DOWA1999年の緊急対策に始まる事業構造改革と、ROAを物差しにした資産・人員の圧縮
好況を待って直すか、業績が落ちた今すぐ手をつけるか——吉川廣和 氏が「しめた」と受け取った経営悪化
- 概要
- 1999年11月、同和鉱業が当時の従業員の1割以上に相当する希望退職の募集と賃金カットを含む緊急対策を発動し、翌2000年度から3年間でROAを2%から5%へ引き上げる中期計画に着手した。指揮したのは同年6月に専務へ昇進したばかりの吉川廣和 氏で、2002年に社長へ就いた後も資産圧縮を続けた。
- 背景
- 1985年のプラザ合意後の円高で非鉄各社は打撃を受け、為替の影響を直接受ける製錬の比率を下げるためバブル期に多角化を競った。同和鉱業も複雑硫化鉱の製錬技術を応用してリサイクル事業を広げ、金属加工や電子材料へ参入したが、資産・人員・有利子負債が膨らんだ割に収益力は高まらなかった。1998年から99年にかけて銅地金の国際相場が急落し、1999年9月中間期には主力の製錬事業が6年ぶりの経常赤字に陥った。
- 内容
- 1999年11月の緊急対策では希望退職の募集と賃金カットを柱に経費を削り、バブル期に大量採用した30代を中心に希望退職を募った。2000年度からの3年間でROAを2%から5%へ高める中期計画を掲げ、聖域なき資産圧縮として在庫削減、子会社のMBO、遊休不動産と持ち合い株の処分、賃貸ビルの証券化による売却を進めた。
- 含意
- 2003年3月期の総資産は2,487億円と3年前の3,250億円から763億円減り、有利子負債も766億円圧縮された。ROAは4.5%と目標の5%には届かなかったが、同期の連結経常利益は120億円と前の期比52%増となった。2003年4月からは経常利益220億円・ROA9%を掲げた新たな中期計画に移っている。
悪い数字が出るのを待った改革
「しめた」という一語に、この改革の性格が集約されている。長い歴史のなかでたまった矛盾を一気に吐き出す改革は好況の時期にはできない、と吉川廣和 氏は語った。裏を返せば、1998年3月期まで4期続いた増収増益のあいだ、資産も人員も手つかずで残されていた。銅地金相場の急落と製錬事業の経常赤字という悪い数字が出て初めて、1割以上の希望退職と総資産763億円の圧縮に手がついた形になったとみられる。
ただし、3年で掲げたROA5%には届かず、着地は4.5%であった。改革の中核と位置づけた製錬部門は最終年度でも部門ROA0.36%にとどまり、原料在庫の評価損101億円を計上してようやくしがらみを断つ段階にあった。数字が改善した部分の多くは、在庫や現預金、遊休資産といった圧縮しやすい項目から出ている。稼ぐ力そのものの立て直しは、この3年で終わらず次の中期計画へ持ち越されたといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
円高と多角化のツケ
1985年のプラザ合意後の急激な円高で、非鉄各社は大きな打撃を受けた。為替の影響を直接受ける製錬の比率を下げるため、各社はバブル期に競って多角化へ走っている。同和鉱業は銅・亜鉛・金など多数の金属を含む複雑硫化鉱を分離して製錬する技術を持ち、これを応用して産業廃棄物から有用金属を回収するリサイクル事業を広げ、金属加工や電子材料といった川下へも進出した[1][2]。
会社の内側にたまったものは、資産だけではなかった。労務畑を歩いた韮谷定敏 氏は会長在任中の1994年、最盛期に1万人だった従業員が3,000人に減っていく過程をつぶさに見てきたと語り、1973年の合理化がもっともつらい思い出であったと述べている。同社には100年を超える歴史があるから古い澱もたまっている、鉱山がなくなり川下の事業にシフトしている、旧弊打破には若い人の力が必要である、というのが当時の自己認識であった[3]。
4期連続増収増益の直後に来た赤字
改革の前夜まで、数字の上では悪くない話が並んでいた。1998年6月、社長の原田謙三 氏は、前の1998年3月期で4期連続の増収増益となったこと、一ドル80円という円高の時代が体質強化に役立ったこと、黒鉱処理技術が産業廃棄物のリサイクル事業に応用できること、メタル粉が世界で70〜80%のシェアを持つことを挙げ、中期計画の2年度目として情報・通信、環境、自動車を重点に取り組むと述べている[4]。
その足元が1年で崩れる。1998年から99年にかけて銅地金の国際相場が急落し、1999年9月中間期には主力の製錬事業が6年ぶりの経常赤字に陥った。同年6月に専務へ昇進して本社に戻った吉川廣和 氏は、会社の実態を調べて強い危機感を抱いている。製錬の収益力回復に期待できないなかで資産も人も多すぎる、バブル期のツケを先送りしてきたからである、というのがその見立てであった[5][6]。
