉄は1987〜1988年度に千葉の厚板工場と製鋼工場を休止し、1986年度末に1万9,100人だった人員を1989年度末までに1万3,800人へ、5,300人減らす合理化計画を発表した。 [41]

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「鉄鋼-徹底合理化と多角化に挑む」
    • [41]高炉五社の業績は昭和60年度下半期から62年度上半期まで実質的な赤字が続き、61年度の実質赤字は4,000億円に達し中間配当も一斉に取りやめ。川崎製鉄は62〜63年度に千葉の厚板工場・製鋼工場を休止、人員を61年度末の1万9,100人から64年度末に1万3,800人へと5,300人削減する合理化計画を発表

合理化と並行して、鉄以外の事業も立ち上げた。1985年、川崎製鉄はLSI事業推進部を発足させ、特定用途向け集積回路(ASIC)の設計・販売に参入した。1990年に宇都宮工場が竣工して本格的な営業に入り、1994年には米国カリフォルニア州サンノゼに販売子会社Kawasaki LSI U.S.A.を設けている。高炉メーカーの半導体進出はこの時期の日本に複数あった。新日本製鉄は1980年代半ばにニッテツ電子を設立してシリコンウエハーへ単独進出したが、技術蓄積のなさが露呈して赤字経営に悩み、1993年にはミネベア系の半導体メーカー買収と日立製作所との技術提携でやり直している。 [42][43]

    • [42]川崎マイクロエレクトロニクスの起源は1985年発足の旧川崎製鉄LSI事業推進部であり、1990年宇都宮工場竣工とともに本格的な営業活動を開始、1994年に米国カリフォルニア州サンノゼに販売子会社Kawasaki LSI U.S.A. Inc. を設立
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「鉄鋼-徹底合理化と多角化に挑む」
    • [43]新日本製鉄がニッテツ電子を設立してシリコンウエハーに単独進出したのは「昭和六十年代の初め」(=1985年前後)。技術蓄積のなさが露呈して赤字経営に悩み、平成5年(1993年)にミネベア系半導体メーカー(エヌ・エム・ビーセミコンダクター)を買収、日立製作所と技術提携
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「鉄鋼-徹底合理化と多角化に挑む」
    • [41]高炉五社の業績は昭和60年度下半期から62年度上半期まで実質的な赤字が続き、61年度の実質赤字は4,000億円に達し中間配当も一斉に取りやめ。川崎製鉄は62〜63年度に千葉の厚板工場・製鋼工場を休止、人員を61年度末の1万9,100人から64年度末に1万3,800人へと5,300人削減する合理化計画を発表
    • [43]新日本製鉄がニッテツ電子を設立してシリコンウエハーに単独進出したのは「昭和六十年代の初め」(=1985年前後)。技術蓄積のなさが露呈して赤字経営に悩み、平成5年(1993年)にミネベア系半導体メーカー(エヌ・エム・ビーセミコンダクター)を買収、日立製作所と技術提携
    • [42]川崎マイクロエレクトロニクスの起源は1985年発足の旧川崎製鉄LSI事業推進部であり、1990年宇都宮工場竣工とともに本格的な営業活動を開始、1994年に米国カリフォルニア州サンノゼに販売子会社Kawasaki LSI U.S.A. Inc. を設立

1991年〜 支配力基準の連結が映した実像と、NKKとの統合で閉じた五十二年

  1. 1994年米国カリフォルニア州サンノゼに半導体の販売子会社Kawasaki LSI U.S.A.を設立
  2. 1995年赤字下で千葉製鉄所の大改造に踏み切り、薄板の生産体制を強化
  3. 1995年江本寛治が社長に就任、業界の横並びを崩す価格政策を掲げる
  4. 1998年子会社の川鉄商事が食品・航空機商社の野崎産業と資本提携し、1999年4月の吸収合併で非鉄鋼分野を強化
  5. 2000年支配力基準の連結導入で連結子会社が209社へ拡大、不動産子会社への過年度売却益約500億円の消去により連結欠損金約250億円を抱える
  6. 2001年NKKとの経営統合を発表、高炉5社体制が崩れ国内は2強時代へ向かう
  7. 2002年NKKとの共同株式移転でJFEホールディングスを設立し、両社は完全子会社となって上場廃止(2003年4月の会社分割でJFEスチールへ商号変更)

