第2章 年〜年

丸一鋼管:需要地生産と輸出3割による無借金の鋼管専業体制

1947年〜統制下の法人化と、不況期に設備を打つ順序

大阪市東住吉区加美橘町85に本社を置き、丸一鋼管製作所は1947年12月18日、資本金19万5千円の株式会社として設立された。創業以来の個人組織が、これで法人になった。パイプは復興の基礎物資として引き合いが強かったものの、鉄鋼統制のもとで通商産業省から配給される量は月々3トンから6トンしかなく、設立翌年の1948年の売上高は月平均18万円にとどまった。松下電工からパイプ加工の話が持ち込まれると、丸一は設備を遊ばせないで済むとみて提携を受け入れ、統制が解ける1950年まで月々30トン前後の資材と副資材の供給を受けた。1948年には旧来のドローベンチを捨て、自動式造管機を導入している。上京したのは長男の吉村精仁氏で、まだ20歳の身で30万円の銀行保証小切手を携えていた。

  • 証券 1962年
    • [1]昭和22年12月、熔接鋼管メーカー株式会社丸一鋼管製作所として設立し、本社を大阪市東住吉区加美橘町85に置いた
  • 株式会社年鑑 1963年版「丸一鋼管」
    • [2]昭和22年12月、資本金19万5千円をもって株式会社丸一鋼管製作所を設立した
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [3]1947年の法人化まで、丸一は創業家による個人組織だった
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [4]丸一の製品であるパイプは経済・産業・国民生活再建への基礎物資で需要も旺盛だったが、鉄鋼統制下では需要に応えるだけの資材がなく、通産省からの配給は月々せいぜい3トンから6トンにすぎなかった
    • [5]売上高は昭和23年にはわずかに月平均18万円だった
    • [6]松下電工からパイプの加工をやってくれないかと申し入れがあり、設備を遊ばすことになっていた丸一にとっては願ってもない話でさっそく提携が実現した
    • [7]松下からは月々30トン前後の資材が送り込まれ、その他にもパイプ加工に必要なカーバイド・酸素など副資材の供給が行なわれ、松下との関係は統制解除になる昭和25年まで続いた
    • [8]昭和23年、昔のままのドローベンチをすてて自動式造管機を据えつけることに決まり、丸一に高能率の新式自動機械がはじめてお目見得した
    • [9]まだ20歳だった長男精仁が30万円の銀行保証小切手をポケットにして上京したのは、自動式造管機の導入を決めたこの時であった

1949年に始まったドッジラインは朝鮮動乱の特需で途切れ、円資金の散超によってインフレが再び起きた。1953年秋に政府がデフレ政策へ舵を切ると、翌1954年の引締めは予想を超える厳しさとなり、尼崎製鋼や岩田商事のような有力企業までが倒れて、倒産は全国へ広がった。丸一鋼管製作所が新工場の建設を決めたのは、この1954年の不況の底であった。経済界の流れに逆らって設備の大増強を急ぎ、積極的に拡張した。背景には、不況期こそ設備に投資すべきだという常務の丸谷紀芳氏ら経営陣の持論があり、パイプは必ず伸びると説く専務の堀川照雄氏の主張を軸に、戦後一貫して弱気の策に回らなかった。新工場はまもなくフルに稼働し、やがて神武景気が訪れた。加美橘町から移した加美神武町の製管工場が操業に入ったのは1955年である。

  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [10]昭和24年から実施されたドッジラインは朝鮮動乱で中断され、外為特別会計の円資金散超を主原因にインフレ傾向が再燃した
    • [11]政府は昭和28年秋以後デフレ政策をとり、効果が現れなかったため昭和29年から予想以上の引締めに移った
    • [12]昭和29年には企業倒産が全国的に波及し、尼崎製鋼や岩田商事といった有力会社が倒産した
    • [13]昭和29年の不況時に丸一では設備の大増強を急ぎ、本格的な新工場創設に踏み切った
    • [14]丸一は経済界の大勢に逆行するようなかたちで、構わず積極拡張政策を推進していった
    • [15]丸谷紀芳常務は、当時は不況期に設備しようというのが持論だったと回顧した
    • [16]丸谷紀芳常務は、わが社は戦後は一貫して弱気政策はとってこなかった、パイプは必ずのびるという堀川専務の主張を中心に積極政策をとってきたと述べた
    • [17]その年の暮に新工場がフルに稼動し始め、やがて全般的な鉄鋼景気が起こり、世にいう神武景気の到来となった
  • 証券 1962年
    • [18]昭和30年12月、大阪市東住吉区加美神武町1~2の新設製管工場が操業を開始した。従来は東住吉区加美橘町で操業を続けていた

