DOWADOWAホールディングス創業——藤田組が受けた官営小坂鉱山の払下げから黒鉱自溶製錬による再生へ

長州人脈と官需で資本を蓄えた藤田伝三郎 氏は、採算の悪化した官営小坂鉱山の払下げをどう国内一の産銅地へ変えたか

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時期 1884年9月
意思決定者 藤田伝三郎 氏 藤田組 創業者
論点 採算の悪化した官営小坂鉱山の払下げによる鉱山業への参入と、黒鉱の製錬技術の確立
概要
1884年9月、長州萩出身で奇兵隊を経た藤田伝三郎 氏の藤田組が、明治政府の工場払下概則の改正を受けて秋田県北秋田郡小坂村の官営小坂鉱山の払下げを受け、鉱山業へ参入した。金・銀・銅・亜鉛・鉛が混在する黒鉱の製錬に長く苦しんだが、現場の久原房之助 氏が1902年6月に黒鉱自溶製錬の操業に成功し、1906年には小坂が国内全鉱山中の生産額一位に達した。戦時統制を経て1945年12月に同和鉱業株式会社へ改称し、1949年7月に東京証券取引所へ上場している。
背景
藤田伝三郎 氏は1841年に長州萩の醸造業の家に生まれ、奇兵隊に加わって維新の動乱を過ごした。維新後は同郷の井上馨 氏ら明治新政府に登った長州出身者との人脈を足場に、1869年に大阪で藤田組商会を興し、新政府軍向けの軍靴・軍服の納入で初期資本を蓄えた。1880年の工場払下概則とその1884年の改正で官営事業の民間払下げが本格化し、長州閥と関係の深い藤田組がその主要な受け皿となった。
内容
藤田組は1884年9月に官営小坂鉱山の払下げを受け、開発資金は旧長州藩主毛利家からの20万円の借入で確保した。小坂は明治政府の直営でも黒鉱の製錬技術が確立せず、採算の悪化した鉱山で、取得後も長い赤字が続いた。閉山処理のため着任した久原房之助 氏が事業継続を主張し、井上馨 氏の支持を取りつけて閉山の指示を撤回させ、1897年の水力発電、1898年の乾式製錬を経て1902年6月に黒鉱自溶製錬の操業に成功した。
含意
小坂鉱山は1906年に国内全鉱山中の生産額一位となり、藤田組は1881年に院内銀山・阿仁銅山の払下げを受けた古河市兵衛 氏と並ぶ明治期の鉱業王へと成長した。伝三郎 氏は1899年に児島湾干拓へ着手して鉱業以外の固定資産にも資本を投じ、1912年の没後は息子3名が藤田組を継いだ。戦時統制下の1944年に本店を大阪から東京へ移し、1945年に同和鉱業へ改称、1949年に東京証券取引所へ上場して公開企業として再出発した。
筆者の見解

官需の商人が鉱業の会社になるまで

この創業が示すのは、既存の官営資産を払下げで引き受けた企業が、その資産に眠る技術の壁を越えられるかどうかで命運を分けた経緯である。藤田組は長州人脈と官需で蓄えた資本を元手に小坂鉱山を取得したものの、黒鉱の製錬という難題の前に一度は閉山の指示を受けている。手にした鉱山を手放さずに残せたのは、久原房之助 氏の技術と井上馨 氏の後ろ盾という、資本の外にある要素が働いた結果とみられる。

もう一つ見えてくるのは、創業を1869年の藤田組商会ではなく1884年の小坂鉱山払下げに置く同社の自己認識である。軍靴・軍服の納入から出発した官需商人が、採算の定まらない鉱山を引き受け、製錬技術の確立を経て国内一の産銅地へ育てた歩みを、DOWAホールディングスは鉱山会社としての出発点と読み替えている。長州人脈・官営払下げ・黒鉱自溶製錬・戦時統制という時代の節目を通過した末に、藤田組の鉱業部門が独立した公開企業へと姿を変えていったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

長州人脈を足場にした大阪の官需商人

藤田伝三郎 氏は1841年に長州萩の醸造業の家に生まれ、奇兵隊に加わって維新の動乱期を過ごした[1]。維新後は同郷の井上馨 氏ら明治新政府の中枢に登った長州出身者との人脈を足場に、1869年に大阪へ出て藤田組商会を興している。主たる事業は新政府軍向けの軍靴・軍服の納入で、薩長閥が政府御用商人の供給網を再編していく時期にあって、同郷ネットワークを通じて陸軍省・大蔵省の官需を取り込んでいった[2]

