{"title":"川崎製鉄の歴史概略","sections":[{"start_year":1950,"end_year":1958,"main_title":"川崎重工業から分かれた製鉄部門が、千葉で銑鋼一貫に踏み切るまで","subsections":[{"title":"造船所の一工場として育った鋼板技術と、製鉄部門の分離独立","text":"川崎製鉄の鉄は、造船所の一工場から始まった。1906年、川崎造船所は造船所用の鋳鍛鋼品を作る目的で分工場を設け、1907年7月には造船用鋼材の自給と車両製造を兼ねて兵庫東尻池に兵庫工場を開いた。第一次世界大戦で輸入鋼材が途絶えると同工場は繁忙をきわめ、1917年に神戸市脇浜の埋立地へ主力工場として葺合工場を新設して、翌1918年から中板・厚板の製造に入った。1924年には、需要が多いにもかかわらず製造が難しく大半を輸入に頼っていた薄鋼板の圧延に国内で初めて成功する。1937年の生産実績は約34万トンに達した。造船会社の内製部門が、薄板という民需の主力品種で全国有数の供給者に育った。\n\n1950年8月、製鉄部門は川崎重工業から分離して川崎製鉄となった。企業再建整備法をはじめとする戦後の諸法令による制約に加え、直接の関連が薄い造船業と同じ経営のもとに置かれることが製鉄の拡張を妨げていた。資本金5億円の第二会社として発足し、初代社長には葺合工場で製鋼・製板を率いた西山弥太郎氏が就いた。1950年の生産は年33万トンで、普通鋼圧延鋼材の全生産量では全国第4位にとどまる。ただし薄鋼板と高級仕上鋼板ではそれぞれ第1位を占めた。高炉を持たず、銑鉄を他社から買う平炉メーカーとしての独立である。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「川崎製鉄」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「機械－信用を得た国産品」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「朝鮮動乱の刺激」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"JFEホールディングス「JFEグループの歩み（前史）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"日銀総裁の反対を越えて着手した千葉の銑鋼一貫","text":"独立の翌年、川崎製鉄は千葉市南方海岸の埋立地に一貫製鉄所を建設すると決め、1951年2月に着手した。既設の工場は戦時中に増やしたものが多い。1939年に岩手県久慈町へ粒鉄の久慈工場、1941年に西宮へ電気炉による特殊鋼の工場、1943年に愛知県半田市へ鋳鍛鋼品の知多工場を開いている。いずれも平炉と圧延を持つだけで、銑鉄は外部から買う。主力の薄板は近代生活の必需資材として需要が伸びる一方、質でも量でも原価でも既設設備は合理化の限界にきていた。計画の最終目標はホットストリップミルとコールドストリップミル各1基、これに原材料を高速かつ連続的に供給する製銑・製鋼・分塊の各設備で、資本金5億円で発足した会社が構想する規模ではない。\n\n計画は金融界の反対にあった。日本銀行の一万田尚登総裁は「ペンペン草を生やす」と述べて反対したと日本産業史は記録している。反対を押し切って建設は進み、1953年6月に千葉の第1高炉へ火入れした。この時期、鉄鋼業では42社が参加する第一次合理化計画が1951年から動いていた。1950年7月からの1年間で特需発注は3億4,000万ドルに近く、動乱前の滞貨推定額1,000億円を上回る規模で、金属を筆頭に機械・繊維が7割を占めている。特需と輸出の急増が、戦後初めて経営者に近代化への意欲を与えた。翌1954年1月には富士製鉄広畑で戦後最初の連続式ストリップミルが動き始める。千葉の一貫化は、この合理化計画と特需の数年に重なった。\n\n資金は増資でつないだ。資本金は1951年に10億円、1952年に20億円、1953年に40億円と倍額増資を重ね、いずれもおもに千葉の建設資金へ充てている。1954年9月、熔鉱炉700トン1基・平炉100トン3基・コークス炉1基・分塊圧延機1基と付帯設備一式が第1期工事として完成し、稼働に入った。ここで川崎製鉄は平炉メーカーから銑鋼一貫メーカーへ変わる。並行して葺合に亜鉛鍍金設備と酸素・水素・アセチレンの各工場、西宮に連続式帯鋼圧延機と鋼管工場、千葉にワイヤロープ・熔接棒・メタルラスの工場を設け、計量器やドラム缶といった二次製品にも手を伸ばした。1955年時点の製品は30種、年間生産実績50万トン、販売金額は250億円を超え、輸出が販売の約25%を占めた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）「川崎製鉄」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻（日本経済新聞社、1994年）「機械－信用を得た国産品」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第2巻（日本経済新聞社、1994年）「朝鮮動乱の刺激」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"JFEホールディングス「JFEグループの歩み（前史）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1959,"end_year":1967,"main_title":"世界銀行の借款で据えた圧延機と、水島まで広げた二つの一貫製鉄所","subsections":[{"title":"世界銀行の借款で据えた最新鋭の連続圧延機","text":"千葉の中核となる圧延設備は、世界銀行の借款で据えた。