イトーヨーカ堂商圏規模に比例させた店舗規模と、坪二十万〜三十万円の立地への出店

一等地で高い売上を取るか、安い土地に大きな店を建てるか——規模で劣る会社の出店採算

時期 1972年11月
意思決定者(推定) 伊藤雅俊 社長
論点 出店基準と投資採算
概要
1972年11月、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊社長は日本証券アナリスト協会の企業分析部会で、店舗の規模を商圏の大きさに比例させ、坪当り20万〜30万円の土地に出店するという投資基準を、自社独特の低地価政策として公表した。売上高で業界5〜6位にとどまっていた会社が、1店ごとの採算を作るために選んだ出店の型である。
背景
1965年ごろの時点でダイエーと西友ストアが一歩先を行き、ジャスコ・ニチイ・ユニーは合併で規模を広げていた。1972年のダイエーの年間売上高2,800億円に対し、イトーヨーカ堂は800億円足らずで業界6位にとどまる。国内チェーンストアの資金は地価の値上がりを背景に不動産へ向かいがちで、借入れを重ねて自己資本比率を落とす同業も出ていた。
内容
衣料品の専門店を出すには坪当り200万円以上の売上が要るのに対し、イトーヨーカ堂の店舗の多くは坪当り20万〜30万円の場所にあった。店舗の規模は商圏の大きさに比例させ、過大投資を避ける。狙う客層は31歳前後のヤングファミリーで、モータリゼーションの進行を郊外立地の根拠に置いた。
含意
地価を先に決めて、そこから1店あたりの採算を組み立てる方式である。土地を買わずリースを主力にする方針とも重なり、1974年施行の大規模小売店舗法の下でも毎年1店ずつ出店数を増やし、自己資本比率を35.9%まで高めながら売場面積で百貨店を上回る規模に達した。
筆者の見解

地価から先に決める採算

衣料品の専門店は坪当り200万円以上を売らなければ成り立たない——伊藤雅俊社長がアナリストの前でこの相場を挙げたのは、自社の店の多くが坪当り20万〜30万円の土地にあることを言うためであった。売上を積んで高い地価を吸収するのではなく、地価の低い場所を選んで吸収すべき額を減らす。規模でダイエーや西友ストアに届かない会社が1店も赤字の店を持たずに済んだのは、店ごとの採算を土地の値段の側から作っていたためだとみられる。

安い土地を選ぶ判断は、その土地がやがて商圏になるという前提の上に立っていた。前提が動けば、同じ低地価の立地は人の来ない立地に変わる。伊藤雅俊社長自身、成長の理由を流通風土の遅れと大衆消費社会の形成に求め、「追い風の中での経営」であったと述べていた。1970年代の出店の速さを支えた条件を、自社の力と切り分けて語っていた。この型が効いたのは、地価の上昇と郊外化が同時に進んだ時期に限られる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

規模で先行された会社の位置

1965年ごろのビッグストア業界では、ダイエーと西友ストアが一歩先を行き、イトーヨーカ堂はその後ろに付いていた。1972年になってもダイエーの年間売上高が2,800億円に達したのに対し、イトーヨーカ堂は800億円足らずで業界6位にとどまっている。ジャスコ、ニチイ、ユニーが合併によって規模を広げるなかで、伊藤雅俊社長は合併にも急拡大にも加わらなかった。規模で並ぶ道を取らない以上、1店ごとの採算で差をつけるほかなかった[1]

その代わり、同社は1店も赤字の店を持たないと言われていた。当時のビッグストア業界では珍しい状態である。売上高の順位は5位前後にとどまる一方、利益の順位はダイエー、丸井に次ぐ3位にあたった。伊藤雅俊社長は自社の税引後利益率1.5%という数字を、米国の小売業が衣料品や雑貨で3〜5%を上げている事実と並べて示している。規模で追わない分、1店あたりの利益で順位を上げていた[2][3]

商圏の上限と、不動産へ向かう資金

チェーンストアが成り立つ商圏の人口は、当時5万人から15万人とされていた。百貨店は都市百貨店で100万〜200万人、成立に必要な商圏でも50万人以上を要する。1970年度の調べでは、10万人商圏の売上規模は衣料が約30億円、住居インテリア関係が30億円、食品が100億円であった。売場を広げれば売れるのではなく、商圏が飲み込める額には上限がある。出店の可否は、この上限と建てる店の規模との突き合わせで決まった[4]

一方、国内のチェーンストアの資金は、店ではなく土地へ向かいがちであった。伊藤雅俊社長は、米国では店舗がリースのため資金がほとんど商品関係に投じられるのに対し、日本では不動産の値上がりが激しいので資金がそちらへ流れると述べている。過大な借入れによって自己資本比率を落とした同業も出ていた。地価の上昇を利益として当てにする経営が広がるなかで、地価そのものを費用として計算に入れるかどうかが分かれ目になった[5]