統制期に生まれた二重帳簿は知らぬ間に膨れ上がり、丸一もその処理に苦慮していた。そこへ、不況の中で大規模な新工場を建てていることが監督当局の疑いを招き、国税局の抜打ち査察が入る。調べは5年前まで遡り、1年半に及ぶ徹底したものとなった。新工場の建設中で不況も最も深いという最悪の時期だったが、丸一はいずれ避けられない過去の問題をこの際に片づけることを選び、担当の丸谷紀芳氏は最初の3か月で75回も国税局へ足を運んだ。結果として過去の精算は会社の基礎を固めることになり、売上高は1954年の月平均2,290万円から1957年には月平均1億6,000万円余へ増えた。資本金は1956年5月に960万円、1957年1月に3,000万円へ引き上げられた。

  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [19]統制時代に発生した二重帳簿がいつのまにか雪だるま式にふくれあがり、丸一自身もその解決に頭を痛めていた
    • [20]丸一は不況時に大規模な新工場の建設を進めたために監督当局の疑惑を買い、国税局の抜打ち査察が行なわれた
    • [21]調査は5年前にさかのぼり、1年半もの時間をかけて徹底的に行なわれた
    • [22]丸一は不況のどん底・新工場の建設中という最悪の時期に、いずれ行なわなければならない古傷の手術をこの機会を利用して積極的に行なった
    • [23]担当の丸谷常務は初めの3か月だけで75回も国税局へかよった
    • [24]過去の精算がきれいさっぱりと行なわれ、結果的には現在の丸一の基礎固めとなった
    • [25]売上高は昭和29年には月平均2,290万円、昭和32年には月平均1億6,000万円余となった
  • 証券 1962年
    • [26]資本金は昭和31年5月に960万円、昭和32年1月に3,000万円へ増資された
参考文献[1]-[26]
  • 証券 1962年
    • [1]昭和22年12月、熔接鋼管メーカー株式会社丸一鋼管製作所として設立し、本社を大阪市東住吉区加美橘町85に置いた
    • [18]昭和30年12月、大阪市東住吉区加美神武町1~2の新設製管工場が操業を開始した。従来は東住吉区加美橘町で操業を続けていた
    • [26]資本金は昭和31年5月に960万円、昭和32年1月に3,000万円へ増資された
  • 株式会社年鑑 1963年版「丸一鋼管」
    • [2]昭和22年12月、資本金19万5千円をもって株式会社丸一鋼管製作所を設立した
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
    • [3]1947年の法人化まで、丸一は創業家による個人組織だった
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [4]丸一の製品であるパイプは経済・産業・国民生活再建への基礎物資で需要も旺盛だったが、鉄鋼統制下では需要に応えるだけの資材がなく、通産省からの配給は月々せいぜい3トンから6トンにすぎなかった
    • [5]売上高は昭和23年にはわずかに月平均18万円だった
    • [6]松下電工からパイプの加工をやってくれないかと申し入れがあり、設備を遊ばすことになっていた丸一にとっては願ってもない話でさっそく提携が実現した
    • [7]松下からは月々30トン前後の資材が送り込まれ、その他にもパイプ加工に必要なカーバイド・酸素など副資材の供給が行なわれ、松下との関係は統制解除になる昭和25年まで続いた
    • [8]昭和23年、昔のままのドローベンチをすてて自動式造管機を据えつけることに決まり、丸一に高能率の新式自動機械がはじめてお目見得した
    • [9]まだ20歳だった長男精仁が30万円の銀行保証小切手をポケットにして上京したのは、自動式造管機の導入を決めたこの時であった
    • [10]昭和24年から実施されたドッジラインは朝鮮動乱で中断され、外為特別会計の円資金散超を主原因にインフレ傾向が再燃した
    • [11]政府は昭和28年秋以後デフレ政策をとり、効果が現れなかったため昭和29年から予想以上の引締めに移った
    • [12]昭和29年には企業倒産が全国的に波及し、尼崎製鋼や岩田商事といった有力会社が倒産した
    • [13]昭和29年の不況時に丸一では設備の大増強を急ぎ、本格的な新工場創設に踏み切った
    • [14]丸一は経済界の大勢に逆行するようなかたちで、構わず積極拡張政策を推進していった
    • [15]丸谷紀芳常務は、当時は不況期に設備しようというのが持論だったと回顧した
    • [16]丸谷紀芳常務は、わが社は戦後は一貫して弱気政策はとってこなかった、パイプは必ずのびるという堀川専務の主張を中心に積極政策をとってきたと述べた
    • [17]その年の暮に新工場がフルに稼動し始め、やがて全般的な鉄鋼景気が起こり、世にいう神武景気の到来となった
    • [19]統制時代に発生した二重帳簿がいつのまにか雪だるま式にふくれあがり、丸一自身もその解決に頭を痛めていた
    • [20]丸一は不況時に大規模な新工場の建設を進めたために監督当局の疑惑を買い、国税局の抜打ち査察が行なわれた
    • [21]調査は5年前にさかのぼり、1年半もの時間をかけて徹底的に行なわれた
    • [22]丸一は不況のどん底・新工場の建設中という最悪の時期に、いずれ行なわなければならない古傷の手術をこの機会を利用して積極的に行なった
    • [23]担当の丸谷常務は初めの3か月だけで75回も国税局へかよった
    • [24]過去の精算がきれいさっぱりと行なわれ、結果的には現在の丸一の基礎固めとなった
    • [25]売上高は昭和29年には月平均2,290万円、昭和32年には月平均1億6,000万円余となった