1956年12月19日に2,000万ドルのストリップミル向け借款契約に調印し、1958年1月29日には1,000トン高炉とコークス炉に向けて800万ドル、1960年12月20日には厚板工場の新設に向けて600万ドルを追加している。3次あわせて3,400万ドル。外貨が乏しかった当時、世界銀行の融資は電力・鉄鋼・造船など基幹産業に絞られていた。日本銀行が巨額の借入と生産能力向上の必要性に懸念を示していたことも、世界銀行の記録に残る。\n\n1958年、米国から導入した熱間連続圧延機と冷間連続圧延機が千葉で完成した。第一銀行で審査を担当していた井上薫氏は、これを「日本の鉄鋼業近代化のさきがけと評された」設備として書き残している。公職追放で各企業の経営者が若返り、企業が競って海外の最新技術を導入していた時期にあたる。技術そのものを銀行が評価できない以上、融資の可否は「結局は経営者が信用できる人であるかどうかを判断の基準とせざるを得なかった」と井上氏は述懐する。後発の平炉メーカーが世界銀行と市中銀行から巨額を引き出せた背景には、設備の内容と並んで、西山弥太郎社長個人への信用があったとみられる。","references":[{"title":"世界銀行「日本が世界銀行から貸出を受けた31のプロジェクト：川崎製鉄千葉工場」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"JFEスチール「東日本製鉄所（千葉地区）沿革」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人22「井上薫」（日本経済新聞社）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人12「砂野仁」（日本経済新聞社）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人21「乾豊彦」（日本経済新聞社）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」（川出千速）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"株式会社年鑑 昭和37年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"JFEホールディングス「JFEグループの歩み（前史）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"水島という二度目の賭けと、西山弥太郎の退場","text":"1961年7月、川崎製鉄は岡山県倉敷市に水島製鉄所を開いた。千葉が動き始めてまだ数年、世界銀行への返済も終わらないうちの二つ目の一貫製鉄所である。開設直前にあたる同年4月期（半期）の製品別売上は、ホットストリップ・コールドストリップ製品が41.7%、厚鋼板16.3%、けい素鋼板・けい素鋼帯11.9%、亜鉛鉄板5.8%で、葺合以来の薄板系が過半を占めていた。水島は千葉の複製ではなく、厚板・H形鋼・棒鋼・線材・鋳鍛鋼まで品種を広げる場となる。埋立地の造成は製鉄所の敷地にとどまらない。川崎重工業が1960年代前半に造船所の候補地を探した際、西山社長は高梁川西側のE地区を勧めている。川崎重工業はヘドロ層の厚さを理由に1964年7月に断ったが、水島の埋立が製鉄所の敷地を越える規模で進んでいたことは、のちに川崎重工業社長となる砂野仁氏の回想に残る。\n\n砂野氏は、葺合工場の安全委員会で製鋼部門の災害率の高さを難詰したところ「仕事をたくさんやればケガ人が出るのはしょうがない」と憤然と反論された場面を書き残している。同じ砂野氏は下宿の主人から「西山さんは夜十二時ごろまで原書などを読んで勉強しておられた」と聞かされ、訪ねれば幹部社員の人物評を面白おかしく語る人物でもあったと記す。乾豊彦氏は「川崎グループの天皇といわれた」と評し、系列の海運会社が三井船舶と合併しかけた際に「三井船舶と一緒になるのなら川鉄の原料は積ません」と拒んで破談にさせた一件を書きとめている。\n\n1966年7月22日、病床の西山社長は後任に藤本一郎副社長を指名し、役員会がその昇格を決めた。西山氏は翌8月10日に73歳で死去する。設立から16年、平炉メーカーの分離独立から千葉・水島の二つの一貫製鉄所までを一人の社長が通した。砂野氏が藤本氏とともに病床を見舞ったとき、西山氏は「私は会社のことはすみずみまで知っているが、家のことは何も知らないのでよろしく頼む」と話したという。その4年前、川崎重工業加古川工場の開所式で新任社長として挨拶した砂野氏は、西山氏から「社長のあいさつというものはあまり流暢にやってはだめだよ。