呉羽紡績の吸収合併とナイロン事業への進出

複合繊維時代にどう備えるか——8年出遅れた東洋紡はなぜ呉羽紡績を選んだか

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時期 1965年11月
意思決定者 谷口豊三郎 社長
論点 合成繊維出遅れの挽回と事業基盤の再編
概要
1966年4月、東洋紡績は呉羽紡績を吸収合併し、同社が保有していたナイロン生産設備を取得して、ポリエステル・アクリル・ポリプロピレンとあわせ主要な合成繊維をすべて自社グループに収める体制を築いた谷口豊三郎社長主導の経営判断。
背景
1954年に英ICIからのポリエステル技術提携を見送り1956年のアクリル参入に主力を移した結果、ポリエステルで帝人・東洋レーヨンに8年出遅れ、1961年の業界誌には「小結程度の存在」と評されるまで地盤沈下していた。
内容
1965年11月に合併を発表し、谷口社長は「複合繊維時代に対処していく上で、大きな強みとなろう」と狙いを語った。1966年4月に吸収合併を完了し、新社長に就任した河崎邦夫氏のもとで不良資産・不採算部門の整理に着手した。
含意
整理の代償として二期無配に転落したが、1967年10月期には一割配当を復活させた。1968年の講演で河崎社長は合繊部門の伸びによる業績好転を語ったが、ポリエステルそのものの技術的な出遅れは合併後も残り、犬山工場のフィルム転換など次の構造改革への布石となった。
筆者の見解

規模の合成と技術の合成は別物

この合併の核心は、単独の技術開発では埋めがたい8年の出遅れを、呉羽紡績が持つナイロンという「ピース」の獲得によって一気に埋めようとした点にある。谷口豊三郎社長が語った「主要な合繊をすべて持った強力な紡績会社」という構想は、規模を追うロジックというより、複合繊維時代に対応する製品ラインアップの完結を狙ったものと理解できる。もっとも、ポリエステルそのものの技術力で帝人・東洋レーヨンに追いついたわけではなく、出遅れの根本は合併後もなお残ったとみることができる。

むしろこの合併が示したのは、規模を統合すること自体が新たな重荷を生むという逆説であった。二期無配という代償を払いながらも1年半で復配にこぎつけた点は評価できるが、それは河崎邦夫社長が身を切る資産整理を徹底したことの成果であり、合併という手段そのものが自動的にもたらしたものではない。そしてこの合併で切り離された犬山工場のパルプ事業は、まもなく1968年にフィルム事業へ転換する判断につながっていく。合成繊維の出遅れを埋めるM&Aが、次の構造改革の呼び水になった点に、この決断の射程の長さがうかがえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

ICI提携見送りから生まれた8年の出遅れ

1950年代前半、世界の繊維業界は天然繊維中心の市場から合成繊維の時代へと転換しつつあった。日本の紡績各社にも欧米企業との技術提携を通じて新領域へ参入する機会が相次いで訪れ、東洋紡は1954年に英国インペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)からポリエステル繊維の技術提携を打診されたが、原料テレフタル酸の製造に必要な化学プラント建設という設備投資の負担と、衣料用途としての市場性への確信の乏しさを理由に見送った。1956年には米国アメリカン・シアナミド社との提携で住友化学とともに日本エクスラン工業を設立し、アクリル繊維の分野へ経営資源を振り向ける道を選んだ[1]

ポリエステルは以後、衣料分野で世界最大の合成繊維に成長する戦略素材となり、先発した帝人と東洋レーヨンが設備投資と販売網の両面で優位を固めていった。東洋紡がこの分野に本格参入したのは1964年5月の岩国工場稼働からであり、先発2社に対しておよそ8年遅れた。1961年の業界誌は、戦前に鐘淵紡績から繊維界の横綱の座を奪った東洋紡が、戦後は東洋レーヨンの前で「三役もおぼつかない、せいぜい小結程度の存在」まで地盤沈下したと評しており、合成繊維への出遅れがそのまま業界内の序列変化として現れていたことをうかがわせる[2][3]

呉羽紡績という選択肢

合併の相手となった呉羽紡績は、1929年設立の旧呉羽紡績を前身とし、1944年の企業整備統合令のもとで三興・大同貿易とともに大建産業(後の伊藤忠商事・丸紅飯田の前身)へ統合され、戦後の1950年に大建産業の第二会社として旧社名で分離再発足した経緯を持つ、綿紡界の名門十大紡績会社の一社であった。1962年6月からは西独チンマー社の技術によってナイロン事業を企業化しており、東洋紡が手薄だった合成繊維の一角を早くから手にしていた[4]

