丸一鋼管 の歴史

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創業 1913年
創業者 吉村福松
創業地 大阪市
創業
1913年、吉村福松氏が大阪の平野郷町に福松製作所を構え、社員8名と2馬力のモーター1基で自転車用ブレーキの製造を始めた。月産600セットの町工場である。続いて手がけたハンドルは『丸一ハンドル』の名で評判を取り、1926年に工場を加美村へ移して商号を丸一製作所へ改めた。満州へ売った約2か月分のハンドルが溶接部の割れで全量返品されると、材料の鋼管そのものを内製する試作に入り、1935年に鋼管部門を併立する。1940年からは鋼管の専業となり、1941年に吉村福松氏が急死したあとは妻の吉村タキノ氏が事業を継いだ。1947年12月に資本金19万5,000円で丸一鋼管製作所を設立し、1960年3月に丸一鋼管へ改称した。
決断
堺工場の借入を返し終えた1974年以来、設備を借金で建てていない。1963年3月に着工した堺工場は総工費40億3,000万円と当時の資本金の10倍にあたり、不足する11億7,000万円を日本長期信用銀行住友銀行から借り入れた。1965年4月の完成が鉄鋼の不況期と重なって支払金利と減価償却が業績を圧迫し、吉村精仁社長は設備を自己資金でまかなう方針を定める。借入金は1974年3月に完済した。2024年11月にも大型熱間押出プレスへの投資について、原資は手元資金を優先し、中期経営計画の期間中は借入をしないと述べている。この方針を50年守ったことが、有利子負債43億8,600万円に対して現金及び現金同等物886億8,200万円という2026年3月期の財務を作った。
現況
海外が売上の4割を占めるが、利益の7割は日本で立っている。2026年3月期の連結売上高は2,437億6,400万円、営業利益は320億4,300万円で、地域別では日本が売上1,441億3,900万円・セグメント利益218億5,100万円、北米が548億3,700万円・54億5,800万円、アジアが447億8,800万円・41億6,400万円である。2020年4月に神戸製鋼所からコベルコ鋼管の全株式を138億円で取得し、溶接鋼管だけだった品目に継目無管が加わった。下関工場の半導体製造装置向けBA精密細管は2022年度に市場の約7%を占め、世界で2番目にある。溶接鋼管の一品目で積み上げた利益が、継目無ステンレス管という別の品種の事業を取得する原資になった。
競合
母材を売ってくれる相手が、そのまま鋼管の競争相手でもある。丸一鋼管は日本鉄鋼連盟に加盟せず高炉大手の系列にも入らないまま、ホットコイルを新日鉄NKK川崎製鉄神戸製鋼所の4社と韓国・台湾から調達してきた。1986年からの鋼材値下がり局面でも輸入比率を3割から動かさず割高な国内材を使い続け、1989年の需給ひっ迫期には国内高炉から必要量の供給を配慮されている。系列の外にいる点では電気炉から高炉独占品種だった熱延広幅帯鋼へ量産参入した東京製鐵や、海外を合弁の少数持分で持つ大和工業と同じだが、丸一鋼管は需要地に自社の工場を置き、海外では既に動いている工場を取得して増やしてきた。素材を買う側に立ち続けたことが、2020年にはその供給元の一社から鋼管事業を引き取る立場を作った。
長期業績の推移 1962〜2026年
丸一鋼管:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 満州から返品された自転車ハンドルが生んだ鋼管の内製 (1913年〜)

創業ストーリー(1)

平野郷町の社員8名で始めた「丸一ハンドル」

吉村福松氏は1913年、大阪の平野郷町(現・大阪市平野区平野東)に福松製作所を構え、社員8名と2馬力のモーター1基で自転車用ブレーキをつくり始めた[1]。月産600セットの町工場として出発した[2]。自転車は明治初期に日本へ渡り、輸入車の修理と補修部品の生産から産業として立ち上がった[3]。1914年に始まった第一次世界大戦で輸入が途絶えると国産化が急速に進み、鉄砲鍛冶が集まって金属加工の盛んだった堺の周辺でも、多くの業者が自転車部品の製造へ転じた[4]。同じ1913年に奈良県の農家から吉村家へ嫁いだ吉村タキノ氏は、経理と営業、材料の仕入れを受け持った[5]

    • [1]1913年、吉村福松氏が平野郷町(現・大阪市平野区平野東)で福松製作所を創業し、社員8名・2馬力のモーター1基で自転車用ブレーキの製造を開始した
    • [2]創業時の自転車用ブレーキの生産は月間600セットだった
    • [3]自転車は明治初期に日本に渡来し、輸入自転車の修理と補修部品の生産から産業として発展した
    • [4]1914年に勃発した第一次世界大戦による輸入途絶が自転車製造の国産化を進め、鉄砲鍛冶屋が集積し金属加工が盛んな堺地域でも多くの業者が自転車部品製造業に転身した
  • 実業の世界 1963年
    • [5]吉村タキノ氏は1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、1913年に吉村家へ嫁ぎ、経理・営業・材料仕入れの面で働いた

福松製作所は自転車用ブレーキに続いてハンドルの製造にも入った[6]。この製品は『丸一ハンドル』と名付けられ、丸に永遠の発展と和、一に純粋で誠実の意味が込められ、売り出すとすぐに評判を取った[7]。やがて丸一ったんという呼び名が製品を離れ、会社と経営者そのものを指す愛称として広まった[8]。丸の字は後に鋼管の断面と和・円満・親睦を、一の字は鋼管の長さと第一位・誠・純粋を表す社章の意味へ読み替えられた[9]。吉村福松氏は算盤勘定より製品の出来を先に置く技術者で、経理も営業も材料の仕入れも吉村タキノ氏が受け持った[10]。吉村タキノ氏の負けん気の強さは、当時から定評があった[11]

    • [6]吉村福松氏は自転車用ブレーキに加えてハンドルの製造も手がけた
    • [7]ハンドルは「丸一ハンドル」と名付けられ、丸に「永遠の発展と和」、一に「純粋で誠実」の意味が込められ、すぐさま評判になった
    • [8]「丸一ったん」の名称は製品にとどまらず、会社や経営者を指す愛称としても広まった
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [9]社章の丸は鋼管の断面を表すと同時に和・円満・親睦を、一は鋼管の長さと第一位・誠・純粋を意味する
  • 実業の世界 1963年
    • [10]吉村福松氏はソロバン勘定を無視してでもいい製品をつくれば気のすむ技術者タイプで、吉村タキノ氏が経理・営業・材料仕入れの面で活躍した
    • [11]吉村タキノ氏は当時から負けん気の強いことで定評があった

創業から13年後の1926年、丸一は工場を中河内郡加美村(現・大阪市平野区加美西)へ移し、製品名から取って社名を丸一製作所と改めた[12]。丸一製作所のハンドルはニッケル・クロームの厚メッキを施してあり、いつまでもさびないという評判を取って、国内はもとより朝鮮や満州にまで売られた[13]。後年に吉村精仁氏は、丸一のハンドル生産の始まりを1926年に置き、当時の自転車は今日の自動車にあたる有望な産業だったと振り返った[14]。ハンドルは自転車の顔にあたる[15]。良いものをつくるには材料の鋼管まで自分で手がけねばならない、というのが丸一製作所の考えだった[16]