1955年〜生産の3分の1を輸出へ回す方針と高周波誘導熔接機

丸一鋼管製作所は、中小企業にしては早くから海外と縁があった。本格的な海外市場の開拓に乗り出したのは1955年で、設備の近代化と合理化が進んで対外競争力が備わったと判断した段階で輸出体制を整え始めた。幹部をアメリカを中心に何度も送り出して市場を調べ、総生産額の3分の1を輸出に振り向ける方針を定めた。売り込み先は鉄を豊富に持つ北米で、鉄を造らない後進国ならまだしもと、当時は不思議に思われた。国内の景気の良し悪しに左右されず輸出を続けると決めて実行したことが海外取引先の信頼につながり、1956年には小口需要家向けの販売会社丸一鋼販を設けて、商社任せだった末端の需要動向を自ら把握する経路も作った。

  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [27]それ以前にも丸一の製品は中小企業としては海外に出るほうだった
    • [28]丸一鋼管の幹部が本格的に海外市場開拓に乗りだしたのは昭和30年である
    • [29]生産設備の近代化・合理化をすすめ対外競争力があると見るや、丸一では本格的な輸出体制の整備に着手した
    • [30]幹部をしばしばアメリカを主とする海外に派遣して綿密な市場調査を行ない、総生産額の3分の1を輸出するという大方針を打ち立てた
    • [31]北米輸出を始めた当時、鉄を生産していない後進国ならともかく、鉄のいくらでもある北米に輸出していることを不思議がられた
    • [32]国内市場の好況・不況にかかわらず継続的な輸出を実行することに決めて実行したので、海外取引先の信頼をあつめた
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [33]販売のほとんどを大手商社に依存していたため小口需要先への対策が不十分で、その対応として昭和31年に丸一鋼販を設立し、端末のユーザーの声・需要動向をより早くつかめるようになった

1959年1月、丸一鋼管製作所は米国エトナ社製の電縫鋼管製造設備を完成させて稼働に入った。一億数千万円を投じて輸入した高周波誘導熔接機で、継ぎ目の目立たないステッチレス鋼管の製造に着手した。翌1960年にはアメリカからさらに高周波の熔接装置を入れ、これは日本で最初、世界でも数例しかない設備だった。当時の資本金1億円に対して設備の価格は1億5,000万円で、企業としては思い切った投資にあたった。厚い一枚の鋼板が連続して一本の鋼管に成形され、耐圧と耐久の試験でも継ぎ目は離れなかった。1956年12月の乾式亜鉛メッキ工場、1958年6月の連続塗装ライン設備と合わせ、丸一はこの前後に大手メーカーの一角に加わった。

