丸一鋼管 の歴史

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創業 1913年
創業者 吉村福松
創業地 大阪市
創業 1913年、吉村福松氏が大阪の平野郷町に福松製作所を構え、社員8名と2馬力のモー
1913年、吉村福松氏が大阪の平野郷町に福松製作所を構え、社員8名と2馬力のモーター1基で自転車用ブレーキの製造を開始した。月産600セットの町工場である。続いて手がけたハンドルは"丸一ハンドル"の名で評判を取り、1926年に工場を加美村へ移して商号を丸一製作所へ改めた。満州へ売った約2か月分のハンドルが溶接部の割れで全量返品されると、材料の鋼管そのものを内製する試作に入り、1935年に鋼管部門を併立する。1940年からは鋼管の専業となり、1941年に吉村福松氏が急死したあとは妻の吉村タキノ氏が事業を承継した。1947年12月に資本金19万5,000円で丸一鋼管製作所を設立し、1960年3月に丸一鋼管へ改称した。
決断 堺工場の借入を返し終えた1974年以来、設備を借金で建てていない。1963年3月
堺工場の借入を返し終えた1974年以来、設備を借金で建てていない。1963年3月に着工した堺工場は総工費40億3,000万円と当時の資本金の10倍にあたり、不足する11億7,000万円を日本長期信用銀行と住友銀行から借り入れた。1965年4月の完成が鉄鋼の不況期と重なって支払金利と減価償却が業績を圧迫し、吉村精仁社長は設備を自己資金でまかなう方針を定める。借入金は1974年3月に完済した。この方針を50年守ったことが、有利子負債43億8,600万円に対して現金及び現金同等物886億8,200万円という2026年3月期の財務を作った。
現況 海外が売上の4割を占めるが、利益の7割は日本で立っている。2026年3月期の連結
海外が売上の4割を占めるが、利益の7割は日本で立っている。2026年3月期の連結売上高は2,437億6,400万円、営業利益は320億4,300万円で、地域別では日本が売上1,441億3,900万円・セグメント利益218億5,100万円、北米が548億3,700万円・54億5,800万円、アジアが447億8,800万円・41億6,400万円である。2020年4月に神戸製鋼所からコベルコ鋼管の全株式を138億円で取得し、溶接鋼管だけだった品目に継目無管が加わった。下関工場の半導体製造装置向けBA精密細管は2022年度に市場の約7%を占め、世界で2番目にある。溶接鋼管の一品目で積み上げた利益が、継目無ステンレス管という別の品種の事業を取得する原資になった。
競合 母材を売ってくれる相手が、そのまま鋼管の競争相手でもある。丸一鋼管は日本鉄鋼連盟
母材を売ってくれる相手が、そのまま鋼管の競争相手でもある。丸一鋼管は日本鉄鋼連盟に加盟せず高炉大手の系列にも入らないまま、ホットコイルを新日鉄・NKK・川崎製鉄・神戸製鋼所の4社と韓国・台湾から調達してきた。1986年からの鋼材値下がり局面でも輸入比率を3割から動かさず割高な国内材を使い続け、1989年の需給ひっ迫期には国内高炉から必要量の供給を配慮されている。系列の外にいる点では電気炉から高炉独占品種だった熱延広幅帯鋼へ量産参入した東京製鐵や、海外を合弁の少数持分で持つ大和工業と同じだが、丸一鋼管は需要地に自社の工場を置き、海外では既に動いている工場を取得して増やしてきた。素材を買う側に立ち続けたことが、2020年にはその供給元の一社から鋼管事業を引き取る立場を作った。
長期業績の推移 1962〜2026年
丸一鋼管:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2002年3月期〜2026年3月期

第1章 1913年〜 満州から返品された自転車ハンドルが生んだ鋼管の内製

筆者考察y.sugiura, author

部品をつくる会社が素材まで手がけるのは、たいてい採算の計算ではなく事故から始まる。丸一製作所が1930年代の半ばに溶接鋼管へ参入したきっかけは、満州へ売った約2か月分のハンドルが全量を不良品として送り返されたことだった。原因はパイプの溶接部の割れで、極寒の満州では素材のパイプそのものに異変が起きていた。買ってきた素材に欠陥があれば、部品の側でどれだけ腕を磨いても埋められない。吉村福松氏は良い物をつくればよく売れるという考えの技術者で、商談では不当な安値にも唯々諾々と応じたが、材料の質だけは譲らなかった。鋼管そのものが悪いのなら自分でつくるという結論は、その性格からしか出てこない。

代償は数年の赤字だった。技術者と呼べる者は社内に一人もおらず、電気溶接機もガス溶接機もない時代に手加工のガス溶接でパイプをつくったため、工場にはスクラップが積み上がった。研究には会社の利益を上回る資金が注ぎ込まれ、それを支えたのは吉村タキノ氏が回した経理と営業である。1937年に技術が完成し、1939年にパイプが量産へ移ると、今度は戦時の企業統合が自転車部品部門を他社へ移した。赤字を埋めてきた自転車部品が消え、赤字だった鋼管が残った。1941年に吉村福松氏が急死したあと、吉村タキノ氏が統制下の割当てと設備を手放さなかったのは、鋼管のほかに事業が残っていなかったからでもある。

従業員数 創業から吉村福松氏の死去まで(人)

8 13年創業時 70 37年ごろ 105 41年(2社計)

1913年〜平野郷町の社員8名で始めた「丸一ハンドル」

吉村福松氏は1913年、大阪の平野郷町(現・大阪市平野区平野東)に福松製作所を構え、社員8名と2馬力のモーター1基で自転車用ブレーキをつくり始めた。月産600セットの町工場として出発した。自転車は明治初期に日本へ渡り、輸入車の修理と補修部品の生産から産業として立ち上がった。1914年に始まった第一次世界大戦で輸入が途絶えると国産化が急速に進み、鉄砲鍛冶が集まって金属加工の盛んだった堺の周辺でも、多くの業者が自転車部品の製造へ転じた。同じ1913年に奈良県の農家から吉村家へ嫁いだ吉村タキノ氏は、経理と営業、材料の仕入れを受け持った。吉村福松氏は数人の徒弟を相手に真っ黒になって働く身分から出発した。

  • 商工振興 2020年12月号「関西企業ヒストリア 第9回 丸一鋼管株式会社」(大阪府工業協会)
    • [1]1913年、吉村福松氏が平野郷町(現・大阪市平野区平野東)で福松製作所を創業し、社員8名・2馬力のモーター1基で自転車用ブレーキの製造を開始した
    • [2]創業時の自転車用ブレーキの生産は月間600セットだった
    • [3]自転車は明治初期に日本に渡来し、輸入自転車の修理と補修部品の生産から産業として発展した
    • [4]1914年に勃発した第一次世界大戦による輸入途絶が自転車製造の国産化を進め、鉄砲鍛冶屋が集積し金属加工が盛んな堺地域でも多くの業者が自転車部品製造業に転身した
  • 実業の世界 1963年
    • [5]吉村タキノ氏は1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、1913年に吉村家へ嫁ぎ、経理・営業・材料仕入れの面で働いた
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [6]吉村福松の自転車ハンドル製造は、最初は数人の徒弟を相手に真っ黒になって働く身分であった

福松製作所は自転車用ブレーキに続いてハンドルの製造にも入った。この製品は"丸一ハンドル"と名付けられ、丸に永遠の発展と和、一に純粋で誠実の意味が込められ、売り出すとすぐに評判を取った。やがて丸一ったんという呼び名が製品を離れ、会社と経営者そのものを指す愛称として広まった。丸の字は後に鋼管の断面と和・円満・親睦を、一の字は鋼管の長さと第一位・誠・純粋を表す社章の意味へ読み替えられた。吉村福松氏は算盤勘定より製品の出来を先に置く技術者で、経理も営業も材料の仕入れも吉村タキノ氏が受け持った。吉村タキノ氏の負けん気の強さは、当時から定評があった。吉村福松氏の事業経営は良い物をつくればよく売れるという考えに立ち、商談の技術を持たず、不当な安値にたたかれても納めていた。

