第1章 年〜年

丸一鋼管:吉村福松の福松製作所創業と自転車ハンドル用鋼管の内製

1913年〜平野郷町の社員8名で始めた「丸一ハンドル」

吉村福松氏は1913年、大阪の平野郷町(現・大阪市平野区平野東)に福松製作所を構え、社員8名と2馬力のモーター1基で自転車用ブレーキをつくり始めた。月産600セットの町工場として出発した。自転車は明治初期に日本へ渡り、輸入車の修理と補修部品の生産から産業として立ち上がった。1914年に始まった第一次世界大戦で輸入が途絶えると国産化が急速に進み、鉄砲鍛冶が集まって金属加工の盛んだった堺の周辺でも、多くの業者が自転車部品の製造へ転じた。同じ1913年に奈良県の農家から吉村家へ嫁いだ吉村タキノ氏は、経理と営業、材料の仕入れを受け持った。吉村福松氏は数人の徒弟を相手に真っ黒になって働く身分から出発した。

  • 商工振興 2020年12月号「関西企業ヒストリア 第9回 丸一鋼管株式会社」(大阪府工業協会)
    • [1]1913年、吉村福松氏が平野郷町(現・大阪市平野区平野東)で福松製作所を創業し、社員8名・2馬力のモーター1基で自転車用ブレーキの製造を開始した
    • [2]創業時の自転車用ブレーキの生産は月間600セットだった
    • [3]自転車は明治初期に日本に渡来し、輸入自転車の修理と補修部品の生産から産業として発展した
    • [4]1914年に勃発した第一次世界大戦による輸入途絶が自転車製造の国産化を進め、鉄砲鍛冶屋が集積し金属加工が盛んな堺地域でも多くの業者が自転車部品製造業に転身した
  • 実業の世界 1963年
    • [5]吉村タキノ氏は1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、1913年に吉村家へ嫁ぎ、経理・営業・材料仕入れの面で働いた
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [6]吉村福松の自転車ハンドル製造は、最初は数人の徒弟を相手に真っ黒になって働く身分であった

福松製作所は自転車用ブレーキに続いてハンドルの製造にも入った。この製品は"丸一ハンドル"と名付けられ、丸に永遠の発展と和、一に純粋で誠実の意味が込められ、売り出すとすぐに評判を取った。やがて丸一ったんという呼び名が製品を離れ、会社と経営者そのものを指す愛称として広まった。丸の字は後に鋼管の断面と和・円満・親睦を、一の字は鋼管の長さと第一位・誠・純粋を表す社章の意味へ読み替えられた。吉村福松氏は算盤勘定より製品の出来を先に置く技術者で、経理も営業も材料の仕入れも吉村タキノ氏が受け持った。吉村タキノ氏の負けん気の強さは、当時から定評があった。吉村福松氏の事業経営は良い物をつくればよく売れるという考えに立ち、商談の技術を持たず、不当な安値にたたかれても納めていた。

  • 商工振興 2020年12月号「関西企業ヒストリア 第9回 丸一鋼管株式会社」(大阪府工業協会)
    • [7]吉村福松氏は自転車用ブレーキに加えてハンドルの製造も手がけた
    • [8]ハンドルは「丸一ハンドル」と名付けられ、丸に「永遠の発展と和」、一に「純粋で誠実」の意味が込められ、すぐさま評判になった
    • [9]「丸一ったん」の名称は製品にとどまらず、会社や経営者を指す愛称としても広まった
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [10]社章の丸は鋼管の断面を表すと同時に和・円満・親睦を、一は鋼管の長さと第一位・誠・純粋を意味する
  • 実業の世界 1963年
    • [11]吉村福松氏はソロバン勘定を無視してでもいい製品をつくれば気のすむ技術者タイプで、吉村タキノ氏が経理・営業・材料仕入れの面で活躍した
    • [12]吉村タキノ氏は当時から負けん気の強いことで定評があった
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [13]吉村福松の事業経営能力は手練手管のないもので、良い物を作ればよく売れるといった平凡極まるものであり、商談技術は下手どころかないも同様で、不当な安値にたたかれても唯々諾々として納めていた

