川崎製鉄岡山県倉敷市への水島製鉄所の建設と、千葉・水島の二極体制への移行

千葉を広げるか、西日本にもう一つ製鉄所を築くか——後発メーカーが選んだ規模の作り方

時期 1961年7月
意思決定者(推定) 西山弥太郎 社長
論点 生産拠点の配置と設備投資
概要
1961年7月、川崎製鉄が岡山県倉敷市の埋立地に水島製鉄所を開設し、千葉と水島に銑鋼一貫製鉄所を一つずつ置く二極体制へ移った経営判断。西山弥太郎社長のもとで決まり、水島はのちに高炉4基・粗鋼年産1,200万トン体制の製鉄所になった。
背景
戦後の日本の粗鋼生産は1959年にフランス、1961年にイギリスを追い抜いて伸び、川崎製鉄の生産も1951年度の49万6,000トンから拡大した。製鉄所の競争力は規模と経済性で決まり、千葉一つでは需要の伸びに追いつかなくなっていた。
内容
高梁川の河口を埋め立てて新製鉄所を開き、高炉を一基ずつ足す設計をとった。1970年に3号高炉(3,363立方メートル)、1974年に4号高炉(4,323立方メートル)が加わり、4号の新設に際しては千葉3号・水島2号・水島1号の休廃止を引き受けた。
含意
1974年末の水島は粗鋼年産1,200万トン体制で、ソ連のマグニト・ゴルスクに次ぐ世界第3位の製鉄所となった。ただしトン当たり設備費は千葉の4万6,000円に対し5万4,000円と割高で、規模の先取りと投資負担の重さが同時に残った。
筆者の見解

需要が確定する前に、用地と高炉を置いた

倉敷市の埋立地に高炉を置いたのは1961年で、日本鋼管福山も八幡製鉄君津も神戸製鋼所加古川も住友金属工業鹿島も、まだ稼働していなかった。製鉄所の規模が原価を決める以上、需要が確定してから土地を探したのでは間に合わない。西山弥太郎社長は、千葉を埋立地に築いたときと同じやり方を西日本でもう一度とった。まず用地を造成して1基目の高炉を据え、あとは需要の伸びに合わせて足す形である。

先に作った分だけ安くついたわけではない。トン当たり設備費は千葉の4万6,000円に対して水島は5万4,000円と見込まれ、後から築いた製鉄所のほうが割高になった。4号高炉の増設も、千葉3号と水島1号・2号を畳むことと引き換えに認められた枠内の取引である。1976年3月期には経常71億円の赤字も出た。この判断の当否は、トン当たり原価の優劣ではなく、需要が伸び続けた十数年をどれだけ取りこぼさずに済んだかで測るほかない。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

千葉一つで走った十年

川崎製鉄は1950年、川崎重工業の製鉄部門を分離独立して設立された。神戸の葺合工場を出発点とする会社が、戦後になって千葉に臨海一貫製鉄所を築き、そこで薄板を作った。1961年4月期の半期売上を製品別に見ると、ホットストリップ・コールドストリップ製品が41.7%を占め、厚鋼板16.3%、けい素鋼板・けい素鋼帯11.9%、亜鉛鉄板5.8%が続く。売上の主力は、この時点で千葉の圧延ラインから出ていた[1][2]

日本の粗鋼生産は1953年に戦前最高だった1943年の765万トンを突破し、1959年にフランス、1961年にイギリス、1964年に西ドイツを追い抜いて、世界第3位の鉄鋼生産国になった。川崎製鉄自身の粗鋼生産は1951年度に49万6,000トンしかない。市場が年ごとに膨らむなかで、千葉の増設だけで伸びに追いつけるかどうかが、経営の課題になった[3]

新鋭臨海製鉄所という時代の型

のちに川出千速専務は、鉄鋼メーカーの競争力は基本的に製鉄所の規模とその経済性にかかっており、高炉は大きいほど効率がよくコストが下がる、と説明している。国際的に一貫製鉄所の経済規模とされるのは粗鋼年産600万トン以上で、この水準の製鉄所は1974年時点で世界に24あった。うち9を日本が持ち、八幡製鉄所を除けばすべて戦後に建設された臨海製鉄所であった[4]

同じ型の投資を、各社が1960年代に繰り返した。日本鋼管福山、八幡製鉄君津、神戸製鋼所加古川、住友金属工業鹿島が相次いで稼働し、昭和40年代前半の粗鋼内需は年率19.6%、生産も17.8%という伸びを示す。設備の巨大化と技術革新が、かつてない規模で競って行われた時期にあたる。川崎製鉄が倉敷で新しい製鉄所を開いたのは、その競争が本格化する前であった[5]

