部品をつくる会社が素材まで手がけるのは、たいてい採算の計算ではなく事故から始まる。丸一製作所が1930年代の半ばに溶接鋼管へ参入したきっかけは、満州へ売った約2か月分のハンドルが全量を不良品として送り返されたことだった。原因はパイプの溶接部の割れで、極寒の満州では素材のパイプそのものに異変が起きていた。買ってきた素材に欠陥があれば、部品の側でどれだけ腕を磨いても埋められない。吉村福松氏は良い物をつくればよく売れるという考えの技術者で、商談では不当な安値にも唯々諾々と応じたが、材料の質だけは譲らなかった。鋼管そのものが悪いのなら自分でつくるという結論は、その性格からしか出てこない。
代償は数年の赤字だった。技術者と呼べる者は社内に一人もおらず、電気溶接機もガス溶接機もない時代に手加工のガス溶接でパイプをつくったため、工場にはスクラップが積み上がった。研究には会社の利益を上回る資金が注ぎ込まれ、それを支えたのは吉村タキノ氏が回した経理と営業である。1937年に技術が完成し、1939年にパイプが量産へ移ると、今度は戦時の企業統合が自転車部品部門を他社へ移した。赤字を埋めてきた自転車部品が消え、赤字だった鋼管が残った。1941年に吉村福松氏が急死したあと、吉村タキノ氏が統制下の割当てと設備を手放さなかったのは、鋼管のほかに事業が残っていなかったからでもある。
吉村福松氏は1913年、大阪の平野郷町(現・大阪市平野区平野東)に福松製作所を構え、社員8名と2馬力のモーター1基で自転車用ブレーキをつくり始めた。月産600セットの町工場として出発した。自転車は明治初期に日本へ渡り、輸入車の修理と補修部品の生産から産業として立ち上がった。1914年に始まった第一次世界大戦で輸入が途絶えると国産化が急速に進み、鉄砲鍛冶が集まって金属加工の盛んだった堺の周辺でも、多くの業者が自転車部品の製造へ転じた。同じ1913年に奈良県の農家から吉村家へ嫁いだ吉村タキノ氏は、経理と営業、材料の仕入れを受け持った。吉村福松氏は数人の徒弟を相手に真っ黒になって働く身分から出発した。
福松製作所は自転車用ブレーキに続いてハンドルの製造にも入った。この製品は"丸一ハンドル"と名付けられ、丸に永遠の発展と和、一に純粋で誠実の意味が込められ、売り出すとすぐに評判を取った。やがて丸一ったんという呼び名が製品を離れ、会社と経営者そのものを指す愛称として広まった。丸の字は後に鋼管の断面と和・円満・親睦を、一の字は鋼管の長さと第一位・誠・純粋を表す社章の意味へ読み替えられた。吉村福松氏は算盤勘定より製品の出来を先に置く技術者で、経理も営業も材料の仕入れも吉村タキノ氏が受け持った。吉村タキノ氏の負けん気の強さは、当時から定評があった。吉村福松氏の事業経営は良い物をつくればよく売れるという考えに立ち、商談の技術を持たず、不当な安値にたたかれても納めていた。
創業から13年後の1926年、丸一は工場を中河内郡加美村(現・大阪市平野区加美西)へ移し、製品名から取って社名を丸一製作所と改めた。丸一製作所のハンドルはニッケル・クロームの厚メッキを施してあり、いつまでもさびないという評判を取って、国内はもとより朝鮮や満州にまで売られた。丸一のハンドル生産は1926年の吉村福松氏の着手にさかのぼり、当時の自転車は今日の自動車にあたる有望な産業だった。ハンドルは自転車の顔にあたる。良いものをつくるには材料の鋼管まで自分で手がけねばならない、というのが丸一製作所の考えだった。町工場とはいえ従業員の給与も材料費も毎月きまって支払わねばならず、その苦労は吉村タキノ氏の肩にのしかかった。
丸一製作所は自転車部品の材料となるパイプを外部から仕入れており、粗悪品の多さに嫌気がさしていた。そこへ、満州へ売った約2か月分のハンドルが全量を不良品として送り返された。原因を調べると、ハンドルのパイプの溶接部に割れが生じており、極寒の満州の寒さが素材のパイプそのものに異変を生んでいた。部品をつくる丸一製作所にとって、買ってきた素材の欠陥はどうすることもできなかった。それでも吉村福松氏は、鋼管そのものが悪いのなら良質のものを自分の手でつくると決め、丸太柱にトタン葺きの工場1棟とドローベンチ2台を買い、専任の職人を1名付けて鋼管製造の試作を始めた。鋼管を始めて間もない頃、借地の150坪について地主から返還を求められると、吉村タキノ氏は夫に内緒で貯めた4,800円を差し出してその土地を買い取った。