創業から13年後の1926年、丸一は工場を中河内郡加美村(現・大阪市平野区加美西)へ移し、製品名から取って社名を丸一製作所と改めた。丸一製作所のハンドルはニッケル・クロームの厚メッキを施してあり、いつまでもさびないという評判を取って、国内はもとより朝鮮や満州にまで売られた。丸一のハンドル生産は1926年の吉村福松氏の着手にさかのぼり、当時の自転車は今日の自動車にあたる有望な産業だった。ハンドルは自転車の顔にあたる。良いものをつくるには材料の鋼管まで自分で手がけねばならない、というのが丸一製作所の考えだった。町工場とはいえ従業員の給与も材料費も毎月きまって支払わねばならず、その苦労は吉村タキノ氏の肩にのしかかった。

  • 商工振興 2020年12月号「関西企業ヒストリア 第9回 丸一鋼管株式会社」(大阪府工業協会)
    • [14]1926年、中河内郡加美村(現・大阪市平野区加美西)に工場を移転し、丸一ブランドの名を取って社名を丸一製作所と改称した
    • [15]丸一ハンドルはニッケル・クロームの厚メッキが施されていたため「いつまでもサビない」と評判を呼び、国内はもとより朝鮮や満州にまで販売された
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [16]吉村精仁氏は、前身が大正15年(1926年)に吉村福松氏が自転車のハンドルの生産を始めたことにさかのぼると述べ、当時の自転車は今日の自動車にあたる有望な産業だったと語った
    • [17]自転車のハンドルは人間の顔に相当する部分であり、いいものをつくるからには材料となる鋼管までを手がけなければならぬという考えを持っていた
    • [18]自転車のハンドルは人間の顔に相当する部分であり、いいものをつくるからには材料となる鋼管までを手がけなければならぬという考えを持っていた
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [19]町工場とはいえ従業員の給与はきちんと支払わねばならず材料をはじめとする経常諸費も毎月相当額を支払わねばならなかったため、製品の研究に余念のない夫の生活からもれる経営の苦労はタキノの肩にのしかかった
参考文献[1]-[19]
    • [1]1913年、吉村福松氏が平野郷町(現・大阪市平野区平野東)で福松製作所を創業し、社員8名・2馬力のモーター1基で自転車用ブレーキの製造を開始した
    • [2]創業時の自転車用ブレーキの生産は月間600セットだった
    • [3]自転車は明治初期に日本に渡来し、輸入自転車の修理と補修部品の生産から産業として発展した
    • [4]1914年に勃発した第一次世界大戦による輸入途絶が自転車製造の国産化を進め、鉄砲鍛冶屋が集積し金属加工が盛んな堺地域でも多くの業者が自転車部品製造業に転身した
    • [7]吉村福松氏は自転車用ブレーキに加えてハンドルの製造も手がけた
    • [8]ハンドルは「丸一ハンドル」と名付けられ、丸に「永遠の発展と和」、一に「純粋で誠実」の意味が込められ、すぐさま評判になった
    • [9]「丸一ったん」の名称は製品にとどまらず、会社や経営者を指す愛称としても広まった
    • [14]1926年、中河内郡加美村(現・大阪市平野区加美西)に工場を移転し、丸一ブランドの名を取って社名を丸一製作所と改称した
    • [15]丸一ハンドルはニッケル・クロームの厚メッキが施されていたため「いつまでもサビない」と評判を呼び、国内はもとより朝鮮や満州にまで販売された
  • 実業の世界 1963年
    • [5]吉村タキノ氏は1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、1913年に吉村家へ嫁ぎ、経理・営業・材料仕入れの面で働いた
    • [11]吉村福松氏はソロバン勘定を無視してでもいい製品をつくれば気のすむ技術者タイプで、吉村タキノ氏が経理・営業・材料仕入れの面で活躍した
    • [12]吉村タキノ氏は当時から負けん気の強いことで定評があった
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [6]吉村福松の自転車ハンドル製造は、最初は数人の徒弟を相手に真っ黒になって働く身分であった
    • [13]吉村福松の事業経営能力は手練手管のないもので、良い物を作ればよく売れるといった平凡極まるものであり、商談技術は下手どころかないも同様で、不当な安値にたたかれても唯々諾々として納めていた
    • [19]町工場とはいえ従業員の給与はきちんと支払わねばならず材料をはじめとする経常諸費も毎月相当額を支払わねばならなかったため、製品の研究に余念のない夫の生活からもれる経営の苦労はタキノの肩にのしかかった
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [10]社章の丸は鋼管の断面を表すと同時に和・円満・親睦を、一は鋼管の長さと第一位・誠・純粋を意味する
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [16]吉村精仁氏は、前身が大正15年(1926年)に吉村福松氏が自転車のハンドルの生産を始めたことにさかのぼると述べ、当時の自転車は今日の自動車にあたる有望な産業だったと語った
    • [17]自転車のハンドルは人間の顔に相当する部分であり、いいものをつくるからには材料となる鋼管までを手がけなければならぬという考えを持っていた
    • [18]自転車のハンドルは人間の顔に相当する部分であり、いいものをつくるからには材料となる鋼管までを手がけなければならぬという考えを持っていた

