吉村福松氏は1913年、大阪の平野郷町(現・大阪市平野区平野東)に福松製作所を構え、社員8名と2馬力のモーター1基で自転車用ブレーキをつくり始めた[1]。月産600セットの町工場として出発した[2]。自転車は明治初期に日本へ渡り、輸入車の修理と補修部品の生産から産業として立ち上がった[3]。1914年に始まった第一次世界大戦で輸入が途絶えると国産化が急速に進み、鉄砲鍛冶が集まって金属加工の盛んだった堺の周辺でも、多くの業者が自転車部品の製造へ転じた[4]。同じ1913年に奈良県の農家から吉村家へ嫁いだ吉村タキノ氏は、経理と営業、材料の仕入れを受け持った[5]。
福松製作所は自転車用ブレーキに続いてハンドルの製造にも入った[6]。この製品は『丸一ハンドル』と名付けられ、丸に永遠の発展と和、一に純粋で誠実の意味が込められ、売り出すとすぐに評判を取った[7]。やがて丸一ったんという呼び名が製品を離れ、会社と経営者そのものを指す愛称として広まった[8]。丸の字は後に鋼管の断面と和・円満・親睦を、一の字は鋼管の長さと第一位・誠・純粋を表す社章の意味へ読み替えられた[9]。吉村福松氏は算盤勘定より製品の出来を先に置く技術者で、経理も営業も材料の仕入れも吉村タキノ氏が受け持った[10]。吉村タキノ氏の負けん気の強さは、当時から定評があった[11]。
創業から13年後の1926年、丸一は工場を中河内郡加美村(現・大阪市平野区加美西)へ移し、製品名から取って社名を丸一製作所と改めた[12]。丸一製作所のハンドルはニッケル・クロームの厚メッキを施してあり、いつまでもさびないという評判を取って、国内はもとより朝鮮や満州にまで売られた[13]。後年に吉村精仁氏は、丸一のハンドル生産の始まりを1926年に置き、当時の自転車は今日の自動車にあたる有望な産業だったと振り返った[14]。ハンドルは自転車の顔にあたる[15]。良いものをつくるには材料の鋼管まで自分で手がけねばならない、というのが丸一製作所の考えだった[16]。
丸一製作所は自転車部品の材料となるパイプを外部から仕入れており、粗悪品の多さに嫌気がさしていた[17]。そこへ、満州へ売った約2か月分のハンドルが全量を不良品として送り返された[18]。原因を調べると、ハンドルのパイプの溶接部に割れが生じており[19]、極寒の満州の寒さが素材のパイプそのものに異変を生んでいた[20]。部品をつくる丸一製作所にとって、買ってきた素材の欠陥はどうすることもできなかった[21]。それでも吉村福松氏は、鋼管そのものが悪いのなら良質のものを自分の手でつくると決め、丸太柱にトタン葺きの工場1棟とドローベンチ2台を買い、専任の職人を1名付けて鋼管製造の試作を始めた[22]。
丸一が溶接鋼管に手をつけた年について、吉村タキノ氏は1933年を挙げた[23]。吉村精仁氏は自転車用鋼管の自社生産の開始を1935年と語り[24]、丸一製作所に鋼管部門を併立して丸一鋼管工場と称したのも1935年にあたる[25]。着手の年は割れるものの、1930年代の半ばであることは動かない。自転車部品では一流でも、吉村福松氏は鋼管づくりでは素人だった[26]。技術者と呼べる者が社内に一人もおらず、電気溶接機もガス溶接機もない時代に、手加工のガス溶接でパイプをつくった[27]。売り物にならない不良品が出続けて工場にはスクラップが積み上がり、数年にわたって赤字が続いた[28]。
吉村福松氏は1937年に鋼管の研究を完成させた[29]。この頃の丸一は従業員70名の中規模の町工場で、鋼管の研究には会社の利益を上回る資金が注ぎ込まれ、経営の維持に苦労が絶えなかった[30]。技術の完成により、丸一は素材の鋼管から自転車のハンドル、ブレーキまでを自社で一貫して製造した[31]。パイプの生産が軌道に乗り始めたのは1939年ごろからで、それまでパイプ部門の赤字を埋めてきた自転車部品部門は、戦時の企業統合で他社へ分離移譲された[32]。1940年から丸一はパイプ一本の専業となり、別会社の丸一鋼業で磨き棒鋼とシャフトの生産も始めた[33]。