  • 証券 1962年
    • [34]昭和34年1月、米国エトナ社製電縫鋼管製造設備が完成し稼動を開始した
    • [39]昭和31年12月に乾式亜鉛メッキ工場が完成して操業を開始し、昭和33年6月に連続塗装ライン設備が完成して稼動した
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [35]昭和34年1月、一億数千万円を投じて米国エトナ社から高周波誘導熔接機を輸入し、ステッチレス鋼管の製造に着手した
    • [38]高周波誘導熔接機による製造では部厚い一枚の鋼板が見る見るうちに一本の鋼管に造られ、試験室での耐圧・耐久・圧縮実験でもどういう条件のもとでも継ぎ目は離れなかった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [36]昭和34年に品質と生産性向上をはかるため電縫管設備を輸入し、昭和35年にはさらにアメリカから高周波の熔接装置を輸入した。わが国では最初で、世界でも数例しかない斬新な熔接装置だった
    • [37]当時の資本金が1億円であったのに対し、この設備は1億5,000万円という企業としては思い切った設備投資だった

1960年3月、丸一鋼管製作所は商号を丸一鋼管へ改めた。1961年9月には東京工場が操業を始め、関東の需要に大阪から送らずに応じられるようになった。同年11月には堺臨海工業地の12万600平方メートルの割当てを受け、次の拠点の用地を押さえた。1962年3月に大阪証券取引所第二部へ、同年8月には東京証券取引所へ株式を上場した。上場時の従業員は278名だった。1960年11月から1961年11月までの製品構成は配管用鋼管51.9%、構造鋼管45.2%、電線管2.9%である。総生産高の30%を輸出へ振り向ける目標に対し、1961年12月から1962年3月までの実績は43.8%に達していた。

  • 株式会社年鑑 1963年版「丸一鋼管」
    • [40]昭和35年3月、社名を丸一鋼管株式会社と変更した
    • [43]上場市場は大阪第二部が昭和37年3月1日、東京第二部が昭和37年8月1日である
  • 証券 1962年
    • [41]昭和36年9月、東京工場が操業を開始した
    • [42]昭和36年11月、堺臨海工業地120,600平方メートルの割当を受けた
    • [44]従業員数は昭和37年3月31日現在で278名である
    • [45]昭和35年11月から36年11月までの生産実績による製品内容は構造鋼管45.2%、配管用鋼管51.9%、電線管2.9%である
    • [46]同社はここ数年来、総生産高の30%を目標として輸出の開拓に努力しており、昭和36年12月から37年3月までの4か月の実績は43.8%を示した
参考文献[27]-[46]
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [27]それ以前にも丸一の製品は中小企業としては海外に出るほうだった
    • [28]丸一鋼管の幹部が本格的に海外市場開拓に乗りだしたのは昭和30年である
    • [29]生産設備の近代化・合理化をすすめ対外競争力があると見るや、丸一では本格的な輸出体制の整備に着手した
    • [30]幹部をしばしばアメリカを主とする海外に派遣して綿密な市場調査を行ない、総生産額の3分の1を輸出するという大方針を打ち立てた
    • [31]北米輸出を始めた当時、鉄を生産していない後進国ならともかく、鉄のいくらでもある北米に輸出していることを不思議がられた
    • [32]国内市場の好況・不況にかかわらず継続的な輸出を実行することに決めて実行したので、海外取引先の信頼をあつめた
    • [35]昭和34年1月、一億数千万円を投じて米国エトナ社から高周波誘導熔接機を輸入し、ステッチレス鋼管の製造に着手した
    • [38]高周波誘導熔接機による製造では部厚い一枚の鋼板が見る見るうちに一本の鋼管に造られ、試験室での耐圧・耐久・圧縮実験でもどういう条件のもとでも継ぎ目は離れなかった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [33]販売のほとんどを大手商社に依存していたため小口需要先への対策が不十分で、その対応として昭和31年に丸一鋼販を設立し、端末のユーザーの声・需要動向をより早くつかめるようになった
    • [36]昭和34年に品質と生産性向上をはかるため電縫管設備を輸入し、昭和35年にはさらにアメリカから高周波の熔接装置を輸入した。わが国では最初で、世界でも数例しかない斬新な熔接装置だった
    • [37]当時の資本金が1億円であったのに対し、この設備は1億5,000万円という企業としては思い切った設備投資だった
  • 証券 1962年
    • [34]昭和34年1月、米国エトナ社製電縫鋼管製造設備が完成し稼動を開始した
    • [39]昭和31年12月に乾式亜鉛メッキ工場が完成して操業を開始し、昭和33年6月に連続塗装ライン設備が完成して稼動した
    • [41]昭和36年9月、東京工場が操業を開始した
    • [42]昭和36年11月、堺臨海工業地120,600平方メートルの割当を受けた
    • [44]従業員数は昭和37年3月31日現在で278名である
    • [45]昭和35年11月から36年11月までの生産実績による製品内容は構造鋼管45.2%、配管用鋼管51.9%、電線管2.9%である
    • [46]同社はここ数年来、総生産高の30%を目標として輸出の開拓に努力しており、昭和36年12月から37年3月までの4か月の実績は43.8%を示した
  • 株式会社年鑑 1963年版「丸一鋼管」
    • [40]昭和35年3月、社名を丸一鋼管株式会社と変更した
    • [43]上場市場は大阪第二部が昭和37年3月1日、東京第二部が昭和37年8月1日である

