東海カーボン の歴史

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創業 1918年
創業者 寒川恒貞
創業地 東京都
創業
1918年4月8日、名古屋電燈の顧問電気技師だった寒川恒貞氏が、資本金50万円で東海電極製造株式会社を設立し、初代社長に就任した。本社を東京、工場を名古屋に置いている。木曽川水系の水力発電を広げた名古屋電燈は余剰電力の出口を必要としており、1916年に分離した電気製鋼所の操業には米アチソン社から輸入する高価な黒鉛電極が要った。寒川恒貞氏はその国産化を経営者の福沢桃介氏へ提案したが、製鋼所の内製部門とはせず、関連業界の需要に広く応える独立の炭素メーカーとして興している。1919年には大三位製作所を合併して電機用ブラシなどの小物炭素製品へ広げ、1936年には九州若松工場で原料ピッチコークスの自製を始めた。
決断
社名から電極を外した1975年、創業製品はすでに主力ではなくなっていた。カーボンブラックは1937年に九州若松工場で副生するピッチオイルを原料とする研究へ着手し、1950年に自社技術で日本初のファーネス式製造を工業化した製品である。1960年に米キャボット社と製造技術で提携し、1962年に知多工場を建てて量産へ移ると、1975年下期には総売上の4割を超えた。商号を東海電極から東海カーボンへ改めたのは同じ1975年6月で、1980年にはカーボンブラックが社内売上の5割を超えている。1992年1月には同年創業の東洋カーボンと合併して、カーボンブラック・人造黒鉛電極・不浸透性黒鉛の3品目で国内首位に立った。電極のために興した会社が、電極を焼く技術の応用先のほうで規模を得た。
現況
タイヤ向けが売上の47%を占めるが、利幅が厚いのは半導体向けである。2025年12月期の連結売上高は3,229億6,000万円、営業利益は258億5,000万円。カーボンブラックが売上1,470億9,300万円・セグメント利益131億3,500万円、半導体製造装置向けのファインカーボンが559億6,900万円・77億400万円で、利益率は8.9%と13.8%に分かれる。2017年9月に米SGL GE社を取得してアジア・北米・欧州の3極を得た黒鉛電極は、安価な中国・インド製の流入で市況が反転し、2024年12月期に特別損失769億円を計上した。翌2025年6月に滋賀工場の生産を止めて独TOKAI ERFTCARBONを譲渡したことで、電極の売上は375億7,300万円、全体の12%まで下がった。
競合
競争劣位に置かれているのは、創業製品である黒鉛電極のほうである。電極の市況は2018年に中国の環境規制と電炉鋼需要の急増が重なって高騰し、東海カーボンは売上2,313億円・営業利益731億円という最高益を計上した。同じ市況を見て黒鉛電極へ入ったSGLの黒鉛電極事業を取得した昭和電工に対し、東海カーボンが取れたのはその買収の付帯条件として当局が切り出した米国拠点である。2019年以降は中国・インド製の安価品が価格を崩し、両社が同じ時期に取得した設備は同じ反転を受けた。一方でカーボンブラックは、1960年に製造技術を教わった米キャボット社と並ぶ年産200万トン規模へ育っている。教わった側の技術が、教えた側と競う位置まで規模を拡大した。
東海カーボン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1996年12月期2025年12月期

創業ストーリー 電極国産化から戦後復興へ (1918年〜)

余剰電力の出口として生まれた会社

東海カーボンの創業は、中京財界における電力事業の発展と分かち難い。名古屋電燈の経営者だった福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)は、木曽川水系の水力発電を拡張するにつれ余剰電力の活用先を必要としていた。顧問電気技師の寒川恒貞は欧米視察の後に電気製鉄・アルミ・ソーダ製造を検討し、電気製鋼の将来性を評価。1913年に名古屋電燈製鋼部を設置し、1916年に電気製鋼所(現大同特殊鋼)として分離した。 [1][2]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [1]名古屋電燈の経営者 福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)が木曽川水系の水力発電の余剰電力の活用先を求めていた
    • [2]1916年に電気製鋼所(現大同特殊鋼)が名古屋電燈製鋼部から分離