呉羽紡績が保有するナイロン生産設備は、当時の東洋紡が単独では持たない領域であり、ポリエステル・アクリル・ポリプロピレンをすでに手がけていた東洋紡にとって、主要な合成繊維をひとまとめに揃える最後のピースとなりうる存在であった。東洋紡自身も後年、この合併を「ナイロン事業へ進出」と表現しており、天然繊維の名門としての販売網と生産規模を持つ東洋紡と、ナイロンで独自の技術を築いた呉羽紡績が一体となることで、単独の技術開発を待つよりも早く合繊全種を持つ企業へ到達できるという判断があった[5]

決断

谷口豊三郎社長の合併発表

1965年11月、東洋紡と呉羽紡績は合併を発表した。谷口豊三郎社長は合併の狙いについて「最大のねらいは、おもな合繊をすべて持った強力な紡績会社の設立ということだ。ナイロン、ポリエステル、アクリル、ポリプロピレンなどを全部持つことは、複合繊維時代に対処していく上で、大きな強みとなろう」[6]と語り、単なる規模の拡大ではなく、主要な合成繊維をすべて自社グループに収める布陣を組む狙いであることを明確にした。1959年から社長を務めてきた谷口氏にとって、この合併は8年に及ぶポリエステルの出遅れという積年の課題への、みずからの手による決着の付け方であった。

合併は吸収合併の形で進められ、1966年4月に完了した。呉羽紡績は当時、綿紡界の名門十大紡績会社の一社に数えられ、決して劣勢の企業ではなかった。それでも対等な規模の相手を吸収する道を選んだのは、東洋紡が単独でポリエステル・アクリル・ポリプロピレンの技術を積み上げてきた蓄積と、呉羽紡績が持つナイロンの技術とを組み合わせれば、帝人や東洋レーヨンに対抗しうる「複合繊維」の総合力を最短で手にできると踏んだためであった[7]

河崎邦夫新社長による整理の実行

合併と同時に、東洋紡の経営トップも交代した。谷口豊三郎氏に代わって河崎邦夫氏が新社長に就任し、合併実務の総仕上げにあたった。河崎新社長がまず着手したのは、拡大した会社の規模を誇示することではなく、両社が抱えていた不良資産と不採算部門を徹底的に整理する内向きの作業であった。合併によって重複した子会社の統合も課題として残り、河崎氏は後年みずから「呉羽紡績との合併の結果、二重投資になつているものもあるので、今後これを統合していきたい」と述べている[8][9]

不良資産・不採算部門の整理は、合併直後の業績を大きく圧迫した。1966年4月期の当期純利益は2億5000万円にとどまり、前期の14億2000万円から急落した。河崎社長は身を切る整理を先行させる道を選び、拡大した規模をすぐに収益へ結びつけることよりも、まず身軽な財務体質を取り戻すことを優先した[10]

結果

二期無配からの体質改善

合併に伴う資産整理の代償は大きく、東洋紡は二期にわたって無配に転落した。名門企業として長く配当を続けてきた同社にとって、これは体質改善の痛みを株主にそのまま背負わせる決断であった。それでも整理は速いペースで進み、1967年10月期には早くも一割配当を復活させている。合併から1年半というごく短い期間での復配は、河崎社長が主導した資産整理が的確であったことを裏づけるものであった[11]

1968年6月、河崎社長は証券アナリスト協会の講演でこの間の業績を振り返り、売上高が期初予想の770億〜780億円に対して797億円に達し、税引利益も15億6200万円と好調だったと説明した。この好転を支えたのは合繊部門の伸びであり、ポリエステルは日産60数トン、ナイロンは日産50トンを超える水準まで拡大して「経済単位」を越えたことが寄与したという。売上高構成でも天然繊維の比率は50%を割り込み、合成繊維の比率が高まりつつあった[12]

出典・参考
  • 日本経済新聞 1965年11月15日「東洋紡・呉羽紡が合併」
  • ダイヤモンド臨時増刊 1961年9月10日号「東洋紡績 対 鐘淵紡績」(ダイヤモンド社)
  • 経済春秋社編『企業の歴史:明治百年』(経済春秋社, 1968)
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第7号「紡績業界と東洋紡績の現状と将来」
  • 東洋紡 有価証券報告書【沿革】
  • 東洋紡績 会社年鑑(単体)