    • [12]1926年、中河内郡加美村(現・大阪市平野区加美西)に工場を移転し、丸一ブランドの名を取って社名を丸一製作所と改称した
    • [13]丸一ハンドルはニッケル・クロームの厚メッキが施されていたため「いつまでもサビない」と評判を呼び、国内はもとより朝鮮や満州にまで販売された
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [14]吉村精仁氏は、前身が大正15年(1926年)に吉村福松氏が自転車のハンドルの生産を始めたことにさかのぼると述べ、当時の自転車は今日の自動車にあたる有望な産業だったと語った
    • [15]自転車のハンドルは人間の顔に相当する部分であり、いいものをつくるからには材料となる鋼管までを手がけなければならぬという考えを持っていた
    • [16]自転車のハンドルは人間の顔に相当する部分であり、いいものをつくるからには材料となる鋼管までを手がけなければならぬという考えを持っていた
    • [1]1913年、吉村福松氏が平野郷町(現・大阪市平野区平野東)で福松製作所を創業し、社員8名・2馬力のモーター1基で自転車用ブレーキの製造を開始した
    • [2]創業時の自転車用ブレーキの生産は月間600セットだった
    • [3]自転車は明治初期に日本に渡来し、輸入自転車の修理と補修部品の生産から産業として発展した
    • [4]1914年に勃発した第一次世界大戦による輸入途絶が自転車製造の国産化を進め、鉄砲鍛冶屋が集積し金属加工が盛んな堺地域でも多くの業者が自転車部品製造業に転身した
    • [6]吉村福松氏は自転車用ブレーキに加えてハンドルの製造も手がけた
    • [7]ハンドルは「丸一ハンドル」と名付けられ、丸に「永遠の発展と和」、一に「純粋で誠実」の意味が込められ、すぐさま評判になった
    • [8]「丸一ったん」の名称は製品にとどまらず、会社や経営者を指す愛称としても広まった
    • [12]1926年、中河内郡加美村(現・大阪市平野区加美西)に工場を移転し、丸一ブランドの名を取って社名を丸一製作所と改称した
    • [13]丸一ハンドルはニッケル・クロームの厚メッキが施されていたため「いつまでもサビない」と評判を呼び、国内はもとより朝鮮や満州にまで販売された
  • 実業の世界 1963年
    • [5]吉村タキノ氏は1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、1913年に吉村家へ嫁ぎ、経理・営業・材料仕入れの面で働いた
    • [10]吉村福松氏はソロバン勘定を無視してでもいい製品をつくれば気のすむ技術者タイプで、吉村タキノ氏が経理・営業・材料仕入れの面で活躍した
    • [11]吉村タキノ氏は当時から負けん気の強いことで定評があった
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [9]社章の丸は鋼管の断面を表すと同時に和・円満・親睦を、一は鋼管の長さと第一位・誠・純粋を意味する
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [14]吉村精仁氏は、前身が大正15年(1926年)に吉村福松氏が自転車のハンドルの生産を始めたことにさかのぼると述べ、当時の自転車は今日の自動車にあたる有望な産業だったと語った
    • [15]自転車のハンドルは人間の顔に相当する部分であり、いいものをつくるからには材料となる鋼管までを手がけなければならぬという考えを持っていた
    • [16]自転車のハンドルは人間の顔に相当する部分であり、いいものをつくるからには材料となる鋼管までを手がけなければならぬという考えを持っていた
創業ストーリー(2)

不良品の返品が生んだ溶接鋼管への転換

丸一製作所は自転車部品の材料となるパイプを外部から仕入れており、粗悪品の多さに嫌気がさしていた[17]。そこへ、満州へ売った約2か月分のハンドルが全量を不良品として送り返された[18]。原因を調べると、ハンドルのパイプの溶接部に割れが生じており[19]、極寒の満州の寒さが素材のパイプそのものに異変を生んでいた[20]。部品をつくる丸一製作所にとって、買ってきた素材の欠陥はどうすることもできなかった[21]。それでも吉村福松氏は、鋼管そのものが悪いのなら良質のものを自分の手でつくると決め、丸太柱にトタン葺きの工場1棟とドローベンチ2台を買い、専任の職人を1名付けて鋼管製造の試作を始めた[22]

  • 実業の世界 1963年
    • [17]外部から仕入れる自転車材料のパイプに粗悪品が多いのに嫌気がさしていた
    • [18]満州に販売した約2か月分の製品すべてが不良品として送り返されるクレームが起きた
    • [19]原因はハンドルのパイプ溶接部に割れが生じていたことだった
    • [20]極寒の満州では、その寒さゆえに素材のパイプに異変が起きていた
    • [21]問題が素材にあるため、部品製造の丸一には如何ともしがたい状況だった
    • [22]吉村福松氏は丸太柱のトタン葺き工場1棟とドローベンチ2台を購入し、専任の職人1名をつけて鋼管製造の試作を開始した

丸一が溶接鋼管に手をつけた年について、吉村タキノ氏は1933年を挙げた[23]吉村精仁氏は自転車用鋼管の自社生産の開始を1935年と語り[24]、丸一製作所に鋼管部門を併立して丸一鋼管工場と称したのも1935年にあたる[25]。着手の年は割れるものの、1930年代の半ばであることは動かない。自転車部品では一流でも、吉村福松氏は鋼管づくりでは素人だった[26]。技術者と呼べる者が社内に一人もおらず、電気溶接機もガス溶接機もない時代に、手加工のガス溶接でパイプをつくった[27]。売り物にならない不良品が出続けて工場にはスクラップが積み上がり、数年にわたって赤字が続いた[28]

  • 実業の世界 1963年
    • [23]溶接鋼管を手がけたのは昭和8年(1933年)であり、外部から仕入れる自転車材料のパイプに粗悪品が多く、自分でパイプから一貫生産しようと踏み切った
    • [27]技術者らしい者が一人もおらず、当時は電気溶接・ガス溶接機がなく、完全な手加工によるガス溶接パイプだった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [24]吉村精仁氏は、昭和10年(1935年)から自転車用鋼管の自社生産を開始したと述べた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [25]昭和10年(1935年)、前身の丸一製作所に鋼管部門を併立し、丸一鋼管工場と称した
    • [26]吉村福松氏は自転車部品の製造では一流でも、鋼管づくりにおいては素人だった
    • [28]良質な鋼管はなかなか完成せず工場にはスクラップの山が積み上がり、市販できない不良品が続出して数年間は赤字の連続だった

吉村福松氏は1937年に鋼管の研究を完成させた[29]。この頃の丸一は従業員70名の中規模の町工場で、鋼管の研究には会社の利益を上回る資金が注ぎ込まれ、経営の維持に苦労が絶えなかった[30]。技術の完成により、丸一は素材の鋼管から自転車のハンドル、ブレーキまでを自社で一貫して製造した[31]。パイプの生産が軌道に乗り始めたのは1939年ごろからで、それまでパイプ部門の赤字を埋めてきた自転車部品部門は、戦時の企業統合で他社へ分離移譲された[32]。1940年から丸一はパイプ一本の専業となり、別会社の丸一鋼業で磨き棒鋼とシャフトの生産も始めた[33]

    • [29]吉村福松氏の鋼管研究が完成したのは1937年である
    • [30]当時の丸一は従業員数70名を抱える中規模の町工場で、鋼管研究には会社の利益以上の資金が注ぎ込まれ、経営の維持に苦労が絶えなかった
    • [31]鋼管研究の完成により、素材の鋼管から自転車のハンドル、ブレーキまでを一貫製造できる体制が整った
  • 実業の世界 1963年
    • [32]パイプの生産が軌道に乗り始めたのは昭和14年(1939年)ごろからで、それまでパイプ部門の赤字をカバーしてきた自転車部品部門を戦時中の企業統合のため他社へ分離移譲した
    • [33]昭和15年(1940年)からパイプ部門一本の専業体制を整え、別会社の丸一鋼業で磨き棒鋼やシャフトの生産を始めた
  • 実業の世界 1963年
    • [17]外部から仕入れる自転車材料のパイプに粗悪品が多いのに嫌気がさしていた
    • [23]溶接鋼管を手がけたのは昭和8年(1933年)であり、外部から仕入れる自転車材料のパイプに粗悪品が多く、自分でパイプから一貫生産しようと踏み切った
    • [27]技術者らしい者が一人もおらず、当時は電気溶接・ガス溶接機がなく、完全な手加工によるガス溶接パイプだった
    • [32]パイプの生産が軌道に乗り始めたのは昭和14年(1939年)ごろからで、それまでパイプ部門の赤字をカバーしてきた自転車部品部門を戦時中の企業統合のため他社へ分離移譲した
    • [33]昭和15年(1940年)からパイプ部門一本の専業体制を整え、別会社の丸一鋼業で磨き棒鋼やシャフトの生産を始めた
    • [18]満州に販売した約2か月分の製品すべてが不良品として送り返されるクレームが起きた
    • [19]原因はハンドルのパイプ溶接部に割れが生じていたことだった
    • [20]極寒の満州では、その寒さゆえに素材のパイプに異変が起きていた
    • [21]問題が素材にあるため、部品製造の丸一には如何ともしがたい状況だった
    • [22]吉村福松氏は丸太柱のトタン葺き工場1棟とドローベンチ2台を購入し、専任の職人1名をつけて鋼管製造の試作を開始した
    • [26]吉村福松氏は自転車部品の製造では一流でも、鋼管づくりにおいては素人だった
    • [28]良質な鋼管はなかなか完成せず工場にはスクラップの山が積み上がり、市販できない不良品が続出して数年間は赤字の連続だった
    • [29]吉村福松氏の鋼管研究が完成したのは1937年である
    • [30]当時の丸一は従業員数70名を抱える中規模の町工場で、鋼管研究には会社の利益以上の資金が注ぎ込まれ、経営の維持に苦労が絶えなかった
    • [31]鋼管研究の完成により、素材の鋼管から自転車のハンドル、ブレーキまでを一貫製造できる体制が整った
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [24]吉村精仁氏は、昭和10年(1935年)から自転車用鋼管の自社生産を開始したと述べた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [25]昭和10年(1935年)、前身の丸一製作所に鋼管部門を併立し、丸一鋼管工場と称した
創業ストーリー(3)