決断
業績悪化を機会と読む
1999年11月、同和鉱業は緊急対策を発動した。柱は、当時の従業員の1割以上に相当する希望退職の募集と、賃金カットを含む大幅な経費削減である。発表の直後、1999年12月には株価がバブル後最安値の160円をつけた。指揮したのは同年6月に専務へ昇進したばかりの吉川廣和 氏で、電子材料部門のトップを4年間務めて本社へ戻った直後の着手であった[7]。
吉川 氏は後年、この時期をむしろ好機として受け取ったと明かしている。専務就任の直後に経営が悪化したことを「しめた」と思った、長い歴史のなかでたまった矛盾を一気に吐き出す改革は好況の時期にはできない、というのがその理由であった。希望退職はバブル期に大量採用して人数が突出していた30代を中心に募っている。年配の社員より若い彼らのほうが新天地で活躍できる余地が大きいという判断で、先輩からは「そんなに急ぐな」とやんわり言われたという[8][9]。
ROAという物差し
人員削減と同時に掲げたのが、聖域なき資産圧縮であった。2000年度からの3年間でROAを当時の2%から5%へ引き上げる中期計画がそれにあたる。製錬の収入は、鉱石を溶かして地金に仕上げる加工賃の形をとり、ロンドン金属取引所の取引価格に一定の料率をかけた外貨建てで決まる。円建ての利益が地金相場と為替に振り回される以上、計画どおりにROAを高めるには総資産の圧縮が欠かせなかった[10][11]。
効率という物差しは、外から持ち込まれたものであった。吉川 氏は1995年に電子材料部門のトップへ就いたとき、顧客である電子部品メーカーや自動車部品メーカーがサプライチェーン・マネジメントを徹底し、毎日決まった時間の多頻度少量納品を当然のように求めてくることにカルチャーショックを受けたと語っている。2か月分の在庫を抱えたところでモデルチェンジを告げられ、残った在庫を特別損失で処分した経験も明かしている[12]。
結果
3年で削ったもの
中期計画の最終年度である2003年3月期の総資産は2,487億円と、2000年3月期の3,250億円から763億円減った。減少分のうち2割にあたる166億円は棚卸資産の削減による。有利子負債は1,322億円と3年前より766億円圧縮され、原料調達の決済などに備える現預金も199億円から56億円へ143億円絞られた。子会社経営陣によるMBO、遊休不動産と持ち合い株の処分、不動産証券化による賃貸ビルの売却も続いた[13][14]。
収益の側も動いた。2003年3月期の連結売上高は2,210億円と微減収でありながら、経常利益は120億円と前の期より52%増えている。ROAは4.5%と1.7ポイント改善したものの、掲げた5%には届かなかった。連結売上高が4分の1にすぎない同和鉱業のROAが、非鉄最大手の三菱マテリアルの0.69%を大きく上回った点に、規模ではなく効率で稼ぐ体質への傾きが表れていた[15][16]。
過去のしがらみを損で断つ
残った課題は、改革の出発点となった製錬部門であった。2003年3月期の製錬部門の売上高は1,074億円と連結の約半分を占めながら、部門経常利益は3億円、部門ROAは0.36%にとどまる。棚卸資産の回転日数も連結の67日に対し製錬は103日と長い。同社は2003年4月から、経常利益220億円・ROA9%を目標に掲げた新たな中期計画へ移り、製錬部門のROAを5%へ引き上げることを最大の焦点に据えた[17][18]。
2003年3月期には、地金相場の高い時期に買って抱え込んでいた製錬部門の原料在庫の評価損101億円を一気に償却している。相場に振り回されてきた製錬部門には、在庫を抱えても市況回復を待って売ればよいという発想が残っており、評価損を出してでも過去のしがらみを断ち切る、というのが吉川 氏の説明であった。改革を評した週刊東洋経済の書評は、著者が挑んだ壁を組織の壁・上下の壁・社風と風土の壁の三つに整理している[19][20]。
- 日経ビジネス 2003年7月28日号「同和鉱業(非鉄製錬)ROA9%へ手綱緩めず」
- 日経ビジネス 1994年3月14日号「有訓無訓 韮谷定敏[同和鉱業会長]保守と革新のバランスが重要」
- 週刊東洋経済 1998年6月27日号「[ザ・トーク]三菱商事・山本一良専務/同和鉱業・原田謙三社長」
- 週刊東洋経済 2008年2月23日号「ブックレビュー(吉川廣和『壁を壊す』短評)」
- 同和鉱業 会社年鑑(連結業績)