  • 商工振興 2020年12月号「関西企業ヒストリア 第9回 丸一鋼管株式会社」(大阪府工業協会)
    • [7]吉村福松氏は自転車用ブレーキに加えてハンドルの製造も手がけた
    • [8]ハンドルは「丸一ハンドル」と名付けられ、丸に「永遠の発展と和」、一に「純粋で誠実」の意味が込められ、すぐさま評判になった
    • [9]「丸一ったん」の名称は製品にとどまらず、会社や経営者を指す愛称としても広まった
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [10]社章の丸は鋼管の断面を表すと同時に和・円満・親睦を、一は鋼管の長さと第一位・誠・純粋を意味する
  • 実業の世界 1963年
    • [11]吉村福松氏はソロバン勘定を無視してでもいい製品をつくれば気のすむ技術者タイプで、吉村タキノ氏が経理・営業・材料仕入れの面で活躍した
    • [12]吉村タキノ氏は当時から負けん気の強いことで定評があった
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [13]吉村福松の事業経営能力は手練手管のないもので、良い物を作ればよく売れるといった平凡極まるものであり、商談技術は下手どころかないも同様で、不当な安値にたたかれても唯々諾々として納めていた

創業から13年後の1926年、丸一は工場を中河内郡加美村(現・大阪市平野区加美西)へ移し、製品名から取って社名を丸一製作所と改めた。丸一製作所のハンドルはニッケル・クロームの厚メッキを施してあり、いつまでもさびないという評判を取って、国内はもとより朝鮮や満州にまで売られた。丸一のハンドル生産は1926年の吉村福松氏の着手にさかのぼり、当時の自転車は今日の自動車にあたる有望な産業だった。ハンドルは自転車の顔にあたる。良いものをつくるには材料の鋼管まで自分で手がけねばならない、というのが丸一製作所の考えだった。町工場とはいえ従業員の給与も材料費も毎月きまって支払わねばならず、その苦労は吉村タキノ氏の肩にのしかかった。

  • 商工振興 2020年12月号「関西企業ヒストリア 第9回 丸一鋼管株式会社」(大阪府工業協会)
    • [14]1926年、中河内郡加美村(現・大阪市平野区加美西)に工場を移転し、丸一ブランドの名を取って社名を丸一製作所と改称した
    • [15]丸一ハンドルはニッケル・クロームの厚メッキが施されていたため「いつまでもサビない」と評判を呼び、国内はもとより朝鮮や満州にまで販売された
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [16]吉村精仁氏は、前身が大正15年(1926年)に吉村福松氏が自転車のハンドルの生産を始めたことにさかのぼると述べ、当時の自転車は今日の自動車にあたる有望な産業だったと語った
    • [17]自転車のハンドルは人間の顔に相当する部分であり、いいものをつくるからには材料となる鋼管までを手がけなければならぬという考えを持っていた
    • [18]自転車のハンドルは人間の顔に相当する部分であり、いいものをつくるからには材料となる鋼管までを手がけなければならぬという考えを持っていた
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [19]町工場とはいえ従業員の給与はきちんと支払わねばならず材料をはじめとする経常諸費も毎月相当額を支払わねばならなかったため、製品の研究に余念のない夫の生活からもれる経営の苦労はタキノの肩にのしかかった
参考文献[1]-[19]
    • [1]1913年、吉村福松氏が平野郷町(現・大阪市平野区平野東)で福松製作所を創業し、社員8名・2馬力のモーター1基で自転車用ブレーキの製造を開始した
    • [2]創業時の自転車用ブレーキの生産は月間600セットだった
    • [3]自転車は明治初期に日本に渡来し、輸入自転車の修理と補修部品の生産から産業として発展した
    • [4]1914年に勃発した第一次世界大戦による輸入途絶が自転車製造の国産化を進め、鉄砲鍛冶屋が集積し金属加工が盛んな堺地域でも多くの業者が自転車部品製造業に転身した
    • [7]吉村福松氏は自転車用ブレーキに加えてハンドルの製造も手がけた
    • [8]ハンドルは「丸一ハンドル」と名付けられ、丸に「永遠の発展と和」、一に「純粋で誠実」の意味が込められ、すぐさま評判になった
    • [9]「丸一ったん」の名称は製品にとどまらず、会社や経営者を指す愛称としても広まった
    • [14]1926年、中河内郡加美村(現・大阪市平野区加美西)に工場を移転し、丸一ブランドの名を取って社名を丸一製作所と改称した
    • [15]丸一ハンドルはニッケル・クロームの厚メッキが施されていたため「いつまでもサビない」と評判を呼び、国内はもとより朝鮮や満州にまで販売された
  • 実業の世界 1963年
    • [5]吉村タキノ氏は1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、1913年に吉村家へ嫁ぎ、経理・営業・材料仕入れの面で働いた
    • [11]吉村福松氏はソロバン勘定を無視してでもいい製品をつくれば気のすむ技術者タイプで、吉村タキノ氏が経理・営業・材料仕入れの面で活躍した
    • [12]吉村タキノ氏は当時から負けん気の強いことで定評があった
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [6]吉村福松の自転車ハンドル製造は、最初は数人の徒弟を相手に真っ黒になって働く身分であった
    • [13]吉村福松の事業経営能力は手練手管のないもので、良い物を作ればよく売れるといった平凡極まるものであり、商談技術は下手どころかないも同様で、不当な安値にたたかれても唯々諾々として納めていた
    • [19]町工場とはいえ従業員の給与はきちんと支払わねばならず材料をはじめとする経常諸費も毎月相当額を支払わねばならなかったため、製品の研究に余念のない夫の生活からもれる経営の苦労はタキノの肩にのしかかった
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [10]社章の丸は鋼管の断面を表すと同時に和・円満・親睦を、一は鋼管の長さと第一位・誠・純粋を意味する
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [16]吉村精仁氏は、前身が大正15年(1926年)に吉村福松氏が自転車のハンドルの生産を始めたことにさかのぼると述べ、当時の自転車は今日の自動車にあたる有望な産業だったと語った
    • [17]自転車のハンドルは人間の顔に相当する部分であり、いいものをつくるからには材料となる鋼管までを手がけなければならぬという考えを持っていた
    • [18]自転車のハンドルは人間の顔に相当する部分であり、いいものをつくるからには材料となる鋼管までを手がけなければならぬという考えを持っていた

1933年〜不良品の返品が生んだ溶接鋼管への転換

丸一製作所は自転車部品の材料となるパイプを外部から仕入れており、粗悪品の多さに嫌気がさしていた。そこへ、満州へ売った約2か月分のハンドルが全量を不良品として送り返された。原因を調べると、ハンドルのパイプの溶接部に割れが生じており、極寒の満州の寒さが素材のパイプそのものに異変を生んでいた。部品をつくる丸一製作所にとって、買ってきた素材の欠陥はどうすることもできなかった。それでも吉村福松氏は、鋼管そのものが悪いのなら良質のものを自分の手でつくると決め、丸太柱にトタン葺きの工場1棟とドローベンチ2台を買い、専任の職人を1名付けて鋼管製造の試作を始めた。鋼管を始めて間もない頃、借地の150坪について地主から返還を求められると、吉村タキノ氏は夫に内緒で貯めた4,800円を差し出してその土地を買い取った。

  • 実業の世界 1963年
    • [20]外部から仕入れる自転車材料のパイプに粗悪品が多いのに嫌気がさしていた
  • 商工振興 2020年12月号「関西企業ヒストリア 第9回 丸一鋼管株式会社」(大阪府工業協会)
    • [21]満州に販売した約2か月分の製品すべてが不良品として送り返されるクレームが起きた
    • [22]原因はハンドルのパイプ溶接部に割れが生じていたことだった
    • [23]極寒の満州では、その寒さゆえに素材のパイプに異変が起きていた
    • [24]問題が素材にあるため、部品製造の丸一には如何ともしがたい状況だった
    • [25]吉村福松氏は丸太柱のトタン葺き工場1棟とドローベンチ2台を購入し、専任の職人1名をつけて鋼管製造の試作を開始した
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [26]パイプを始めて間もない戦前、丸一は敷地300坪のうち借地分150坪の返還を地主から求められ、タキノが自ら交渉にあたり、夫に内緒で貯めた4,800円を買収費として差し出して150坪を買いとった