吉村タキノ氏が守った統制下の割当てと設備

吉村福松氏は1941年に急死し[34]、丸一鋼管に30名、丸一鋼業に75名、あわせて105名の従業員を抱えたところで、吉村タキノ氏が事業を引き継いだ[35]。1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、生家は由緒ある庄屋ながら、生まれた頃には家産が傾いていた[36]。1913年に吉村家へ嫁いで以来、毎朝職工と同じ時刻に出社し、同じ時刻に退社してきた[37]。吉村福松氏の死で、吉村タキノ氏の体重は11貫まで落ちた[38]。工場をたたんで暮らそうと考えた時期もあったが、二女一男のうち末子の吉村精仁氏を一人前にするまでは事業を続けると決めた[39]

  • 実業の世界 1963年
    • [34]吉村福松氏が死去したのは昭和16年(1941年)で、急死だった
    • [35]当時は丸一鋼管に30人、丸一鋼業に75人の従業員を抱えていた
    • [36]吉村タキノ氏は1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、生家は由緒ある庄屋だったが、生まれた頃には家産が傾いていた
    • [37]吉村タキノ氏は1913年に吉村家へ嫁いで以来、毎朝職工と同じ時間に出社し退社していた
    • [38]吉村福松氏の死で吉村タキノ氏は体重が11貫まで痩せ細った
    • [39]工場をたたむ考えもよぎったが、女二人男一人の子のうち末子の吉村精仁氏を一人前に仕上げるまでは事業を続けると決心した

戦時下の鋼材は完全な統制と割当ての下にあり、同業他社は丸一の割当て分を奪おうと動いた[40]。女性が継いだ会社と見て攻勢をかける同業他社を吉村タキノ氏ははね返し[41]、組合や協会の会合には女性ただ一人で出席して正論を主張し、割当てを譲らなかった[42]。事業そのものよりも、夫が残した遺児の養育が吉村タキノ氏を支えた[43]。取引銀行は戦前から住友銀行の一行に絞り、企業規模に比して珍しい一行取引をその後も続けた[44]。戦争が進むにつれて事業の継続そのものが難しくなったが[45]、1945年の終戦の時点でも丸一の設備は手元に残っていた[46]

  • 実業の世界 1963年
    • [40]原材料の鋼材は戦時の完全統制下で割当て制であり、同業他社は丸一の割当ての原料を奪取しようと画策した
    • [41]女とみてなめてかかる他社の攻勢を吉村タキノ氏ははね返した
    • [42]吉村タキノ氏は組合や協会の会合につねに紅一点で出席し、正論を主張して屈しなかった
    • [43]心の支柱となったのは事業よりも亡夫の残した遺児の養育だった
    • [44]丸一は戦前から住友銀行に世話になり、企業規模に比して珍しい一行取引を続けた
    • [45]戦争が進むにつれて事業の継続は困難となり、終戦を迎えた
    • [46]終戦時、さいわいなことに設備が残った

吉村タキノ氏は、夫が残した事業を手放さないと決め、鋼材の割当てを受けるための折衝も、材料の仕入れの商談も自ら引き受けた[47]。朝早くから事務所に出て工場に入り、現場の指揮までを受け持った[48]。苦しい時期を通じて丸一を一度も倒産させず、取引先に迷惑をかけることもなかった[49]吉村精仁氏は後年、戦後の復興期を鉄鋼統制と割当て生産の時代と呼び、丸一の仕事量も少なかったと振り返った[50]。創業から33年を経ても、丸一はなお創業家が営む個人組織のままで[51]、手元に残ったのは加美の工場と、戦時を通じて手放さなかった設備である[52]

  • 実業の世界 1963年
    • [47]吉村タキノ氏は亡夫の遺業をあくまで守り抜こうとし、自分で材料購入の商談を行い、統制下の原料割当てをめぐる組合・協会の場にも自ら出た
    • [48]吉村タキノ氏は朝早くから事務所へ出て工場へ入り、陣頭指揮を執った
    • [49]吉村タキノ氏は苦しい時でも歯をくいしばり、一度も倒産したことがなく、人に迷惑をかけたこともなかった
    • [52]終戦時、さいわいなことに設備が残った
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [50]吉村精仁氏は、戦後の復興期は鉄鋼統制の時代であり割りあて生産の時期であったので、丸一は仕事量も少なく地道に企業内部の充実に努めていたと述べた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [51]1947年の法人化まで、丸一は創業家による個人組織だった
  • 実業の世界 1963年
    • [34]吉村福松氏が死去したのは昭和16年(1941年)で、急死だった
    • [35]当時は丸一鋼管に30人、丸一鋼業に75人の従業員を抱えていた
    • [36]吉村タキノ氏は1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、生家は由緒ある庄屋だったが、生まれた頃には家産が傾いていた
    • [37]吉村タキノ氏は1913年に吉村家へ嫁いで以来、毎朝職工と同じ時間に出社し退社していた
    • [38]吉村福松氏の死で吉村タキノ氏は体重が11貫まで痩せ細った
    • [39]工場をたたむ考えもよぎったが、女二人男一人の子のうち末子の吉村精仁氏を一人前に仕上げるまでは事業を続けると決心した
    • [40]原材料の鋼材は戦時の完全統制下で割当て制であり、同業他社は丸一の割当ての原料を奪取しようと画策した
    • [41]女とみてなめてかかる他社の攻勢を吉村タキノ氏ははね返した
    • [42]吉村タキノ氏は組合や協会の会合につねに紅一点で出席し、正論を主張して屈しなかった
    • [43]心の支柱となったのは事業よりも亡夫の残した遺児の養育だった
    • [44]丸一は戦前から住友銀行に世話になり、企業規模に比して珍しい一行取引を続けた
    • [45]戦争が進むにつれて事業の継続は困難となり、終戦を迎えた
    • [46]終戦時、さいわいなことに設備が残った
    • [47]吉村タキノ氏は亡夫の遺業をあくまで守り抜こうとし、自分で材料購入の商談を行い、統制下の原料割当てをめぐる組合・協会の場にも自ら出た
    • [48]吉村タキノ氏は朝早くから事務所へ出て工場へ入り、陣頭指揮を執った
    • [49]吉村タキノ氏は苦しい時でも歯をくいしばり、一度も倒産したことがなく、人に迷惑をかけたこともなかった
    • [52]終戦時、さいわいなことに設備が残った
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [50]吉村精仁氏は、戦後の復興期は鉄鋼統制の時代であり割りあて生産の時期であったので、丸一は仕事量も少なく地道に企業内部の充実に努めていたと述べた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [51]1947年の法人化まで、丸一は創業家による個人組織だった
創業ストーリー(4)

資本金19万5,000円からの再出発と輸出3割の大方針

1947年12月、吉村タキノ社長は資本金19万5,000円で株式会社丸一鋼管製作所を設立し、本社を大阪市東住吉区加美橘町に置いた[53]。1941年に夫の吉村福松氏を急死で失ってから、鋼材が全面統制下にあった戦時を割当ての確保で凌ぎ、終戦時には設備だけが手元に残った[54]。成長した末子の吉村精仁氏と、復員した長女の女婿である堀川照雄氏を加えた3人で、吉村タキノ社長は町工場から出直した[55]。丸一鋼管は1948年3月を設立の日として数え、2018年3月には大阪のリーガロイヤルホテルで設立70周年の式典を開き、取引先や関係者1,000名超を招いた[56]