電気製鋼所の操業には黒鉛電極が大量に必要だったが、当時は米アチソン社からの輸入品に頼り高コストだった。寒川は電極の国産化を福沢に提案し、1918年4月8日に資本金50万円で東海電極製造株式会社を設立。本社を東京、工場を名古屋に置き、寒川自身が初代社長に就任した。この会社は電気製鋼所の内製部門ではなく、関連業界の電極需要に広く応える独立炭素メーカーとして発足した点に特徴があった。電気製鋼所の一部門としてではなく別会社化したことで、後に電極以外の炭素製品やカーボンブラック、ファインカーボンへと事業領域を広げる余地が残された。 [3][4][5]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1918年4月8日 資本金50万円で東海電極製造株式会社を設立(寒川恒貞が福沢桃介の賛意を得て設立、電気製鋼所向け国産黒鉛電極の供給が目的)
    • [4]寒川恒貞が初代社長に就任
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [5]本社を東京、工場を名古屋に置いた/電気製鋼所の内製部門ではなく独立炭素メーカーとして発足
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [1]名古屋電燈の経営者 福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)が木曽川水系の水力発電の余剰電力の活用先を求めていた
    • [2]1916年に電気製鋼所(現大同特殊鋼)が名古屋電燈製鋼部から分離
    • [5]本社を東京、工場を名古屋に置いた/電気製鋼所の内製部門ではなく独立炭素メーカーとして発足
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1918年4月8日 資本金50万円で東海電極製造株式会社を設立(寒川恒貞が福沢桃介の賛意を得て設立、電気製鋼所向け国産黒鉛電極の供給が目的)
    • [4]寒川恒貞が初代社長に就任

人造黒鉛から太物電極まで

創業翌年の1919年、東海電極は当時未開分野だった人造黒鉛の製造技術開発に着手し、1925年に電解ソーダ工業用人造黒鉛電極(電解板)の試作に成功。苦心の末に1926年には大型人造黒鉛電極の製造に成功し、以後わが国炭素工業の発展に指導的役割を果たすことになる。1929年には製鋼用人造黒鉛電極(細物)の生産を開始し、1934年には当時最大級の18吋電極の試作に成功して呉海軍工廠に納入した。軍需・重化学工業の拡張期に電極の太径化と品質向上で応じる姿勢が、業界でのポジションを固めた。 [6][7][8][9]

  • 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
    • [6]1926年(大正15年)苦心の末に大型人造黒鉛電極の製造に成功し、以来わが国炭素工業の発展に指導的役割を果たした
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1925年 電解ソーダ工業用人造黒鉛電極(電解板)の試作に成功(1919年からの人造黒鉛製造技術開発の成果)
    • [8]1929年 製鋼用人造黒鉛電極(細物)の生産を開始
    • [9]1934年 当時最大級の18吋電極を試作し呉海軍工廠に納入

事業拡張の動きも早かった。1919年に東京の小物炭素製品メーカー大三位製作所を合併し、電機用ブラシなどの小物炭素製品の生産を加えて炭素製品分野に進出。1935年には熊本県田浦町に第二東海電極を設立し翌年合併、田ノ浦工場を取得した。1936年には九州若松工場を新設して原料ピッチコークスの自社製造を開始。1938年には茅ヶ崎工場を建設して大三位工場の設備を移し、電機用ブラシなどの本格生産を始めた。戦時統制下でも製造拠点を広げて原料から完成品まで内製化する垂直統合型の炭素メーカーの原型ができあがり、創業時に50万円だった資本金は終戦時には3,700万円に達した。 [10][11][12][13][14][15]