丸一が溶接鋼管に手をつけた年について、吉村タキノ氏は1933年を挙げた。自転車用鋼管の自社生産が始まったのは1935年で、丸一製作所に鋼管部門を併立して丸一鋼管工場と称したのも1935年にあたる。着手の年は割れるものの、1930年代の半ばであることは動かない。自転車部品では一流でも、吉村福松氏は鋼管づくりでは素人だった。技術者と呼べる者が社内に一人もおらず、電気溶接機もガス溶接機もない時代に、手加工のガス溶接でパイプをつくった。売り物にならない不良品が出続けて工場にはスクラップが積み上がり、数年にわたって赤字が続いた。

  • 実業の世界 1963年
    • [27]溶接鋼管を手がけたのは昭和8年(1933年)であり、外部から仕入れる自転車材料のパイプに粗悪品が多く、自分でパイプから一貫生産しようと踏み切った
    • [31]技術者らしい者が一人もおらず、当時は電気溶接・ガス溶接機がなく、完全な手加工によるガス溶接パイプだった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [28]吉村精仁氏は、昭和10年(1935年)から自転車用鋼管の自社生産を開始したと述べた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [29]昭和10年(1935年)、前身の丸一製作所に鋼管部門を併立し、丸一鋼管工場と称した
  • 商工振興 2020年12月号「関西企業ヒストリア 第9回 丸一鋼管株式会社」(大阪府工業協会)
    • [30]吉村福松氏は自転車部品の製造では一流でも、鋼管づくりにおいては素人だった
    • [32]良質な鋼管はなかなか完成せず工場にはスクラップの山が積み上がり、市販できない不良品が続出して数年間は赤字の連続だった

吉村福松氏は1937年に鋼管の研究を完成させた。この頃の丸一は従業員70名の中規模の町工場で、鋼管の研究には会社の利益を上回る資金が注ぎ込まれ、経営の維持に苦労が絶えなかった。技術の完成により、丸一は素材の鋼管から自転車のハンドル、ブレーキまでを自社で一貫して製造した。戦時の企業統合によって、自転車部品の部門は他社へ移された。この部門はそれまでパイプ部門の赤字を補ってきたが、パイプの生産が安定し始めたのは1939年ごろになってからだった。1940年からはパイプ一本の専業体制に移り、磨き棒鋼とシャフトの製造は別会社の丸一鋼業で始めた。継ぎ手とハンドルの部門まで企業合同に取り込まれた。丸一に残った事業は鋼管のみとなり、丸一はそれだけで自立するほかなくなった。

  • 商工振興 2020年12月号「関西企業ヒストリア 第9回 丸一鋼管株式会社」(大阪府工業協会)
    • [33]吉村福松氏の鋼管研究が完成したのは1937年である
    • [34]当時の丸一は従業員数70名を抱える中規模の町工場で、鋼管研究には会社の利益以上の資金が注ぎ込まれ、経営の維持に苦労が絶えなかった
    • [35]鋼管研究の完成により、素材の鋼管から自転車のハンドル、ブレーキまでを一貫製造できる体制が整った
  • 実業の世界 1963年
    • [36]パイプの生産が軌道に乗り始めたのは昭和14年(1939年)ごろからで、それまでパイプ部門の赤字をカバーしてきた自転車部品部門を戦時中の企業統合のため他社へ分離移譲した
    • [37]昭和15年(1940年)からパイプ部門一本の専業体制を整え、別会社の丸一鋼業で磨き棒鋼やシャフトの生産を始めた
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [38]継ぎ手のハンドル部門が企業合同に合い、丸一は鋼管だけで独り立ちせねばならなくなった
参考文献[20]-[38]
  • 実業の世界 1963年
    • [20]外部から仕入れる自転車材料のパイプに粗悪品が多いのに嫌気がさしていた
    • [27]溶接鋼管を手がけたのは昭和8年(1933年)であり、外部から仕入れる自転車材料のパイプに粗悪品が多く、自分でパイプから一貫生産しようと踏み切った
    • [31]技術者らしい者が一人もおらず、当時は電気溶接・ガス溶接機がなく、完全な手加工によるガス溶接パイプだった
    • [36]パイプの生産が軌道に乗り始めたのは昭和14年(1939年)ごろからで、それまでパイプ部門の赤字をカバーしてきた自転車部品部門を戦時中の企業統合のため他社へ分離移譲した
    • [37]昭和15年(1940年)からパイプ部門一本の専業体制を整え、別会社の丸一鋼業で磨き棒鋼やシャフトの生産を始めた
    • [21]満州に販売した約2か月分の製品すべてが不良品として送り返されるクレームが起きた
    • [22]原因はハンドルのパイプ溶接部に割れが生じていたことだった
    • [23]極寒の満州では、その寒さゆえに素材のパイプに異変が起きていた
    • [24]問題が素材にあるため、部品製造の丸一には如何ともしがたい状況だった
    • [25]吉村福松氏は丸太柱のトタン葺き工場1棟とドローベンチ2台を購入し、専任の職人1名をつけて鋼管製造の試作を開始した
    • [30]吉村福松氏は自転車部品の製造では一流でも、鋼管づくりにおいては素人だった
    • [32]良質な鋼管はなかなか完成せず工場にはスクラップの山が積み上がり、市販できない不良品が続出して数年間は赤字の連続だった
    • [33]吉村福松氏の鋼管研究が完成したのは1937年である
    • [34]当時の丸一は従業員数70名を抱える中規模の町工場で、鋼管研究には会社の利益以上の資金が注ぎ込まれ、経営の維持に苦労が絶えなかった
    • [35]鋼管研究の完成により、素材の鋼管から自転車のハンドル、ブレーキまでを一貫製造できる体制が整った
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [26]パイプを始めて間もない戦前、丸一は敷地300坪のうち借地分150坪の返還を地主から求められ、タキノが自ら交渉にあたり、夫に内緒で貯めた4,800円を買収費として差し出して150坪を買いとった
    • [38]継ぎ手のハンドル部門が企業合同に合い、丸一は鋼管だけで独り立ちせねばならなくなった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [28]吉村精仁氏は、昭和10年(1935年)から自転車用鋼管の自社生産を開始したと述べた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [29]昭和10年(1935年)、前身の丸一製作所に鋼管部門を併立し、丸一鋼管工場と称した

1941年〜吉村タキノ氏が守った統制下の割当てと設備

吉村福松氏は1941年に急死し、丸一鋼管に30名、丸一鋼業に75名、あわせて105名の従業員を抱えたところで、吉村タキノ氏が事業を引き継いだ。1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、生家は由緒ある庄屋ながら、生まれた頃には家産が傾いていた。1913年に吉村家へ嫁いで以来、毎朝職工と同じ時刻に出社し、同じ時刻に退社してきた。吉村福松氏の死で、吉村タキノ氏の体重は11貫まで減少した。工場をたたんで暮らそうと考えた時期もあったが、二女一男のうち末子の吉村精仁氏を一人前にするまでは事業を続けると決めた。丸一鋼管の看板は吉村福松氏その人であり、その急死は会社にとってこれ以上ない痛手だった。

  • 実業の世界 1963年
    • [39]吉村福松氏が死去したのは昭和16年(1941年)で、急死だった
    • [40]当時は丸一鋼管に30人、丸一鋼業に75人の従業員を抱えていた
    • [41]吉村タキノ氏は1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、生家は由緒ある庄屋だったが、生まれた頃には家産が傾いていた
    • [42]吉村タキノ氏は1913年に吉村家へ嫁いで以来、毎朝職工と同じ時間に出社し退社していた
    • [43]吉村福松氏の死で吉村タキノ氏は体重が11貫まで痩せ細った
    • [44]工場をたたむ考えもよぎったが、女二人男一人の子のうち末子の吉村精仁氏を一人前に仕上げるまでは事業を続けると決心した
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [45]代表者福松の急死は丸一鋼管にとってこれ以上の痛手はなく、丸一鋼管の看板は吉村福松その人であった