吉村福松氏は1941年に急死し[34]、丸一鋼管に30名、丸一鋼業に75名、あわせて105名の従業員を抱えたところで、吉村タキノ氏が事業を引き継いだ[35]。1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、生家は由緒ある庄屋ながら、生まれた頃には家産が傾いていた[36]。1913年に吉村家へ嫁いで以来、毎朝職工と同じ時刻に出社し、同じ時刻に退社してきた[37]。吉村福松氏の死で、吉村タキノ氏の体重は11貫まで落ちた[38]。工場をたたんで暮らそうと考えた時期もあったが、二女一男のうち末子の吉村精仁氏を一人前にするまでは事業を続けると決めた[39]。
戦時下の鋼材は完全な統制と割当ての下にあり、同業他社は丸一の割当て分を奪おうと動いた[40]。女性が継いだ会社と見て攻勢をかける同業他社を吉村タキノ氏ははね返し[41]、組合や協会の会合には女性ただ一人で出席して正論を主張し、割当てを譲らなかった[42]。事業そのものよりも、夫が残した遺児の養育が吉村タキノ氏を支えた[43]。取引銀行は戦前から住友銀行の一行に絞り、企業規模に比して珍しい一行取引をその後も続けた[44]。戦争が進むにつれて事業の継続そのものが難しくなったが[45]、1945年の終戦の時点でも丸一の設備は手元に残っていた[46]。
吉村タキノ氏は、夫が残した事業を手放さないと決め、鋼材の割当てを受けるための折衝も、材料の仕入れの商談も自ら引き受けた[47]。朝早くから事務所に出て工場に入り、現場の指揮までを受け持った[48]。苦しい時期を通じて丸一を一度も倒産させず、取引先に迷惑をかけることもなかった[49]。吉村精仁氏は後年、戦後の復興期を鉄鋼統制と割当て生産の時代と呼び、丸一の仕事量も少なかったと振り返った[50]。創業から33年を経ても、丸一はなお創業家が営む個人組織のままで[51]、手元に残ったのは加美の工場と、戦時を通じて手放さなかった設備である[52]。
1947年12月、吉村タキノ社長は資本金19万5,000円で株式会社丸一鋼管製作所を設立し、本社を大阪市東住吉区加美橘町に置いた[53]。1941年に夫の吉村福松氏を急死で失ってから、鋼材が全面統制下にあった戦時を割当ての確保で凌ぎ、終戦時には設備だけが手元に残った[54]。成長した末子の吉村精仁氏と、復員した長女の女婿である堀川照雄氏を加えた3人で、吉村タキノ社長は町工場から出直した[55]。丸一鋼管は1948年3月を設立の日として数え、2018年3月には大阪のリーガロイヤルホテルで設立70周年の式典を開き、取引先や関係者1,000名超を招いた[56]。
設立の翌1948年5月、丸一鋼管製作所は東京の専門機械メーカーから高能率の新式自動造管機を購入し、量産に移った[57]。同時に造管機そのものの設計にも自前で取り組み、自社製第1号機を仕上げて機械化と増産を進めた[58]。自社設計で製管機を作る慣行はその後も続き、1976年時点で月産8万3,000トンの能力を持つ製管設備はすべて自社設計であり、ミルメーカーから直接購入するより取得価額が安くついた[59]。本社に隣接する加美神武町では1955年12月に新設の製管工場が操業を始め、1956年12月には乾式亜鉛メッキ工場が完成した[60]。
輸出の開拓に乗り出したのは1955年頃で、生産設備の近代化と合理化で対外競争力に自信をつけたことが引き金になった[61]。当初の主力は東南アジアだったが、安定した輸出と品質の向上を同時に取るには先進国が最適と判断し、1957年頃からアメリカを中心に海外視察と市場調査を重ね、販売総額の3分の1を輸出に振り向ける方針を定めた[62]。国内では大手商社を通す販売が小口の需要家に届かず、1956年12月に丸一鋼販株式会社を設立して末端の声と需要動向を直接つかむ経路を作った[63]。1957年12月には本社を加美神武町へ移して大阪工場を新設し、1960年3月に商号を丸一鋼管株式会社へ改めた[64]。