  • 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
    • [10]1938年 茅ヶ崎工場を建設して大三位工場の設備を移設し、電機用ブラシなどの本格的な生産を始めた
    • [11]創業時50万円だった資本金は、戦時下の拡張を経て終戦時には3,700万円に達した
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1919年 東京の小物炭素製品メーカー大三位製作所を合併(電機用ブラシなど小物炭素製品の生産を始め、炭素製品分野へ進出)
    • [13]1935年 熊本県田浦町に第二東海電極を設立、翌1936年に合併(田ノ浦工場を取得)
    • [14]1936年 九州若松工場を新設し原料ピッチコークスの自社製造を開始
    • [15]1938年 茅ヶ崎工場を建設(特殊炭素製造)
  • 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
    • [6]1926年(大正15年)苦心の末に大型人造黒鉛電極の製造に成功し、以来わが国炭素工業の発展に指導的役割を果たした
    • [10]1938年 茅ヶ崎工場を建設して大三位工場の設備を移設し、電機用ブラシなどの本格的な生産を始めた
    • [11]創業時50万円だった資本金は、戦時下の拡張を経て終戦時には3,700万円に達した
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1925年 電解ソーダ工業用人造黒鉛電極(電解板)の試作に成功(1919年からの人造黒鉛製造技術開発の成果)
    • [8]1929年 製鋼用人造黒鉛電極(細物)の生産を開始
    • [9]1934年 当時最大級の18吋電極を試作し呉海軍工廠に納入
    • [12]1919年 東京の小物炭素製品メーカー大三位製作所を合併(電機用ブラシなど小物炭素製品の生産を始め、炭素製品分野へ進出)
    • [13]1935年 熊本県田浦町に第二東海電極を設立、翌1936年に合併(田ノ浦工場を取得)
    • [14]1936年 九州若松工場を新設し原料ピッチコークスの自社製造を開始
    • [15]1938年 茅ヶ崎工場を建設(特殊炭素製造)

カーボンブラック事業の原点

電極とならぶもう一本の柱となるカーボンブラックは、九州若松工場で副生するピッチオイルを原料とする試作研究から始まった。1937年に研究着手、1941年に本格製造を開始し、国産カーボンブラックの先駆的役割を果たした。戦時下の需給逼迫期を経て、戦後は1949年5月に東京・大阪・名古屋の3証券取引所に株式を上場し、戦後復興期の株式市場再開に合わせて資本基盤を整えた。 [16][17]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1937年に研究着手し1941年にカーボンブラックの本格製造を開始(九州若松工場で副生するピッチオイルを原料、国産カーボンブラックの起点)
    • [17]1949年5月 東京・大阪・名古屋の3証券取引所に株式を上場

1949年10月のGHQ覚書により自動車に関するすべての制限が撤廃されると、自動車用タイヤ・ゴム産業が成長を始め、その補強剤としてのカーボンブラック需要が飛躍的に拡大する見込みが生まれた。電極が電気製鋼という副産物の出口から生まれたのに対し、カーボンブラックはタイヤ産業という別の成長市場の入口となった。2つの主力素材が揃ったことが、その後の事業構造を規定した。

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1937年に研究着手し1941年にカーボンブラックの本格製造を開始(九州若松工場で副生するピッチオイルを原料、国産カーボンブラックの起点)
    • [17]1949年5月 東京・大阪・名古屋の3証券取引所に株式を上場

ファーネス式カーボンブラックの国産化

戦後のカーボンブラック需要は自動車産業の復活とともに拡大した。東海電極は1950年、自社技術で日本初のファーネス式カーボンブラック製造に成功し、ゴム用『シースト116』を工業化した。1955年には国内シェア40%に到達し、タイヤメーカー向けの主要サプライヤーとしての地位を築いた。昭和30年代には電気炉の大電力操業化に伴い太物電極の需要が高まり、1959年には日本で初めて20吋電極を完成させた。国内経済の変動に合わせて電極需要が増減する中、輸出を推進し1959年上期には電極輸出比率49%を記録した。 [18][19][20][21]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [18]1950年 自社技術で日本初のファーネス式カーボンブラック製造に成功、ゴム用「シースト116」を工業化
    • [19]1955年 カーボンブラック国内シェア40%に到達
    • [20]1959年 日本で初めて20吋電極を完成(電気炉の大電力操業化に対応)
    • [21]1959年上期 電極輸出比率49%を記録

1960年にはカーボンブラック分野で米キャボット社と技術提携契約を締結し、世界大手の製造技術を導入。若松工場の設備改善と並行して1962年には愛知県武豊町に知多工場を建設した。以降はタイヤ産業の活況に支えられてカーボンブラックの売上は急伸し、1975年下期には総売上の40%を超え主力製品となった。事業構造の変化を反映して1975年6月、社名を東海電極から東海カーボンに変更。1978年には石巻工場を新設し3工場体制が整い、1980年にはカーボンブラックが社内売上の50%を超えた。 [22][23][24]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [22]1960年 米キャボット社とカーボンブラック製造技術の提携契約を締結
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1975年6月 社名を東海電極から東海カーボンに変更(カーボンブラック比率が総売上の40%超に)
    • [24]1978年 石巻工場を新設し3工場体制が整った
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [18]1950年 自社技術で日本初のファーネス式カーボンブラック製造に成功、ゴム用「シースト116」を工業化
    • [19]1955年 カーボンブラック国内シェア40%に到達
    • [20]1959年 日本で初めて20吋電極を完成(電気炉の大電力操業化に対応)
    • [21]1959年上期 電極輸出比率49%を記録
    • [22]1960年 米キャボット社とカーボンブラック製造技術の提携契約を締結
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1975年6月 社名を東海電極から東海カーボンに変更(カーボンブラック比率が総売上の40%超に)
    • [24]1978年 石巻工場を新設し3工場体制が整った

