同じ年に生まれた二社が70年を経て一つになったという筋書きは、規模拡大の物語として読みたくなる。ただ会社側が挙げた目的は電極事業のコストダウンひとつであり、1992年12月期は売上を73億円伸ばしながら2億円の赤字に沈んだ。この合併の芯は、円高で失った電極の価格競争力を生産拠点の組み替えで取り戻すところにあったのだろう。翌1993年6月に山梨工場を閉鎖した早さが、その性格を示している。
もっとも、原価対策としての合併が電極で答えを出すまでには長い時間がかかった。滋賀工場は33年後に電極の生産を止め、2024年12月期には564億円の純損失が計上されている。むしろ、目的として掲げられなかった摩擦材のほうが、湘南事業所への統合と東海マテリアルの設立を経て事業として残った。狙って買ったものより、ついてきたもののほうが長く続くことがある——この合併はその一例として読むことができる。