1873年からは兄の家業を再編して土木建築の請負や運輸業へと事業の領域を広げていった。1881年には伝三郎 氏が中心となり、兄弟3名で藤田組合名会社を組織している[3]。1885年には資本金100万円規模の合名会社として法人の形態を整え、大阪財界の中核をなす商人として頭角を現していった[4]。鉱山業への参入以前に、藤田組は官需の請負を通じて相応の資本と政府との関係を蓄えていた。

決断

官営小坂鉱山の払下げ

明治政府は1880年に工場払下概則を定め、1884年の改正で払下げの条件を緩めて官営事業の民間移管を本格化させた。財政再建のため官営鉱山・工場を民間へ移す方針のもとで、長州閥と関係の深い藤田組がこの政策転換の主要な受け皿となった[5]。1884年9月、藤田組は秋田県北秋田郡小坂村の官営小坂鉱山の払下げを受け、官需の請負を主としてきた事業から鉱山経営へと踏み込んだ[6]。有価証券報告書の沿革は、この払下げを同社の創業として記録している[7]

小坂鉱山は江戸期から続く銀山で、明治政府が直営で近代化を進めていたものの、金・銀・銅・亜鉛・鉛が複雑に混在する黒鉱の製錬技術が確立せず、採算が悪化していた[8]。藤田組の取得後も製錬技術の確立は難航し、開発資金は旧長州藩主毛利家からの20万円の借入で確保したと藤田組史に記録される[9]。1881年に院内銀山・阿仁銅山の払下げを受けた古河市兵衛 氏と並び、藤田伝三郎 氏はこの小坂の取得をもって明治期の鉱業王の一人に数えられていく[10]

結果

黒鉱自溶製錬による再生

小坂鉱山は取得から10年を経ても黒鉱の製錬技術の壁で赤字が続き、融資元の毛利家から正式な閉山の指示が出される事態に至った[11]。閉山処理のため小坂へ着任した久原房之助 氏は事業継続の必要を強く説き、同郷の長州出身者である井上馨 氏の個人的な支持を取りつけて閉鎖指示の撤回を実現している[12]。取得した資産を手放すか、技術の壁を越えて残すかで、藤田組の鉱山経営はこの判断に分かれ道を見た。

久原房之助 氏は1897年6月に小坂の銚子第一発電所で水力発電を立ち上げ、1898年1月に黒鉱の乾式製錬の操業を始め、1902年6月にはついに黒鉱自溶製錬の操業に成功した[13]。この技術によって黒鉱の量産の体制が整い、1906年には小坂鉱山が国内全鉱山中の生産額一位に達している[14]。久原 氏は後に藤田組を離れて1905年に日立鉱山を取得し、久原財閥を興していくが、小坂で培われた製錬技術は藤田組に残り、後の同和鉱業の中核をなす資産として引き継がれた[15]

児島湾干拓から同和鉱業の上場へ

藤田伝三郎 氏は鉱山収益の蓄積を背景に、1899年5月に岡山県の児島湾干拓事業に着手し、鉱業以外の長期の固定資産にも資本を投じている[16]。鉱山経営は資源価格と製錬技術に収益が左右されやすく、干拓地という土地資産の造成でその変動を分散する意図があった。1912年に伝三郎 氏が72歳で没した後は、息子3名が藤田組を継ぎ、児島湾干拓は後の同和鉱業を経て戦後まで続く長期の事業として残った[17]

1937年の日中戦争の開始以降、軍需用の銅・亜鉛・鉛の安定供給が国策となり、藤田組の鉱業部門は重要産業の統制下に置かれた[18]。1944年2月には本店を創業以来の大阪から東京へ移し、翌1945年12月に商号を同和鉱業株式会社へ改め、藤田家の同族財閥としての色合いを薄める再編を進めている[19]。戦後の財閥解体を経て、同和鉱業は中堅の鉱山会社として独立を保ち、1949年7月に東京証券取引所へ株式を上場し、公開企業として再び歩み出した[20]

出典・参考
  • DOWAホールディングス 有価証券報告書 第122期【沿革】
  • 藤田組史
  • DOWA社史
  • 工場払下概則(1880)

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