プラザ合意後の円高と集約化

1985年9月のプラザ合意を受けて円高が進むと、電極の国際競争力は低下した。東海カーボンは1987年から1988年にかけて工場の集約化と合理化を敢行し、円高局面を乗り越えた。主力製品の電極とカーボンブラックがともに成熟産業であることへの危機感から、1986年7月には富士研究所を新設し、炭化けい素ウィスカー、C・Cコンポジット、燃料電池用カーボン、グラッシーカーボンなどの先端材料研究に着手した。 [25][26]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1985年9月のプラザ合意後の円高に対応し、1987〜1988年に工場の集約化と合理化を実施
    • [26]1986年7月 総合研究所「富士研究所」を新設(先端材料研究強化)

経営のグローバル化も本格化した。1987年9月にニューヨークに現地法人TOKAI CARBON AMERICAを設立、1990年2月にはタイに合弁でTHAI CARBON PRODUCT社を設立してカーボンブラック製造販売に進出。同年12月に韓国の正友石炭化学へカーボンブラック技術を供与するなど、アジア・北米への展開を積み上げた。電極の輸出に依存した1960年代の国際化から、現地生産・合弁・技術供与を組み合わせる1990年代型の国際化への転換が進んだ時期である。 [27][28]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1987年9月 米国ニューヨークに現地法人TOKAI CARBON AMERICAを設立
    • [28]1990年2月 タイに合弁でTHAI CARBON PRODUCT社を設立(カーボンブラック製造販売)
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1985年9月のプラザ合意後の円高に対応し、1987〜1988年に工場の集約化と合理化を実施
    • [26]1986年7月 総合研究所「富士研究所」を新設(先端材料研究強化)
    • [27]1987年9月 米国ニューヨークに現地法人TOKAI CARBON AMERICAを設立
    • [28]1990年2月 タイに合弁でTHAI CARBON PRODUCT社を設立(カーボンブラック製造販売)

東洋カーボン合併で業界首位メーカーへ

国際競争力強化の節目となったのが、1992年1月の東洋カーボンとの合併である。両社はともに1918年創業の炭素メーカーで、70年余にわたり併存した。合併により滋賀工場・山梨工場・茅ヶ崎第二工場を取得し、カーボンブラック・人造黒鉛電極・不浸透性黒鉛で国内シェア首位、電機用ブラシとファインカーボンで第2位を占める日本最大の炭素製品総合メーカーとなった。建設・産業用などの摩擦材(茅ヶ崎第二工場)、摺動材の新分野も加わった。 [29][30]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [29]東海カーボンと東洋カーボンはともに1918年の創業以来、70年余の歴史をもつ炭素メーカーであった
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1992年1月 東洋カーボンと合併(滋賀工場・山梨工場・茅ヶ崎第二工場を取得、摩擦材事業を獲得、カーボンブラック・人造黒鉛電極・不浸透性黒鉛で国内首位の炭素製品総合メーカーに)

合併時の1994年12月期で売上437億円・従業員947人という規模から、炭素製品総合メーカーとして電極・カーボンブラック・ファインカーボン・摩擦材の4事業を揃え、それぞれで国内上位を占める体制が整った。バブル崩壊後の長引く不況と円高進行下、東洋カーボン合併によるスケールメリットと事業ポートフォリオの拡張が、以後の海外展開とM&Aの基礎となった。一方で、タイヤ原料であるカーボンブラックの輸入が漸増し、国際競争力の向上が業界課題として残された。 [31]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [31]1994年12月期 売上437億円
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [29]東海カーボンと東洋カーボンはともに1918年の創業以来、70年余の歴史をもつ炭素メーカーであった
    • [31]1994年12月期 売上437億円
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1992年1月 東洋カーボンと合併(滋賀工場・山梨工場・茅ヶ崎第二工場を取得、摩擦材事業を獲得、カーボンブラック・人造黒鉛電極・不浸透性黒鉛で国内首位の炭素製品総合メーカーに)