1961年9月、丸一鋼管は東京工場を新設し、関東の需要に現地で応える構えを整えた[65]。1962年3月に大阪・東京両証券取引所の市場第二部へ上場し、1964年8月には第一部へ移った[66]。上場後まもない1962年6月末の株主1,089名のうち698名が大阪府内に住み、株式数の88.4%を占めていた[67]。上場時の従業員は278名で、生産の主力は直径4インチ以下の小径管と異形管だった[68]。1960年11月からの1年間の生産実績は配管用鋼管51.9%、構造鋼管45.2%、電線管2.9%という構成で、輸出は総生産高の30%を目標に置き、1961年12月から1962年3月までの4か月では43.8%に達した[69]。
丸一鋼管は日本鉄鋼連盟に加盟せず[70]、大手鉄鋼メーカーの系列にも加わらなかった[71]。鋼管一本に生産を絞って原価を下げ、安いときは他社の先頭を切って値を出す売り方をとり、1962年には住友金属工業・富士製鉄・日本鋼管・川崎製鉄に次ぐ生産量第5位を占めた[72]。輸出には過去5年間、平均して全生産の3割以上を振り向けており[73]、国内市況が高いときの安値輸出は採算で劣るものの、鉄鋼不況期には資金繰りを助けた[74]。1962年9月期は総売上高31億9,000万円のうち15億1,000万円、およそ5割を輸出が占め、国内市況の落ち込みを打ち消した[75]。
1961年11月に堺臨海工業地帯で12万600平方メートルの割当てを受けた丸一鋼管は[76]、総工費40億3,000万円、うち用地買収費7億2,700万円を投じる新工場を1963年3月に着工した[77]。当時の資本金6億6,000万円の10倍にあたる規模で、不足する11億7,000万円は日本長期信用銀行と住友銀行から借り入れた[78]。1965年4月に堺工場が完成したとき、資本金は10億円、借入金は20億円に達しており[79]、完成が鉄鋼の不況期と重なって支払金利と減価償却が業績を圧迫した[80]。吉村精仁社長はこの反省から、設備は自己資金でまかなうという方針を定め、以後これを守った[81]。
丸一鋼管は需要地に生産を置いて輸送費を削る型を固め、1966年10月には中部鋼鈑の熱田工場跡地を買い取って名古屋工場を新設した[82][83]。東京工場で作れば大阪から運ぶよりトン当たり2,000円安く、名古屋でも同じ差が出た[84]。堺工場に設けた専用埠頭は1万5,000トンの荷役をこなし、月600万円の節減をもたらした[85]。さらに1970年2月に北海道丸一鋼管、1974年7月に四国丸一鋼管、同年11月に九州丸一鋼管を設立し、各社の製品を丸一鋼管が仕入れて売る形をとった[86]。1972年11月には堺に特品工場、1973年10月には東京第二工場を新設した[87]。
1967年度からの3か年計画で、丸一鋼管は月産3万トンを作り、それを全量売り切る設備と販売の両面を組んだ[88]。1967年10月時点の月産能力は大阪1万トン、堺1万6,000トン、東京6,000トン、名古屋4,000トンで、東京は関東から北海道、名古屋は中部経済圏、大阪と堺は関西から九州と受持ちを割り振った[89]。所要資金は年5億円を見込み、社外流出を抑えて新規借入なしに自己資金でまかなう計画を立てた[90]。1968年3月期には月3万トン、通期18万トンを売って計画を前倒しで達成し、1968年度は設備投資9億5,000万円と長期借入金の返済4億3,000万円を並行させ、設備借入金を5億3,000万円まで減らした[91]。
堺工場の建設以来、丸一鋼管は借入金の早期返済を目指し、1974年3月にその全額を返し終えた[92]。堺への投資が鋼管需要の伸びと重なったこと、その間に国内外へ生産拠点を置いて収益を増やしたことが、早期の完済を可能にした[93]。1975年には需要の落ち込みで減収減益となり、堀川照雄会長と吉村精仁社長は低成長への対応として品質の向上・コストダウン・機動性の3つを掲げた[94]。素材処理加工の内製もこの線上にあり、丸一鋼管は同業他社に先んじて鋼板を切るスリッター、コイルの連続メッキ、冷間圧延の各設備を堺工場へ入れた[95]。1975年9月に完成した冷間圧延設備は35億円を投じたもので月産7,500トン、高炉メーカーからの供給量に縛られる制約を解いた[96]。