丸一が溶接鋼管に手をつけた年について、吉村タキノ氏は1933年を挙げた。自転車用鋼管の自社生産が始まったのは1935年で、丸一製作所に鋼管部門を併立して丸一鋼管工場と称したのも1935年にあたる。着手の年は割れるものの、1930年代の半ばであることは動かない。自転車部品では一流でも、吉村福松氏は鋼管づくりでは素人だった。技術者と呼べる者が社内に一人もおらず、電気溶接機もガス溶接機もない時代に、手加工のガス溶接でパイプをつくった。売り物にならない不良品が出続けて工場にはスクラップが積み上がり、数年にわたって赤字が続いた。
吉村福松氏は1937年に鋼管の研究を完成させた。この頃の丸一は従業員70名の中規模の町工場で、鋼管の研究には会社の利益を上回る資金が注ぎ込まれ、経営の維持に苦労が絶えなかった。技術の完成により、丸一は素材の鋼管から自転車のハンドル、ブレーキまでを自社で一貫して製造した。戦時の企業統合によって、自転車部品の部門は他社へ移された。この部門はそれまでパイプ部門の赤字を補ってきたが、パイプの生産が安定し始めたのは1939年ごろになってからだった。1940年からはパイプ一本の専業体制に移り、磨き棒鋼とシャフトの製造は別会社の丸一鋼業で始めた。継ぎ手とハンドルの部門まで企業合同に取り込まれた。丸一に残った事業は鋼管のみとなり、丸一はそれだけで自立するほかなくなった。
吉村福松氏は1941年に急死し、丸一鋼管に30名、丸一鋼業に75名、あわせて105名の従業員を抱えたところで、吉村タキノ氏が事業を引き継いだ。1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、生家は由緒ある庄屋ながら、生まれた頃には家産が傾いていた。1913年に吉村家へ嫁いで以来、毎朝職工と同じ時刻に出社し、同じ時刻に退社してきた。吉村福松氏の死で、吉村タキノ氏の体重は11貫まで減少した。工場をたたんで暮らそうと考えた時期もあったが、二女一男のうち末子の吉村精仁氏を一人前にするまでは事業を続けると決めた。丸一鋼管の看板は吉村福松氏その人であり、その急死は会社にとってこれ以上ない痛手だった。
戦時下の鋼材は完全な統制と割当ての下にあり、同業他社は丸一の割当て分を奪おうと動いた。女性が継いだ会社と見て攻勢をかける同業他社を吉村タキノ氏ははね返し、組合や協会の会合には女性ただ一人で出席して正論を主張し、割当てを譲らなかった。事業そのものよりも、夫が残した遺児の養育が吉村タキノ氏を支えた。取引銀行は戦前から住友銀行の一行に絞り、企業規模に比して珍しい一行取引をその後も続けた。戦争が進むにつれて事業の継続そのものが難しくなったが、1945年の終戦の時点でも丸一の設備は手元に残っていた。企業合同の至上命令が降りかかったときには、吉村タキノ氏はこれに暗黙の抵抗をした。女手一人で合同すれば底積みになって食われてしまうと予感したためで、ある人の口ききで一度は免れている。
吉村タキノ氏は、夫が残した事業を手放さないと決め、鋼材の割当てを受けるための折衝も、材料の仕入れの商談も自ら引き受けた。朝早くから事務所に出て工場に入り、現場の指揮までを受け持った。苦しい時期を通じて丸一を一度も倒産させず、取引先に迷惑をかけることもなかった。戦後の復興期は鉄鋼統制と割当て生産の時代で、丸一の仕事量も少なく、地道に企業内部の充実に努めた。創業から33年を経ても、丸一はなお創業家が営む個人組織のままで、手元に残ったのは加美の工場と、戦時を通じて手放さなかった設備である。米軍機の空襲が激しくなった時期には、軍命令で設備一切の即時疎開を申し渡され、河内長野の三日市鋼管への搬出を終えていた。1945年8月14日の合併調印だけを残したところで、当日の空襲によって調印は流れた。