1963年〜堺工場36億円の重荷が決めた自己資金主義

1961年、大阪府は堺市石津西町一帯の埋立てに着手した。丸一鋼管はただちに3万7,250坪の払下げを受け、1963年3月に臨海地区の先陣を切って工場の建設に取りかかった。総工費は36億円、うち土地代だけで8億円という規模で、中径管と円錐形鋼管の工場としては前例がなかった。第1期工事を終えた時点で、資本金10億円に対し借入金は20億円まで膨らんでいた。1963年9月に第一製管工場が動き出し、1965年4月には全工場がフル運転に入ったが、堺工場の立ち上がりは鉄鋼の不況期と重なり、支払金利と減価償却が業績を圧迫した。この経験を教訓に、丸一は設備投資を自己資金で賄う方針を定め、以後守り通した。

  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [47]昭和36年、大阪府は壮大な計画のもとに堺市石津西町一帯の土地づくりに着手した
    • [48]丸一鋼管はただちに3万7,250坪の土地払いさげをうけ、昭和38年3月に臨海地区のトップをきって工場建設に着工した
    • [51]堺工場は昭和38年9月に第一製管工場を完成して操業を開始し、昭和40年4月には全工場のフル運転が開始された
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [49]昭和38年、設備資金36億円(うち土地代8億円)を投じて社運をかけた堺工場の建設に着手した
    • [50]昭和40年に堺工場の第1期工事が完成し、資本金はすでに10億円、借入金は20億円になっていた
    • [52]堺工場が完成した当時は大変な不況下にあり、支払い金利と減価償却が業績の足を引っぱる苦しい時代であった
    • [53]吉村精仁氏は、このときの反省から設備は自己資金でまかなうべきだということを身にしみて感じ、以後その方針で進めてきていると述べた

堺工場と東京工場、名古屋工場を分けて持ったのは、運送費を削減するためだった。大阪から九州まで製品を運ぶと1トンあたり6,000円かかり、月に5,000トンを送れば年間3億6,000万円になる。現地に工場を置けば運送料のほとんどが節約でき、製品の荷傷みも減った。東京工場で生産すれば大阪から運ぶより1トンあたり2,000円安く、名古屋工場も同じだった。堺工場は裏手がすぐ海で、専用の埠頭を設けて1万5,000トンの荷役ができ、製品を工場から直接船積みしたため倉庫を持たなかった。名古屋工場は中部鋼鈑の熱田工場跡を買収したもので、1966年9月期末に増設を終えた。1967年3月時点の月産は堺1万トン、大阪7,000トン、東京3,500トン、名古屋2,000トンで、堺は主に輸出向けを担った。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [54]丸一鋼管は需要地に生産体制を整えることを目指して工場の建設を進めている
    • [55]大阪から九州まで製品を運ぶのに1トン当たり6,000円の運送料がかかり、月5,000トン運ぶとして年間3億6,000万円になる
    • [56]現地に工場をつくることによってほとんどの運送料が節約でき、製品の荷傷みも少ない
  • 週刊日本経済 1967年6月1日号
    • [57]東京工場で生産すれば大阪から運搬するのに比べてトン当たり2,000円安くつき、名古屋工場でも同じことが言える
    • [59]名古屋工場は中部鋼鈑の熱田工場あとを買収したもので、昭和41年9月期末には増設を完了した
    • [60]工場の月産は堺工場が1万トン、大阪工場7,000トン、東京工場3,500トン、名古屋工場2,000トンで、主力の堺工場ではおもに輸出向け鋼管を生産している
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [58]堺工場の裏手はすぐ海で、専用の埠頭をつくったので1万5,000トンの荷役も可能であり、製品は工場から直接船積みされるため製品を一時保管する倉庫は不要となった

