1934年1月29日の臨時株主総会で、豊田自動織機製作所は定款に製鋼製鉄の業務を加え、資本金を300万円に増やして製鋼部を置いた。同日、刈谷の工場敷地の一角に建てる900坪の製鋼所建屋について、愛知県知事へ建築願いを出した。自動車用の特殊鋼は当面の需要が少なく、新しい鋼種を開発して納める国内の製鋼会社は無かった。常務取締役の豊田喜一郎氏は東北帝国大学教授の本多光太郎氏に国産の可否を尋ね、『現在の日本の力で十分つくることができる。外国の力を借りる必要はない』との答えを得て計画を進めた。製鋼部は紡織機用と自動車用の特殊鋼を造る部門として出発した。少量の特殊鋼を外部から調達できない事情が、織機会社に製鋼の機能を持たせた最大の要因とみられる。
操業を始めた製鋼所で製鋼の現場を知る者は、圧延8人、精整2人、電気1人にとどまった。生産量は1日3トンから5トンで、鋼種は小さな高周波炉で試作してから2トン炉へ移す試験段階だった。1937年8月28日、自動車部は量産体制を早く整えるため分かれてトヨタ自動車工業となり、挙母町で新工場の建設を始めた。製鋼所は豊田自動織機製作所に残り、挙母工場の建設用に鉄筋用丸棒を供給した。以後の製鋼部門は、トヨタ自動車工業への素材供給を主な目的に据えた。1938年3月8日には、挙母工場の月産1,500台に合わせて製鋼部を倍に拡張する計画を取締役会で決めた。製鋼所の規模は、自動車部の独立後も新会社の増産計画に連動して決まっていたと推察される。
1939年12月8日の取締役会で、豊田自動織機製作所は製鋼部門を独立させると決めた。知多工場の建設で、製鋼事業は製鋼部を置いた当初の目的を大きく上回る規模に達していた。自動車の量産に合う均質な材料を安く供給するため、特殊鋼の専門メーカーとして独立する方針をとった。1940年3月8日、建設中の知多工場と刈谷の製鋼部をあわせ、資本金1,700万円の豊田製鋼株式会社が発足した。取締役社長に豊田利三郎氏、取締役副社長に豊田喜一郎氏が就任した。1940年4月から9月の出荷は月平均430トンで、うち条鋼が360トンを占めた。自動車部に続く製鋼部門の分離は、豊田系の事業を機能ごとに別会社へ分ける流れの一環と思われる。
トヨタ自動車工業が1938年10月に生産目標を月産3,000台に引き上げ、特殊鋼の需要が増えた。刈谷には工場を増やす敷地の余裕が無く、受電能力にも不安があったため、知多郡上野に製鋼工場を新設すると決めた。1939年8月25日に製鉄事業法による建設許可を得たものの、資材不足で工期は延び、予算は1,000万円から1,980万円へ膨らんだ。1943年5月に塩基性平炉、8月に酸性平炉が稼働し、1944年4月には知多・刈谷の両工場が軍需会社の指定を受けた。圧延鋼材の生産は1944年9月の1,855トンを頂点に、1945年7月には544トンまで低下した。自動車向けに計画した平炉工場は、完成した時点で軍の増産要求に組み込まれていたとみなせる。
1945年11月29日、豊田製鋼は社名を愛知製鋼株式会社に改めた。同日、豊田利三郎氏は社長を辞して相談役に転じ、トヨタ自動車工業で常務取締役を務める大島理三郎氏が社長に就任した。GHQは11月6日に財閥解体の一環として制限会社を指定し、企業活動の制限と資産の凍結を命じていた。豊田系各社は指定を避けるため経営陣と社名を替え、トヨタ車体は刈谷車体、豊田工機は刈谷工機へ改称した。愛知製鋼は制限会社の指定を受けず、知多と刈谷の両工場も戦災を免れた。改称後も、設立以来の自動車用特殊鋼と紡織機用鋼の生産を続けた。豊田の名を外した改称は、占領下で事業と資産を保つための選択だったのだろう。
軍需を失った1945年の圧延鋼材生産高は5,600トンで、1944年の1万5,500トンの36%にとどまった。普通鋼には価格差補給金と資材の優先配給があり、愛知製鋼も普通鋼の生産を増やした。1947年7月施行の独占禁止法第13条により、新川工業の社長を兼ねる大島理三郎氏は兼務を続けられなくなった。10月29日に大島理三郎氏は社長を辞任し、副社長の藤村秀穂氏が後任に就任した。1948年7月に資本金を3,700万円へ増資し、同年に生産高は1万7,300トンと戦時の最高を上回った。従業員が株式を持ったことから市場での売買を整えるため、1949年5月16日に名古屋証券取引所へ上場した。普通鋼は1951年に2万836トンに達し、生産高全体の66%を占めた。
1951年3月、アメリカが戦略物資の買い付けを止めたのを機に、朝鮮戦争の特需は後退した。19mmの普通鋼丸棒の市価はトン5万6,500円から1952年10月に3万6,500円へ下落し、ニッケルクロム鋼は13万円前後を保った。価格の開きを受け、愛知製鋼は1952年以降に普通鋼の受注を抑え、特殊鋼を重点に生産する方針へ転じた。同年7月に東京出張所を東京事務所へ改め、大阪連絡所を新設して自動車メーカーへの販売を強化した。1952年2月の小形圧延設備の改修を皮切りに、1954年9月の大中形圧延設備の改修で設備合理化計画をひとまず終えた。1953年6月期には特殊鋼の比率が86%を超えた。市況の崩れた普通鋼を離れ、価格を保つ特殊鋼に経営資源を集中する判断だったと考えられる。
1959年春にトヨタ自動車工業が型鍛造品を大量に発注し、愛知製鋼は刈谷工場の鍛造部門を量産向けに改めた。1960年5月に1,000トンプレス、1961年7月に2,500トンプレスを稼働させ、金型を自社で彫る型彫工場も新設した。1961年の鍛造品生産高は前年比50%増の1万トンで、過去最高を記録した。1959年6月末時点の筆頭株主はトヨタ自動車工業で、トヨタ系各社向けが生産高の3割から4割を占めた。財務基盤を広く社会に求めるため、1959年9月1日に大阪証券取引所、1961年9月6日に東京証券取引所へ上場した。トヨタ自動車工業の鍛造需要への対応は、次の知多鍛造工場の建設へつながる起点になったとうかがえる。
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事実根拠:出所(愛知製鋼)