不況のときに工場を建て、好況になって動かす。丸一鋼管の戦後30年は、この順序を繰り返している。資本金19万5千円で法人になった1947年の売上高は月平均18万円で、まだ町工場の域を出ていなかった。1954年、尼崎製鋼や岩田商事が倒れた引締めの年に設備の大増強を進め、新工場が動き出した頃に神武景気が来た。1963年には堺の埋立地へ総工費36億円を投じた。工事の間は鉄鋼の不況で支払金利と減価償却に苦しんだが、フル運転に入ってからは最大の収益源に変わった。順序が逆なら、高い設備を好況の値段で買い、不況で遊ばせることになる。丸谷紀芳氏が不況期に設備するのを持論としたのは、運の話ではなかった。
もう一つの軸は、市況の振れを自分で薄める仕組みにある。鋼管の値段は市況によって上下し、専業のメーカーは高炉メーカーの系列に入って原料と販路の安定を買うのが通例だった。丸一鋼管はそこへ入らず、吉村精仁氏ら三兄弟が株式の24%強を握ったまま、高炉4社の持ち分を16%に抑えている。代わりに置いたのが、総生産額の3分の1を輸出へ充当し、国内が好況でも不況でも輸出を止めないという方針だった。国内市況が崩れても売り先が残り、原料も商社を窓口に4社から分散して買える。堺工場の金利に苦しんだ経験から設備は自己資金でまかなうと決め、1974年に借入金を全額返した。無借金は、誰の系列にも属さないまま市況の振れを受け切るための備えだった。
大阪市東住吉区加美橘町85に本社を置き、丸一鋼管製作所は1947年12月18日、資本金19万5千円の株式会社として設立された。創業以来の個人組織が、これで法人になった。パイプは復興の基礎物資として引き合いが強かったものの、鉄鋼統制のもとで通商産業省から配給される量は月々3トンから6トンしかなく、設立翌年の1948年の売上高は月平均18万円にとどまった。松下電工からパイプ加工の話が持ち込まれると、丸一は設備を遊ばせないで済むとみて提携を受け入れ、統制が解ける1950年まで月々30トン前後の資材と副資材の供給を受けた。1948年には旧来のドローベンチを捨て、自動式造管機を導入している。上京したのは長男の吉村精仁氏で、まだ20歳の身で30万円の銀行保証小切手を携えていた。
1949年に始まったドッジラインは朝鮮動乱の特需で途切れ、円資金の散超によってインフレが再び起きた。1953年秋に政府がデフレ政策へ舵を切ると、翌1954年の引締めは予想を超える厳しさとなり、尼崎製鋼や岩田商事のような有力企業までが倒れて、倒産は全国へ広がった。丸一鋼管製作所が新工場の建設を決めたのは、この1954年の不況の底であった。経済界の流れに逆らって設備の大増強を急ぎ、積極的に拡張した。背景には、不況期こそ設備に投資すべきだという常務の丸谷紀芳氏ら経営陣の持論があり、パイプは必ず伸びると説く専務の堀川照雄氏の主張を軸に、戦後一貫して弱気の策に回らなかった。新工場はまもなくフルに稼働し、やがて神武景気が訪れた。加美橘町から移した加美神武町の製管工場が操業に入ったのは1955年である。
統制期に生まれた二重帳簿は知らぬ間に膨れ上がり、丸一もその処理に苦慮していた。そこへ、不況の中で大規模な新工場を建てていることが監督当局の疑いを招き、国税局の抜打ち査察が入る。調べは5年前まで遡り、1年半に及ぶ徹底したものとなった。新工場の建設中で不況も最も深いという最悪の時期だったが、丸一はいずれ避けられない過去の問題をこの際に片づけることを選び、担当の丸谷紀芳氏は最初の3か月で75回も国税局へ足を運んだ。結果として過去の精算は会社の基礎を固めることになり、売上高は1954年の月平均2,290万円から1957年には月平均1億6,000万円余へ増えた。資本金は1956年5月に960万円、1957年1月に3,000万円へ引き上げられた。