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|---|---|---|---|---|
| 1913〜1946年満州から返品された自転車ハンドルが生んだ鋼管の内製 | 吉村福松が大阪の平野郷町に福松製作所を創業し自転車用ブレーキの製造を開始 | ★★★ | ||
| 中河内郡加美村に工場を移転し丸一製作所に商号変更 | ★ | |||
| 自転車ハンドル用鋼管の自社製造技術を確立し鋼管の内製に転換 | ★★★ | |||
| 丸一鋼管工場に商号変更し自転車部門を分離 | ★★ | |||
| 1947〜1977年輸出3割と需要地生産で組み上げた無借金の専業体制 | 大阪市東住吉区加美橘町に丸一鋼管製作所を設立 | ★★ | ||
| 販売子会社の丸一鋼販を設立 | ★ | |||
| 大阪工場を新設 | ★ | |||
| 丸一鋼管に商号変更 | ★★ | |||
| 東京工場を新設 | ★ | |||
| 大阪・東京両証券取引所市場第二部に上場 | ★★ | |||
| 大阪・東京両証券取引所市場第一部に指定 | ★ | |||
| 堺工場を新設 | ★ | |||
| 吉村精仁 | 名古屋工場を新設 | ★ | ||
| 吉村精仁 | 北海道丸一鋼管を設立 | ★ | ||
| 吉村精仁 | 特品工場を新設し特殊形状鋼管に参入 | ★ | ||
| 吉村精仁 | 四国丸一鋼管を設立 | ★ | ||
| 吉村精仁 | 九州丸一鋼管を設立 | ★ | ||
| 1978〜2002年ロサンゼルスの現地生産と角形鋼管コラムへの転換 | 吉村精仁 | 米国にマルイチ・アメリカン・コーポレーションを設立し海外生産を開始 | ★★★ | |
| 吉村精仁 | 詫間工場を新設 | ★ | ||
| 吉村精仁 | 鹿島特品工場を新設 | ★ | ||
| 2003〜2026年非同族の鈴木博之が継いだ経営とステンレスへの拡張 | 鈴木博之 | 台湾のウイニング・インベストメント・コーポレーションの株式を取得 | ★ | |
| 鈴木博之 | 東洋特殊鋼業の増資を引き受け子会社化 | ★ | ||
| 鈴木博之 | ベトナムのサン・スチール・コーポレーションの持分を取得しアジア生産を開始 | ★★ | ||
| 鈴木博之 | 米国のレビット・チューブ・カンパニーLLCの持分を取得 | ★★ | ||
| 鈴木博之 | ベトナムにサン・スチール・(ハノイ)・カンパニー・リミテッドを設立 | ★ | ||
| 鈴木博之 | アルファメタルの増資を引き受け子会社化 | ★ | ||
| 鈴木博之 | インドのクマ・ステンレス・チューブ・リミテッドの持分を取得 | ★ | ||
| 鈴木博之 | メキシコにマルイチメックスS.A.de C.V.を設立 | ★ | ||
| 吉村貴典 | 米国Evraz Oregon Steelの構造用鋼管事業を譲受 | ★★ | ||
| 吉村貴典 | フィリピンにマルイチ・フィリピン・スチール・チューブ・インクを設立 | ★ | ||
| 吉村貴典 | コベルコ鋼管の全株式を取得しステンレス鋼管事業に本格参入 | ★★★ | ||
| 吉村貴典 | 米国ジェネバ・ストラクチュアル・チューブズLLCの全持分を取得 | ★ | ||
| 吉村貴典 | 東京証券取引所プライム市場に移行 | ★ | ||
| 吉村貴典 | 米国にマルイチ・ステンレス・チューブ・テキサス・コーポレーションを設立 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(丸一鋼管)