第1章 年〜年

愛知製鋼:豊田製鋼の分離独立と愛知製鋼への改称

1934年〜刈谷に建てた900坪の製鋼所と、自動車部の独立で織機会社に残った特殊鋼

1934年1月29日の臨時株主総会で、豊田自動織機製作所は定款に製鋼製鉄の業務を加え、資本金を300万円に増やして製鋼部を置いた。同日、刈谷の工場敷地の一角に建てる900坪の製鋼所建屋について、愛知県知事へ建築願いを出した。自動車用の特殊鋼は当面の需要が少なく、新しい鋼種を開発して納める国内の製鋼会社は無かった。常務取締役の豊田喜一郎氏は東北帝国大学教授の本多光太郎氏に国産の可否を尋ね、『現在の日本の力で十分つくることができる。外国の力を借りる必要はない』との答えを得て計画を進めた。製鋼部は紡織機用と自動車用の特殊鋼を造る部門として出発した。少量の特殊鋼を外部から調達できない事情が、織機会社に製鋼の機能を持たせた最大の要因とみられる。

  • 愛知製鋼50年史(1990)第1章「会社創立と知多工場の建設」
    • [1]1934年1月29日、臨時株主総会で定款に製鋼製鉄の業務を追加し資本金300万円へ増資、製鋼部を設置。同日900坪の製鋼所建屋の建築願いを愛知県知事へ提出
    • [2]1934年1月29日、臨時株主総会で定款に製鋼製鉄の業務を追加し資本金300万円へ増資、製鋼部を設置。同日900坪の製鋼所建屋の建築願いを愛知県知事へ提出
    • [3]自動車用特殊鋼は当面少量で開発・納入する製鋼会社が無く、豊田喜一郎が自社製鋼所を決意。本多光太郎が国産可能と助言
    • [4]自動車用特殊鋼は当面少量で開発・納入する製鋼会社が無く、豊田喜一郎が自社製鋼所を決意。本多光太郎が国産可能と助言
  • 会社銀行八十年史(1955)「愛知製鋼」
    • [5]製鋼部として刈谷の電気炉・圧延設備で紡織機用・自動車用特殊鋼の製造を開始

操業を始めた製鋼所で製鋼の現場を知る者は、圧延8人、精整2人、電気1人にとどまった。生産量は1日3トンから5トンで、鋼種は小さな高周波炉で試作してから2トン炉へ移す試験段階。1937年8月28日、自動車部は量産体制を早く整えるため分かれてトヨタ自動車工業となり、挙母町で新工場の建設を始めた。製鋼所は豊田自動織機製作所に残り、挙母工場の建設用に鉄筋用丸棒を供給した。以後の製鋼部門の主な目的は、トヨタ自動車工業への素材供給である。1938年3月8日には、挙母工場の月産1,500台に合わせて製鋼部を倍に拡張する計画を取締役会で決めた。製鋼所の規模は、自動車部の独立後も新会社の増産計画に連動して決まっていたと推察される。