  • 丸一鋼管 有価証券報告書【沿革】
    • [53]1947年12月、株式会社丸一鋼管製作所を設立、本社を大阪市東住吉区(現・平野区)加美橘町に置く。設立時の資本金は19万5,000円
  • 実業の世界 1963年
    • [54]1941年に吉村福松氏が急死。戦時の鋼材は完全統制下の割当て制で、終戦時に設備が残った。1947年12月、資本金19万5,000円で株式会社丸一鋼管製作所を設立し、吉村タキノ・吉村精仁・堀川照雄の3人で再出発した
    • [55]1941年に吉村福松氏が急死。戦時の鋼材は完全統制下の割当て制で、終戦時に設備が残った。1947年12月、資本金19万5,000円で株式会社丸一鋼管製作所を設立し、吉村タキノ・吉村精仁・堀川照雄の3人で再出発した
    • [56]2018年3月に設立70周年を迎え、大阪のリーガロイヤルホテルで1,000名を超える取引先・関係者を招いた記念パーティーを開催した

設立の翌1948年5月、丸一鋼管製作所は東京の専門機械メーカーから高能率の新式自動造管機を購入し、量産に移った[57]。同時に造管機そのものの設計にも自前で取り組み、自社製第1号機を仕上げて機械化と増産を進めた[58]。自社設計で製管機を作る慣行はその後も続き、1976年時点で月産8万3,000トンの能力を持つ製管設備はすべて自社設計であり、ミルメーカーから直接購入するより取得価額が安くついた[59]。本社に隣接する加美神武町では1955年12月に新設の製管工場が操業を始め、1956年12月には乾式亜鉛メッキ工場が完成した[60]

    • [57]1948年5月、東京の専門機械メーカーから高能率の新式自動造管機を購入して量産化の第一歩とし、併せて独自に造管機の設計に取り組んで自社製第1号機を完成させた
    • [58]1948年5月、東京の専門機械メーカーから高能率の新式自動造管機を購入して量産化の第一歩とし、併せて独自に造管機の設計に取り組んで自社製第1号機を完成させた
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [59]製管設備は全部で月産8万3,000トンの能力があり、これらの製管機はすべて自社設計で製作されたものなので、ミルメーカーから直接購入したものよりさらに割安になっている(1976年11月時点)
  • 証券 1962年14(9)(160)
    • [60]1955年12月、大阪市東住吉区加美神武町の新設製管工場が操業開始。1956年12月、乾式亜鉛メッキ工場が完成し操業を開始した

輸出の開拓に乗り出したのは1955年頃で、生産設備の近代化と合理化で対外競争力に自信をつけたことが引き金になった[61]。当初の主力は東南アジアだったが、安定した輸出と品質の向上を同時に取るには先進国が最適と判断し、1957年頃からアメリカを中心に海外視察と市場調査を重ね、販売総額の3分の1を輸出に振り向ける方針を定めた[62]。国内では大手商社を通す販売が小口の需要家に届かず、1956年12月に丸一鋼販株式会社を設立して末端の声と需要動向を直接つかむ経路を作った[63]。1957年12月には本社を加美神武町へ移して大阪工場を新設し、1960年3月に商号を丸一鋼管株式会社へ改めた[64]

    • [61]1955年頃に他社に先駆けて海外市場へ進出。きっかけは生産設備の近代化と合理化による対外競争力への自信。当初は東南アジアが主力輸出先だったが、安定的な輸出と品質向上の同時実現には先進国が最適と判断し、1957年頃からアメリカを主とする海外視察と市場調査を重ね、「販売総額の3分の1を輸出に」との大方針を打ち出した
    • [62]1955年頃に他社に先駆けて海外市場へ進出。きっかけは生産設備の近代化と合理化による対外競争力への自信。当初は東南アジアが主力輸出先だったが、安定的な輸出と品質向上の同時実現には先進国が最適と判断し、1957年頃からアメリカを主とする海外視察と市場調査を重ね、「販売総額の3分の1を輸出に」との大方針を打ち出した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [63]販売のほとんどを大手商社に依存していたため小口需要先への販売対策が不十分という問題があり、その対応として1956年に丸一鋼販を設立。小口需要へのきめ細かな対応と、端末ユーザーの声・需要動向の早期把握が可能になった
  • 丸一鋼管 有価証券報告書【沿革】
    • [64]1957年12月、本社を大阪市東住吉区加美神武町に移転し、大阪工場を新設。1960年3月、丸一鋼管株式会社と商号変更
  • 丸一鋼管 有価証券報告書【沿革】
    • [53]1947年12月、株式会社丸一鋼管製作所を設立、本社を大阪市東住吉区(現・平野区)加美橘町に置く。設立時の資本金は19万5,000円
    • [64]1957年12月、本社を大阪市東住吉区加美神武町に移転し、大阪工場を新設。1960年3月、丸一鋼管株式会社と商号変更
  • 実業の世界 1963年
    • [54]1941年に吉村福松氏が急死。戦時の鋼材は完全統制下の割当て制で、終戦時に設備が残った。1947年12月、資本金19万5,000円で株式会社丸一鋼管製作所を設立し、吉村タキノ・吉村精仁・堀川照雄の3人で再出発した
    • [55]1941年に吉村福松氏が急死。戦時の鋼材は完全統制下の割当て制で、終戦時に設備が残った。1947年12月、資本金19万5,000円で株式会社丸一鋼管製作所を設立し、吉村タキノ・吉村精仁・堀川照雄の3人で再出発した
    • [56]2018年3月に設立70周年を迎え、大阪のリーガロイヤルホテルで1,000名を超える取引先・関係者を招いた記念パーティーを開催した
    • [57]1948年5月、東京の専門機械メーカーから高能率の新式自動造管機を購入して量産化の第一歩とし、併せて独自に造管機の設計に取り組んで自社製第1号機を完成させた
    • [58]1948年5月、東京の専門機械メーカーから高能率の新式自動造管機を購入して量産化の第一歩とし、併せて独自に造管機の設計に取り組んで自社製第1号機を完成させた
    • [61]1955年頃に他社に先駆けて海外市場へ進出。きっかけは生産設備の近代化と合理化による対外競争力への自信。当初は東南アジアが主力輸出先だったが、安定的な輸出と品質向上の同時実現には先進国が最適と判断し、1957年頃からアメリカを主とする海外視察と市場調査を重ね、「販売総額の3分の1を輸出に」との大方針を打ち出した
    • [62]1955年頃に他社に先駆けて海外市場へ進出。きっかけは生産設備の近代化と合理化による対外競争力への自信。当初は東南アジアが主力輸出先だったが、安定的な輸出と品質向上の同時実現には先進国が最適と判断し、1957年頃からアメリカを主とする海外視察と市場調査を重ね、「販売総額の3分の1を輸出に」との大方針を打ち出した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [59]製管設備は全部で月産8万3,000トンの能力があり、これらの製管機はすべて自社設計で製作されたものなので、ミルメーカーから直接購入したものよりさらに割安になっている(1976年11月時点)
    • [63]販売のほとんどを大手商社に依存していたため小口需要先への販売対策が不十分という問題があり、その対応として1956年に丸一鋼販を設立。小口需要へのきめ細かな対応と、端末ユーザーの声・需要動向の早期把握が可能になった
  • 証券 1962年14(9)(160)
    • [60]1955年12月、大阪市東住吉区加美神武町の新設製管工場が操業開始。1956年12月、乾式亜鉛メッキ工場が完成し操業を開始した
創業ストーリー(5)

二部上場と総工費40億円の堺工場が残した自己資金の方針

1961年9月、丸一鋼管は東京工場を新設し、関東の需要に現地で応える構えを整えた[65]。1962年3月に大阪・東京両証券取引所の市場第二部へ上場し、1964年8月には第一部へ移った[66]。上場後まもない1962年6月末の株主1,089名のうち698名が大阪府内に住み、株式数の88.4%を占めていた[67]。上場時の従業員は278名で、生産の主力は直径4インチ以下の小径管と異形管だった[68]。1960年11月からの1年間の生産実績は配管用鋼管51.9%、構造鋼管45.2%、電線管2.9%という構成で、輸出は総生産高の30%を目標に置き、1961年12月から1962年3月までの4か月では43.8%に達した[69]