1933年〜不良品の返品が生んだ溶接鋼管への転換

丸一製作所は自転車部品の材料となるパイプを外部から仕入れており、粗悪品の多さに嫌気がさしていた。そこへ、満州へ売った約2か月分のハンドルが全量を不良品として送り返された。原因を調べると、ハンドルのパイプの溶接部に割れが生じており、極寒の満州の寒さが素材のパイプそのものに異変を生んでいた。部品をつくる丸一製作所にとって、買ってきた素材の欠陥はどうすることもできなかった。それでも吉村福松氏は、鋼管そのものが悪いのなら良質のものを自分の手でつくると決め、丸太柱にトタン葺きの工場1棟とドローベンチ2台を買い、専任の職人を1名付けて鋼管製造の試作を始めた。鋼管を始めて間もない頃、借地の150坪について地主から返還を求められると、吉村タキノ氏は夫に内緒で貯めた4,800円を差し出してその土地を買い取った。

  • 実業の世界 1963年
    • [20]外部から仕入れる自転車材料のパイプに粗悪品が多いのに嫌気がさしていた
  • 商工振興 2020年12月号「関西企業ヒストリア 第9回 丸一鋼管株式会社」(大阪府工業協会)
    • [21]満州に販売した約2か月分の製品すべてが不良品として送り返されるクレームが起きた
    • [22]原因はハンドルのパイプ溶接部に割れが生じていたことだった
    • [23]極寒の満州では、その寒さゆえに素材のパイプに異変が起きていた
    • [24]問題が素材にあるため、部品製造の丸一には如何ともしがたい状況だった
    • [25]吉村福松氏は丸太柱のトタン葺き工場1棟とドローベンチ2台を購入し、専任の職人1名をつけて鋼管製造の試作を開始した
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [26]パイプを始めて間もない戦前、丸一は敷地300坪のうち借地分150坪の返還を地主から求められ、タキノが自ら交渉にあたり、夫に内緒で貯めた4,800円を買収費として差し出して150坪を買いとった

丸一が溶接鋼管に手をつけた年について、吉村タキノ氏は1933年を挙げた。自転車用鋼管の自社生産が始まったのは1935年で、丸一製作所に鋼管部門を併立して丸一鋼管工場と称したのも1935年にあたる。着手の年は割れるものの、1930年代の半ばであることは動かない。自転車部品では一流でも、吉村福松氏は鋼管づくりでは素人だった。技術者と呼べる者が社内に一人もおらず、電気溶接機もガス溶接機もない時代に、手加工のガス溶接でパイプをつくった。売り物にならない不良品が出続けて工場にはスクラップが積み上がり、数年にわたって赤字が続いた。