  • 愛知製鋼50年史(1990)第1章「会社創立と知多工場の建設」
    • [6]製鋼現場経験者は圧延8人・精整2人・電気1人、日産3〜5トンの試験段階。1937年8月28日自動車部がトヨタ自動車工業として分離独立し挙母に新工場。製鋼所は鉄筋用丸棒を供給。1938年3月8日取締役会で製鋼部の倍加拡張を決議
    • [7]製鋼現場経験者は圧延8人・精整2人・電気1人、日産3〜5トンの試験段階。1937年8月28日自動車部がトヨタ自動車工業として分離独立し挙母に新工場。製鋼所は鉄筋用丸棒を供給。1938年3月8日取締役会で製鋼部の倍加拡張を決議
    • [8]製鋼現場経験者は圧延8人・精整2人・電気1人、日産3〜5トンの試験段階。1937年8月28日自動車部がトヨタ自動車工業として分離独立し挙母に新工場。製鋼所は鉄筋用丸棒を供給。1938年3月8日取締役会で製鋼部の倍加拡張を決議
    • [9]製鋼現場経験者は圧延8人・精整2人・電気1人、日産3〜5トンの試験段階。1937年8月28日自動車部がトヨタ自動車工業として分離独立し挙母に新工場。製鋼所は鉄筋用丸棒を供給。1938年3月8日取締役会で製鋼部の倍加拡張を決議
    • [11]製鋼現場経験者は圧延8人・精整2人・電気1人、日産3〜5トンの試験段階。1937年8月28日自動車部がトヨタ自動車工業として分離独立し挙母に新工場。製鋼所は鉄筋用丸棒を供給。1938年3月8日取締役会で製鋼部の倍加拡張を決議
  • 会社銀行八十年史(1955)「愛知製鋼」
    • [10]1937年8月のトヨタ自動車工業設立後、その素材供給を主目的に知多で新工場建設に着手
参考文献[1]-[11]
  • 愛知製鋼50年史(1990)第1章「会社創立と知多工場の建設」
    • [1]1934年1月29日、臨時株主総会で定款に製鋼製鉄の業務を追加し資本金300万円へ増資、製鋼部を設置。同日900坪の製鋼所建屋の建築願いを愛知県知事へ提出
    • [2]1934年1月29日、臨時株主総会で定款に製鋼製鉄の業務を追加し資本金300万円へ増資、製鋼部を設置。同日900坪の製鋼所建屋の建築願いを愛知県知事へ提出
    • [3]自動車用特殊鋼は当面少量で開発・納入する製鋼会社が無く、豊田喜一郎が自社製鋼所を決意。本多光太郎が国産可能と助言
    • [4]自動車用特殊鋼は当面少量で開発・納入する製鋼会社が無く、豊田喜一郎が自社製鋼所を決意。本多光太郎が国産可能と助言
    • [6]製鋼現場経験者は圧延8人・精整2人・電気1人、日産3〜5トンの試験段階。1937年8月28日自動車部がトヨタ自動車工業として分離独立し挙母に新工場。製鋼所は鉄筋用丸棒を供給。1938年3月8日取締役会で製鋼部の倍加拡張を決議
    • [7]製鋼現場経験者は圧延8人・精整2人・電気1人、日産3〜5トンの試験段階。1937年8月28日自動車部がトヨタ自動車工業として分離独立し挙母に新工場。製鋼所は鉄筋用丸棒を供給。1938年3月8日取締役会で製鋼部の倍加拡張を決議
    • [8]製鋼現場経験者は圧延8人・精整2人・電気1人、日産3〜5トンの試験段階。1937年8月28日自動車部がトヨタ自動車工業として分離独立し挙母に新工場。製鋼所は鉄筋用丸棒を供給。1938年3月8日取締役会で製鋼部の倍加拡張を決議
    • [9]製鋼現場経験者は圧延8人・精整2人・電気1人、日産3〜5トンの試験段階。1937年8月28日自動車部がトヨタ自動車工業として分離独立し挙母に新工場。製鋼所は鉄筋用丸棒を供給。1938年3月8日取締役会で製鋼部の倍加拡張を決議
    • [11]製鋼現場経験者は圧延8人・精整2人・電気1人、日産3〜5トンの試験段階。1937年8月28日自動車部がトヨタ自動車工業として分離独立し挙母に新工場。製鋼所は鉄筋用丸棒を供給。1938年3月8日取締役会で製鋼部の倍加拡張を決議
  • 会社銀行八十年史(1955)「愛知製鋼」
    • [5]製鋼部として刈谷の電気炉・圧延設備で紡織機用・自動車用特殊鋼の製造を開始
    • [10]1937年8月のトヨタ自動車工業設立後、その素材供給を主目的に知多で新工場建設に着手

1940年〜豊田製鋼の独立と上野町の知多工場と、制限会社を避けた愛知製鋼への改称

1939年12月8日の取締役会で、豊田自動織機製作所は製鋼部門を独立させると決めた。知多工場の建設で、製鋼事業は製鋼部を置いた当初の目的を大きく上回る規模に達していた。自動車の量産に合う均質な材料を安く供給するため、特殊鋼の専門メーカーとして独立する方針をとった。1940年3月8日、建設中の知多工場と刈谷の製鋼部をあわせ、資本金1,700万円の豊田製鋼株式会社の発足。取締役社長に豊田利三郎氏、取締役副社長に豊田喜一郎氏が就任した。1940年4月から9月の出荷は月平均430トンで、うち360トンが条鋼である。自動車部に続く製鋼部門の分離は、豊田系の事業を機能ごとに別会社へ分ける流れの一環と思われる。

