新和海運の前身は、1934年1月に日本製鉄が社内に設けた船舶部門である。この部門は1945年4月に船舶運営会の管理下へ移るまで、同社の海上輸送を担っていた。1948年12月に日本製鉄へ解体指令が下り、翌1949年12月に分割再建計画が正式に許可されると、船舶部門は八幡製鉄・富士製鉄・播磨耐火煉瓦とともに第二会社として切り出される。現物出資4,000万円と譲受資産1億7,100万円余を継承し、1950年4月1日、日鐵汽船株式会社が東京・丸ノ内の丸ビルに発足した。初代社長には渡辺一良氏が就いている。 [1][2][3]
発足は海運界の完全民営還元と重なった。船舶運営会による一元管理が解かれた1950年4月、同社は社船24隻・52,426重量トンで営業を始めている。手持ちは戦時標準船が中心で、A型戦標船の豊永丸(10,876重量トン)を改装してAB船級を取得し、2D型の豊玉丸を2E型3隻と交換するなど、船隊の入れ替えから着手した。資本金は1950年12月に1億2,000万円、1951年11月に2億4,000万円、1952年10月に4億8,000万円と1年10カ月で4倍に増え、1951年1月には東京・大阪・神戸の各証券取引所へ上場した。 [4][5][6]
新造船には親会社の製鉄所の名が並んだ。第六次計画造船の宇佐丸(9,443重量トン)を皮切りに富士丸、八幡丸、香椎丸、安国丸と遠洋大型貨物船を建造し、1955年3月末の保有船腹は14隻85,942重量トン、うち外航船が8隻70,761重量トンと82%を占めた。ただし名が製鉄に由来しても、運んだ荷はそればかりではない。外航船隊は一部を川崎汽船と組んで北米・南阿一周航路に就航させ、残りは北米の穀物、キューバの砂糖、ゴアやフィリピン、香港で引き受けた鉱石を運ぶ不定期船として稼いだ。内航が八幡・富士両製鉄の鋼材と石炭を担う一方、外航は世界の荷を拾って回っていた。 [7][8][9]
のちに合併相手となる東邦海運の前身は、1915年2月に資本金50万円で大連に設立された大連汽船である。南満州鉄道の子会社として太平洋戦争の終結まで30年にわたり満鉄の海運部門を担い、最盛期の所有船腹は80隻・30数万トンに及んだ。倉庫と埠頭業務を兼営し、傍系に艀会社を持ち、船渠工場を直営する、日本郵船・大阪商船に次ぐ日本第3位の海運会社であった。その規模は敗戦で消える。外地資産をすべて失い、内地に残った船舶は18隻・6万4,000重量トンにすぎなかった。再建は1947年3月、資本金1,200万円の東邦海運設立から始まる。民営還元に備えて増資を重ね、1948年11月から1949年9月までに資本金は3億円へ膨らんだ。 [10][11][12]
当時の海運政策が世界貿易への復帰を目標に外航定期船の建造へ重点を置いたため、東邦海運は大連汽船時代の中国中心という近海航路の方針を改め、遠洋定期船の経営へ切り替えた。1949年末に新造第一船の東鳳丸を三菱長崎造船所へ発注し、三菱海運・日産汽船・飯野海運と国際ラインを結成して、1951年4月にインド・パキスタン航路、6月にニューヨーク航路を開いている。だが転換は裏目に出た。1952年夏に世界の海運運賃が激落し、日本船8社が競うニューヨーク航路の過当競争も重なって、両航路は巨額の欠損を計上する。東邦海運は2航路を廃止し、1954年6月に国際ラインを脱退した。 [13][14]
当時の日本郵船で営業副部長を務めていた菊地庄次郎氏は、国際海運という4社の寄り合い所帯のなかでもタンカーを兼営しない東邦海運と日産汽船がとりわけ苦しかったと書き残している。一方の郵船は、海運同盟のうえで中近東航路の開設許可を得ながら、そこへ配船する定期船を持たずにいた。1954年のある日、旧知の上中竜男・東邦海運常務が郵船に菊地氏を訪ねてくる。雑談のなかで菊地氏は、ニューヨーク航路に就航中の新造船2隻と進水直前の『まにら丸』の計3隻を郵船へ譲り、身軽になってはどうかと切り出した。上中氏は単純譲渡は困るが不定期船隊との交換なら応じると答える。郵船は戦時標準船を改造した不定期船3隻を渡して新造船3隻を受け取り、計画造船の割り当てが年に1〜2隻という時代に3隻を得て中近東航路を開いた。東邦海運は直後のスエズ・ブームで不定期船の利益を取る。この交換を機に、両社は兄弟会社として提携した。 [15][16][17][18]