とつとつとやれ」と忠告されている。","references":[{"title":"世界銀行「日本が世界銀行から貸出を受けた31のプロジェクト：川崎製鉄千葉工場」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"JFEスチール「東日本製鉄所（千葉地区）沿革」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人22「井上薫」（日本経済新聞社）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人12「砂野仁」（日本経済新聞社）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"私の履歴書 経済人21「乾豊彦」（日本経済新聞社）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」（川出千速）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"株式会社年鑑 昭和37年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"JFEホールディングス「JFEグループの歩み（前史）」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1968,"end_year":1990,"main_title":"設備調整の時代に高炉を積み増し、半導体まで広げた多角化の二十年","subsections":[{"title":"産業構造審議会の調整枠のなかで積み増した高炉","text":"1960年代後半以降、高炉の新設は各社の自由にならなくなった。設備投資の過当競争を警戒する声と国際的な反響を受け、1967年度から産業構造審議会の鉄鋼部会が学識経験者・業界・需要業界の代表21人からなる委員会で設備調整を担い、一貫製鉄所の拡張は足並みを揃えるようになる。調整の初年度に通産省が各社から提出させた今後5年の高炉計画は18基に上った。川崎製鉄はこの枠のなかで水島の高炉を積み増す。1970年に稼働した水島3号高炉は炉内容積3,363立方メートルで、1965年時点の2,000立方メートル級の1.7倍にあたる。転炉も170トンの時代から250トンの時代へ移っていた。\n\n増設には休止が条件として付いた。1971年度の設備調整では鹿島2号・水島4号・福山5号・君津4号の4基が認められ、同時に公正取引委員会の了解のもとで休廃止のルールが決められる。水島4号高炉（4,323立方メートル）の新設に対し、川崎製鉄は千葉3号炉・水島2号炉・水島1号炉の休止を引き受けた。1974年末の時点で水島の高炉は4基、粗鋼年産1,200万トン体制を組み、稼働能力は950万〜960万トンである。世界最大の製鉄所は日本鋼管福山、次いでソ連のマグニト・ゴルスク、第3位が水島だった。粗鋼生産の世界順位は1973年の7位から1974年に6位へ上がり、国内の粗鋼シェアは12%強を占めた。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」（川出千速）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1990年12月号「川鉄鋼板」（上野利夫）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「鉄鋼－新日鉄誕生し、業界安定期に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「産業機械－飛躍への離陸期間」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「鉄鋼－徹底合理化と多角化に挑む」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"JFE技報 No.1（2003年6月）「川崎マイクロエレクトロニクス」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年8月12日号「川鉄鉱業 川鉄から事業継承、ニッケル超微粉がIT革命に乗る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑 1976年版・1986年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"石油ショックを挟んだ収益の伸びと、鉄以外への広がり","text":"1970年代の川崎製鉄は、品種と地域の両方を広げた。1974年2月、千葉製鉄所でUOプレス方式による大口径鋼管の生産を始める。社内では相当の議論があったものの、稼働後はパイプライン向けの引き合いが絶えなかった。同じころフィリピン・ミンダナオ島北部に年産能力500万トンの焼結工場を全額出資で建設し、総額2億ドルを投じている。ブラジル・ツバロンでは、ブラジル政府とイタリアのフィンシデルとの3社合弁による一貫製鉄所の事業化調査に入った。中南米には亜鉛めっきやブリキの加工会社を複数持っていた。\n\n業績は1970年代を通じて伸びた。単体売上高は1971年4月期の4,263億円から1980年3月期の1兆1,479億円へ2.7倍になり、経常利益は222億円から927億円、当期純利益は95億円から501億円へ増えている。ただし伸びは一本調子ではない。1976年3月期には経常損失71億円を計上し、1984年3月期の経常利益は25億円、当期純利益は8億円まで落ちた。