戦時下の鋼材は完全な統制と割当ての下にあり、同業他社は丸一の割当て分を奪おうと動いた。女性が継いだ会社と見て攻勢をかける同業他社を吉村タキノ氏ははね返し、組合や協会の会合には女性ただ一人で出席して正論を主張し、割当てを譲らなかった。事業そのものよりも、夫が残した遺児の養育が吉村タキノ氏を支えた。取引銀行は戦前から住友銀行の一行に絞り、企業規模に比して珍しい一行取引をその後も続けた。戦争が進むにつれて事業の継続そのものが難しくなったが、1945年の終戦の時点でも丸一の設備は手元に残っていた。企業合同の至上命令が降りかかったときには、吉村タキノ氏はこれに暗黙の抵抗をした。女手一人で合同すれば底積みになって食われてしまうと予感したためで、ある人の口ききで一度は免れている。

  • 実業の世界 1963年
    • [46]原材料の鋼材は戦時の完全統制下で割当て制であり、同業他社は丸一の割当ての原料を奪取しようと画策した
    • [47]女とみてなめてかかる他社の攻勢を吉村タキノ氏ははね返した
    • [48]吉村タキノ氏は組合や協会の会合につねに紅一点で出席し、正論を主張して屈しなかった
    • [49]心の支柱となったのは事業よりも亡夫の残した遺児の養育だった
    • [50]丸一は戦前から住友銀行に世話になり、企業規模に比して珍しい一行取引を続けた
    • [51]戦争が進むにつれて事業の継続は困難となり、終戦を迎えた
    • [52]終戦時、さいわいなことに設備が残った
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [53]企業合同の至上命令がふりかかってきたとき、タキノはこれに暗黙の抵抗をした
    • [54]夫の存命中ならとにかく女手一人となった今では合同したら女の身ゆえ底積みになって食われてしまうと予感したためで、ある人の口ききで一度だけは免れた

吉村タキノ氏は、夫が残した事業を手放さないと決め、鋼材の割当てを受けるための折衝も、材料の仕入れの商談も自ら引き受けた。朝早くから事務所に出て工場に入り、現場の指揮までを受け持った。苦しい時期を通じて丸一を一度も倒産させず、取引先に迷惑をかけることもなかった。戦後の復興期は鉄鋼統制と割当て生産の時代で、丸一の仕事量も少なく、地道に企業内部の充実に努めた。創業から33年を経ても、丸一はなお創業家が営む個人組織のままで、手元に残ったのは加美の工場と、戦時を通じて手放さなかった設備である。米軍機の空襲が激しくなった時期には、軍命令で設備一切の即時疎開を申し渡され、河内長野の三日市鋼管への搬出を終えていた。1945年8月14日の合併調印だけを残したところで、当日の空襲によって調印は流れた。

  • 実業の世界 1963年
    • [55]吉村タキノ氏は亡夫の遺業をあくまで守り抜こうとし、自分で材料購入の商談を行い、統制下の原料割当てをめぐる組合・協会の場にも自ら出た
    • [56]吉村タキノ氏は朝早くから事務所へ出て工場へ入り、陣頭指揮を執った
    • [57]吉村タキノ氏は苦しい時でも歯をくいしばり、一度も倒産したことがなく、人に迷惑をかけたこともなかった
    • [60]終戦時、さいわいなことに設備が残った
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [58]吉村精仁氏は、戦後の復興期は鉄鋼統制の時代であり割りあて生産の時期であったので、丸一は仕事量も少なく地道に企業内部の充実に努めていたと述べた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [59]1947年の法人化まで、丸一は創業家による個人組織だった
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [61]米軍機の空襲もしだいに激しさを増してきたころ、軍命令で戦災に合わないうちに設備一切を即時疎開するよう申し渡され、河内長野にある三日市鋼管へ全部の搬出が終わった
    • [62]8月14日の合併調印だけが残されていたが、当日は空襲のため実現することができなかった
参考文献[39]-[62]
  • 実業の世界 1963年
    • [39]吉村福松氏が死去したのは昭和16年(1941年)で、急死だった
    • [40]当時は丸一鋼管に30人、丸一鋼業に75人の従業員を抱えていた
    • [41]吉村タキノ氏は1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、生家は由緒ある庄屋だったが、生まれた頃には家産が傾いていた
    • [42]吉村タキノ氏は1913年に吉村家へ嫁いで以来、毎朝職工と同じ時間に出社し退社していた
    • [43]吉村福松氏の死で吉村タキノ氏は体重が11貫まで痩せ細った
    • [44]工場をたたむ考えもよぎったが、女二人男一人の子のうち末子の吉村精仁氏を一人前に仕上げるまでは事業を続けると決心した
    • [46]原材料の鋼材は戦時の完全統制下で割当て制であり、同業他社は丸一の割当ての原料を奪取しようと画策した
    • [47]女とみてなめてかかる他社の攻勢を吉村タキノ氏ははね返した
    • [48]吉村タキノ氏は組合や協会の会合につねに紅一点で出席し、正論を主張して屈しなかった
    • [49]心の支柱となったのは事業よりも亡夫の残した遺児の養育だった
    • [50]丸一は戦前から住友銀行に世話になり、企業規模に比して珍しい一行取引を続けた
    • [51]戦争が進むにつれて事業の継続は困難となり、終戦を迎えた
    • [52]終戦時、さいわいなことに設備が残った
    • [55]吉村タキノ氏は亡夫の遺業をあくまで守り抜こうとし、自分で材料購入の商談を行い、統制下の原料割当てをめぐる組合・協会の場にも自ら出た
    • [56]吉村タキノ氏は朝早くから事務所へ出て工場へ入り、陣頭指揮を執った
    • [57]吉村タキノ氏は苦しい時でも歯をくいしばり、一度も倒産したことがなく、人に迷惑をかけたこともなかった
    • [60]終戦時、さいわいなことに設備が残った
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [45]代表者福松の急死は丸一鋼管にとってこれ以上の痛手はなく、丸一鋼管の看板は吉村福松その人であった
    • [53]企業合同の至上命令がふりかかってきたとき、タキノはこれに暗黙の抵抗をした
    • [54]夫の存命中ならとにかく女手一人となった今では合同したら女の身ゆえ底積みになって食われてしまうと予感したためで、ある人の口ききで一度だけは免れた
    • [61]米軍機の空襲もしだいに激しさを増してきたころ、軍命令で戦災に合わないうちに設備一切を即時疎開するよう申し渡され、河内長野にある三日市鋼管へ全部の搬出が終わった
    • [62]8月14日の合併調印だけが残されていたが、当日は空襲のため実現することができなかった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [58]吉村精仁氏は、戦後の復興期は鉄鋼統制の時代であり割りあて生産の時期であったので、丸一は仕事量も少なく地道に企業内部の充実に努めていたと述べた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [59]1947年の法人化まで、丸一は創業家による個人組織だった

第2章 1947年〜 輸出3割と需要地生産で組み上げた無借金の専業体制

筆者考察y.sugiura, author

不況のときに工場を建て、好況になって動かす。丸一鋼管の戦後30年は、この順序を繰り返している。資本金19万5千円で法人になった1947年の売上高は月平均18万円で、まだ町工場の域を出ていなかった。1954年、尼崎製鋼や岩田商事が倒れた引締めの年に設備の大増強を進め、新工場が動き出した頃に神武景気が来た。1963年には堺の埋立地へ総工費36億円を投じた。工事の間は鉄鋼の不況で支払金利と減価償却に苦しんだが、フル運転に入ってからは最大の収益源に変わった。順序が逆なら、高い設備を好況の値段で買い、不況で遊ばせることになる。丸谷紀芳氏が不況期に設備するのを持論としたのは、運の話ではなかった。