1962年2月、日鐵汽船は東邦海運を吸収合併し、商号を新和海運株式会社へ改めた。製鉄原料の輸送を軸とする日鐵汽船に、大連汽船以来の遠洋・近海の航路経営と、郵船との提携関係を持つ東邦海運が加わる。製鉄系の専属船社という出自に、独立系の総合海運という性格が接がれた形になった。合併の前年まで両社が抱えていた課題は、対になるものであった。日鐵汽船は八幡・富士という安定した荷主に恵まれながら外航船8隻という小さな船隊にとどまり、東邦海運は19隻13万4,548重量トンの運航船腹を持ちながら定期船の赤字に苦しんでいた。荷主を持つ側と船を持つ側が、一つの会社になった。 [19][20]
1963年7月1日、海運業の再建整備に関する臨時措置法などの海運再建二法が公布された。狙いは、海運企業を集約・再編成して経営規模を拡大し国際競争力を強化すること、それによって業界内の過当競争を排除すること、企業の自主的な合理化努力で償却不足と延滞金を解消することの三つに置かれた。参加企業には第17次計画造船以前の支払利子を整備期間の5年間猶予し、第18次以後の新造船には財政資金で銀行の融資負担を軽減する助成が用意された。集約に参加した企業は95社、その外航船腹は658隻・936万重量トンで、当時の日本の外航船腹量の約90%に相当する。 [21][22]
集約では、中核体と呼ばれる主力オペレーターが2社ずつ合併し、関連する子会社はその傘下へ系列会社・専属会社として入って6グループが形成された。1964年5月、企業集約が運輸大臣の確認を受けて完了し、新和海運は日本郵船グループに属する系列会社となる。製鉄資本を出自としながら郵船の系列に置かれるこの二重性は、政策が一方的に定めたものではない。10年前に東邦海運が船腹交換で結んだ縁が、集約の枠組みのなかで系列として追認された面がある。以後の同社は、荷主を新日鉄系に、資本と系列を郵船側に置く構造を長く抱えることになる。 [23][24]
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|---|---|---|---|---|
| 1950〜1976年日本製鉄の船舶部門24隻からの独立と、東邦海運が持ち込んだ郵船との縁 | 日鐵汽船創立 | ★ | ||
| 東京・大阪・神戸の各証券取引所に上場登録 | ★ | |||
| 海運仲立業を主業務として中央海運を発足 | ★ | |||
| 晴海船舶を発足 | ★ | |||
| 不動産管理部門を分離し東海興業を発足 | ★ | |||
| 内航船主会社として日和産業海運を発足 | ★ | |||
| 日鐵汽船が東邦海運と合併し新和海運へ改称 1962年2月、日本製鐵の海運部門を引き継いで発足した日鐵汽船が、旧満鉄系の大連汽船を前身とする東邦海運と合併し、商号を新和海運株式会社に改めた判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 海運集約による日本郵船グループへの系列編入 1964年5月、新和海運が海運再建整備法にもとづく企業集約で日本郵船を中核会社とする企業グループに所属し、その系列会社となった判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 中央海運が内航油送船業務を引き継ぎ新和ケミカルタンカーに商号変更 | ★ | |||
| ニューヨーク駐在員事務所を開設 | ★ | |||
| MATTHEWS WRIGHTSON SHIPPING LTD.との合弁により英国法人SHINWA (U.K.) LTD.を設立 | ★ | |||