翌1985年3月期は売上高1兆2,214億円・経常利益432億円へ戻している。鉄鋼の収益は市況と為替に振られ、固定費の重い設備がその振れをそのまま損益に伝えた。トン当たりの設備費は千葉が4万6,000円、水島が5万4,000円で、当時の海外の新設案件は15万〜20万円だった。\n\n事業の構成も動いた。1975年3月期（半期）の売上構成は鋼板64%・鋼管13%・条鋼12%・めっき鋼板6%で、ほぼ鉄鋼一色である。1985年3月期（通期）になると鋼板63%・鋼管13%と鉄鋼の比重を保ちながら、エンジニアリング事業等が12%、化学製品が4%を占めた。系列にも広がりがある。1955年に資本系列下へ入れた東京亜鉛鍍金は1965年10月に川鉄鋼板へ商号を変えて三剛鉄板・新日本鍍金を吸収し、1972年には岡山県倉敷市に玉島工場を設けて東西3工場の体制を整えた。1958年に鉱山部門を分離した川鉄鉱業、鉄鋼商社の川鉄商事が周辺を固める。川鉄鉱業は1990年に川崎製鉄の新素材研究を引き継ぎ、1995年12月から生産を始めたニッケル超微粉が積層セラミックコンデンサ向けで世界シェア50%を占めた。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」（川出千速）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1990年12月号「川鉄鋼板」（上野利夫）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「鉄鋼－新日鉄誕生し、業界安定期に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「産業機械－飛躍への離陸期間」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「鉄鋼－徹底合理化と多角化に挑む」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"JFE技報 No.1（2003年6月）「川崎マイクロエレクトロニクス」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年8月12日号「川鉄鉱業 川鉄から事業継承、ニッケル超微粉がIT革命に乗る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑 1976年版・1986年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"円高が迫った5,300人の削減と、LSIという新しい柱","text":"1985年9月のプラザ合意による円高で、鉄鋼各社は円ベースの輸出価格の低下を受け入れるほかなく、国内市況も輸入鋼材の価格を織り込んで下がった。高炉5社の業績は1985年度下半期から1987年度上半期まで実質的な赤字が続き、有価証券売却などを考慮した1986年度の実質赤字は5社合計で4,000億円に達して中間配当も一斉に取りやめた。川崎製鉄は1987〜1988年度に千葉の厚板工場と製鋼工場を休止し、1986年度末に1万9,100人だった人員を1989年度末までに1万3,800人へ、5,300人減らす合理化計画を発表した。\n\n合理化と並行して、鉄以外の事業も立ち上げた。1985年、川崎製鉄はLSI事業推進部を発足させ、特定用途向け集積回路（ASIC）の設計・販売に参入した。1990年に宇都宮工場が竣工して本格的な営業に入り、1994年には米国カリフォルニア州サンノゼに販売子会社Kawasaki LSI U.S.A.を設けている。高炉メーカーの半導体進出はこの時期の日本に複数あった。新日本製鉄は1980年代半ばにニッテツ電子を設立してシリコンウエハーへ単独進出したが、技術蓄積のなさが露呈して赤字経営に悩み、1993年にはミネベア系の半導体メーカー買収と日立製作所との技術提携でやり直している。","references":[{"title":"証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」（川出千速）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券アナリストジャーナル 1990年12月号「川鉄鋼板」（上野利夫）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「鉄鋼－新日鉄誕生し、業界安定期に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第3巻（日本経済新聞社、1994年）「産業機械－飛躍への離陸期間」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「鉄鋼－徹底合理化と多角化に挑む」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"JFE技報 No.1（2003年6月）「川崎マイクロエレクトロニクス」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年8月12日号「川鉄鉱業 川鉄から事業継承、ニッケル超微粉がIT革命に乗る」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社年鑑 1976年版・1986年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1991,"end_year":2002,"main_title":"支配力基準の連結が映した実像と、NKKとの統合で閉じた五十二年","subsections":[{"title":"内需ブームの後に来た二度目の不況と、攻めの千葉大改造","text":"1987年度から1991年度にかけて、国内は内需ブームに沸いた。