飯野海運千代田土地建物の買取りによる不動産事業への進出
運賃市況に振り回される船会社が、なぜ都心の土地を持つ会社を買ったのか
- 概要
- 1955年8月、飯野海運は千代田土地建物株式会社を買い取り、海運業のほかに不動産賃貸業を抱えた。買収した会社は1960年6月に飯野不動産へ改称し、同年10月には東京都千代田区内幸町に飯野ビルが竣工して本社が移った。
- 背景
- 戦後の飯野海運はタンカーと定期航路の両建てで船隊を立て直したが、外航海運の収益は運賃市況と原油価格に直結し、期ごとの振れが大きかった。本社も丸ノ内の借室で、自前の拠点を持たなかった。
- 内容
- 都心に土地を持つ不動産会社を株式ごと買い取り、その敷地に自社ビルを建てて賃貸する方法を選んだ。延床7万6,808平方メートルの飯野ビルは本社機能とイイノホールを併せ持ち、賃料が海運とは別の収益源となった。
- 含意
- 1隻ごとに市況の当たり外れが出る海運と、契約期間中は賃料が入る不動産を1社で抱える構成は、以後70年にわたり飯野海運の事業構造の基本となった。同時に、含み益を抱えた都心の土地は買収の標的にもなった。
稼ぎ方の異なる資産を1社で持つということ
1955年の判断は、海運会社が土地を買ったという話にとどまらない。船は市況が上がれば数カ月で利益を生み、下がれば係船して損を垂れ流す。ビルは急に儲からない代わりに、契約が続くかぎり毎月同じ額が入る。性格の異なる2つの資産を1社の貸借対照表に並べたことで、飯野海運は片方が止まってももう片方で息をつなぐ構成を手に入れたとみることができる。規模で中核6社に及ばない船社が、規模とは別の軸で経営の安定を買った選択であった。
もっとも、安定を生む資産は同時に狙われる資産でもあった。2003年に外資が筆頭株主へ躍り出た場面が示したのは、都心の含み益が株価に反映されないまま置かれると、それ自体が買収の動機になるという事実である。近年の海外オフィスビル取得は、海運の好況期に不動産の基盤を厚くしておく判断とみられるが、賃料と運賃という異質な収益をどの比率で持ち続けるのかは、いまも経営が答えを出し続けている問いといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
船隊を立て直した戦後10年
敗戦で船隊のほとんどを失った飯野海運は、1946年に本社を舞鶴から東京都千代田区丸ノ内へ移し、外航海運への復帰を進めた。1948年には東亜丸がバーレーン原油の積み取りのため横浜港を出港し、1950年には戦後の日本で初の大型タンカーとなる隆邦丸が竣工した。1951年にはバンコク、インド・パキスタン、ニューヨークの各定期航路を開設し、1957年には西豪州、1958年にはナホトカへも航路を伸ばした。タンカーと定期航路の両方を持つ中堅船社の形が戻ってきた[1][2]。
建造資金の調達も並行して整えた。1949年5月に東京証券取引所へ上場し、1952年10月までに大阪証券取引所ほか6取引所にも順次上場して、株式市場から復興期の資金を集める道をつくった。もっとも、外航海運の収益は世界の景気と原油価格、そして運賃市況にそのまま連動する。船を1隻増やすたびに市況の当たり外れが業績へ跳ね返る構造は、戦前から変わっていなかった[3]。
市況に左右されない収益をどこから得るか
海運業の収益は、運賃市況の振れ幅がそのまま業績の振れ幅になる。積み荷が原油であれば、産油国の政情や需給の変化が数カ月で運賃を何倍にも動かし、逆に船腹が余れば係船が並ぶ。契約期間中は決まった額が入る収益源を別に持たないかぎり、船会社は市況の上下に業績を預けたままになる。飯野海運が1950年代半ばに向き合ったのは、この構造をどう和らげるかという課題であった[4]。
当時の飯野海運は丸ノ内に本社を置いていたが、自前の建物ではなかった。都心の一等地に土地を持つことは、事務所を確保する話であると同時に、賃料を稼ぐ資産を持つ話でもある。日比谷公園に面する内幸町の敷地は、のちに約2,300坪と数えられ、霞が関の官庁街と隣り合う位置にあった。船に投じるのと同じ資金を土地と建物に置けば、市況とは別の理屈で回る収益が手に入る[5]。
決断
会社ごと買い、社名を変え、ビルを建てる
1955年8月、飯野海運は千代田土地建物株式会社を買い取った。更地を取得して開発するのではなく、都心に土地を持つ会社を株式ごと引き受ける方法を選んでいる。買い取った会社は5年近く同じ商号のまま置かれ、1960年6月に飯野不動産株式会社へ改称した。海運会社が自らの名を冠した不動産子会社を持つ体裁が、ここで整った。買い取りから改称までの5年間に、飯野海運は西豪州、ナホトカ、北米・東南アフリカ三国間、カナダ・五大湖と定期航路を広げており、不動産の取得は海運の拡大と並行して進んだ[6][7][8]。