  • 丸一鋼管 有価証券報告書【沿革】
    • [65]1961年9月、東京工場を新設。1962年3月、大阪・東京両証券取引所市場第二部上場。1964年8月、大阪・東京両証券取引所市場第一部上場
    • [66]1961年9月、東京工場を新設。1962年3月、大阪・東京両証券取引所市場第二部上場。1964年8月、大阪・東京両証券取引所市場第一部上場
  • 証券 1962年14(9)(160)
    • [67]株式の分布(1962年6月30日現在)は株主数1,089名、うち大阪698名(64.1%)が7,074,960株(88.4%)を保有。従業員数278名(1962年3月31日現在)。主として直径4吋以下の小径管・異形管を製造。1960年11月から1961年11月までの生産実績による製品内容は構造鋼管45.2%、配管用鋼管51.9%、電線管2.9%。ここ数年来総生産高の30%を目標として輸出の開拓に努め、1961年12月〜1962年3月の実績は43.8%
    • [68]株式の分布(1962年6月30日現在)は株主数1,089名、うち大阪698名(64.1%)が7,074,960株(88.4%)を保有。従業員数278名(1962年3月31日現在)。主として直径4吋以下の小径管・異形管を製造。1960年11月から1961年11月までの生産実績による製品内容は構造鋼管45.2%、配管用鋼管51.9%、電線管2.9%。ここ数年来総生産高の30%を目標として輸出の開拓に努め、1961年12月〜1962年3月の実績は43.8%
    • [69]株式の分布(1962年6月30日現在)は株主数1,089名、うち大阪698名(64.1%)が7,074,960株(88.4%)を保有。従業員数278名(1962年3月31日現在)。主として直径4吋以下の小径管・異形管を製造。1960年11月から1961年11月までの生産実績による製品内容は構造鋼管45.2%、配管用鋼管51.9%、電線管2.9%。ここ数年来総生産高の30%を目標として輸出の開拓に努め、1961年12月〜1962年3月の実績は43.8%

丸一鋼管は日本鉄鋼連盟に加盟せず[70]、大手鉄鋼メーカーの系列にも加わらなかった[71]。鋼管一本に生産を絞って原価を下げ、安いときは他社の先頭を切って値を出す売り方をとり、1962年には住友金属工業富士製鉄日本鋼管川崎製鉄に次ぐ生産量第5位を占めた[72]。輸出には過去5年間、平均して全生産の3割以上を振り向けており[73]、国内市況が高いときの安値輸出は採算で劣るものの、鉄鋼不況期には資金繰りを助けた[74]。1962年9月期は総売上高31億9,000万円のうち15億1,000万円、およそ5割を輸出が占め、国内市況の落ち込みを打ち消した[75]

  • 実業の世界 1963年
    • [70]丸一鋼管は日本第5位の鋼管メーカーだが日本鉄鋼連盟に入っていない。住友金属工業、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄に次ぐ生産。輸出には過去5年間、平均して全生産の3割以上を振り向けてきた。国内市況のよい時には安い輸出は経営的にプラスにならないが、鉄鋼不況期には輸出は金ぐりの面でありがたい。1962年9月期は総売上高31億9,000万円のうち15億1,000万円と約5割を輸出した
    • [72]丸一鋼管は日本第5位の鋼管メーカーだが日本鉄鋼連盟に入っていない。住友金属工業、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄に次ぐ生産。輸出には過去5年間、平均して全生産の3割以上を振り向けてきた。国内市況のよい時には安い輸出は経営的にプラスにならないが、鉄鋼不況期には輸出は金ぐりの面でありがたい。1962年9月期は総売上高31億9,000万円のうち15億1,000万円と約5割を輸出した
    • [73]丸一鋼管は日本第5位の鋼管メーカーだが日本鉄鋼連盟に入っていない。住友金属工業、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄に次ぐ生産。輸出には過去5年間、平均して全生産の3割以上を振り向けてきた。国内市況のよい時には安い輸出は経営的にプラスにならないが、鉄鋼不況期には輸出は金ぐりの面でありがたい。1962年9月期は総売上高31億9,000万円のうち15億1,000万円と約5割を輸出した
    • [74]丸一鋼管は日本第5位の鋼管メーカーだが日本鉄鋼連盟に入っていない。住友金属工業、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄に次ぐ生産。輸出には過去5年間、平均して全生産の3割以上を振り向けてきた。国内市況のよい時には安い輸出は経営的にプラスにならないが、鉄鋼不況期には輸出は金ぐりの面でありがたい。1962年9月期は総売上高31億9,000万円のうち15億1,000万円と約5割を輸出した
    • [75]丸一鋼管は日本第5位の鋼管メーカーだが日本鉄鋼連盟に入っていない。住友金属工業、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄に次ぐ生産。輸出には過去5年間、平均して全生産の3割以上を振り向けてきた。国内市況のよい時には安い輸出は経営的にプラスにならないが、鉄鋼不況期には輸出は金ぐりの面でありがたい。1962年9月期は総売上高31億9,000万円のうち15億1,000万円と約5割を輸出した
  • 週刊日本経済 1967年10月19日号 20(41)(821)
    • [71]丸一鋼管は中・小口径鋼管の専門メーカーで同部門では業界トップ。大手鉄鋼メーカーの系列にも加わらず、その経営はユニークなものがある

1961年11月に堺臨海工業地帯で12万600平方メートルの割当てを受けた丸一鋼管は[76]、総工費40億3,000万円、うち用地買収費7億2,700万円を投じる新工場を1963年3月に着工した[77]。当時の資本金6億6,000万円の10倍にあたる規模で、不足する11億7,000万円は日本長期信用銀行住友銀行から借り入れた[78]。1965年4月に堺工場が完成したとき、資本金は10億円、借入金は20億円に達しており[79]、完成が鉄鋼の不況期と重なって支払金利と減価償却が業績を圧迫した[80]吉村精仁社長はこの反省から、設備は自己資金でまかなうという方針を定め、以後これを守った[81]