  • 実業の世界 1963年
    • [27]溶接鋼管を手がけたのは昭和8年(1933年)であり、外部から仕入れる自転車材料のパイプに粗悪品が多く、自分でパイプから一貫生産しようと踏み切った
    • [31]技術者らしい者が一人もおらず、当時は電気溶接・ガス溶接機がなく、完全な手加工によるガス溶接パイプだった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [28]吉村精仁氏は、昭和10年(1935年)から自転車用鋼管の自社生産を開始したと述べた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [29]昭和10年(1935年)、前身の丸一製作所に鋼管部門を併立し、丸一鋼管工場と称した
  • 商工振興 2020年12月号「関西企業ヒストリア 第9回 丸一鋼管株式会社」(大阪府工業協会)
    • [30]吉村福松氏は自転車部品の製造では一流でも、鋼管づくりにおいては素人だった
    • [32]良質な鋼管はなかなか完成せず工場にはスクラップの山が積み上がり、市販できない不良品が続出して数年間は赤字の連続だった

吉村福松氏は1937年に鋼管の研究を完成させた。この頃の丸一は従業員70名の中規模の町工場で、鋼管の研究には会社の利益を上回る資金が注ぎ込まれ、経営の維持に苦労が絶えなかった。技術の完成により、丸一は素材の鋼管から自転車のハンドル、ブレーキまでを自社で一貫して製造した。戦時の企業統合によって、自転車部品の部門は他社へ移された。この部門はそれまでパイプ部門の赤字を補ってきたが、パイプの生産が安定し始めたのは1939年ごろになってからだった。1940年からはパイプ一本の専業体制に移り、磨き棒鋼とシャフトの製造は別会社の丸一鋼業で始めた。継ぎ手とハンドルの部門まで企業合同に取り込まれた。丸一に残った事業は鋼管のみとなり、丸一はそれだけで自立するほかなくなった。

  • 商工振興 2020年12月号「関西企業ヒストリア 第9回 丸一鋼管株式会社」(大阪府工業協会)
    • [33]吉村福松氏の鋼管研究が完成したのは1937年である
    • [34]当時の丸一は従業員数70名を抱える中規模の町工場で、鋼管研究には会社の利益以上の資金が注ぎ込まれ、経営の維持に苦労が絶えなかった
    • [35]鋼管研究の完成により、素材の鋼管から自転車のハンドル、ブレーキまでを一貫製造できる体制が整った
  • 実業の世界 1963年
    • [36]パイプの生産が軌道に乗り始めたのは昭和14年(1939年)ごろからで、それまでパイプ部門の赤字をカバーしてきた自転車部品部門を戦時中の企業統合のため他社へ分離移譲した
    • [37]昭和15年(1940年)からパイプ部門一本の専業体制を整え、別会社の丸一鋼業で磨き棒鋼やシャフトの生産を始めた
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [38]継ぎ手のハンドル部門が企業合同に合い、丸一は鋼管だけで独り立ちせねばならなくなった
参考文献[20]-[38]
  • 実業の世界 1963年
    • [20]外部から仕入れる自転車材料のパイプに粗悪品が多いのに嫌気がさしていた
    • [27]溶接鋼管を手がけたのは昭和8年(1933年)であり、外部から仕入れる自転車材料のパイプに粗悪品が多く、自分でパイプから一貫生産しようと踏み切った
    • [31]技術者らしい者が一人もおらず、当時は電気溶接・ガス溶接機がなく、完全な手加工によるガス溶接パイプだった
    • [36]パイプの生産が軌道に乗り始めたのは昭和14年(1939年)ごろからで、それまでパイプ部門の赤字をカバーしてきた自転車部品部門を戦時中の企業統合のため他社へ分離移譲した
    • [37]昭和15年(1940年)からパイプ部門一本の専業体制を整え、別会社の丸一鋼業で磨き棒鋼やシャフトの生産を始めた
    • [21]満州に販売した約2か月分の製品すべてが不良品として送り返されるクレームが起きた
    • [22]原因はハンドルのパイプ溶接部に割れが生じていたことだった
    • [23]極寒の満州では、その寒さゆえに素材のパイプに異変が起きていた
    • [24]問題が素材にあるため、部品製造の丸一には如何ともしがたい状況だった
    • [25]吉村福松氏は丸太柱のトタン葺き工場1棟とドローベンチ2台を購入し、専任の職人1名をつけて鋼管製造の試作を開始した
    • [30]吉村福松氏は自転車部品の製造では一流でも、鋼管づくりにおいては素人だった
    • [32]良質な鋼管はなかなか完成せず工場にはスクラップの山が積み上がり、市販できない不良品が続出して数年間は赤字の連続だった
    • [33]吉村福松氏の鋼管研究が完成したのは1937年である
    • [34]当時の丸一は従業員数70名を抱える中規模の町工場で、鋼管研究には会社の利益以上の資金が注ぎ込まれ、経営の維持に苦労が絶えなかった
    • [35]鋼管研究の完成により、素材の鋼管から自転車のハンドル、ブレーキまでを一貫製造できる体制が整った
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [26]パイプを始めて間もない戦前、丸一は敷地300坪のうち借地分150坪の返還を地主から求められ、タキノが自ら交渉にあたり、夫に内緒で貯めた4,800円を買収費として差し出して150坪を買いとった
    • [38]継ぎ手のハンドル部門が企業合同に合い、丸一は鋼管だけで独り立ちせねばならなくなった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [28]吉村精仁氏は、昭和10年(1935年)から自転車用鋼管の自社生産を開始したと述べた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [29]昭和10年(1935年)、前身の丸一製作所に鋼管部門を併立し、丸一鋼管工場と称した