丸一鋼管は高炉メーカーの系列に入らなかった。1971年3月期の時点で、社長の吉村精仁氏と副社長の堀川照雄氏、常務の丸谷紀芳氏の三兄弟が発行株式の24%強を持ち、新日本製鉄など高炉4社を合わせても16%にとどまった。原料のホットコイルは日商岩井や三井物産などの商社を窓口に、その4社から分散して買った。1968年3月期末に40%だった自己資本比率は、1971年3月期末に46%へ上がった。1973年前後の過剰流動性の時期にも不動産やレジャーへ資金を移さなかった。借入金は1974年までに全額返済し、手形の割引きも取りやめた。1975年9月には堺工場へ35億円を投じて冷間圧延設備を完成させ、好況期に材料の供給が絞られる制約を自給で解いた。無借金は倹約の結果ではなく、系列に入らずに済ませるための条件だった。

  • 野田経済 1971年6月23日号
    • [61]丸一鋼管は大手の系列化が進んでいる鉄鋼業界のなかで独立独歩を貫いている数少ない会社の一つである
    • [62]吉村精仁社長、堀川照雄副社長、丸谷紀芳常務の三兄弟だけで全発行株式の24%強を保有している
    • [63]鉄鋼関係では新日本製鉄、川崎製鉄、日本鋼管、日新製鋼が大株主に名を連ねているが、四社合わせても全発行株式の16%にすぎない
    • [64]原料のホットコイルの購入先も日商岩井、三井物産、安宅産業などの商社を窓口に、大株主の四社のほか広範囲に及んでおり、特定の大手メーカーの系列に入らず原料を分散して購入している
    • [65]引当金を含めた自己資本比率は昭和46年3月期末で46%、三年前の昭和43年3月期末は40%であった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [66]昭和48年を前後して過剰流動性の時代があり不動産やレジャー産業に投資するのが一般的風潮であったが、丸一はそうした方面には目をうつさず高収益時代の利益を企業内部の蓄積にまわした
    • [67]借入金は昭和49年までに全部返済し、さらに手形の割引きを取りやめた
    • [68]昭和50年9月に堺工場へ35億円を投じて冷間圧延設備を完成し、好況時に高炉メーカーからの材料供給の数量に制約を受けるケースが多かった問題を自給体制の確立で解決した
参考文献[47]-[68]
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
    • [47]昭和36年、大阪府は壮大な計画のもとに堺市石津西町一帯の土地づくりに着手した
    • [48]丸一鋼管はただちに3万7,250坪の土地払いさげをうけ、昭和38年3月に臨海地区のトップをきって工場建設に着工した
    • [51]堺工場は昭和38年9月に第一製管工場を完成して操業を開始し、昭和40年4月には全工場のフル運転が開始された
    • [58]堺工場の裏手はすぐ海で、専用の埠頭をつくったので1万5,000トンの荷役も可能であり、製品は工場から直接船積みされるため製品を一時保管する倉庫は不要となった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
    • [49]昭和38年、設備資金36億円(うち土地代8億円)を投じて社運をかけた堺工場の建設に着手した
    • [50]昭和40年に堺工場の第1期工事が完成し、資本金はすでに10億円、借入金は20億円になっていた
    • [52]堺工場が完成した当時は大変な不況下にあり、支払い金利と減価償却が業績の足を引っぱる苦しい時代であった
    • [53]吉村精仁氏は、このときの反省から設備は自己資金でまかなうべきだということを身にしみて感じ、以後その方針で進めてきていると述べた
    • [54]丸一鋼管は需要地に生産体制を整えることを目指して工場の建設を進めている
    • [55]大阪から九州まで製品を運ぶのに1トン当たり6,000円の運送料がかかり、月5,000トン運ぶとして年間3億6,000万円になる
    • [56]現地に工場をつくることによってほとんどの運送料が節約でき、製品の荷傷みも少ない
    • [66]昭和48年を前後して過剰流動性の時代があり不動産やレジャー産業に投資するのが一般的風潮であったが、丸一はそうした方面には目をうつさず高収益時代の利益を企業内部の蓄積にまわした
    • [67]借入金は昭和49年までに全部返済し、さらに手形の割引きを取りやめた
    • [68]昭和50年9月に堺工場へ35億円を投じて冷間圧延設備を完成し、好況時に高炉メーカーからの材料供給の数量に制約を受けるケースが多かった問題を自給体制の確立で解決した
  • 週刊日本経済 1967年6月1日号
    • [57]東京工場で生産すれば大阪から運搬するのに比べてトン当たり2,000円安くつき、名古屋工場でも同じことが言える
    • [59]名古屋工場は中部鋼鈑の熱田工場あとを買収したもので、昭和41年9月期末には増設を完了した
    • [60]工場の月産は堺工場が1万トン、大阪工場7,000トン、東京工場3,500トン、名古屋工場2,000トンで、主力の堺工場ではおもに輸出向け鋼管を生産している
  • 野田経済 1971年6月23日号
    • [61]丸一鋼管は大手の系列化が進んでいる鉄鋼業界のなかで独立独歩を貫いている数少ない会社の一つである
    • [62]吉村精仁社長、堀川照雄副社長、丸谷紀芳常務の三兄弟だけで全発行株式の24%強を保有している
    • [63]鉄鋼関係では新日本製鉄、川崎製鉄、日本鋼管、日新製鋼が大株主に名を連ねているが、四社合わせても全発行株式の16%にすぎない
    • [64]原料のホットコイルの購入先も日商岩井、三井物産、安宅産業などの商社を窓口に、大株主の四社のほか広範囲に及んでおり、特定の大手メーカーの系列に入らず原料を分散して購入している
    • [65]引当金を含めた自己資本比率は昭和46年3月期末で46%、三年前の昭和43年3月期末は40%であった