もう一つの軸は、市況の振れを自分で薄める仕組みにある。鋼管の値段は市況によって上下し、専業のメーカーは高炉メーカーの系列に入って原料と販路の安定を買うのが通例だった。丸一鋼管はそこへ入らず、吉村精仁氏ら三兄弟が株式の24%強を握ったまま、高炉4社の持ち分を16%に抑えている。代わりに置いたのが、総生産額の3分の1を輸出へ充当し、国内が好況でも不況でも輸出を止めないという方針だった。国内市況が崩れても売り先が残り、原料も商社を窓口に4社から分散して買える。堺工場の金利に苦しんだ経験から設備は自己資金でまかなうと決め、1974年に借入金を全額返した。無借金は、誰の系列にも属さないまま市況の振れを受け切るための備えだった。

半期の売上高 1966年9月期から1975年9月期まで(億円)

62.43 66年9月期 74.48 67年3月期 145.13 71年3月期 296.87 74年9月中間 257.41 75年9月中間

1947年〜統制下の法人化と、不況期に設備を打つ順序

大阪市東住吉区加美橘町85に本社を置き、丸一鋼管製作所は1947年12月18日、資本金19万5千円の株式会社として設立された。創業以来の個人組織が、これで法人になった。パイプは復興の基礎物資として引き合いが強かったものの、鉄鋼統制のもとで通商産業省から配給される量は月々3トンから6トンしかなく、設立翌年の1948年の売上高は月平均18万円にとどまった。松下電工からパイプ加工の話が持ち込まれると、丸一は設備を遊ばせないで済むとみて提携を受け入れ、統制が解ける1950年まで月々30トン前後の資材と副資材の供給を受けた。1948年には旧来のドローベンチを捨て、自動式造管機を導入している。上京したのは長男の吉村精仁氏で、まだ20歳の身で30万円の銀行保証小切手を携えていた。

  • 証券 1962年
    • [63]昭和22年12月、熔接鋼管メーカー株式会社丸一鋼管製作所として設立し、本社を大阪市東住吉区加美橘町85に置いた
  • 株式会社年鑑 1963年版「丸一鋼管」
    • [64]昭和22年12月、資本金19万5千円をもって株式会社丸一鋼管製作所を設立した
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [65]1947年の法人化まで、丸一は創業家による個人組織だった
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [66]丸一の製品であるパイプは経済・産業・国民生活再建への基礎物資で需要も旺盛だったが、鉄鋼統制下では需要に応えるだけの資材がなく、通産省からの配給は月々せいぜい3トンから6トンにすぎなかった
    • [67]売上高は昭和23年にはわずかに月平均18万円だった
    • [68]松下電工からパイプの加工をやってくれないかと申し入れがあり、設備を遊ばすことになっていた丸一にとっては願ってもない話でさっそく提携が実現した
    • [69]松下からは月々30トン前後の資材が送り込まれ、その他にもパイプ加工に必要なカーバイド・酸素など副資材の供給が行なわれ、松下との関係は統制解除になる昭和25年まで続いた
    • [70]昭和23年、昔のままのドローベンチをすてて自動式造管機を据えつけることに決まり、丸一に高能率の新式自動機械がはじめてお目見得した
    • [71]まだ20歳だった長男精仁が30万円の銀行保証小切手をポケットにして上京したのは、自動式造管機の導入を決めたこの時であった

1949年に始まったドッジラインは朝鮮動乱の特需で途切れ、円資金の散超によってインフレが再び起きた。1953年秋に政府がデフレ政策へ舵を切ると、翌1954年の引締めは予想を超える厳しさとなり、尼崎製鋼や岩田商事のような有力企業までが倒れて、倒産は全国へ広がった。丸一鋼管製作所が新工場の建設を決めたのは、この1954年の不況の底であった。経済界の流れに逆らって設備の大増強を急ぎ、積極的に拡張した。背景には、不況期こそ設備に投資すべきだという常務の丸谷紀芳氏ら経営陣の持論があり、パイプは必ず伸びると説く専務の堀川照雄氏の主張を軸に、戦後一貫して弱気の策に回らなかった。新工場はまもなくフルに稼働し、やがて神武景気が訪れた。加美橘町から移した加美神武町の製管工場が操業に入ったのは1955年である。

  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [72]昭和24年から実施されたドッジラインは朝鮮動乱で中断され、外為特別会計の円資金散超を主原因にインフレ傾向が再燃した
    • [73]政府は昭和28年秋以後デフレ政策をとり、効果が現れなかったため昭和29年から予想以上の引締めに移った
    • [74]昭和29年には企業倒産が全国的に波及し、尼崎製鋼や岩田商事といった有力会社が倒産した
    • [75]昭和29年の不況時に丸一では設備の大増強を急ぎ、本格的な新工場創設に踏み切った
    • [76]丸一は経済界の大勢に逆行するようなかたちで、構わず積極拡張政策を推進していった
    • [77]丸谷紀芳常務は、当時は不況期に設備しようというのが持論だったと回顧した
    • [78]丸谷紀芳常務は、わが社は戦後は一貫して弱気政策はとってこなかった、パイプは必ずのびるという堀川専務の主張を中心に積極政策をとってきたと述べた
    • [79]その年の暮に新工場がフルに稼動し始め、やがて全般的な鉄鋼景気が起こり、世にいう神武景気の到来となった
  • 証券 1962年
    • [80]昭和30年12月、大阪市東住吉区加美神武町1~2の新設製管工場が操業を開始した。従来は東住吉区加美橘町で操業を続けていた

統制期に生まれた二重帳簿は知らぬ間に膨れ上がり、丸一もその処理に苦慮していた。そこへ、不況の中で大規模な新工場を建てていることが監督当局の疑いを招き、国税局の抜打ち査察が入る。調べは5年前まで遡り、1年半に及ぶ徹底したものとなった。新工場の建設中で不況も最も深いという最悪の時期だったが、丸一はいずれ避けられない過去の問題をこの際に片づけることを選び、担当の丸谷紀芳氏は最初の3か月で75回も国税局へ足を運んだ。結果として過去の精算は会社の基礎を固めることになり、売上高は1954年の月平均2,290万円から1957年には月平均1億6,000万円余へ増えた。資本金は1956年5月に960万円、1957年1月に3,000万円へ引き上げられた。