決断

高梁川の河口に開いた第二の製鉄所

1961年7月、川崎製鉄は岡山県倉敷市に水島製鉄所を開設した。決めたのは、千葉を実現させた西山弥太郎社長である。神戸に本社を置く会社が、東と西に銑鋼一貫製鉄所を一つずつ持つ配置をとった。以後の大型投資は、この二つの製鉄所に集められる。水島は開設時点では小さな製鉄所にすぎず、高炉4基を擁するまでには十年以上を要した。作った品種は厚板、薄板、H形鋼、棒鋼、線材、鋳鍛鋼と幅広く、薄板に寄っていた千葉とは性格が異なる[6]

新製鉄所の実体は、まず埋立と造成であった。造船所の候補地を探していた川崎重工業の砂野仁社長が1962年に相談すると、すでに水島で工場用地の造成を進めていた西山社長は、高梁川の西側にあるE地区を勧めた。川崎重工業は陸地との接続に120万平方メートル近い用地が要ること、西風が強く防波堤もいること、ヘドロ層が厚く4億円の漁業補償費を立て替えねばならないことを挙げ、1964年7月に断りを入れている[7][8]

高炉を一基ずつ足す設計

水島は完成形を先に作らず、需要の伸びに合わせて高炉を足す設計をとった。1969年度の設備調整は1973年度の粗鋼生産を1億1,160万トンと予測して行われ、そこで3号高炉が認められる。1970年に稼働した3号高炉の炉内容積3,363立方メートルは、1965年時点の2,000立方メートルを上回った。転炉も170トンから250トンの時代へ移った。高炉を一基ずつ足す設計は、開設から十年でこの水準に届いている[9]

増設は自由な投資ではなかった。産業構造審議会の鉄鋼部会は1967年度から設備調整を始めている。1971年度の調整で水島4号高炉の4,323立方メートルが認められたとき、公正取引委員会の了解のもとで休廃止ルールが取り決められた。川崎製鉄は4号高炉の新設と引き換えに、千葉3号高炉(1,686立方メートル)、水島2号高炉(2,857立方メートル)、水島1号高炉(2,156立方メートル)の休廃止を引き受ける。小さな高炉を三つ畳んで、大きな一つに置き換える取引であった[10]

結果

世界第3位の製鉄所と、そのコスト

1974年12月、川出千速専務は水島の到達点をこう説明している。高炉4基、粗鋼年産1,200万トン体制であり、ソ連のマグニト・ゴルスク製鉄所(粗鋼年産1,450万トン)に次ぐ世界第3位の製鉄所にあたる。ただしそれは4本の高炉がすべて稼働し、対応する製鋼・圧延部門が増強された段階の能力で、当時の稼働能力は950万〜960万トンにとどまった。完成までなお2年、既設分を含む設備投資額は6,500億円に達する見込みであった[11]

規模の代償は原価に出た。千葉のトン当たり設備費4万6,000円に対し、水島は5万4,000円と見込まれ、後から築いた製鉄所のほうが割高になっている。もっとも、当時の世界のトン当たり設備費は15万〜20万円まで上がっており、日本の設備費の安さは競争上の武器であった。1975年4月には水島で幅5.35メートルの広幅厚板工場が稼働し、今後1年半に完成する厚板工場は水島だけといわれた[12]

二極体制が支えた不況耐性

二つの製鉄所が出す量は、ひもつき中心の販売がさばいた。川出専務は1974年12月の質疑で、川崎製鉄のひもつきは8割、店売りは2割であり、そのひもつきも後発メーカーだった関係上、普通なら細かくて店売りになるものもひもつきにしているので不況には強い体質になっている、と述べている。1975年1〜3月の減産ガイドポストに対しても、あまり減産は考えていないと答えた[13]

数字はその後も揺れた。1975年3月期の単体売上高は8,795億円、経常利益365億円であったが、翌1976年3月期は経常71億円の赤字に落ちる。同じ1975年3月期の製品構成は鋼板64%、鋼管13%、条鋼12%で、薄板に寄った性格は水島を加えても変わらなかった。1979年3月期には売上高9,609億円、経常利益402億円まで戻り、千葉と水島の二極体制は高成長期の終わりを越えて残った[14][15]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1975年1月号「川崎製鉄」(川出千速)
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社, 1994年)「鉄鋼-新日鉄誕生し、業界安定期に」
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社)
  • 株式会社年鑑(昭和37年版)「川崎製鉄」
  • 会社年鑑(1976年版ほか各年版)「川崎製鉄」

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