東海カーボン同年創業の東洋カーボンとの合併と、炭素製品国内首位の総合メーカーへの再編

同じ1918年に生まれ70年余を並走した二社は、なぜ円高下の電極事業で一つになったか

時期 1992年1月
意思決定者(推定) 取締役会
論点 黒鉛電極の国際競争力と事業構成の再編
概要
1992年1月、東海カーボンは資本金38億円の東洋カーボンを合併した。両社はともに1918年に創業した炭素メーカーで、70年余にわたり併存してきた。合併により滋賀・山梨・茅ヶ崎第二の3工場を引き受け、黒鉛電極とファインカーボンの事業を広げるとともに、摩擦材という新しい分野を得た。
背景
1985年9月のプラザ合意を機に円高が進み、輸出で需要の波を吸収してきた黒鉛電極の国際競争力は低下した。東海カーボンは1987年から1988年にかけて工場の集約化と合理化に踏み込んだが、電極の原価をさらに下げる課題は残った。
内容
東海カーボンを存続会社として東洋カーボンを吸収し、滋賀工場・山梨工場・茅ヶ崎第二工場が加わった。会社側が挙げた目的は電極事業の一層のコストダウンによる国際競争力の強化で、あわせてファインカーボンの拡大と摩擦材事業の獲得を伴った。
含意
合併後の国内シェアはカーボンブラック・人造黒鉛電極・不浸透性黒鉛で首位、電機用ブラシとファインカーボンで2位となり、日本最大の炭素製品総合メーカーの位置についた。ただし1992年12月期は売上を伸ばしながら赤字に沈み、承継した山梨工場は翌年に閉鎖された。
筆者の見解

買ったものと、ついてきたもの

同じ年に生まれた二社が70年を経て一つになったという筋書きは、規模拡大の物語として読みたくなる。ただ会社側が挙げた目的は電極事業のコストダウンひとつであり、1992年12月期は売上を73億円伸ばしながら2億円の赤字に沈んだ。この合併の芯は、円高で失った電極の価格競争力を生産拠点の組み替えで取り戻すところにあったとみられる。翌1993年6月に山梨工場を閉じた早さが、その性格を示している。

もっとも、原価対策としての合併が電極で答えを出すまでには長い時間がかかった。滋賀工場は33年後に電極の生産を止め、2024年12月期には564億円の純損失が計上されている。むしろ、目的として掲げられなかった摩擦材のほうが、湘南事業所への統合と東海マテリアルの設立を経て事業として残った。狙って買ったものより、ついてきたもののほうが長く続くことがある——この合併はその一例として読むことができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

電極とカーボンブラックの二本柱

東海カーボンは1918年4月、電気製鋼用の黒鉛電極を国産化する目的で興された東海電極製造を前身とする。戦後は1950年に自社技術でわが国初のファーネス式カーボンブラックを工業化し、復興する自動車・タイヤ産業の需要を取り込んで1955年には国内シェア40%へ達した。1977年度にはカーボンブラックの売上が電極を超え、1978年の石巻工場新設で3工場体制を敷く。鉄鋼とタイヤ、二つの需要先へ売上を分ける構えができていた[1]

その二本柱のうち、電極の側が1980年代後半に揺らいだ。1985年9月のプラザ合意を機に円高が進み、内需の低迷期を輸出で吸収してきた黒鉛電極の国際競争力は低下した。東海カーボンは1987年から1988年にかけて工場の集約化と合理化に踏み込み、1987年10月には創業の地であった名古屋工場を閉鎖した。合理化で試練は乗り切ったものの、電極の原価をさらに下げるという課題は残された[2][3]

同じ年に生まれた二社の七十余年

東海カーボンにとって、他社を取り込んで製品分野を広げることは創業まもない時期からの手であった。1919年に小物炭素製品の有力メーカーであった大三位製作所を合併して電機用ブラシへ入り、1936年11月には熊本県田浦町に設けた第二東海電極を合併して太物電極の生産を加えた。一方で、同じ1918年に創業した東洋カーボンとは、電極を含む複数の製品分野で70年余にわたり併存してきた[4][5]