  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [81]統制時代に発生した二重帳簿がいつのまにか雪だるま式にふくれあがり、丸一自身もその解決に頭を痛めていた
    • [82]丸一は不況時に大規模な新工場の建設を進めたために監督当局の疑惑を買い、国税局の抜打ち査察が行なわれた
    • [83]調査は5年前にさかのぼり、1年半もの時間をかけて徹底的に行なわれた
    • [84]丸一は不況のどん底・新工場の建設中という最悪の時期に、いずれ行なわなければならない古傷の手術をこの機会を利用して積極的に行なった
    • [85]担当の丸谷常務は初めの3か月だけで75回も国税局へかよった
    • [86]過去の精算がきれいさっぱりと行なわれ、結果的には現在の丸一の基礎固めとなった
    • [87]売上高は昭和29年には月平均2,290万円、昭和32年には月平均1億6,000万円余となった
  • 証券 1962年
    • [88]資本金は昭和31年5月に960万円、昭和32年1月に3,000万円へ増資された
参考文献[63]-[88]
  • 証券 1962年
    • [63]昭和22年12月、熔接鋼管メーカー株式会社丸一鋼管製作所として設立し、本社を大阪市東住吉区加美橘町85に置いた
    • [80]昭和30年12月、大阪市東住吉区加美神武町1~2の新設製管工場が操業を開始した。従来は東住吉区加美橘町で操業を続けていた
    • [88]資本金は昭和31年5月に960万円、昭和32年1月に3,000万円へ増資された
  • 株式会社年鑑 1963年版「丸一鋼管」
    • [64]昭和22年12月、資本金19万5千円をもって株式会社丸一鋼管製作所を設立した
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [65]1947年の法人化まで、丸一は創業家による個人組織だった
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [66]丸一の製品であるパイプは経済・産業・国民生活再建への基礎物資で需要も旺盛だったが、鉄鋼統制下では需要に応えるだけの資材がなく、通産省からの配給は月々せいぜい3トンから6トンにすぎなかった
    • [67]売上高は昭和23年にはわずかに月平均18万円だった
    • [68]松下電工からパイプの加工をやってくれないかと申し入れがあり、設備を遊ばすことになっていた丸一にとっては願ってもない話でさっそく提携が実現した
    • [69]松下からは月々30トン前後の資材が送り込まれ、その他にもパイプ加工に必要なカーバイド・酸素など副資材の供給が行なわれ、松下との関係は統制解除になる昭和25年まで続いた
    • [70]昭和23年、昔のままのドローベンチをすてて自動式造管機を据えつけることに決まり、丸一に高能率の新式自動機械がはじめてお目見得した
    • [71]まだ20歳だった長男精仁が30万円の銀行保証小切手をポケットにして上京したのは、自動式造管機の導入を決めたこの時であった
    • [72]昭和24年から実施されたドッジラインは朝鮮動乱で中断され、外為特別会計の円資金散超を主原因にインフレ傾向が再燃した
    • [73]政府は昭和28年秋以後デフレ政策をとり、効果が現れなかったため昭和29年から予想以上の引締めに移った
    • [74]昭和29年には企業倒産が全国的に波及し、尼崎製鋼や岩田商事といった有力会社が倒産した
    • [75]昭和29年の不況時に丸一では設備の大増強を急ぎ、本格的な新工場創設に踏み切った
    • [76]丸一は経済界の大勢に逆行するようなかたちで、構わず積極拡張政策を推進していった
    • [77]丸谷紀芳常務は、当時は不況期に設備しようというのが持論だったと回顧した
    • [78]丸谷紀芳常務は、わが社は戦後は一貫して弱気政策はとってこなかった、パイプは必ずのびるという堀川専務の主張を中心に積極政策をとってきたと述べた
    • [79]その年の暮に新工場がフルに稼動し始め、やがて全般的な鉄鋼景気が起こり、世にいう神武景気の到来となった
    • [81]統制時代に発生した二重帳簿がいつのまにか雪だるま式にふくれあがり、丸一自身もその解決に頭を痛めていた
    • [82]丸一は不況時に大規模な新工場の建設を進めたために監督当局の疑惑を買い、国税局の抜打ち査察が行なわれた
    • [83]調査は5年前にさかのぼり、1年半もの時間をかけて徹底的に行なわれた
    • [84]丸一は不況のどん底・新工場の建設中という最悪の時期に、いずれ行なわなければならない古傷の手術をこの機会を利用して積極的に行なった
    • [85]担当の丸谷常務は初めの3か月だけで75回も国税局へかよった
    • [86]過去の精算がきれいさっぱりと行なわれ、結果的には現在の丸一の基礎固めとなった
    • [87]売上高は昭和29年には月平均2,290万円、昭和32年には月平均1億6,000万円余となった

1955年〜生産の3分の1を輸出へ回す方針と高周波誘導熔接機

丸一鋼管製作所は、中小企業にしては早くから海外と縁があった。本格的な海外市場の開拓に乗り出したのは1955年で、設備の近代化と合理化が進んで対外競争力が備わったと判断した段階で輸出体制を整え始めた。幹部をアメリカを中心に何度も送り出して市場を調べ、総生産額の3分の1を輸出に振り向ける方針を定めた。売り込み先は鉄を豊富に持つ北米で、鉄を造らない後進国ならまだしもと、当時は不思議に思われた。国内の景気の良し悪しに左右されず輸出を続けると決めて実行したことが海外取引先の信頼につながり、1956年には小口需要家向けの販売会社丸一鋼販を設けて、商社任せだった末端の需要動向を自ら把握する経路も作った。

  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [89]それ以前にも丸一の製品は中小企業としては海外に出るほうだった
    • [90]丸一鋼管の幹部が本格的に海外市場開拓に乗りだしたのは昭和30年である
    • [91]生産設備の近代化・合理化をすすめ対外競争力があると見るや、丸一では本格的な輸出体制の整備に着手した
    • [92]幹部をしばしばアメリカを主とする海外に派遣して綿密な市場調査を行ない、総生産額の3分の1を輸出するという大方針を打ち立てた
    • [93]北米輸出を始めた当時、鉄を生産していない後進国ならともかく、鉄のいくらでもある北米に輸出していることを不思議がられた
    • [94]国内市場の好況・不況にかかわらず継続的な輸出を実行することに決めて実行したので、海外取引先の信頼をあつめた
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [95]販売のほとんどを大手商社に依存していたため小口需要先への対策が不十分で、その対応として昭和31年に丸一鋼販を設立し、端末のユーザーの声・需要動向をより早くつかめるようになった

1959年1月、丸一鋼管製作所は米国エトナ社製の電縫鋼管製造設備を完成させて稼働に入った。一億数千万円を投じて輸入した高周波誘導熔接機で、継ぎ目の目立たないステッチレス鋼管の製造に着手した。翌1960年にはアメリカからさらに高周波の熔接装置を入れ、これは日本で最初、世界でも数例しかない設備だった。当時の資本金1億円に対して設備の価格は1億5,000万円で、企業としては思い切った投資にあたった。厚い一枚の鋼板が連続して一本の鋼管に成形され、耐圧と耐久の試験でも継ぎ目は離れなかった。1956年12月の乾式亜鉛メッキ工場、1958年6月の連続塗装ライン設備と合わせ、丸一はこの前後に大手メーカーの領域へ入った。

  • 証券 1962年
    • [96]昭和34年1月、米国エトナ社製電縫鋼管製造設備が完成し稼動を開始した
    • [101]昭和31年12月に乾式亜鉛メッキ工場が完成して操業を開始し、昭和33年6月に連続塗装ライン設備が完成して稼動した
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [97]昭和34年1月、一億数千万円を投じて米国エトナ社から高周波誘導熔接機を輸入し、ステッチレス鋼管の製造に着手した
    • [100]高周波誘導熔接機による製造では部厚い一枚の鋼板が見る見るうちに一本の鋼管に造られ、試験室での耐圧・耐久・圧縮実験でもどういう条件のもとでも継ぎ目は離れなかった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [98]昭和34年に品質と生産性向上をはかるため電縫管設備を輸入し、昭和35年にはさらにアメリカから高周波の熔接装置を輸入した。わが国では最初で、世界でも数例しかない斬新な熔接装置だった
    • [99]当時の資本金が1億円であったのに対し、この設備は1億5,000万円という企業としては思い切った設備投資だった

1960年3月、丸一鋼管製作所は商号を丸一鋼管へ改めた。1961年9月には東京工場が操業を始め、関東の需要に大阪から送らずに応じられるようになった。同年11月には堺臨海工業地の12万600平方メートルの割当てを受け、次の拠点の用地を押さえた。1962年3月に大阪証券取引所第二部へ、同年8月には東京証券取引所へ株式を上場した。上場時の従業員は278名だった。1960年11月から1961年11月までの製品構成は配管用鋼管51.9%、構造鋼管45.2%、電線管2.9%である。総生産高の30%を輸出へ振り向ける目標に対し、1961年12月から1962年3月までの実績は43.8%に達していた。

