DOWA臨海型亜鉛製錬所・秋田製錬の設立と、自山鉱から輸入鉱への原料の切り替え

国内鉱山が頂点にあった時期に、同和鉱業はなぜ海辺へ製錬所を建てたか

時期 1971年2月
意思決定者(推定) 同和鉱業 取締役会
論点 製錬能力の増強と原料調達の転換
概要
1971年2月、同和鉱業が輸入鉱を原料とする臨海型の亜鉛製錬所として秋田製錬を設立し、翌1972年11月に秋田市飯島へ秋田工場を置いた。内の岱・松峰という大鉱床の発見が続いて国内鉱山が産出の頂点にあった時期に、自山鉱の処理では追いつかない製錬能力の不足を、海に面した新設備で埋めた投資である。
背景
1959年6月の内の岱、1963年6月の松峰と大鉱床の発見が続き、小坂は国内一の産銅量に達していた。一方で銅製錬に使う鉱石の海外依存は1967年に75%へ達し、原料の主役はすでに輸入鉱へ移りつつあった。社長の新井友蔵 氏は1965年11月の講演で、鉱石を見つけることに主力を置いてきた結果として製錬部門の整備が遅れていると自ら述べている。
内容
1971年2月に秋田製錬を設立し、1972年11月に秋田工場を設置した。内陸の山中で社内鉱を処理してきた小坂の製錬所とは異なり、海に面した立地は輸入鉱を直接受け入れることを前提とした。同じ時期、非鉄各社は貿易自由化をにらんで臨海の大型製錬所を共同出資で相次いで建てており、同和鉱業も小名浜・八戸の両製錬所に出資している。
含意
国内鉱山は1980年代から順次閉鎖され、1994年の湯川鉱山の閉鎖で採掘がすべて終わったが、製錬所は残った。円高が進むなかでコスト競争力を鍛えられた秋田の飯島製錬は、2023年11月にDOWAメタルマインの完全子会社となり、年産22万トンの国内最大の亜鉛製錬所として稼働を続けている。
筆者の見解

頂点で語られた詰まり

新井友蔵 氏が1965年の講演で時間を割いたのは、内の岱と松峰という日本一の鉱床の話よりも、そこから出る銅と亜鉛を処理する炉が足りないという話であった。年3万6,000トンの亜鉛を「到底消化し切れません」と語った社長が、6年後に海辺へ新しい製錬所を建てている。掘る力が頂点にあるときに、その先の詰まりを重要課題として挙げていた点に、この設備投資の出発点があったとみられる。

もっとも、1971年の時点で鉱山からの離脱が構想されていたとまでは読めない。同じ年、元山坑では品位0.3%の廃坑から月70トンの銅を絞り出す工夫が続き、掘り続ける努力と買った鉱石を処理する設備の新設とが並行していた。結果として残ったのは後者であった。原料の出どころを自分の山に限らないと決めた設備が、国内の採掘がすべて終わった後の会社を支える形になったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

大鉱床の発見が続いた国内鉱山の頂点

同和鉱業の国内鉱山は、1960年代に入って立て続けに大鉱床を掘り当てていた。1959年6月、小坂の旧鉱床から南へ約2キロの地点で内の岱鉱床を発見し、1962年7月から選鉱を始めている。鉱量は約1,000万トン、銅品位2.5%、亜鉛4%、鉛1.5%に金銀を伴う優良鉱であった。1963年6月には花岡から1.5キロ離れた地点で鉱量約2,000万トンの松峰鉱床も見つかり、内の岱と合わせた銅量は65万トンに達している[1][2]

国内鉱山の産出は業界全体でも当時が頂点にあった。銅の国内鉱石からの生産量は1969年の12万1,000トンでピークを記録するが、それでも総生産量に占める比率は18.7%にすぎない。銅製錬に用いる鉱石の海外依存は1964年に6割を超え、1967年には75%へ達している。亜鉛でも同じ1967年に51%を海外鉱石に頼る状態となった。掘る量が最も多い時期と、原料の主役が輸入鉱へ移る時期とが重なっていた[3][4]

