秋田製錬所を設立(1971年・DOWAの決断)更新:2026/07/26論点輸入鉱による臨海製錬所を設立するかDOWA:業績の推移売上高(億円)当期純利益率(%)データ出所臨海型の亜鉛拠点の新設と、自山鉱から輸入鉱への原料の切り替え何をなぜ決めたか:臨海型の亜鉛拠点の新設と、自山鉱から輸入鉱への原料の切り替え概要1971年2月、同和鉱業が輸入鉱を原料とする臨海型の亜鉛製錬所として秋田製錬を設立し、翌1972年11月に秋田市飯島へ秋田工場を置いた。内の岱・松峰という大鉱床の発見が続いて国内鉱山が産出の頂点にあった時期に、自山鉱の処理では追いつかない製錬能力の不足を、海に面した新設備で埋めた投資である。背景1959年6月の内の岱、1963年6月の松峰と大鉱床の発見が続き、小坂は国内一の産銅量に達していた。一方で銅製錬に使う鉱石の海外依存は1967年に75%へ達し、原料の主役はすでに輸入鉱へ移りつつあった。探鉱に主力を置いてきた同社では、鉱山の産出に製錬部門の整備が追いついていなかった。内容1971年2月に秋田製錬を設立し、1972年11月に秋田工場を設置した。内陸の山中で社内鉱を処理してきた小坂の製錬所とは異なり、海に面した立地は輸入鉱を直接受け入れることを前提とした。同じ時期、非鉄各社は貿易自由化をにらんで臨海の大型製錬所を共同出資で相次いで建てており、同和鉱業も小名浜・八戸の両製錬所に出資している。含意国内鉱山は1980年代から順次閉鎖され、1994年の湯川鉱山の閉鎖で採掘がすべて終わったが、製錬所は残った。円高が進むなかでコスト競争力を鍛えられた秋田の飯島製錬は、2023年11月にDOWAメタルマインの完全子会社となり、年産22万トンの国内最大の亜鉛製錬所として稼働を続けている。いつ何が起きたか10件考察:頂点で見えた詰まり考察考察:頂点で見えた詰まり1960年代の同和鉱業に足りなかったのは、掘る力ではなく処理する力であった。1959年の内の岱、1963年の松峰と大鉱床の発見が続き、小坂は国内一の産銅量に達している。そこから出る銅と亜鉛を消化する炉は、内陸の小坂に置かれた設備しかない。しかも銅製錬に使う鉱石の海外依存は1967年に75%へ達し、自山鉱だけで炉を回す前提はすでに崩れていた。産出が頂点にあるうちに、その先の詰まりへ設備を向けた点に、1971年2月の秋田製錬設立という投資の出発点があったとみられる。もっとも、1971年の時点で鉱山からの離脱が構想されていたとまでは読めない。同じ年、元山坑では品位0.3%の廃坑から月70トンの銅を絞り出す工夫が続き、掘り続ける努力と買った鉱石を処理する設備の新設とが並行していた。結果として残ったのは後者であった。原料の出どころを自分の山に限らないと決めた設備が、国内の採掘がすべて終わった後の会社を支える体制になったといえる。Yutaka Sugiura, 2026年7月参考文献参考文献参考証券アナリストジャーナル 1965年 第3巻第12号日本産業史 第3巻 鉄鋼・金属(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」日経ビジネス 1971年8月9日号DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】DOWAホールディングス「秋田製錬(株)の完全子会社化について」(2023年11月17日)同和鉱業 会社年鑑(1976年版・単独業績)次に読む決断DOWAの意思決定1884年DOWADOWA小坂鉱山の払下げ藤田組が官営鉱山を受け、黒鉱自溶製錬で果たした再生1884年1999年DOWADOWA製錬赤字を受けた緊急対策1999年の緊急対策に始まる事業構造改革と、ROAを物差しにした資産・人員の圧縮1999年同じ問い:収益モデル転換への設備投資2011年さくらインターネットさくらインターネット石狩データセンター建設都市型の立地を捨てて郊外型の大規模拠点へ切り替える選択2011年2013年商船三井商船三井LNG船・長期契約へ転換スポット運賃で収益を上げる不定期船経営からの脱却と、収益構造の安定化2013年1986年東燃ゼネラル石油東燃ゼネラル石油和歌山で電力卸売に参入経営会議の組織風土の立て直しと、遊休地を収益源に変える新規事業の立ち上げ1986年1955年飯野海運飯野海運千代田土地建物を買収一社を完全子会社として取り込むかたちで踏み出した不動産事業への進出1955年1988年三菱地所三菱地所丸の内再開発計画の発表地区全体の超高層化構想の提示と、自社の丸ビルからの再開発着手1988年×出所