  • 株式会社年鑑 1963年版「丸一鋼管」
    • [102]昭和35年3月、社名を丸一鋼管株式会社と変更した
    • [105]上場市場は大阪第二部が昭和37年3月1日、東京第二部が昭和37年8月1日である
  • 証券 1962年
    • [103]昭和36年9月、東京工場が操業を開始した
    • [104]昭和36年11月、堺臨海工業地120,600平方メートルの割当を受けた
    • [106]従業員数は昭和37年3月31日現在で278名である
    • [107]昭和35年11月から36年11月までの生産実績による製品内容は構造鋼管45.2%、配管用鋼管51.9%、電線管2.9%である
    • [108]同社はここ数年来、総生産高の30%を目標として輸出の開拓に努力しており、昭和36年12月から37年3月までの4か月の実績は43.8%を示した
参考文献[89]-[108]
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [89]それ以前にも丸一の製品は中小企業としては海外に出るほうだった
    • [90]丸一鋼管の幹部が本格的に海外市場開拓に乗りだしたのは昭和30年である
    • [91]生産設備の近代化・合理化をすすめ対外競争力があると見るや、丸一では本格的な輸出体制の整備に着手した
    • [92]幹部をしばしばアメリカを主とする海外に派遣して綿密な市場調査を行ない、総生産額の3分の1を輸出するという大方針を打ち立てた
    • [93]北米輸出を始めた当時、鉄を生産していない後進国ならともかく、鉄のいくらでもある北米に輸出していることを不思議がられた
    • [94]国内市場の好況・不況にかかわらず継続的な輸出を実行することに決めて実行したので、海外取引先の信頼をあつめた
    • [97]昭和34年1月、一億数千万円を投じて米国エトナ社から高周波誘導熔接機を輸入し、ステッチレス鋼管の製造に着手した
    • [100]高周波誘導熔接機による製造では部厚い一枚の鋼板が見る見るうちに一本の鋼管に造られ、試験室での耐圧・耐久・圧縮実験でもどういう条件のもとでも継ぎ目は離れなかった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [95]販売のほとんどを大手商社に依存していたため小口需要先への対策が不十分で、その対応として昭和31年に丸一鋼販を設立し、端末のユーザーの声・需要動向をより早くつかめるようになった
    • [98]昭和34年に品質と生産性向上をはかるため電縫管設備を輸入し、昭和35年にはさらにアメリカから高周波の熔接装置を輸入した。わが国では最初で、世界でも数例しかない斬新な熔接装置だった
    • [99]当時の資本金が1億円であったのに対し、この設備は1億5,000万円という企業としては思い切った設備投資だった
  • 証券 1962年
    • [96]昭和34年1月、米国エトナ社製電縫鋼管製造設備が完成し稼動を開始した
    • [101]昭和31年12月に乾式亜鉛メッキ工場が完成して操業を開始し、昭和33年6月に連続塗装ライン設備が完成して稼動した
    • [103]昭和36年9月、東京工場が操業を開始した
    • [104]昭和36年11月、堺臨海工業地120,600平方メートルの割当を受けた
    • [106]従業員数は昭和37年3月31日現在で278名である
    • [107]昭和35年11月から36年11月までの生産実績による製品内容は構造鋼管45.2%、配管用鋼管51.9%、電線管2.9%である
    • [108]同社はここ数年来、総生産高の30%を目標として輸出の開拓に努力しており、昭和36年12月から37年3月までの4か月の実績は43.8%を示した
  • 株式会社年鑑 1963年版「丸一鋼管」
    • [102]昭和35年3月、社名を丸一鋼管株式会社と変更した
    • [105]上場市場は大阪第二部が昭和37年3月1日、東京第二部が昭和37年8月1日である

1963年〜堺工場36億円の重荷が決めた自己資金主義

1961年、大阪府は堺市石津西町一帯の埋立てに着手した。丸一鋼管はただちに3万7,250坪の払下げを受け、1963年3月に臨海地区の先陣を切って工場の建設に取りかかった。総工費は36億円、うち土地代だけで8億円という規模で、中径管と円錐形鋼管の工場としては前例がなかった。第1期工事を終えた時点で、資本金10億円に対し借入金は20億円まで膨らんでいた。1963年9月に第一製管工場が動き出し、1965年4月には全工場がフル運転に入ったが、堺工場の立ち上がりは鉄鋼の不況期と重なり、支払金利と減価償却が業績を圧迫した。この経験を教訓に、丸一は設備投資を自己資金で賄う方針を定め、以後守り通した。

  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [109]昭和36年、大阪府は壮大な計画のもとに堺市石津西町一帯の土地づくりに着手した
    • [110]丸一鋼管はただちに3万7,250坪の土地払いさげをうけ、昭和38年3月に臨海地区のトップをきって工場建設に着工した
    • [113]堺工場は昭和38年9月に第一製管工場を完成して操業を開始し、昭和40年4月には全工場のフル運転が開始された
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [111]昭和38年、設備資金36億円(うち土地代8億円)を投じて社運をかけた堺工場の建設に着手した
    • [112]昭和40年に堺工場の第1期工事が完成し、資本金はすでに10億円、借入金は20億円になっていた
    • [114]堺工場が完成した当時は大変な不況下にあり、支払い金利と減価償却が業績の足を引っぱる苦しい時代であった
    • [115]吉村精仁氏は、このときの反省から設備は自己資金でまかなうべきだということを身にしみて感じ、以後その方針で進めてきていると述べた

堺工場と東京工場、名古屋工場を分けて持ったのは、運送費を削減するためだった。大阪から九州まで製品を運ぶと1トンあたり6,000円かかり、月に5,000トンを送れば年間3億6,000万円になる。現地に工場を置けば運送料のほとんどが節約でき、製品の荷傷みも減った。東京工場で生産すれば大阪から運ぶより1トンあたり2,000円安く、名古屋工場も同じだった。堺工場は裏手がすぐ海で、専用の埠頭を設けて1万5,000トンの荷役ができ、製品を工場から直接船積みしたため倉庫を持たなかった。名古屋工場は中部鋼鈑の熱田工場跡を買収したもので、1966年9月期末に増設を終えた。1967年3月時点の月産は堺1万トン、大阪7,000トン、東京3,500トン、名古屋2,000トンで、堺は主に輸出向けを担った。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [116]丸一鋼管は需要地に生産体制を整えることを目指して工場の建設を進めている
    • [117]大阪から九州まで製品を運ぶのに1トン当たり6,000円の運送料がかかり、月5,000トン運ぶとして年間3億6,000万円になる
    • [118]現地に工場をつくることによってほとんどの運送料が節約でき、製品の荷傷みも少ない
  • 週刊日本経済 1967年6月1日号
    • [119]東京工場で生産すれば大阪から運搬するのに比べてトン当たり2,000円安くつき、名古屋工場でも同じことが言える
    • [121]名古屋工場は中部鋼鈑の熱田工場あとを買収したもので、昭和41年9月期末には増設を完了した
    • [122]工場の月産は堺工場が1万トン、大阪工場7,000トン、東京工場3,500トン、名古屋工場2,000トンで、主力の堺工場ではおもに輸出向け鋼管を生産している
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [120]堺工場の裏手はすぐ海で、専用の埠頭をつくったので1万5,000トンの荷役も可能であり、製品は工場から直接船積みされるため製品を一時保管する倉庫は不要となった

丸一鋼管は高炉メーカーの系列に入らなかった。1971年3月期の時点で、社長の吉村精仁氏と副社長の堀川照雄氏、常務の丸谷紀芳氏の三兄弟が発行株式の24%強を持ち、新日本製鉄など高炉4社を合わせても16%にとどまった。原料のホットコイルは日商岩井や三井物産などの商社を窓口に、その4社から分散して買った。1968年3月期末に40%だった自己資本比率は、1971年3月期末に46%へ上がった。1973年前後の過剰流動性の時期にも不動産やレジャーへ資金を移さなかった。借入金は1974年までに全額返済し、手形の割引きも取りやめた。1975年9月には堺工場へ35億円を投じて冷間圧延設備を完成させ、好況期に材料の供給が絞られる制約を自給で解いた。無借金は倹約の結果ではなく、系列に入らずに済ませるための条件だった。