  • 証券 1962年14(9)(160)
    • [76]1961年11月、堺臨海工業地120,600平方メートルの割当を受けた
  • 実業の世界 1963年
    • [77]大阪府が埋め立てた造成地12万3,141平方メートルを買収(買収費7億2,700万円)、総工費40億3,000万円。1963年3月から着工し、3月11日に地鎮祭。1963年4月払い込みで資本金は6億6,000万円となり、不足資金11億7,000万円は長期信用銀行、住友銀行などから借り入れる
    • [78]大阪府が埋め立てた造成地12万3,141平方メートルを買収(買収費7億2,700万円)、総工費40億3,000万円。1963年3月から着工し、3月11日に地鎮祭。1963年4月払い込みで資本金は6億6,000万円となり、不足資金11億7,000万円は長期信用銀行、住友銀行などから借り入れる
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [79]1963年に設備資金36億円(土地代8億円)を投じ社運をかけた堺工場の建設に着手、1965年に第1期工事が完成。資本金はすでに10億円、借入金は20億円になった。完成当時は大変な不況下にあり、支払い金利、減価償却が業績の足を引っぱる苦しい時代で、この反省から設備は自己資金でまかなうべきだと考え、以後その方針で進めてきている
    • [80]1963年に設備資金36億円(土地代8億円)を投じ社運をかけた堺工場の建設に着手、1965年に第1期工事が完成。資本金はすでに10億円、借入金は20億円になった。完成当時は大変な不況下にあり、支払い金利、減価償却が業績の足を引っぱる苦しい時代で、この反省から設備は自己資金でまかなうべきだと考え、以後その方針で進めてきている
    • [81]1963年に設備資金36億円(土地代8億円)を投じ社運をかけた堺工場の建設に着手、1965年に第1期工事が完成。資本金はすでに10億円、借入金は20億円になった。完成当時は大変な不況下にあり、支払い金利、減価償却が業績の足を引っぱる苦しい時代で、この反省から設備は自己資金でまかなうべきだと考え、以後その方針で進めてきている
  • 丸一鋼管 有価証券報告書【沿革】
    • [65]1961年9月、東京工場を新設。1962年3月、大阪・東京両証券取引所市場第二部上場。1964年8月、大阪・東京両証券取引所市場第一部上場
    • [66]1961年9月、東京工場を新設。1962年3月、大阪・東京両証券取引所市場第二部上場。1964年8月、大阪・東京両証券取引所市場第一部上場
  • 証券 1962年14(9)(160)
    • [67]株式の分布(1962年6月30日現在)は株主数1,089名、うち大阪698名(64.1%)が7,074,960株(88.4%)を保有。従業員数278名(1962年3月31日現在)。主として直径4吋以下の小径管・異形管を製造。1960年11月から1961年11月までの生産実績による製品内容は構造鋼管45.2%、配管用鋼管51.9%、電線管2.9%。ここ数年来総生産高の30%を目標として輸出の開拓に努め、1961年12月〜1962年3月の実績は43.8%
    • [68]株式の分布(1962年6月30日現在)は株主数1,089名、うち大阪698名(64.1%)が7,074,960株(88.4%)を保有。従業員数278名(1962年3月31日現在)。主として直径4吋以下の小径管・異形管を製造。1960年11月から1961年11月までの生産実績による製品内容は構造鋼管45.2%、配管用鋼管51.9%、電線管2.9%。ここ数年来総生産高の30%を目標として輸出の開拓に努め、1961年12月〜1962年3月の実績は43.8%
    • [69]株式の分布(1962年6月30日現在)は株主数1,089名、うち大阪698名(64.1%)が7,074,960株(88.4%)を保有。従業員数278名(1962年3月31日現在)。主として直径4吋以下の小径管・異形管を製造。1960年11月から1961年11月までの生産実績による製品内容は構造鋼管45.2%、配管用鋼管51.9%、電線管2.9%。ここ数年来総生産高の30%を目標として輸出の開拓に努め、1961年12月〜1962年3月の実績は43.8%
    • [76]1961年11月、堺臨海工業地120,600平方メートルの割当を受けた
  • 実業の世界 1963年
    • [70]丸一鋼管は日本第5位の鋼管メーカーだが日本鉄鋼連盟に入っていない。住友金属工業、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄に次ぐ生産。輸出には過去5年間、平均して全生産の3割以上を振り向けてきた。国内市況のよい時には安い輸出は経営的にプラスにならないが、鉄鋼不況期には輸出は金ぐりの面でありがたい。1962年9月期は総売上高31億9,000万円のうち15億1,000万円と約5割を輸出した
    • [72]丸一鋼管は日本第5位の鋼管メーカーだが日本鉄鋼連盟に入っていない。住友金属工業、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄に次ぐ生産。輸出には過去5年間、平均して全生産の3割以上を振り向けてきた。国内市況のよい時には安い輸出は経営的にプラスにならないが、鉄鋼不況期には輸出は金ぐりの面でありがたい。1962年9月期は総売上高31億9,000万円のうち15億1,000万円と約5割を輸出した
    • [73]丸一鋼管は日本第5位の鋼管メーカーだが日本鉄鋼連盟に入っていない。住友金属工業、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄に次ぐ生産。輸出には過去5年間、平均して全生産の3割以上を振り向けてきた。国内市況のよい時には安い輸出は経営的にプラスにならないが、鉄鋼不況期には輸出は金ぐりの面でありがたい。1962年9月期は総売上高31億9,000万円のうち15億1,000万円と約5割を輸出した
    • [74]丸一鋼管は日本第5位の鋼管メーカーだが日本鉄鋼連盟に入っていない。住友金属工業、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄に次ぐ生産。輸出には過去5年間、平均して全生産の3割以上を振り向けてきた。国内市況のよい時には安い輸出は経営的にプラスにならないが、鉄鋼不況期には輸出は金ぐりの面でありがたい。1962年9月期は総売上高31億9,000万円のうち15億1,000万円と約5割を輸出した
    • [75]丸一鋼管は日本第5位の鋼管メーカーだが日本鉄鋼連盟に入っていない。住友金属工業、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄に次ぐ生産。輸出には過去5年間、平均して全生産の3割以上を振り向けてきた。国内市況のよい時には安い輸出は経営的にプラスにならないが、鉄鋼不況期には輸出は金ぐりの面でありがたい。1962年9月期は総売上高31億9,000万円のうち15億1,000万円と約5割を輸出した
    • [77]大阪府が埋め立てた造成地12万3,141平方メートルを買収(買収費7億2,700万円)、総工費40億3,000万円。1963年3月から着工し、3月11日に地鎮祭。1963年4月払い込みで資本金は6億6,000万円となり、不足資金11億7,000万円は長期信用銀行、住友銀行などから借り入れる
    • [78]大阪府が埋め立てた造成地12万3,141平方メートルを買収(買収費7億2,700万円)、総工費40億3,000万円。1963年3月から着工し、3月11日に地鎮祭。1963年4月払い込みで資本金は6億6,000万円となり、不足資金11億7,000万円は長期信用銀行、住友銀行などから借り入れる
  • 週刊日本経済 1967年10月19日号 20(41)(821)
    • [71]丸一鋼管は中・小口径鋼管の専門メーカーで同部門では業界トップ。大手鉄鋼メーカーの系列にも加わらず、その経営はユニークなものがある
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [79]1963年に設備資金36億円(土地代8億円)を投じ社運をかけた堺工場の建設に着手、1965年に第1期工事が完成。資本金はすでに10億円、借入金は20億円になった。完成当時は大変な不況下にあり、支払い金利、減価償却が業績の足を引っぱる苦しい時代で、この反省から設備は自己資金でまかなうべきだと考え、以後その方針で進めてきている
    • [80]1963年に設備資金36億円(土地代8億円)を投じ社運をかけた堺工場の建設に着手、1965年に第1期工事が完成。資本金はすでに10億円、借入金は20億円になった。完成当時は大変な不況下にあり、支払い金利、減価償却が業績の足を引っぱる苦しい時代で、この反省から設備は自己資金でまかなうべきだと考え、以後その方針で進めてきている
    • [81]1963年に設備資金36億円(土地代8億円)を投じ社運をかけた堺工場の建設に着手、1965年に第1期工事が完成。資本金はすでに10億円、借入金は20億円になった。完成当時は大変な不況下にあり、支払い金利、減価償却が業績の足を引っぱる苦しい時代で、この反省から設備は自己資金でまかなうべきだと考え、以後その方針で進めてきている
創業ストーリー(6)

需要地生産と月産3万トン体制が導いた1974年3月の完済

丸一鋼管は需要地に生産を置いて輸送費を削る型を固め、1966年10月には中部鋼鈑の熱田工場跡地を買い取って名古屋工場を新設した[82][83]。東京工場で作れば大阪から運ぶよりトン当たり2,000円安く、名古屋でも同じ差が出た[84]。堺工場に設けた専用埠頭は1万5,000トンの荷役をこなし、月600万円の節減をもたらした[85]。さらに1970年2月に北海道丸一鋼管、1974年7月に四国丸一鋼管、同年11月に九州丸一鋼管を設立し、各社の製品を丸一鋼管が仕入れて売る形をとった[86]。1972年11月には堺に特品工場、1973年10月には東京第二工場を新設した[87]

  • 丸一鋼管 有価証券報告書【沿革】
    • [82]1966年10月、名古屋工場を新設。1970年2月、北海道丸一鋼管株式会社を設立。1972年11月、特品工場(現・堺特品工場)を新設。1973年10月、東京第二工場を新設。1974年7月、四国丸一鋼管株式会社を設立。1974年11月、九州丸一鋼管株式会社を設立。国内市場では子会社の北海道・九州・四国丸一鋼管の製品を当社が直接仕入れて販売している
    • [86]1966年10月、名古屋工場を新設。1970年2月、北海道丸一鋼管株式会社を設立。1972年11月、特品工場(現・堺特品工場)を新設。1973年10月、東京第二工場を新設。1974年7月、四国丸一鋼管株式会社を設立。1974年11月、九州丸一鋼管株式会社を設立。国内市場では子会社の北海道・九州・四国丸一鋼管の製品を当社が直接仕入れて販売している
    • [87]1966年10月、名古屋工場を新設。1970年2月、北海道丸一鋼管株式会社を設立。1972年11月、特品工場(現・堺特品工場)を新設。1973年10月、東京第二工場を新設。1974年7月、四国丸一鋼管株式会社を設立。1974年11月、九州丸一鋼管株式会社を設立。国内市場では子会社の北海道・九州・四国丸一鋼管の製品を当社が直接仕入れて販売している
  • 週刊日本経済 1967年6月1日号 20(22)(802)
    • [83]名古屋工場は中部鋼鈑の熱田工場あとを買収したもので、1966年9月期末に増設を完了。堺工場には専用の埠頭をつくり1万5,000トンの荷役が可能で、月にして600万円のメリットがある
    • [85]名古屋工場は中部鋼鈑の熱田工場あとを買収したもので、1966年9月期末に増設を完了。堺工場には専用の埠頭をつくり1万5,000トンの荷役が可能で、月にして600万円のメリットがある
  • 週刊日本経済 1967年10月19日号 20(41)(821)
    • [84]東京工場で生産したものを関東地区に供給すれば、大阪から運搬するのと比べてトン当たり2,000円ぐらい安くつく。名古屋工場についても同じことがいえる