1990年前後の東海カーボンは、国内の合理化と並行して海外へ手を伸ばしていた。1987年9月にニューヨークへ現地法人を設けたのに続き、1990年2月にはタイのタイ・カーボン・プロダクト社へ資本参加して製造技術を供与し、同年12月には韓国の正友石炭化学とカーボンブラックの技術供与契約を結んだ。海外へ売り、海外で作る度合いが増すほど、国内で作る電極の原価は重くのしかかった[6]

決断

1992年1月の合併

1992年1月、東海カーボンは東洋カーボンを合併した。資本金38億円の東洋カーボンを吸収し、滋賀工場・山梨工場・茅ヶ崎第二工場の3拠点を引き受ける形をとった。会社側が経営課題として挙げていたのは、電極事業の一層のコストダウンによる国際競争力の強化であった。円高で失った価格競争力を、生産拠点の組み替えと規模の確保によって取り戻そうとする判断であった[7][8]

引き受けたのは電極の生産能力だけではなかった。合併の内容は、黒鉛電極とファインカーボン事業の拡大、および摩擦材事業の獲得と整理されている。ファインカーボンは半導体製造装置やシリコン結晶引き上げ装置の部材につながる加工分野で、摩擦材は建設機械や産業機械のブレーキ材にあたる。電極の原価対策として説明された合併に、事業の数を増やす意味が重なっていた[9]

炭素製品の総合メーカーという位置

合併の結果、業界に占める国内シェアはカーボンブラック・人造黒鉛電極・不浸透性黒鉛の3品目で首位となり、電機用ブラシとファインカーボンでは2位を占めた。日本最大の炭素製品の総合メーカーという位置は、この時点で品目ごとの順位という裏づけを得た。単一製品の生産規模で世界の大手と競うのではなく、電極からブラシまで炭素という素材の周辺を広く押さえる構えであった[10]

あわせて、茅ヶ崎第二工場が担う建設・産業用の摩擦材と摺動材が新分野として加わった。主力の電極とカーボンブラックはいずれも成熟産業で、新製品の開発と新分野の開拓は1980年代から同社の課題として残っていた。1986年に富士研究所を開いて炭化けい素ウィスカーや燃料電池用カーボンの基礎研究を始めた延長線上に、他社の事業を丸ごと引き受けるという手が置かれた[11]

結果

売上は伸び、利益は沈んだ

合併の効果は売上高に即座に表れた。連結の売上高は1991年12月期の553億円から、合併を通期で織り込んだ1992年12月期には626億円へ伸びた。ところが同じ期の当期損益は、前期の32億円の黒字から2億円の赤字へ転じている。バブル崩壊後の長引く不況と大幅な円高の進行が炭素製品製造業を厳しい環境に置き、規模を得た年がそのまま損失の年となった[12][13]

引き受けた拠点の整理も早かった。1993年6月、東海カーボンは合併で得たばかりの山梨工場を閉鎖した。連結売上高は1993年12月期に577億円、1994年12月期に555億円と減り、当期損益は収支均衡の水準にとどまった。1995年12月期の純利益17億円を経て1996年12月期に売上632億円・純利益38億円へ戻るまで、合併から4期を要した[14][15]

三つの工場のその後

合併で加わった摩擦材は、のちに独立した事業として形を得た。2001年4月に茅ヶ崎地区の3事業場を統合して湘南事業所を開き、2003年6月には千葉県八千代市に摩擦材の製造販売を担う子会社・東海マテリアルを設立した。合併の目的であった電極も、2017年にドイツSGLの米国子会社を134億円で買収して生産能力で世界4位となり、2018年12月期の営業利益は740億円の見通しへ達した[16][17]

一方、滋賀工場は2025年6月に黒鉛電極の生産を止めた。2024年12月期に純損失564億円を計上した東海カーボンは、同じ2025年6月にドイツのTOKAI ERFTCARBONの出資持分も譲渡している。合併で受け取った3工場のうち、山梨は翌年に閉じ、滋賀は33年後に電極から退いた。長く残ったのは、目的として掲げられなかった茅ヶ崎第二の摩擦材であった[18][19]

出典・参考
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
  • 東海カーボン 有価証券報告書(2024年12月期・連結)
  • 東海カーボン 会社年鑑(連結業績)
  • 週刊東洋経済 2018年10月20日号「[第1特集]絶好調企業の秘密 稼ぐ力をつけた日本企業 伸びる企業4 重厚長大企業の復活」

免責事項およびポリシー