丸一鋼管製作所は、中小企業にしては早くから海外と縁があった。本格的な海外市場の開拓に乗り出したのは1955年で、設備の近代化と合理化が進んで対外競争力が備わったと判断した段階で輸出体制を整え始めた。幹部をアメリカを中心に何度も送り出して市場を調べ、総生産額の3分の1を輸出に振り向ける方針を定めた。売り込み先は鉄を豊富に持つ北米で、鉄を造らない後進国ならまだしもと、当時は不思議に思われた。国内の景気の良し悪しに左右されず輸出を続けると決めて実行したことが海外取引先の信頼につながり、1956年には小口需要家向けの販売会社丸一鋼販を設けて、商社任せだった末端の需要動向を自ら把握する経路も作った。
1959年1月、丸一鋼管製作所は米国エトナ社製の電縫鋼管製造設備を完成させて稼働に入った。一億数千万円を投じて輸入した高周波誘導熔接機で、継ぎ目の目立たないステッチレス鋼管の製造に着手した。翌1960年にはアメリカからさらに高周波の熔接装置を入れ、これは日本で最初、世界でも数例しかない設備だった。当時の資本金1億円に対して設備の価格は1億5,000万円で、企業としては思い切った投資にあたった。厚い一枚の鋼板が連続して一本の鋼管に成形され、耐圧と耐久の試験でも継ぎ目は離れなかった。1956年12月の乾式亜鉛メッキ工場、1958年6月の連続塗装ライン設備と合わせ、丸一はこの前後に大手メーカーの領域へ入った。
1960年3月、丸一鋼管製作所は商号を丸一鋼管へ改めた。1961年9月には東京工場が操業を始め、関東の需要に大阪から送らずに応じられるようになった。同年11月には堺臨海工業地の12万600平方メートルの割当てを受け、次の拠点の用地を押さえた。1962年3月に大阪証券取引所第二部へ、同年8月には東京証券取引所へ株式を上場した。上場時の従業員は278名だった。1960年11月から1961年11月までの製品構成は配管用鋼管51.9%、構造鋼管45.2%、電線管2.9%である。総生産高の30%を輸出へ振り向ける目標に対し、1961年12月から1962年3月までの実績は43.8%に達していた。
1961年、大阪府は堺市石津西町一帯の埋立てに着手した。丸一鋼管はただちに3万7,250坪の払下げを受け、1963年3月に臨海地区の先陣を切って工場の建設に取りかかった。総工費は36億円、うち土地代だけで8億円という規模で、中径管と円錐形鋼管の工場としては前例がなかった。第1期工事を終えた時点で、資本金10億円に対し借入金は20億円まで膨らんでいた。1963年9月に第一製管工場が動き出し、1965年4月には全工場がフル運転に入ったが、堺工場の立ち上がりは鉄鋼の不況期と重なり、支払金利と減価償却が業績を圧迫した。この経験を教訓に、丸一は設備投資を自己資金で賄う方針を定め、以後守り通した。
堺工場と東京工場、名古屋工場を分けて持ったのは、運送費を削減するためだった。大阪から九州まで製品を運ぶと1トンあたり6,000円かかり、月に5,000トンを送れば年間3億6,000万円になる。現地に工場を置けば運送料のほとんどが節約でき、製品の荷傷みも減った。東京工場で生産すれば大阪から運ぶより1トンあたり2,000円安く、名古屋工場も同じだった。堺工場は裏手がすぐ海で、専用の埠頭を設けて1万5,000トンの荷役ができ、製品を工場から直接船積みしたため倉庫を持たなかった。名古屋工場は中部鋼鈑の熱田工場跡を買収したもので、1966年9月期末に増設を終えた。1967年3月時点の月産は堺1万トン、大阪7,000トン、東京3,500トン、名古屋2,000トンで、堺は主に輸出向けを担った。
丸一鋼管は高炉メーカーの系列に入らなかった。1971年3月期の時点で、社長の吉村精仁氏と副社長の堀川照雄氏、常務の丸谷紀芳氏の三兄弟が発行株式の24%強を持ち、新日本製鉄など高炉4社を合わせても16%にとどまった。原料のホットコイルは日商岩井や三井物産などの商社を窓口に、その4社から分散して買った。1968年3月期末に40%だった自己資本比率は、1971年3月期末に46%へ上がった。1973年前後の過剰流動性の時期にも不動産やレジャーへ資金を移さなかった。借入金は1974年までに全額返済し、手形の割引きも取りやめた。1975年9月には堺工場へ35億円を投じて冷間圧延設備を完成させ、好況期に材料の供給が絞られる制約を自給で解いた。無借金は倹約の結果ではなく、系列に入らずに済ませるための条件だった。