  • 野田経済 1971年6月23日号
    • [123]丸一鋼管は大手の系列化が進んでいる鉄鋼業界のなかで独立独歩を貫いている数少ない会社の一つである
    • [124]吉村精仁社長、堀川照雄副社長、丸谷紀芳常務の三兄弟だけで全発行株式の24%強を保有している
    • [125]鉄鋼関係では新日本製鉄、川崎製鉄、日本鋼管、日新製鋼が大株主に名を連ねているが、四社合わせても全発行株式の16%にすぎない
    • [126]原料のホットコイルの購入先も日商岩井、三井物産、安宅産業などの商社を窓口に、大株主の四社のほか広範囲に及んでおり、特定の大手メーカーの系列に入らず原料を分散して購入している
    • [127]引当金を含めた自己資本比率は昭和46年3月期末で46%、三年前の昭和43年3月期末は40%であった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [128]昭和48年を前後して過剰流動性の時代があり不動産やレジャー産業に投資するのが一般的風潮であったが、丸一はそうした方面には目をうつさず高収益時代の利益を企業内部の蓄積にまわした
    • [129]借入金は昭和49年までに全部返済し、さらに手形の割引きを取りやめた
    • [130]昭和50年9月に堺工場へ35億円を投じて冷間圧延設備を完成し、好況時に高炉メーカーからの材料供給の数量に制約を受けるケースが多かった問題を自給体制の確立で解決した
参考文献[109]-[130]
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [109]昭和36年、大阪府は壮大な計画のもとに堺市石津西町一帯の土地づくりに着手した
    • [110]丸一鋼管はただちに3万7,250坪の土地払いさげをうけ、昭和38年3月に臨海地区のトップをきって工場建設に着工した
    • [113]堺工場は昭和38年9月に第一製管工場を完成して操業を開始し、昭和40年4月には全工場のフル運転が開始された
    • [120]堺工場の裏手はすぐ海で、専用の埠頭をつくったので1万5,000トンの荷役も可能であり、製品は工場から直接船積みされるため製品を一時保管する倉庫は不要となった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [111]昭和38年、設備資金36億円(うち土地代8億円)を投じて社運をかけた堺工場の建設に着手した
    • [112]昭和40年に堺工場の第1期工事が完成し、資本金はすでに10億円、借入金は20億円になっていた
    • [114]堺工場が完成した当時は大変な不況下にあり、支払い金利と減価償却が業績の足を引っぱる苦しい時代であった
    • [115]吉村精仁氏は、このときの反省から設備は自己資金でまかなうべきだということを身にしみて感じ、以後その方針で進めてきていると述べた
    • [116]丸一鋼管は需要地に生産体制を整えることを目指して工場の建設を進めている
    • [117]大阪から九州まで製品を運ぶのに1トン当たり6,000円の運送料がかかり、月5,000トン運ぶとして年間3億6,000万円になる
    • [118]現地に工場をつくることによってほとんどの運送料が節約でき、製品の荷傷みも少ない
    • [128]昭和48年を前後して過剰流動性の時代があり不動産やレジャー産業に投資するのが一般的風潮であったが、丸一はそうした方面には目をうつさず高収益時代の利益を企業内部の蓄積にまわした
    • [129]借入金は昭和49年までに全部返済し、さらに手形の割引きを取りやめた
    • [130]昭和50年9月に堺工場へ35億円を投じて冷間圧延設備を完成し、好況時に高炉メーカーからの材料供給の数量に制約を受けるケースが多かった問題を自給体制の確立で解決した
  • 週刊日本経済 1967年6月1日号
    • [119]東京工場で生産すれば大阪から運搬するのに比べてトン当たり2,000円安くつき、名古屋工場でも同じことが言える
    • [121]名古屋工場は中部鋼鈑の熱田工場あとを買収したもので、昭和41年9月期末には増設を完了した
    • [122]工場の月産は堺工場が1万トン、大阪工場7,000トン、東京工場3,500トン、名古屋工場2,000トンで、主力の堺工場ではおもに輸出向け鋼管を生産している
  • 野田経済 1971年6月23日号
    • [123]丸一鋼管は大手の系列化が進んでいる鉄鋼業界のなかで独立独歩を貫いている数少ない会社の一つである
    • [124]吉村精仁社長、堀川照雄副社長、丸谷紀芳常務の三兄弟だけで全発行株式の24%強を保有している
    • [125]鉄鋼関係では新日本製鉄、川崎製鉄、日本鋼管、日新製鋼が大株主に名を連ねているが、四社合わせても全発行株式の16%にすぎない
    • [126]原料のホットコイルの購入先も日商岩井、三井物産、安宅産業などの商社を窓口に、大株主の四社のほか広範囲に及んでおり、特定の大手メーカーの系列に入らず原料を分散して購入している
    • [127]引当金を含めた自己資本比率は昭和46年3月期末で46%、三年前の昭和43年3月期末は40%であった

第3章 1978-2002 (気が向いたら執筆します!) ロサンゼルスの現地生産と角形鋼管コラムへの転換

第4章 2003-2026 (気が向いたら執筆します!) 非同族の鈴木博之が継いだ経営とステンレスへの拡張

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歴史年表 1913〜2022年

丸一鋼管の沿革1913〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1913〜1946年満州から返品された自転車ハンドルが生んだ鋼管の内製吉村福松が大阪の平野郷町に福松製作所を創業し自転車用ブレーキの製造を開始★★★
中河内郡加美村に工場を移転し丸一製作所に商号変更★
自転車ハンドル用鋼管の自社製造技術を確立し鋼管の内製に転換★★★
丸一鋼管工場に商号変更し自転車部門を分離★★
1947〜1977年輸出3割と需要地生産で組み上げた無借金の専業体制大阪市東住吉区加美橘町に丸一鋼管製作所を設立★★
販売子会社の丸一鋼販を設立★
大阪工場を新設★
丸一鋼管に商号変更★★
東京工場を新設★
大阪・東京両証券取引所市場第二部に上場★★
大阪・東京両証券取引所市場第一部に指定★
堺工場を新設★
吉村精仁名古屋工場を新設★
吉村精仁北海道丸一鋼管を設立★
吉村精仁特品工場を新設し特殊形状鋼管に参入★
吉村精仁四国丸一鋼管を設立★
吉村精仁九州丸一鋼管を設立★
1978〜2002年ロサンゼルスの現地生産と角形鋼管コラムへの転換吉村精仁米国にマルイチ・アメリカン・コーポレーションを設立し海外生産を開始★★★
吉村精仁詫間工場を新設★
吉村精仁鹿島特品工場を新設★
2003〜2026年非同族の鈴木博之が継いだ経営とステンレスへの拡張鈴木博之台湾のウイニング・インベストメント・コーポレーションの株式を取得★
鈴木博之東洋特殊鋼業の増資を引き受け子会社化★
鈴木博之ベトナムのサン・スチール・コーポレーションの持分を取得しアジア生産を開始★★
鈴木博之米国のレビット・チューブ・カンパニーLLCの持分を取得★★
鈴木博之ベトナムにサン・スチール・(ハノイ)・カンパニー・リミテッドを設立★
鈴木博之アルファメタルの増資を引き受け子会社化★
鈴木博之インドのクマ・ステンレス・チューブ・リミテッドの持分を取得★
鈴木博之メキシコにマルイチメックスS.A.de C.V.を設立★
吉村貴典米国Evraz Oregon Steelの構造用鋼管事業を譲受★★
吉村貴典フィリピンにマルイチ・フィリピン・スチール・チューブ・インクを設立★
吉村貴典コベルコ鋼管の全株式を取得しステンレス鋼管事業に本格参入★★★
吉村貴典米国ジェネバ・ストラクチュアル・チューブズLLCの全持分を取得★
吉村貴典東京証券取引所プライム市場に移行★
吉村貴典米国にマルイチ・ステンレス・チューブ・テキサス・コーポレーションを設立★
出典・参考 9件
出典・参考
  • 株式会社年鑑 1963年版「丸一鋼管」
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
  • 週刊日本経済 1967年6月1日号
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
  • 商工振興 2020年12月号「関西企業ヒストリア 第9回 丸一鋼管株式会社」(大阪府工業協会)
  • 証券 1962年
  • 実業の世界 1963年
  • 野田経済 1971年6月23日号

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