この合併で注目されるのは、存続会社であった日鐵汽船が自らの社名を残さなかったことである。製鉄の海運部門から生まれた会社にとって、"日鐵"の二文字は出自の証明であると同時に、鉄鋼一業種の専属船社という枠組みの表明でもあった。旧満鉄系の一般貨物船社と一社になり、どちらの名も引かない商号を選んだ判断には、荷主の幅を持つ海運会社として立つという意図が読み取れる。船を増やすだけの合併ではなく、会社の性格そのものを組み替える試みであったとみられる。
もっとも、荷主の幅を広げても、資本の後ろ盾を自分で選べる立場になったわけではない。2年後の集約で新和海運は日本郵船グループの系列に入り、製鉄を荷主とし郵船を資本の後ろ盾とする二重の関係が固まった。そして48年後、その関係は新日本製鐵主導の合併によって書き換えられる。中堅の海運会社にとって、規模を作る努力がどこまで自律性につながるのか——1962年の合併は、その問いが最初に現れた場面であったといえる。