1941年〜吉村タキノ氏が守った統制下の割当てと設備

吉村福松氏は1941年に急死し、丸一鋼管に30名、丸一鋼業に75名、あわせて105名の従業員を抱えたところで、吉村タキノ氏が事業を引き継いだ。1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、生家は由緒ある庄屋ながら、生まれた頃には家産が傾いていた。1913年に吉村家へ嫁いで以来、毎朝職工と同じ時刻に出社し、同じ時刻に退社してきた。吉村福松氏の死で、吉村タキノ氏の体重は11貫まで減少した。工場をたたんで暮らそうと考えた時期もあったが、二女一男のうち末子の吉村精仁氏を一人前にするまでは事業を続けると決めた。丸一鋼管の看板は吉村福松氏その人であり、その急死は会社にとってこれ以上ない痛手だった。

  • 実業の世界 1963年
    • [39]吉村福松氏が死去したのは昭和16年(1941年)で、急死だった
    • [40]当時は丸一鋼管に30人、丸一鋼業に75人の従業員を抱えていた
    • [41]吉村タキノ氏は1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、生家は由緒ある庄屋だったが、生まれた頃には家産が傾いていた
    • [42]吉村タキノ氏は1913年に吉村家へ嫁いで以来、毎朝職工と同じ時間に出社し退社していた
    • [43]吉村福松氏の死で吉村タキノ氏は体重が11貫まで痩せ細った
    • [44]工場をたたむ考えもよぎったが、女二人男一人の子のうち末子の吉村精仁氏を一人前に仕上げるまでは事業を続けると決心した
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [45]代表者福松の急死は丸一鋼管にとってこれ以上の痛手はなく、丸一鋼管の看板は吉村福松その人であった

戦時下の鋼材は完全な統制と割当ての下にあり、同業他社は丸一の割当て分を奪おうと動いた。女性が継いだ会社と見て攻勢をかける同業他社を吉村タキノ氏ははね返し、組合や協会の会合には女性ただ一人で出席して正論を主張し、割当てを譲らなかった。事業そのものよりも、夫が残した遺児の養育が吉村タキノ氏を支えた。取引銀行は戦前から住友銀行の一行に絞り、企業規模に比して珍しい一行取引をその後も続けた。戦争が進むにつれて事業の継続そのものが難しくなったが、1945年の終戦の時点でも丸一の設備は手元に残っていた。企業合同の至上命令が降りかかったときには、吉村タキノ氏はこれに暗黙の抵抗をした。女手一人で合同すれば底積みになって食われてしまうと予感したためで、ある人の口ききで一度は免れている。