1967年度からの3か年計画で、丸一鋼管は月産3万トンを作り、それを全量売り切る設備と販売の両面を組んだ[88]。1967年10月時点の月産能力は大阪1万トン、堺1万6,000トン、東京6,000トン、名古屋4,000トンで、東京は関東から北海道、名古屋は中部経済圏、大阪と堺は関西から九州と受持ちを割り振った[89]。所要資金は年5億円を見込み、社外流出を抑えて新規借入なしに自己資金でまかなう計画を立てた[90]。1968年3月期には月3万トン、通期18万トンを売って計画を前倒しで達成し、1968年度は設備投資9億5,000万円と長期借入金の返済4億3,000万円を並行させ、設備借入金を5億3,000万円まで減らした[91]

  • 週刊日本経済 1967年10月19日号 20(41)(821)
    • [88]1967年度を起点とする3カ年計画は月当たり3万トン生産とその全量販売の設備・販売体制づくりを目指す。1967年10月時点の各工場の月産能力は大阪1万トン、堺1万6,000トン、東京6,000トン、名古屋4,000トン。東京工場は関東から北海道、名古屋工場は中部経済圏、大阪・堺工場は関西から九州の需要を受け持つ。資金計画は毎年5億円ずつで、社外流出金を極力削減し新規借り入れなしで内部留保で推進する方針
    • [89]1967年度を起点とする3カ年計画は月当たり3万トン生産とその全量販売の設備・販売体制づくりを目指す。1967年10月時点の各工場の月産能力は大阪1万トン、堺1万6,000トン、東京6,000トン、名古屋4,000トン。東京工場は関東から北海道、名古屋工場は中部経済圏、大阪・堺工場は関西から九州の需要を受け持つ。資金計画は毎年5億円ずつで、社外流出金を極力削減し新規借り入れなしで内部留保で推進する方針
    • [90]1967年度を起点とする3カ年計画は月当たり3万トン生産とその全量販売の設備・販売体制づくりを目指す。1967年10月時点の各工場の月産能力は大阪1万トン、堺1万6,000トン、東京6,000トン、名古屋4,000トン。東京工場は関東から北海道、名古屋工場は中部経済圏、大阪・堺工場は関西から九州の需要を受け持つ。資金計画は毎年5億円ずつで、社外流出金を極力削減し新規借り入れなしで内部留保で推進する方針
  • 週刊日本経済 1968年9月5日号 21(36)(865)
    • [91]1968年3月期は月3万トン、通期で18万トンを販売し、月販売量はすでに3万トン以上。1968年度の設備投資は支払いベースで9億5,000万円、このほか借入金の返済に4億3,000万円をあて、設備借入金は5億3,000万円になった

堺工場の建設以来、丸一鋼管は借入金の早期返済を目指し、1974年3月にその全額を返し終えた[92]。堺への投資が鋼管需要の伸びと重なったこと、その間に国内外へ生産拠点を置いて収益を増やしたことが、早期の完済を可能にした[93]。1975年には需要の落ち込みで減収減益となり、堀川照雄会長と吉村精仁社長は低成長への対応として品質の向上・コストダウン・機動性の3つを掲げた[94]。素材処理加工の内製もこの線上にあり、丸一鋼管は同業他社に先んじて鋼板を切るスリッター、コイルの連続メッキ、冷間圧延の各設備を堺工場へ入れた[95]。1975年9月に完成した冷間圧延設備は35億円を投じたもので月産7,500トン、高炉メーカーからの供給量に縛られる制約を解いた[96]