内需ブームの後に来た二度目の不況と、攻めの千葉大改造

1987年度から1991年度にかけて、国内は内需ブームに沸いた。粗鋼生産量は1987年度に1億188万トンと1億トンの大台を回復し、1991年度まで5年連続で1億トン台を保つ。高炉各社はいったん決めた高炉の休止時期を先送りし、表面処理鋼板など高級鋼材の設備投資へ資金を向けた。ところが1992年度には6年ぶりの1億トン割れとなり、再び不況に入る。1994年春、高炉各社は相次いでリストラ計画の見直しを発表した。川崎製鉄が対象に挙げたのは、ハードフェライトや米国のシリコンウエハーなど収益の低い事業である。 [44]

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「鉄鋼-徹底合理化と多角化に挑む」
    • [44]昭和62年度(1987年度)の粗鋼生産量は1億188万トンと1億トンの大台を回復、平成3年度(1991年度)まで5年連続1億トン台。平成4年度に6年振りの1億トン割れ。平成6年(1994年)春に高炉各社が相次いでリストラ計画の見直しを発表し、川崎製鉄ではハードフェライトや米国のシリコンウエハーなど収益の低い事業が対象

1995年6月、江本寛治氏が社長に就任した。日経ビジネスは翌7月に「“鉄の意思”で業界の横並び崩す」と題して江本氏を取り上げている。同年2月には、赤字のもとで千葉製鉄所の大改造に踏み切り薄板を強化したことが報じられた。1999年4月には13クロムシームレス鋼管の製法をめぐって住友金属工業を特許侵害で提訴し、同年11月には住金から逆に提訴されている。特許問題は話し合いによる和解が相場だった業界で、高炉大手同士が相互に提訴する事態は異例だった。背景には、住金・川鉄・新日鉄3社によるシームレス鋼管の輸出共販会社構想が、13クロム製品のシェアが90%を超え独禁法に触れるとして白紙に戻された経緯がある。 [45][46][47]

  • 日経ビジネス 1995年7月24日号「江本寛治氏[川崎製鉄]登場 “鉄の意思”で業界の横並び崩す」
    • [45]江本寛治は1995年6月に川崎製鉄社長へ就任。日経ビジネス「新社長登場」欄の略歴に「88年取締役、91年常務、94年専務、95年6月から社長」とあり、本文に「4月18日に開かれた社長交代の記者会見」の記述もある(1936年1月28日福岡県生まれ、58年3月九州大学工学部卒、同年4月川崎製鉄入社、前任は涛崎忍会長)
  • 週刊東洋経済 2000年2月5日号「住金と川鉄の訴訟合戦でにわかに浮上した新日鉄と住金の蜜月関係」
    • [46]住友金属工業は1999年11月にステンレス(13クロム)シームレス鋼管の製法特許侵害で川崎製鉄を東京地裁に提訴。同年4月には川鉄が製品特許侵害で住金を提訴していた。3社の輸出共販構想は13クロムのシェアが90%超で独禁法に触れるとして1999年11月末に白紙化
  • 日経ビジネス 1995年2月6日号「川崎製鉄 赤字でも攻めの投資 千葉・大改造で“板”強化」
    • [47]1995年2月に日経ビジネスが「川崎製鉄/赤字でも攻めの投資 千葉・大改造で“板”強化」を掲載
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「鉄鋼-徹底合理化と多角化に挑む」
    • [44]昭和62年度(1987年度)の粗鋼生産量は1億188万トンと1億トンの大台を回復、平成3年度(1991年度)まで5年連続1億トン台。平成4年度に6年振りの1億トン割れ。平成6年(1994年)春に高炉各社が相次いでリストラ計画の見直しを発表し、川崎製鉄ではハードフェライトや米国のシリコンウエハーなど収益の低い事業が対象
  • 日経ビジネス 1995年7月24日号「江本寛治氏[川崎製鉄]登場 “鉄の意思”で業界の横並び崩す」
    • [45]江本寛治は1995年6月に川崎製鉄社長へ就任。日経ビジネス「新社長登場」欄の略歴に「88年取締役、91年常務、94年専務、95年6月から社長」とあり、本文に「4月18日に開かれた社長交代の記者会見」の記述もある(1936年1月28日福岡県生まれ、58年3月九州大学工学部卒、同年4月川崎製鉄入社、前任は涛崎忍会長)
  • 週刊東洋経済 2000年2月5日号「住金と川鉄の訴訟合戦でにわかに浮上した新日鉄と住金の蜜月関係」
    • [46]住友金属工業は1999年11月にステンレス(13クロム)シームレス鋼管の製法特許侵害で川崎製鉄を東京地裁に提訴。同年4月には川鉄が製品特許侵害で住金を提訴していた。3社の輸出共販構想は13クロムのシェアが90%超で独禁法に触れるとして1999年11月末に白紙化
  • 日経ビジネス 1995年2月6日号「川崎製鉄 赤字でも攻めの投資 千葉・大改造で“板”強化」
    • [47]1995年2月に日経ビジネスが「川崎製鉄/赤字でも攻めの投資 千葉・大改造で“板”強化」を掲載