| 日和産業海運が内航運送業を引き継ぎ新和内航海運に商号変更 | ★ | |||
| 外国用船管理業務を主体とした子会社東洋マリン・サービスを設立 | ★ | |||
| ニューヨークにSHINWA(U.S.A.)INC.を設立 | ★ | |||
| 南洋材輸送強化のためインドネシアに合弁会社P.T.PAKARTI TATAを設立 | ★ | |||
| 1977〜2009年便宜置籍船と円高のなかの中堅──新日鉄の出資強化と「その他の関係会社」化 | 本社事務所を東京都千代田区内幸町二丁目2番2号(富国生命ビル)に移転 | ★ | ||
| 新和エンジニアリングを発足 | ★ | |||
| 情報システム部を分離しサンライズシステムセンターを発足 | ★ | |||
| 船内荷役業務を事業化しインターナショナルマリンコンサルティングを設立 | ★ | |||
| 船舶保守管理業務の効率化を図るため新和マリンを発足 | ★ | |||
| 子会社の新和興業を吸収合併 | ★ | |||
| 新和内航海運が株式を日本証券業協会に店頭登録 | ★ | |||
| 筧孝彦 | 香港新和海運有限公司を設立 | ★ | ||
| 筧孝彦 | 新晴海運を吸収合併 | ★ | ||
| 筧孝彦 | シンガポール法人としてDAJIN SHIPPING PTE LTDを設立 | ★ | ||
| 筧孝彦 | 新和エンジニアリングを解散しシンワ エンジニアリング・サービスを設立 | ★ | ||
| 筧孝彦 | コンテナ保守整備業から撤退し産和ターミナルを解散 | ★ | ||
| 筧孝彦 | DAJIN SHIPPING PTE LTDを完全子会社化 | ★ | ||
| 筧孝彦 | ケミカル船事業を移管 | ★ | ||
| 筧孝彦 | 新日本製鐵がNSユナイテッド海運株式を買増し「その他の関係会社」に | ★★ | ||
| 2010〜2026年新日鉄系と郵船系の対等合併──ケープサイズ・メタノール船への3000億円投資 | 小畠徹 | 郵船系の新和海運と新日鉄系の日鉄海運が合併しNSユナイテッド海運が発足 2010年5月20日、新和海運と日鉄海運が合併契約を締結し、同年10月1日に新和海運を存続会社とする吸収合併を実行してNSユナイテッド海運が発足した判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 小畠徹 | 谷水一雄氏が3代目社長に就任 | ★ | ||
| 谷水一雄 | 外航ケミカルタンカー事業からの撤退を決議 | ★★ | ||
| 谷水一雄 | 本邦初の40万重量トン型鉄鉱石専用船「NSU CARAJAS」が竣工 | ★ | ||
| 谷水一雄 | ヴァーレ社と25年の長期輸送契約を締結 | ★★ | ||
| 山中一馬 | 山中一馬氏が4代目社長に就任 | ★ | ||
| 山中一馬 | 日本郵船による公開買付けへの賛同と、日本製鉄の持分縮小をともなう非公開化 2026年7月31日、日本郵船はNSユナイテッド海運の普通株式に対する公開買付けを実施すると発表し、同社取締役会は賛同と応募推奨を決議した。買付価格は1株10,600円、買付予定数は1,137万9,482株(48.29%)、買付総額は1,206億円を見込む。日本製鉄が保有株の一部を自己株式公開買付けに応募したのち、日本郵船83.33%・日本製鉄16.67%の2社のみが株主となり、株式は上場廃止となる見込みである。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 山中一馬 | 取締役会が賛同と応募推奨を決議 | ★★ | ||
| 山中一馬 | 日本製鉄が保有比率を16.67%へ引き下げ | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(NSユナイテッド海運)