  • 実業の世界 1963年
    • [46]原材料の鋼材は戦時の完全統制下で割当て制であり、同業他社は丸一の割当ての原料を奪取しようと画策した
    • [47]女とみてなめてかかる他社の攻勢を吉村タキノ氏ははね返した
    • [48]吉村タキノ氏は組合や協会の会合につねに紅一点で出席し、正論を主張して屈しなかった
    • [49]心の支柱となったのは事業よりも亡夫の残した遺児の養育だった
    • [50]丸一は戦前から住友銀行に世話になり、企業規模に比して珍しい一行取引を続けた
    • [51]戦争が進むにつれて事業の継続は困難となり、終戦を迎えた
    • [52]終戦時、さいわいなことに設備が残った
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [53]企業合同の至上命令がふりかかってきたとき、タキノはこれに暗黙の抵抗をした
    • [54]夫の存命中ならとにかく女手一人となった今では合同したら女の身ゆえ底積みになって食われてしまうと予感したためで、ある人の口ききで一度だけは免れた

吉村タキノ氏は、夫が残した事業を手放さないと決め、鋼材の割当てを受けるための折衝も、材料の仕入れの商談も自ら引き受けた。朝早くから事務所に出て工場に入り、現場の指揮までを受け持った。苦しい時期を通じて丸一を一度も倒産させず、取引先に迷惑をかけることもなかった。戦後の復興期は鉄鋼統制と割当て生産の時代で、丸一の仕事量も少なく、地道に企業内部の充実に努めた。創業から33年を経ても、丸一はなお創業家が営む個人組織のままで、手元に残ったのは加美の工場と、戦時を通じて手放さなかった設備である。米軍機の空襲が激しくなった時期には、軍命令で設備一切の即時疎開を申し渡され、河内長野の三日市鋼管への搬出を終えていた。1945年8月14日の合併調印だけを残したところで、当日の空襲によって調印は流れた。