改称と同じ1960年の10月、内幸町に飯野ビルが竣工した。地上9階・地下4階、延床面積は7万6,808平方メートルで、当時の千代田区内では地下4階まで掘り下げた例は少なかった。本社は丸ノ内から新しいビルへ移り、500席のイイノホールが営業を始めた。事務所・貸室・ホールを1棟に収めた建物が、買収から5年を経て稼ぐ側の資産に変わった[9][10]。
賃料を第二の柱に据える
不動産事業は、海運業の脇に置かれた投資ではなく、収益の柱として扱われた。1960年代の飯野海運は、内航ガス船の桃邦丸や外航LPG船の豊洲丸で運ぶ貨物の幅を広げ、1963年には千代田石油株式会社を設立して石油小売業にも入っている。船で運ぶ、売る、貸すという3種類の稼ぎ方を同時に持つ形が、この時期に固まった[11]。
ビルの数もその後増えていった。1967年に東京桜田ビル、1983年に東京富士見ビル、1988年に飯野竹早ビル、1995年に笹塚センタービルが竣工し、賃貸資産は内幸町の1棟だけではなくなった。1997年10月には飯野不動産と合併して不動産業を本体に取り込み、子会社を通さず自ら賃貸事業を営む体制へ改めた。同じ1997年6月には貸フォトスタジオを運営する株式会社イイノ・メディアプロを設立し、2002年4月にはイイノ・南青山スタジオを竣工させて、賃貸のほかに施設運営という稼ぎ方も加えた。1955年の買収から40年余りをかけて、不動産は本体の事業になった[12][13][14]。
結果
含み益を抱えた土地が招いたもの
内幸町の土地は、時間の経過とともに簿価と時価の差を広げた。2003年の時点で飯野ビルの敷地約2,300坪は、近接地の取引事例から坪3,000万円で計算すると530億円になり、簿価の約160億円を大きく上回っていた。ところが2000年、2001年と同社の株価は1株当たり純資産を下回って推移した。売上高600億円ほどの中堅船社が、株式時価総額よりはるかに大きな不動産を抱えている状態であった[15]。
2002年11月、香港の海運資本ワールドワイドシッピング(環球航運)系の会社が発行済み株式の5.01%を取得したことが明らかになり、2003年1月には持株比率が6%を超えて筆頭株主となった。同グループもまた海運と不動産を2本柱とする企業集団で、飯野海運の社内には「本当の狙いは海運事業ではないのではないか」という見方が出た。太田健夫社長は面談の席で、持株比率を川崎汽船と同程度に抑えるよう求めている[16][17]。
建替えと海外展開、収益柱としての定着
2007年11月、飯野海運は建替え工事のため本社事務所を一時移転し、2011年10月に地上27階・地下5階、延床面積約10万4,000平方メートルの新しい飯野ビルディングが竣工して本社が戻った。デシカント空調やダブルスキン構造を備えた建物は、2011年11月に本社オフィスとして日本で初めてLEEDプラチナ認証を取得している。旧ビルの竣工から半世紀を経て、同じ敷地がより大きな賃貸床へ置き換わった。賃貸資産は内幸町だけにとどまらず、2006年に汐留芝離宮ビルディング、2021年に日比谷フォートタワーが竣工している[18][19]。
収益の面でも、不動産は海運と並ぶ位置を占めた。2015年3月期の不動産業は営業利益40億円・営業利益率35%で、外航海運業の4%との差は31ポイントに開き、売上の1割ほどの事業が連結利益の過半を稼いだ。2020年3月には英国ロンドンのBRACTON HOUSE、2024年3月には同じくロンドンの111 STRANDを取得して海外にも賃貸資産を持った。2022年10月には米国オレゴン州ポートランド市の再開発事業に、同年12月にはテキサス州ダラス近郊の木造7階建てオフィス開発にも参画している。大谷祐介社長は2025年6月、飯野ビルを「飯野海運の『魂』。何度も会社を救ってくれた」と語っている[20][21][22][23]。
- 飯野海運 公式サイト「社史(1899年〜1964年)」(https://www.iino.co.jp/kaiun/company/history_1964.html)
- 飯野海運 公式サイト「社史」(https://www.iino.co.jp/kaiun/company/history_1991.html)
- 飯野海運 有価証券報告書【沿革】
- 飯野海運 有価証券報告書(2015年3月期・セグメント情報)
- 週刊東洋経済 2003年2月8日号「狙われた優等生・飯野海運 香港華僑が『海運』を喰う!」
- ダイヤモンド・オンライン(2025年6月)「飯野ビルは飯野海運の魂だ!『何度も会社を救ってくれた』不動産事業への思いを大谷社長が吐露」