    • [92]堺工場の建設以来、早期の借入金返済を目指し、1974年3月にすべての借入金を返済した。早期返済を可能にしたのは堺工場建設が鋼管需要の増大時期に重なったことと、その間に国内外へ生産拠点を展開して収益が増大したこと。1975年には需要の大幅な低下から減収減益となり、堀川会長と吉村社長は低成長時代への対応策として①品質の向上②コストダウン③機動性の3つを掲げた。素材処理加工の強化のため、同業他社に先駆けて鋼板を加工するスリッター設備、コイルの連続メッキ設備、冷間圧延設備を堺工場に相次いで導入した
    • [93]堺工場の建設以来、早期の借入金返済を目指し、1974年3月にすべての借入金を返済した。早期返済を可能にしたのは堺工場建設が鋼管需要の増大時期に重なったことと、その間に国内外へ生産拠点を展開して収益が増大したこと。1975年には需要の大幅な低下から減収減益となり、堀川会長と吉村社長は低成長時代への対応策として①品質の向上②コストダウン③機動性の3つを掲げた。素材処理加工の強化のため、同業他社に先駆けて鋼板を加工するスリッター設備、コイルの連続メッキ設備、冷間圧延設備を堺工場に相次いで導入した
    • [94]堺工場の建設以来、早期の借入金返済を目指し、1974年3月にすべての借入金を返済した。早期返済を可能にしたのは堺工場建設が鋼管需要の増大時期に重なったことと、その間に国内外へ生産拠点を展開して収益が増大したこと。1975年には需要の大幅な低下から減収減益となり、堀川会長と吉村社長は低成長時代への対応策として①品質の向上②コストダウン③機動性の3つを掲げた。素材処理加工の強化のため、同業他社に先駆けて鋼板を加工するスリッター設備、コイルの連続メッキ設備、冷間圧延設備を堺工場に相次いで導入した
    • [95]堺工場の建設以来、早期の借入金返済を目指し、1974年3月にすべての借入金を返済した。早期返済を可能にしたのは堺工場建設が鋼管需要の増大時期に重なったことと、その間に国内外へ生産拠点を展開して収益が増大したこと。1975年には需要の大幅な低下から減収減益となり、堀川会長と吉村社長は低成長時代への対応策として①品質の向上②コストダウン③機動性の3つを掲げた。素材処理加工の強化のため、同業他社に先駆けて鋼板を加工するスリッター設備、コイルの連続メッキ設備、冷間圧延設備を堺工場に相次いで導入した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [96]1975年9月に堺工場へ35億円を投じて冷間圧延設備を完成。月産7,500トン。好況時に高炉メーカーからの材料供給数量に制約を受けるケースが多かったが、この設備で自給体制が整い供給の制約は解決した。借入金は1974年までに全部返済した
  • 丸一鋼管 有価証券報告書【沿革】
    • [82]1966年10月、名古屋工場を新設。1970年2月、北海道丸一鋼管株式会社を設立。1972年11月、特品工場(現・堺特品工場)を新設。1973年10月、東京第二工場を新設。1974年7月、四国丸一鋼管株式会社を設立。1974年11月、九州丸一鋼管株式会社を設立。国内市場では子会社の北海道・九州・四国丸一鋼管の製品を当社が直接仕入れて販売している
    • [86]1966年10月、名古屋工場を新設。1970年2月、北海道丸一鋼管株式会社を設立。1972年11月、特品工場(現・堺特品工場)を新設。1973年10月、東京第二工場を新設。1974年7月、四国丸一鋼管株式会社を設立。1974年11月、九州丸一鋼管株式会社を設立。国内市場では子会社の北海道・九州・四国丸一鋼管の製品を当社が直接仕入れて販売している
    • [87]1966年10月、名古屋工場を新設。1970年2月、北海道丸一鋼管株式会社を設立。1972年11月、特品工場(現・堺特品工場)を新設。1973年10月、東京第二工場を新設。1974年7月、四国丸一鋼管株式会社を設立。1974年11月、九州丸一鋼管株式会社を設立。国内市場では子会社の北海道・九州・四国丸一鋼管の製品を当社が直接仕入れて販売している
  • 週刊日本経済 1967年6月1日号 20(22)(802)
    • [83]名古屋工場は中部鋼鈑の熱田工場あとを買収したもので、1966年9月期末に増設を完了。堺工場には専用の埠頭をつくり1万5,000トンの荷役が可能で、月にして600万円のメリットがある
    • [85]名古屋工場は中部鋼鈑の熱田工場あとを買収したもので、1966年9月期末に増設を完了。堺工場には専用の埠頭をつくり1万5,000トンの荷役が可能で、月にして600万円のメリットがある
  • 週刊日本経済 1967年10月19日号 20(41)(821)
    • [84]東京工場で生産したものを関東地区に供給すれば、大阪から運搬するのと比べてトン当たり2,000円ぐらい安くつく。名古屋工場についても同じことがいえる
    • [88]1967年度を起点とする3カ年計画は月当たり3万トン生産とその全量販売の設備・販売体制づくりを目指す。1967年10月時点の各工場の月産能力は大阪1万トン、堺1万6,000トン、東京6,000トン、名古屋4,000トン。東京工場は関東から北海道、名古屋工場は中部経済圏、大阪・堺工場は関西から九州の需要を受け持つ。資金計画は毎年5億円ずつで、社外流出金を極力削減し新規借り入れなしで内部留保で推進する方針
    • [89]1967年度を起点とする3カ年計画は月当たり3万トン生産とその全量販売の設備・販売体制づくりを目指す。1967年10月時点の各工場の月産能力は大阪1万トン、堺1万6,000トン、東京6,000トン、名古屋4,000トン。東京工場は関東から北海道、名古屋工場は中部経済圏、大阪・堺工場は関西から九州の需要を受け持つ。資金計画は毎年5億円ずつで、社外流出金を極力削減し新規借り入れなしで内部留保で推進する方針
    • [90]1967年度を起点とする3カ年計画は月当たり3万トン生産とその全量販売の設備・販売体制づくりを目指す。1967年10月時点の各工場の月産能力は大阪1万トン、堺1万6,000トン、東京6,000トン、名古屋4,000トン。東京工場は関東から北海道、名古屋工場は中部経済圏、大阪・堺工場は関西から九州の需要を受け持つ。資金計画は毎年5億円ずつで、社外流出金を極力削減し新規借り入れなしで内部留保で推進する方針
  • 週刊日本経済 1968年9月5日号 21(36)(865)
    • [91]1968年3月期は月3万トン、通期で18万トンを販売し、月販売量はすでに3万トン以上。1968年度の設備投資は支払いベースで9億5,000万円、このほか借入金の返済に4億3,000万円をあて、設備借入金は5億3,000万円になった
    • [92]堺工場の建設以来、早期の借入金返済を目指し、1974年3月にすべての借入金を返済した。早期返済を可能にしたのは堺工場建設が鋼管需要の増大時期に重なったことと、その間に国内外へ生産拠点を展開して収益が増大したこと。1975年には需要の大幅な低下から減収減益となり、堀川会長と吉村社長は低成長時代への対応策として①品質の向上②コストダウン③機動性の3つを掲げた。素材処理加工の強化のため、同業他社に先駆けて鋼板を加工するスリッター設備、コイルの連続メッキ設備、冷間圧延設備を堺工場に相次いで導入した
    • [93]堺工場の建設以来、早期の借入金返済を目指し、1974年3月にすべての借入金を返済した。早期返済を可能にしたのは堺工場建設が鋼管需要の増大時期に重なったことと、その間に国内外へ生産拠点を展開して収益が増大したこと。1975年には需要の大幅な低下から減収減益となり、堀川会長と吉村社長は低成長時代への対応策として①品質の向上②コストダウン③機動性の3つを掲げた。素材処理加工の強化のため、同業他社に先駆けて鋼板を加工するスリッター設備、コイルの連続メッキ設備、冷間圧延設備を堺工場に相次いで導入した
    • [94]堺工場の建設以来、早期の借入金返済を目指し、1974年3月にすべての借入金を返済した。早期返済を可能にしたのは堺工場建設が鋼管需要の増大時期に重なったことと、その間に国内外へ生産拠点を展開して収益が増大したこと。1975年には需要の大幅な低下から減収減益となり、堀川会長と吉村社長は低成長時代への対応策として①品質の向上②コストダウン③機動性の3つを掲げた。素材処理加工の強化のため、同業他社に先駆けて鋼板を加工するスリッター設備、コイルの連続メッキ設備、冷間圧延設備を堺工場に相次いで導入した
    • [95]堺工場の建設以来、早期の借入金返済を目指し、1974年3月にすべての借入金を返済した。早期返済を可能にしたのは堺工場建設が鋼管需要の増大時期に重なったことと、その間に国内外へ生産拠点を展開して収益が増大したこと。1975年には需要の大幅な低下から減収減益となり、堀川会長と吉村社長は低成長時代への対応策として①品質の向上②コストダウン③機動性の3つを掲げた。素材処理加工の強化のため、同業他社に先駆けて鋼板を加工するスリッター設備、コイルの連続メッキ設備、冷間圧延設備を堺工場に相次いで導入した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [96]1975年9月に堺工場へ35億円を投じて冷間圧延設備を完成。月産7,500トン。好況時に高炉メーカーからの材料供給数量に制約を受けるケースが多かったが、この設備で自給体制が整い供給の制約は解決した。借入金は1974年までに全部返済した

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沿革年表 1913〜2022年

丸一鋼管の沿革1913〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1913〜1946年満州から返品された自転車ハンドルが生んだ鋼管の内製吉村福松が大阪の平野郷町に福松製作所を創業し自転車用ブレーキの製造を開始★★★
中河内郡加美村に工場を移転し丸一製作所に商号変更
自転車ハンドル用鋼管の自社製造技術を確立し鋼管の内製に転換★★★
丸一鋼管工場に商号変更し自転車部門を分離★★
1947〜1977年輸出3割と需要地生産で組み上げた無借金の専業体制大阪市東住吉区加美橘町に丸一鋼管製作所を設立★★
販売子会社の丸一鋼販を設立
大阪工場を新設
丸一鋼管に商号変更★★
東京工場を新設
大阪・東京両証券取引所市場第二部に上場★★
大阪・東京両証券取引所市場第一部に指定
堺工場を新設
吉村精仁名古屋工場を新設
吉村精仁北海道丸一鋼管を設立
吉村精仁特品工場を新設し特殊形状鋼管に参入
吉村精仁四国丸一鋼管を設立
吉村精仁九州丸一鋼管を設立
1978〜2002年ロサンゼルスの現地生産と角形鋼管コラムへの転換吉村精仁米国にマルイチ・アメリカン・コーポレーションを設立し海外生産を開始★★★
吉村精仁詫間工場を新設
吉村精仁鹿島特品工場を新設
2003〜2026年非同族の鈴木博之が継いだ経営とステンレスへの拡張鈴木博之台湾のウイニング・インベストメント・コーポレーションの株式を取得
鈴木博之東洋特殊鋼業の増資を引き受け子会社化
鈴木博之ベトナムのサン・スチール・コーポレーションの持分を取得しアジア生産を開始★★
鈴木博之米国のレビット・チューブ・カンパニーLLCの持分を取得★★
鈴木博之ベトナムにサン・スチール・(ハノイ)・カンパニー・リミテッドを設立
鈴木博之アルファメタルの増資を引き受け子会社化
鈴木博之インドのクマ・ステンレス・チューブ・リミテッドの持分を取得
鈴木博之メキシコにマルイチメックスS.A.de C.V.を設立
吉村貴典米国Evraz Oregon Steelの構造用鋼管事業を譲受★★
吉村貴典フィリピンにマルイチ・フィリピン・スチール・チューブ・インクを設立
吉村貴典コベルコ鋼管の全株式を取得しステンレス鋼管事業に本格参入★★★
吉村貴典米国ジェネバ・ストラクチュアル・チューブズLLCの全持分を取得
吉村貴典東京証券取引所プライム市場に移行
吉村貴典米国にマルイチ・ステンレス・チューブ・テキサス・コーポレーションを設立
出典・参考 9件
出典・参考

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