粗鋼生産量は1987年度に1億188万トンと1億トンの大台を回復し、1991年度まで5年連続で1億トン台を保つ。高炉各社はいったん決めた高炉の休止時期を先送りし、表面処理鋼板など高級鋼材の設備投資へ資金を向けた。ところが1992年度には6年ぶりの1億トン割れとなり、再び不況に入る。1994年春、高炉各社は相次いでリストラ計画の見直しを発表した。川崎製鉄が対象に挙げたのは、ハードフェライトや米国のシリコンウエハーなど収益の低い事業である。\n\n1995年6月、江本寛治氏が社長に就任した。日経ビジネスは翌7月に「“鉄の意思”で業界の横並び崩す」と題して江本氏を取り上げている。同年2月には、赤字のもとで千葉製鉄所の大改造に踏み切り薄板を強化したことが報じられた。1999年4月には13クロムシームレス鋼管の製法をめぐって住友金属工業を特許侵害で提訴し、同年11月には住金から逆に提訴されている。特許問題は話し合いによる和解が相場だった業界で、高炉大手同士が相互に提訴する事態は異例だった。背景には、住金・川鉄・新日鉄3社によるシームレス鋼管の輸出共販会社構想が、13クロム製品のシェアが90%を超え独禁法に触れるとして白紙に戻された経緯がある。","references":[{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「鉄鋼－徹底合理化と多角化に挑む」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年4月22日号「鉄鋼不動産子会社の連結で川崎製鉄は欠損転落」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年2月5日号「住金と川鉄の訴訟合戦でにわかに浮上した新日鉄と住金の蜜月関係」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年5月27日号「注目の業界 次の焦点は川鉄とNKK、神戸鋼は独立路線」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年4月28日号「高炉5社体制崩壊。国内は2強時代へ／NKK・川鉄統合で新日鉄対抗勢力が誕生」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1995年2月6日号「川崎製鉄 赤字でも攻めの投資 千葉・大改造で“板”強化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1995年7月24日号「江本寛治氏［川崎製鉄］登場 “鉄の意思”で業界の横並び崩す」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"JFE技報 No.1（2003年6月）「川崎マイクロエレクトロニクス」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（JFEホールディングス）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"支配力基準の連結が暴いた250億円の欠損金","text":"1999年度、川崎製鉄の連結子会社数は前期の55社から209社へ、持分法適用会社は15社から25社へ増えた。支配力基準の導入によるもので、直系の川鉄商事も連結150社・持分法40社へ範囲を広げている。範囲の拡大で連結売上高は2,250億円、経常利益は30億円、純利益は10億円それぞれ上乗せされた。上乗せだけでは終わらない。持分法適用会社だった不動産のケーエスシー都市開発（実質53%出資）が連結子会社となり、過去に同社へ売却した不動産の利益約500億円が過年度損益修正として消去された。前期の連結剰余金133億円と当期純利益120億円が消え、2000年度初に約250億円の連結欠損金が残る計算になった。\n\n欠損は川崎製鉄だけの問題ではない。新日本製鉄を除く高炉大手4社が1999年度に連結欠損を抱えた。NKKは京浜製鉄所などの分社に伴う資産売却益が内部消去されて連結460億円の赤字、神戸製鋼所は連結純損失480億円、住友金属工業はエレクトロニクス整理損・子会社支援・株式評価損など合計2,070億円の特別損失で連結純損失1,460億円である。むしろ川崎製鉄は退職給付債務の積立不足が600億円と5社で最小にとどまり、保有株式の含み益がこれを上回っていた。