支配力基準の連結が暴いた250億円の欠損金

1999年度、川崎製鉄の連結子会社数は前期の55社から209社へ、持分法適用会社は15社から25社へ増えた。支配力基準の導入によるもので、直系の川鉄商事も連結150社・持分法40社へ範囲を広げている。範囲の拡大で連結売上高は2,250億円、経常利益は30億円、純利益は10億円それぞれ上乗せされた。上乗せだけでは終わらない。持分法適用会社だった不動産のケーエスシー都市開発(実質53%出資)が連結子会社となり、過去に同社へ売却した不動産の利益約500億円が過年度損益修正として消去された。前期の連結剰余金133億円と当期純利益120億円が消え、2000年度初に約250億円の連結欠損金が残る計算になった。 [48]

  • 週刊東洋経済 2000年4月22日号「鉄鋼不動産子会社の連結で川崎製鉄は欠損転落」
    • [48]川崎製鉄は99年度に連結子会社209社(前期55)・持分法適用25社(同15)、川鉄商事も連結150社・持分法40社へ拡大。連結範囲拡大で売上高2,250億円・経常利益30億円・純益10億円の上乗せ。ケーエスシー都市開発(実質53%出資)の連結子会社化で過年度売却益約500億円を消去し、前期連結剰余金133億円・当期純益120億円が消えて2000年度初に連結欠損金250億円前後が残る見通し

欠損は川崎製鉄だけの問題ではない。新日本製鉄を除く高炉大手4社が1999年度に連結欠損を抱えた。NKKは京浜製鉄所などの分社に伴う資産売却益が内部消去されて連結460億円の赤字、神戸製鋼所は連結純損失480億円、住友金属工業はエレクトロニクス整理損・子会社支援・株式評価損など合計2,070億円の特別損失で連結純損失1,460億円である。むしろ川崎製鉄は退職給付債務の積立不足が600億円と5社で最小にとどまり、保有株式の含み益がこれを上回っていた。支配力基準の連結は、川崎製鉄一社の失敗ではなく、高炉各社が抱えていた子会社と退職給付債務の重さを同時に表に出した。 [49]

  • 週刊東洋経済 2000年4月22日号「鉄鋼不動産子会社の連結で川崎製鉄は欠損転落」
    • [49]99年度にNKKは連結460億円の赤字、神戸製鋼所は連結純損失480億円、住友金属工業は特損合計2,070億円で連結純損失1,460億円。退職給付債務の積立不足は新日鉄1,750億円が最多、川鉄600億円が最小で、新日鉄・川鉄は積立不足以上の株式含み益を持つ
  • 週刊東洋経済 2000年4月22日号「鉄鋼不動産子会社の連結で川崎製鉄は欠損転落」
    • [48]川崎製鉄は99年度に連結子会社209社(前期55)・持分法適用25社(同15)、川鉄商事も連結150社・持分法40社へ拡大。連結範囲拡大で売上高2,250億円・経常利益30億円・純益10億円の上乗せ。ケーエスシー都市開発(実質53%出資)の連結子会社化で過年度売却益約500億円を消去し、前期連結剰余金133億円・当期純益120億円が消えて2000年度初に連結欠損金250億円前後が残る見通し
    • [49]99年度にNKKは連結460億円の赤字、神戸製鋼所は連結純損失480億円、住友金属工業は特損合計2,070億円で連結純損失1,460億円。退職給付債務の積立不足は新日鉄1,750億円が最多、川鉄600億円が最小で、新日鉄・川鉄は積立不足以上の株式含み益を持つ