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|---|---|---|---|---|
| 1913〜1946年満州から返品された自転車ハンドルが生んだ鋼管の内製 | 吉村福松が大阪の平野郷町に福松製作所を創業し自転車用ブレーキの製造を開始 | ★★★ | ||
| 中河内郡加美村に工場を移転し丸一製作所に商号変更 | ★ | |||
| 自転車ハンドル用鋼管の自社製造技術を確立し鋼管の内製に転換 | ★★★ | |||
| 丸一鋼管工場に商号変更し自転車部門を分離 | ★★ | |||
| 1947〜1977年輸出3割と需要地生産で組み上げた無借金の専業体制 | 大阪市東住吉区加美橘町に丸一鋼管製作所を設立 | ★★ | ||
| 販売子会社の丸一鋼販を設立 | ★ | |||
| 大阪工場を新設 | ★ | |||
| 丸一鋼管に商号変更 | ★★ | |||
| 東京工場を新設 | ★ | |||
| 大阪・東京両証券取引所市場第二部に上場 | ★★ | |||
| 大阪・東京両証券取引所市場第一部に指定 | ★ | |||
| 堺工場を新設 | ★ | |||
| 吉村精仁 | 名古屋工場を新設 | ★ | ||
| 吉村精仁 | 北海道丸一鋼管を設立 | ★ | ||
| 吉村精仁 | 特品工場を新設し特殊形状鋼管に参入 | ★ | ||
| 吉村精仁 | 四国丸一鋼管を設立 | ★ | ||
| 吉村精仁 | 九州丸一鋼管を設立 | ★ | ||
| 1978〜2002年ロサンゼルスの現地生産と角形鋼管コラムへの転換 | 吉村精仁 | 米国にマルイチ・アメリカン・コーポレーションを設立し海外生産を開始 | ★★★ | |
| 吉村精仁 | 詫間工場を新設 | ★ | ||
| 吉村精仁 | 鹿島特品工場を新設 | ★ | ||
| 2003〜2026年非同族の鈴木博之が継いだ経営とステンレスへの拡張 | 鈴木博之 | 台湾のウイニング・インベストメント・コーポレーションの株式を取得 | ★ | |
| 鈴木博之 | 東洋特殊鋼業の増資を引き受け子会社化 | ★ | ||
| 鈴木博之 | ベトナムのサン・スチール・コーポレーションの持分を取得しアジア生産を開始 | ★★ | ||
| 鈴木博之 | 米国のレビット・チューブ・カンパニーLLCの持分を取得 | ★★ | ||
| 鈴木博之 | ベトナムにサン・スチール・(ハノイ)・カンパニー・リミテッドを設立 | ★ | ||
| 鈴木博之 | アルファメタルの増資を引き受け子会社化 | ★ | ||
| 鈴木博之 | インドのクマ・ステンレス・チューブ・リミテッドの持分を取得 | ★ | ||
| 鈴木博之 | メキシコにマルイチメックスS.A.de C.V.を設立 | ★ | ||
| 吉村貴典 | 米国Evraz Oregon Steelの構造用鋼管事業を譲受 | ★★ | ||
| 吉村貴典 | フィリピンにマルイチ・フィリピン・スチール・チューブ・インクを設立 | ★ | ||
| 吉村貴典 | コベルコ鋼管の全株式を取得しステンレス鋼管事業に本格参入 | ★★★ | ||
| 吉村貴典 | 米国ジェネバ・ストラクチュアル・チューブズLLCの全持分を取得 | ★ | ||
| 吉村貴典 | 東京証券取引所プライム市場に移行 | ★ | ||
| 吉村貴典 | 米国にマルイチ・ステンレス・チューブ・テキサス・コーポレーションを設立 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(丸一鋼管)