支配力基準の連結は、川崎製鉄一社の失敗ではなく、高炉各社が抱えていた子会社と退職給付債務の重さを同時に表に出した。","references":[{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「鉄鋼－徹底合理化と多角化に挑む」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年4月22日号「鉄鋼不動産子会社の連結で川崎製鉄は欠損転落」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年2月5日号「住金と川鉄の訴訟合戦でにわかに浮上した新日鉄と住金の蜜月関係」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年5月27日号「注目の業界 次の焦点は川鉄とNKK、神戸鋼は独立路線」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年4月28日号「高炉5社体制崩壊。国内は2強時代へ／NKK・川鉄統合で新日鉄対抗勢力が誕生」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1995年2月6日号「川崎製鉄 赤字でも攻めの投資 千葉・大改造で“板”強化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1995年7月24日号「江本寛治氏［川崎製鉄］登場 “鉄の意思”で業界の横並び崩す」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"JFE技報 No.1（2003年6月）「川崎マイクロエレクトロニクス」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"有価証券報告書（JFEホールディングス）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"五十二年の単独史を閉じた、NKKとの共同株式移転","text":"2000年5月の時点で、鉄鋼再編は合併ではなく部分的な提携にとどまっていた。輸出が好調で年間1億トンの粗鋼生産も視野に入り、再編の機運はむしろ後退している。そのなかで川崎製鉄とNKKは連携を模索し、神戸製鋼所は鉄鋼部門で独立路線を選んだ。両社が抱えていたのは、成熟した国内需要と過剰な設備、そして連結決算が突きつけた子会社の重さである。中期経営計画で高炉大手が掲げた3年間の連結フリーキャッシュフロー目標は、新日鉄5,000億円・NKK4,000億円に対して川崎製鉄が2,500億円にとどまる。\n\n2001年4月、両社は経営統合を発表した。高炉5社体制は崩れ、国内は新日鉄とJFEの2強となる。2002年9月、共同株式移転により完全親会社JFEホールディングスが設立され、川崎製鉄とNKKはその完全子会社となって株式の上場を廃止した。設立から52年である。消えたのは上場であって、千葉と水島の製鉄所も、従業員も、法人格も残った。翌2003年4月の会社分割で、川崎製鉄はNKKの鉄鋼事業を承継してJFEスチールへ商号を変更し、法人としては存続している。1985年に始めた半導体事業は2001年7月に川崎マイクロエレクトロニクスとして分社され、2012年にメガチップスへ譲渡された。\n\n後発として銑鋼一貫に踏み切り、世界銀行の借款で最新鋭の圧延機を据え、水島でもう一度同じことをやった会社が、最後は単独での存続を選ばなかった。千葉と水島という二つの臨海一貫製鉄所は、粗鋼需要が伸び続ける前提の上に成り立っている。1953年に置いたその前提は1970年代半ばまで持ち、トン当たり4万6,000円という設備費の安さがそのまま原価の差になった。前提が変われば、同じ設備が固定費として残る。1985年度以降の実質赤字も、1987年の5,300人削減も、2000年の連結欠損も、需要の頭打ちに対して設備と子会社が重すぎた点では同じである。統合の相手に選んだNKKもまた、世界最大の福山製鉄所を抱えた会社だった。","references":[{"title":"日本産業史 第4巻（日本経済新聞社、1994年）「鉄鋼－徹底合理化と多角化に挑む」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年4月22日号「鉄鋼不動産子会社の連結で川崎製鉄は欠損転落」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年2月5日号「住金と川鉄の訴訟合戦でにわかに浮上した新日鉄と住金の蜜月関係」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年5月27日号「注目の業界 次の焦点は川鉄とNKK、神戸鋼は独立路線」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2001年4月28日号「高炉5社体制崩壊。国内は2強時代へ／NKK・川鉄統合で新日鉄対抗勢力が誕生」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1995年2月6日号「川崎製鉄 赤字でも攻めの投資 千葉・大改造で“板”強化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1995年7月24日号「江本寛治氏［川崎製鉄］登場 “鉄の意思”で業界の横並び崩す」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"JFE技報 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