五十二年の単独史を閉じた、NKKとの共同株式移転

2000年5月の時点で、鉄鋼再編は合併ではなく部分的な提携にとどまっていた。輸出が好調で年間1億トンの粗鋼生産も視野に入り、再編の機運はむしろ後退している。そのなかで川崎製鉄とNKKは連携を模索し、神戸製鋼所は鉄鋼部門で独立路線を選んだ。両社が抱えていたのは、成熟した国内需要と過剰な設備、そして連結決算が突きつけた子会社の重さである。中期経営計画で高炉大手が掲げた3年間の連結フリーキャッシュフロー目標は、新日鉄5,000億円・NKK4,000億円に対して川崎製鉄が2,500億円にとどまる。 [50][51]

  • 週刊東洋経済 2000年4月22日号「鉄鋼不動産子会社の連結で川崎製鉄は欠損転落」
    • [50]中期経営計画の3年間の連結フリーキャッシュフロー目標は新日鉄5,000億円、NKK4,000億円、川鉄2,500億円
  • 週刊東洋経済 2000年5月27日号「注目の業界 次の焦点は川鉄とNKK、神戸鋼は独立路線」
    • [51]2000年5月時点で鉄鋼再編は本格的な合併ではなく部分的な提携にとどまり、川崎製鉄とNKKは連携を模索中、神戸製鋼所は鉄鋼部門で独立路線

2001年4月、両社は経営統合を発表した。高炉5社体制は崩れ、国内は新日鉄とJFEの2強となる。2002年9月、共同株式移転により完全親会社JFEホールディングスが設立され、川崎製鉄とNKKはその完全子会社となって株式の上場を廃止した。設立から52年である。消えたのは上場であって、千葉と水島の製鉄所も、従業員も、法人格も残った。翌2003年4月の会社分割で、川崎製鉄はNKKの鉄鋼事業を承継してJFEスチールへ商号を変更し、法人としては存続している。1985年に始めた半導体事業は2001年7月に川崎マイクロエレクトロニクスとして分社され、2012年にメガチップスへ譲渡された。 [52][53]

  • 週刊東洋経済 2001年4月28日号「高炉5社体制崩壊。国内は2強時代へ/NKK・川鉄統合で新日鉄対抗勢力が誕生」
    • [52]2001年4月にNKK・川鉄の経営統合が発表され高炉5社体制が崩壊、国内は2強時代へ
  • 有価証券報告書(JFEホールディングス)
    • [53]2002年9月に日本鋼管・川崎製鉄が共同して株式移転により完全親会社JFEホールディングスを設立し両社普通株式は上場廃止、2003年4月の会社分割でJFEスチール・JFEエンジニアリング等へ再編、2012年7月に川崎マイクロエレクトロニクス株式をメガチップスへ譲渡

後発として銑鋼一貫に踏み切り、世界銀行の借款で最新鋭の圧延機を据え、水島でもう一度同じことをやった会社が、最後は単独での存続を選ばなかった。千葉と水島という二つの臨海一貫製鉄所は、粗鋼需要が伸び続ける前提の上に成り立っている。1953年に置いたその前提は1970年代半ばまで持ち、トン当たり4万6,000円という設備費の安さがそのまま原価の差になった。前提が変われば、同じ設備が固定費として残る。1985年度以降の実質赤字も、1987年の5,300人削減も、2000年の連結欠損も、需要の頭打ちに対して設備と子会社が重すぎた点では同じである。統合の相手に選んだNKKもまた、世界最大の福山製鉄所を抱えた会社だった。