  • 実業の世界 1963年
    • [55]吉村タキノ氏は亡夫の遺業をあくまで守り抜こうとし、自分で材料購入の商談を行い、統制下の原料割当てをめぐる組合・協会の場にも自ら出た
    • [56]吉村タキノ氏は朝早くから事務所へ出て工場へ入り、自ら指揮した
    • [57]吉村タキノ氏は苦しい時でも歯をくいしばり、一度も倒産したことがなく、人に迷惑をかけたこともなかった
    • [60]終戦時、さいわいなことに設備が残った
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [58]吉村精仁氏は、戦後の復興期は鉄鋼統制の時代であり割りあて生産の時期であったので、丸一は仕事量も少なく地道に企業内部の充実に努めていたと述べた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [59]1947年の法人化まで、丸一は創業家による個人組織だった
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [61]米軍機の空襲もしだいに激しさを増してきたころ、軍命令で戦災に合わないうちに設備一切を即時疎開するよう申し渡され、河内長野にある三日市鋼管へ全部の搬出が終わった
    • [62]8月14日の合併調印だけが残されていたが、当日は空襲のため実現することができなかった
参考文献[39]-[62]
  • 実業の世界 1963年
    • [39]吉村福松氏が死去したのは昭和16年(1941年)で、急死だった
    • [40]当時は丸一鋼管に30人、丸一鋼業に75人の従業員を抱えていた
    • [41]吉村タキノ氏は1896年2月24日に奈良県の農家に生まれ、生家は由緒ある庄屋だったが、生まれた頃には家産が傾いていた
    • [42]吉村タキノ氏は1913年に吉村家へ嫁いで以来、毎朝職工と同じ時間に出社し退社していた
    • [43]吉村福松氏の死で吉村タキノ氏は体重が11貫まで痩せ細った
    • [44]工場をたたむ考えもよぎったが、女二人男一人の子のうち末子の吉村精仁氏を一人前に仕上げるまでは事業を続けると決心した
    • [46]原材料の鋼材は戦時の完全統制下で割当て制であり、同業他社は丸一の割当ての原料を奪取しようと画策した
    • [47]女とみてなめてかかる他社の攻勢を吉村タキノ氏ははね返した
    • [48]吉村タキノ氏は組合や協会の会合につねに紅一点で出席し、正論を主張して屈しなかった
    • [49]心の支柱となったのは事業よりも亡夫の残した遺児の養育だった
    • [50]丸一は戦前から住友銀行に世話になり、企業規模に比して珍しい一行取引を続けた
    • [51]戦争が進むにつれて事業の継続は困難となり、終戦を迎えた
    • [52]終戦時、さいわいなことに設備が残った
    • [55]吉村タキノ氏は亡夫の遺業をあくまで守り抜こうとし、自分で材料購入の商談を行い、統制下の原料割当てをめぐる組合・協会の場にも自ら出た
    • [56]吉村タキノ氏は朝早くから事務所へ出て工場へ入り、自ら指揮した
    • [57]吉村タキノ氏は苦しい時でも歯をくいしばり、一度も倒産したことがなく、人に迷惑をかけたこともなかった
    • [60]終戦時、さいわいなことに設備が残った
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [45]代表者福松の急死は丸一鋼管にとってこれ以上の痛手はなく、丸一鋼管の看板は吉村福松その人であった
    • [53]企業合同の至上命令がふりかかってきたとき、タキノはこれに暗黙の抵抗をした
    • [54]夫の存命中ならとにかく女手一人となった今では合同したら女の身ゆえ底積みになって食われてしまうと予感したためで、ある人の口ききで一度だけは免れた
    • [61]米軍機の空襲もしだいに激しさを増してきたころ、軍命令で戦災に合わないうちに設備一切を即時疎開するよう申し渡され、河内長野にある三日市鋼管へ全部の搬出が終わった
    • [62]8月14日の合併調印だけが残されていたが、当日は空襲のため実現することができなかった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [58]吉村精仁氏は、戦後の復興期は鉄鋼統制の時代であり割りあて生産の時期であったので、丸一は仕事量も少なく地道に企業内部の充実に努めていたと述べた
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [59]1947年の法人化まで、丸一は創業家による個人組織だった

筆者考察

部品をつくる会社が素材まで手がけるのは、たいてい採算の計算ではなく事故から始まる。丸一製作所が1930年代の半ばに溶接鋼管へ参入したきっかけは、満州へ売った約2か月分のハンドルが全量を不良品として送り返されたことだった。原因はパイプの溶接部の割れで、極寒の満州では素材のパイプそのものに異変が起きていた。買ってきた素材に欠陥があれば、部品の側でどれだけ腕を磨いても埋められない。吉村福松氏は良い物をつくればよく売れるという考えの技術者で、商談では不当な安値にも唯々諾々と応じたが、材料の質だけは譲らなかった。鋼管そのものが悪いのなら自分でつくるという結論は、その性格からしか出てこない。

代償は数年の赤字だった。技術者と呼べる者は社内に一人もおらず、電気溶接機もガス溶接機もない時代に手加工のガス溶接でパイプをつくったため、工場にはスクラップが積み上がった。研究には会社の利益を上回る資金が注ぎ込まれ、それを支えたのは吉村タキノ氏が回した経理と営業である。1937年に技術が完成し、1939年にパイプが量産へ移ると、今度は戦時の企業統合が自転車部品部門を他社へ移した。赤字を埋めてきた自転車部品が消え、赤字だった鋼管が残った。1941年に吉村福松氏が急死したあと、吉村タキノ氏が統制下の割当てと設備を手放さなかったのは、鋼管のほかに事業が残っていなかったからでもある。

従業員数 創業から吉村福松氏の死去まで(人)

8 13年創業時 70 37年ごろ 105 41年(2社計)

出典・参考

5件
出典・参考
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
  • 商工振興 2020年12月号「関西企業ヒストリア 第9回 丸一鋼管株式会社」(大阪府工業協会)
  • 実業の世界 1963年

免責事項およびポリシー