製錬が足りないという社長の自己診断

1965年11月、同和鉱業社長の新井友蔵 氏は証券アナリスト協会の部会で、自社の弱点を製錬に置いて説明している。鉱石を見つけることに主力を置いてきたため製錬部門の整備が遅れており、小坂の製錬所は山の中にあって社内鉱を製錬する建前で来たので、外国鉱石を入れて製錬し利益を上げる段取りに入っていない、という自己診断であった。松峰が完成すれば銅は年3万トン、亜鉛は年3万6,000トンが出る見込みであった[5]

出てくる金属を処理する炉が足りない、という見通しも同じ場で語られている。松峰が月4万トンを出すようになれば銅は年3万トンとなり、現在の設備では消化しきれないので小坂の銅製錬所を増強するか新しく作るかになる、亜鉛も年3万6,000トンとなり「現在の小坂の亜鉛製錬所では到底消化し切れません」と新井 氏は述べた。銅と合わせたこの処理の問題を、新井 氏は同和鉱業の今後の重要課題であると位置づけている[6]

決断

海辺に建てた亜鉛製錬所

1971年2月、同和鉱業は臨海型の亜鉛製錬所として秋田製錬を設立した。翌1972年11月には秋田市飯島に秋田工場を置き、操業の体制を整えている。内陸の山中にあって社内鉱を処理してきた小坂の製錬所とは対照的に、海に面した立地は船で運ばれる輸入鉱をそのまま受け入れることを前提としていた。原料の出どころを自分の山に限らず、収益の柱を鉱山から製錬能力へ移す設備投資であった[7][8]

臨海の大型製錬所を共同出資で建てる動きは、貿易自由化をにらんだ業界全体の流れでもあった。口火を切ったのは1965年に操業を始めた福島県いわき市の小名浜製錬所で、三菱金属鉱業が同和鉱業・古河鉱業・古河電工などに持ちかけた共同出資による建設であった。1969年には三井金属を軸に同和鉱業らが出資した青森県の八戸製錬所が動き出し、同和鉱業自身も1967年に自溶炉法を導入した小坂製錬所を完成させている[9][10]

潮目が変わった年

設立の年は、掘る側にとって潮目が変わる年でもあった。ニクソンショックによる円高の進行と、それに追い打ちをかけた石油ショックの影響で、非鉄金属鉱山の探鉱坑道の総延長は1971年から落ち込みに転じ、1975年には10万4,000メートルまで減っている。1930年代後半から年30万メートル前後を掘り続けてきた探鉱が、ここで細り始めた。新しい鉱床を掘り当てて原料を賄う方式そのものが、採算の面から成り立ちにくくなっていた[11]

同じ1971年の夏、小坂鉱業所では別の延命策も動いていた。戦中の乱掘で銅品位が0.61%まで下がり1946年2月に採掘を全面中止した元山坑で、坑内水に溶けた銅を鉄屑と接触させて回収するバクテリヤリーチングが続けられ、銅品位0.3%の廃坑から月平均70トンの銅を絞り出していた。掘り続ける工夫と、買った鉱石を処理する設備の新設とが、この年に並行して進んでいた[12]

結果

掘る場所がなくなっても残ったもの

設立の直後に業績が伸びたわけではない。1971年3月期の単独売上高は765億円、経常利益34億円であったが、翌1972年3月期は売上高721億円・経常利益9億円へ落ち込んでいる。国内鉱山は1980年代から順次閉鎖され、1994年の湯川鉱山の閉鎖で採掘がすべて終わった。大館と小坂を結んだ同和鉱業小坂線も同じ年に旅客営業を終えている。それでも、製錬所は残った[13][14]

輸入鉱を原料に据えた製錬所は、円高が進むなかでかえって鍛えられた。1998年6月、同和鉱業社長の原田謙三 氏は、一ドル80円という円高の時代が体質強化に役立ち、いまでは秋田の飯島製錬が世界屈指のコスト競争力を持つと述べている。秋田製錬は2023年11月に住友金属鉱山が保有していた14%の株式をDOWAメタルマインが譲り受けて完全子会社となり、年産22万トンの国内最大の亜鉛製錬所として稼働を続けている[15][16]

出典・参考

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