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東海カーボンの沿革1918〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1918〜1949年電極国産化から戦後復興へ東海電極製造を設立
大三位製作所を合併
電解ソーダ工業用人造黒鉛電極(電解板)の試作に成功
製鋼用人造黒鉛電極(細物)の生産を開始
当時最大級の18吋電極を試作、呉海軍工廠に納入
第二東海電極を設立
九州若松工場新設、ピッチコークス製造開始
茅ヶ崎工場を新設、特殊炭素製造
九州若松工場でカーボンブラック製造を開始★★
東京・大阪・名古屋3証券取引所に株式上場
1950〜1991年自動車・鉄鋼と並走した国際展開自社技術で日本初のファーネス式カーボンブラック製造★★
カーボンブラック国内シェア40%に到達
日本初の20吋電極を完成
米キャボット社とのカーボンブラック製造技術提携と知多工場の新設

1960年、東海電極製造は米キャボット社とカーボンブラックの製造技術について提携契約を結んだ。自社技術でファーネス式の国産化に先鞭をつけていた同社が世界最大手の技術を導入し、若松工場の設備を改めたうえで、1962年12月に愛知県武豊町へ知多工場を新設した。1960年下期に売上の9.6%だったカーボンブラックは、のちに黒鉛電極と並ぶ二本目の柱となった。

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★★★
知多工場を新設、カーボンブラック製造
防府工場を新設、人造黒鉛電極製造
商号を東海電極から東海カーボンに変更
石巻工場新設
田ノ浦工場で等方性黒鉛材の生産技術を確立
総合研究所「富士研究所」を新設
ニューヨークにファインカーボン販売会社TOKAI CARBON AMERICA設立
工場集約化と合理化を敢行★★
合弁でTHAI CARBON PRODUCT設立
1992〜2019年4事業グローバル化と電極市況の高波同年創業の東洋カーボンとの合併と、炭素製品国内首位の総合メーカーへの再編

1992年1月、東海カーボンは資本金38億円の東洋カーボンを合併した。両社はともに1918年に創業した炭素メーカーで、70年余にわたり併存してきた。合併により滋賀・山梨・茅ヶ崎第二の3工場を引き受け、黒鉛電極とファインカーボンの事業を広げるとともに、摩擦材という新しい分野を得た。

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★★★
大嶽史記夫大嶽史記夫が代表取締役社長就任
大嶽史記夫TOKAI CARBON KOREA設立
大嶽史記夫大阪・名古屋証券取引所の上場廃止
大嶽史記夫黒鉛電極製造販売会社ERFTCARBONを完全子会社化★★
大嶽史記夫ファインカーボン加工販売会社CARBON INDUSTRIE-PRODUKTE出資持分80%取得
工藤能成工藤能成が代表取締役社長就任
工藤能成リーマンショックで売上半減
長坂一長坂一が代表取締役社長就任
長坂一初の純損失▲79億円★★
長坂一米SGL GE社の取得によるアジア・北米・欧州の黒鉛電極3極体制の構築

2017年9月28日、東海カーボンは取締役会で、ドイツSGL社の黒鉛電極事業を承継した米国法人SGL GE Carbon Holding LLCの全株式を129億円で取得すると決議した。11月7日に取得を完了して社名をTOKAI CARBON GE HOLDING LLCとし、アジア・欧州に加えて北米に生産拠点を得て黒鉛電極の3極体制を築いた。長坂一社長の在任中で最大のM&Aとなった。

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★★★
長坂一カーボンブラックメーカーSid Richardson Carbonを完全子会社化★★
長坂一電極市況高騰で売上2,313億円・営業利益731億円
長坂一売上高3,404億円・営業利益406億円
長坂一純損失▲565億円、特別損失769億円★★
長坂一滋賀工場の黒鉛電極生産中止、Tokai Erftcarbonを譲渡★★
長坂一ブリヂストン・旭カーボン所有のBRIDGESTONE CARBON BLACK THAILANDを共同取得
出典・参考
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)

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