  • 愛知製鋼50年史(1990)第1章「会社創立と知多工場の建設」
    • [12]1939年12月8日取締役会で製鋼部門の分離独立を決議。事業が当初目的を超え、量産向けの均一材料を安価に供給するため特殊鋼専門メーカーとして独立。社長豊田利三郎・副社長豊田喜一郎。1940年4〜9月の出荷は月平均430トン(鋼片40・条鋼360・鍛造品30)
    • [13]1939年12月8日取締役会で製鋼部門の分離独立を決議。事業が当初目的を超え、量産向けの均一材料を安価に供給するため特殊鋼専門メーカーとして独立。社長豊田利三郎・副社長豊田喜一郎。1940年4〜9月の出荷は月平均430トン(鋼片40・条鋼360・鍛造品30)
    • [14]1939年12月8日取締役会で製鋼部門の分離独立を決議。事業が当初目的を超え、量産向けの均一材料を安価に供給するため特殊鋼専門メーカーとして独立。社長豊田利三郎・副社長豊田喜一郎。1940年4〜9月の出荷は月平均430トン(鋼片40・条鋼360・鍛造品30)
    • [16]1939年12月8日取締役会で製鋼部門の分離独立を決議。事業が当初目的を超え、量産向けの均一材料を安価に供給するため特殊鋼専門メーカーとして独立。社長豊田利三郎・副社長豊田喜一郎。1940年4〜9月の出荷は月平均430トン(鋼片40・条鋼360・鍛造品30)
    • [17]1939年12月8日取締役会で製鋼部門の分離独立を決議。事業が当初目的を超え、量産向けの均一材料を安価に供給するため特殊鋼専門メーカーとして独立。社長豊田利三郎・副社長豊田喜一郎。1940年4〜9月の出荷は月平均430トン(鋼片40・条鋼360・鍛造品30)
  • 会社銀行八十年史(1955)「愛知製鋼」
    • [15]1940年3月、豊田自動織機製作所の製鋼部門を分離し資本金1,700万円で豊田製鋼を設立

トヨタ自動車工業が1938年10月に生産目標を月産3,000台に引き上げ、特殊鋼の需要が増えた。刈谷には工場を増やす敷地の余裕が無く、受電能力にも不安があったため、知多郡上野に製鋼工場を新設すると決めた。1939年8月25日に製鉄事業法による建設許可を得たものの、資材不足で工期は延び、予算は1,000万円から1,980万円へ膨らんだ。1943年5月に塩基性平炉、8月に酸性平炉が稼働し、1944年4月には知多・刈谷の両工場が軍需会社の指定を受けた。圧延鋼材の生産は1944年9月の1,855トンを頂点に、1945年7月には544トンまで低下した。自動車向けに計画した平炉工場は、完成した時点で軍の増産要求に組み込まれていたとみなせる。

  • 愛知製鋼50年史(1990)第1章「会社創立と知多工場の建設」
    • [18]トヨタ自工の月産3,000台計画で特殊鋼需要増。刈谷に敷地・受電の余裕が無く上野村に新工場を決定。1939年8月25日建設許可。予算1,000万円が完成時1,980万円
    • [19]トヨタ自工の月産3,000台計画で特殊鋼需要増。刈谷に敷地・受電の余裕が無く上野村に新工場を決定。1939年8月25日建設許可。予算1,000万円が完成時1,980万円
    • [20]トヨタ自工の月産3,000台計画で特殊鋼需要増。刈谷に敷地・受電の余裕が無く上野村に新工場を決定。1939年8月25日建設許可。予算1,000万円が完成時1,980万円
    • [22]圧延鋼材は1944年9月の1,855トンをピークに1945年7月544トンへ低下
  • 会社銀行八十年史(1955)「愛知製鋼」
    • [21]1943年5月塩基性平炉、8月酸性平炉が稼動。1944年4月知多・刈谷両工場が軍需会社に指定