  • 週刊東洋経済 2000年4月22日号「鉄鋼不動産子会社の連結で川崎製鉄は欠損転落」
    • [50]中期経営計画の3年間の連結フリーキャッシュフロー目標は新日鉄5,000億円、NKK4,000億円、川鉄2,500億円
  • 週刊東洋経済 2000年5月27日号「注目の業界 次の焦点は川鉄とNKK、神戸鋼は独立路線」
    • [51]2000年5月時点で鉄鋼再編は本格的な合併ではなく部分的な提携にとどまり、川崎製鉄とNKKは連携を模索中、神戸製鋼所は鉄鋼部門で独立路線
  • 週刊東洋経済 2001年4月28日号「高炉5社体制崩壊。国内は2強時代へ/NKK・川鉄統合で新日鉄対抗勢力が誕生」
    • [52]2001年4月にNKK・川鉄の経営統合が発表され高炉5社体制が崩壊、国内は2強時代へ
  • 有価証券報告書(JFEホールディングス)
    • [53]2002年9月に日本鋼管・川崎製鉄が共同して株式移転により完全親会社JFEホールディングスを設立し両社普通株式は上場廃止、2003年4月の会社分割でJFEスチール・JFEエンジニアリング等へ再編、2012年7月に川崎マイクロエレクトロニクス株式をメガチップスへ譲渡

川崎製鉄の沿革1950〜2002年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
川崎重工業から製鉄部門を分離し資本金5億円で川崎製鉄を設立、初代社長に西山弥太郎が就任★★★
千葉市南方海岸の埋立地で銑鋼一貫の千葉製鉄所の建設に着手★★★
千葉製鉄所の第1高炉に火入れし、平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ移行★★
千葉製鉄所の第1期工事が完成、熔鉱炉700トン1基・平炉100トン3基・コークス炉・分塊圧延機が稼働★★
世界銀行と2,000万ドルの借款契約を締結、千葉のホットストリップミル・コールドストリップミルに充当(1958年1月に高炉・コークス炉向け800万ドル、1960年12月に厚板工場向け600万ドルを追加)★★
岡山県倉敷市に水島製鉄所を開設し、千葉と並ぶ二極体制に入る★★★
系列の東京亜鉛鍍金が川鉄鋼板へ商号変更し、三剛鉄板・新日本鍍金の2社を吸収合併
西山弥太郎社長が病床で後任に藤本一郎副社長を指名し、役員会が社長昇格を決定(西山は翌8月に死去)★★★
水島3号高炉が稼働、炉内容積3,363立方メートルは当時の国内最大級★★
フィリピン・ミンダナオ島で年産500万トンの焼結工場の建設に着手、総額2億ドルを投じる全額出資会社を設立★★
ブラジル・ツバロンでブラジル政府・伊フィンシデルとの3社合弁による一貫製鉄所の事業化調査に着手
水島製鉄所の高炉が4基体制となり、4号高炉の炉内容積4,323立方メートルは国内最大となる★★
千葉製鉄所でUOプレス方式による大口径鋼管の生産を開始、パイプライン向けの受注が伸びる★★
LSI事業推進部を発足させ、高炉メーカーとして半導体(ASIC)事業に参入★★★
千葉の厚板工場・製鋼工場の休止と5,300人の人員削減を柱とする合理化計画を発表、1万9,100人の従業員を1万3,800人へ減らす計画★★★
半導体の宇都宮工場が竣工し、LSI事業の本格的な営業活動を開始★★
米国カリフォルニア州サンノゼに半導体の販売子会社Kawasaki LSI U.S.A.を設立
赤字下で千葉製鉄所の大改造に踏み切り、薄板の生産体制を強化★★
江本寛治が社長に就任、業界の横並びを崩す価格政策を掲げる★★
子会社の川鉄商事が食品・航空機商社の野崎産業と資本提携し、1999年4月の吸収合併で非鉄鋼分野を強化
13クロムシームレス鋼管の特許侵害で住友金属工業を提訴、同年11月には住金からも提訴され高炉大手同士の訴訟合戦となる
支配力基準の連結導入で連結子会社が209社へ拡大、不動産子会社への過年度売却益約500億円の消去により連結欠損金約250億円を抱える★★
NKKとの経営統合を発表、高炉5社体制が崩れ国内は2強時代へ向かう★★
半導体事業を分社し、川崎マイクロエレクトロニクスを設立
NKKとの共同株式移転でJFEホールディングスを設立し、両社は完全子会社となって上場廃止(2003年4月の会社分割でJFEスチールへ商号変更)★★★
出典・参考

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