決断

坪二十万円の土地に、商圏に見合う店を建てる

1972年11月17日、伊藤雅俊社長は日本証券アナリスト協会の企業分析部会で、自社の出店基準を数字で示した。衣料品の専門店を出す場合、坪当り200万円以上の売上がなければ経営は成り立たない。これに対しイトーヨーカ堂の店舗の多くは、坪当り20万〜30万円の場所にあった。これを自社独特の低地価政策と呼んでいる。必要な坪当り売上を引き上げるのではなく、坪当りの土地代を切り下げる。採算の帳尻を、売上側ではなく費用側で合わせていた[6]

安い土地を選ぶだけでは、店は商圏から浮く。そこで規模の側に歯止めが置かれた。店舗面積は1960年の500坪から1966年に1,000坪、1972年には3,000坪が普通になっていたが、伊藤雅俊社長は「店舗の規模は商圏の大きさに比例させないと過大投資になりかねない」と述べ、拡大それ自体を方針とはしなかった。地価の安さで投資額を抑え、商圏の規模で売場面積を決める。二つの制約を掛け合わせた点に、1店あたりの採算があった[7]

誰に売るか、いつ出るか

安い土地に大型店を置く以上、そこに客がいなければ計算は合わない。伊藤雅俊社長が想定したのは、勤めの経験を持つ女性が作る31歳前後のヤングファミリーの世帯であった。この年齢層は男女とも購買力が旺盛で、同時に商品への不満を抱く年齢でもある。「不満のあるところマーケットあり」というのが本人の持論であった。加えて、モータリゼーションが進めば郊外に広い店舗が要るとみており、変化を先取りするタイミングを投資決定の条件に挙げている[8]

土地に金をかけない方針は、ほかの設備投資にも及んだ。1971年当時、スーパー各社は大型流通センターの建設を競っていたが、イトーヨーカ堂は安易な流通センターづくりがかえってコスト高を招くとして批判的な立場を取り続けた。先に作業の標準化を進め、そのうえで費用の下がる形を考えるという順序である。伊藤雅俊社長は経営を商品経営と企業経営に分け、資金を不動産ではなく商品へ向けることを自社の型として説明していた[9][10]

結果

大店法の下でも減らなかった出店

1974年3月に大規模小売店舗法が施行され、10大都市では売場面積3,000平方メートル以上の店舗が、商業活動調整協議会の検討を経なければ開けなくなった。それでも出店数は、1973年の6店から1974年7店、1975年8店、1976年9店、1977年10店と1店ずつ増えている。毎年二桁の出店をしていた他社が一桁に落ち込む例も出ていた。長岡喜法専務は、建設の前に地元との話し合いを済ませる方針を取ったと説明している[11]

出店を止めなかった結果、売場面積の順位が入れ替わった。1976年の総売場面積は約41万平方メートルに達し、三越の27万平方メートル、高島屋・大丸・松坂屋の15万〜18万平方メートルを上回った。翌1977年8月末には71店・48万8,591平方メートルに達している。売上高は1972年2月期の約498億円から1977年2月期の3,164億5,400万円へ、5年で6倍を超えた。同期の経常利益は100億6,600万円であった[12][13][14]

土地を買わないという続き方

安い土地を選ぶ方針は、土地を持たない方針とも重なっていた。1977年時点でイトーヨーカ堂は店舗の多くをリースで確保しており、長岡専務はその理由を、日本では土地が高く全部を買い取れば巨額の資金が要るためだと説明している。インフレへの備えでは不利になると認めたうえで、地価が落ち着いてきたので今買っても多くは期待できないと述べ、リースを主力に続けると明言した。買わずに済ませた資金は、5年で65店という出店計画へ回された[15][16]

財務の数字にも表れた。上場前に13%であった自己資本比率は1977年に35.9%となり、同年7月に米国で5,000万ドルの転換社債を発行した際にはスタンダード・アンド・プアーズからA格の評価を受けている。もっとも伊藤雅俊社長自身は、この成長を自社の力に帰さなかった。1976年の講演では、流通風土の遅れと大衆消費社会の形成を挙げ、「追い風の中での経営」であったことが成功の原因ではなかったかと述べている[17][18]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1972年12月号「スーパーチェーン業界とイトーヨーカ堂」伊藤雅俊(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1972年11月17日 講演要旨)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年10月号「小売業の現点に立って」伊藤雅俊(同 1976年9月3日 講演要旨)
  • 証券アナリストジャーナル 1977年9月号「小売業界のリーダーめざす——成長余力の大きさが強味」伊藤雅俊(同 1977年7月29日 講演要旨)
  • 証券アナリストジャーナル 1977年11月号「多角的な業務展開で躍進続く——出店をめぐる困難も克服」長岡喜法(同 1977年10月21日 講演要旨)
  • 日経ビジネス 1971年12月27日号「スーパーは"流通ソフトウエア"で百貨店に立ち向かう」
  • 日経ビジネス 1973年1月8日号「ビッグストア築く"古い男"の商人道」

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