筆者考察

不況のときに工場を建て、好況になって動かす。丸一鋼管の戦後30年は、この順序を繰り返している。資本金19万5千円で法人になった1947年の売上高は月平均18万円で、まだ町工場の域を出ていなかった。1954年、尼崎製鋼や岩田商事が倒れた引締めの年に設備の大増強を進め、新工場が動き出した頃に神武景気が来た。1963年には堺の埋立地へ総工費36億円を投じた。工事の間は鉄鋼の不況で支払金利と減価償却に苦しんだが、フル運転に入ってからは最大の収益源に変わった。順序が逆なら、高い設備を好況の値段で買い、不況で遊ばせることになる。丸谷紀芳氏が不況期に設備するのを持論としたのは、運の話ではなかった。

もう一つの軸は、市況の振れを自分で薄める仕組みにある。鋼管の値段は市況によって上下し、専業のメーカーは高炉メーカーの系列に入って原料と販路の安定を買うのが通例だった。丸一鋼管はそこへ入らず、吉村精仁氏ら三兄弟が株式の24%強を握ったまま、高炉4社の持ち分を16%に抑えている。代わりに置いたのが、総生産額の3分の1を輸出へ充当し、国内が好況でも不況でも輸出を止めないという方針だった。国内市況が崩れても売り先が残り、原料も商社を窓口に4社から分散して買える。堺工場の金利に苦しんだ経験から設備は自己資金でまかなうと決め、1974年に借入金を全額返した。無借金は、誰の系列にも属さないまま市況の振れを受け切るための備えだった。

半期の売上高 1966年9月期から1975年9月期まで(億円)

62.43 66年9月期 74.48 67年3月期 145.13 71年3月期 296.87 74年9月中間 257.41 75年9月中間

出典・参考

7件
出典・参考
  • 株式会社年鑑 1963年版「丸一鋼管」
  • 企業の現代史 1965年「鋼管ひとすじに(丸一鋼管)」
  • 企業の歴史 : 明治百年 第3編(1968年)「丸一鋼管」
  • 週刊日本経済 1967年6月1日号
  • 証券アナリストジャーナル 1976年12月号(吉村精仁・講演要旨)
  • 証券 1962年
  • 野田経済 1971年6月23日号

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