1945年11月29日、豊田製鋼は社名を愛知製鋼株式会社に改めた。同日、豊田利三郎氏は社長を辞して相談役に転じ、トヨタ自動車工業で常務取締役を務める大島理三郎氏が社長に就任した。GHQは11月6日に財閥解体の一環として制限会社を指定し、企業活動の制限と資産の凍結を命じていた。豊田系各社は指定を避けるため経営陣と社名を替え、トヨタ車体は刈谷車体、豊田工機は刈谷工機へ改称した。愛知製鋼は制限会社の指定を受けず、知多と刈谷の両工場も戦災を免れた。改称後も、設立以来の自動車用特殊鋼と紡織機用鋼の生産を続けた。豊田の名を外した改称は、占領下で事業と資産を保つための選択だったのだろう。

  • 愛知製鋼50年史(1990)第2章(昭和21年~30年)
    • [23]1945年11月6日GHQが制限会社を指定。豊田系各社は経営陣更迭・社名変更。11月29日愛知製鋼に改称、豊田利三郎が社長辞任し大島理三郎が就任、制限会社指定を免れる
    • [24]1945年11月6日GHQが制限会社を指定。豊田系各社は経営陣更迭・社名変更。11月29日愛知製鋼に改称、豊田利三郎が社長辞任し大島理三郎が就任、制限会社指定を免れる
    • [25]1945年11月6日GHQが制限会社を指定。豊田系各社は経営陣更迭・社名変更。11月29日愛知製鋼に改称、豊田利三郎が社長辞任し大島理三郎が就任、制限会社指定を免れる
    • [26]1945年11月6日GHQが制限会社を指定。豊田系各社は経営陣更迭・社名変更。11月29日愛知製鋼に改称、豊田利三郎が社長辞任し大島理三郎が就任、制限会社指定を免れる
  • 会社銀行八十年史(1955)「愛知製鋼」
    • [27]両工場とも戦災を免れた。1945年11月愛知製鋼と改称し自動車用特殊鋼・紡織機用鋼の生産を継続
    • [28]両工場とも戦災を免れた。1945年11月愛知製鋼と改称し自動車用特殊鋼・紡織機用鋼の生産を継続
参考文献[12]-[28]
  • 愛知製鋼50年史(1990)第1章「会社創立と知多工場の建設」
    • [12]1939年12月8日取締役会で製鋼部門の分離独立を決議。事業が当初目的を超え、量産向けの均一材料を安価に供給するため特殊鋼専門メーカーとして独立。社長豊田利三郎・副社長豊田喜一郎。1940年4〜9月の出荷は月平均430トン(鋼片40・条鋼360・鍛造品30)
    • [13]1939年12月8日取締役会で製鋼部門の分離独立を決議。事業が当初目的を超え、量産向けの均一材料を安価に供給するため特殊鋼専門メーカーとして独立。社長豊田利三郎・副社長豊田喜一郎。1940年4〜9月の出荷は月平均430トン(鋼片40・条鋼360・鍛造品30)
    • [14]1939年12月8日取締役会で製鋼部門の分離独立を決議。事業が当初目的を超え、量産向けの均一材料を安価に供給するため特殊鋼専門メーカーとして独立。社長豊田利三郎・副社長豊田喜一郎。1940年4〜9月の出荷は月平均430トン(鋼片40・条鋼360・鍛造品30)
    • [16]1939年12月8日取締役会で製鋼部門の分離独立を決議。事業が当初目的を超え、量産向けの均一材料を安価に供給するため特殊鋼専門メーカーとして独立。社長豊田利三郎・副社長豊田喜一郎。1940年4〜9月の出荷は月平均430トン(鋼片40・条鋼360・鍛造品30)
    • [17]1939年12月8日取締役会で製鋼部門の分離独立を決議。事業が当初目的を超え、量産向けの均一材料を安価に供給するため特殊鋼専門メーカーとして独立。社長豊田利三郎・副社長豊田喜一郎。1940年4〜9月の出荷は月平均430トン(鋼片40・条鋼360・鍛造品30)
    • [18]トヨタ自工の月産3,000台計画で特殊鋼需要増。刈谷に敷地・受電の余裕が無く上野村に新工場を決定。1939年8月25日建設許可。予算1,000万円が完成時1,980万円
    • [19]トヨタ自工の月産3,000台計画で特殊鋼需要増。刈谷に敷地・受電の余裕が無く上野村に新工場を決定。1939年8月25日建設許可。予算1,000万円が完成時1,980万円
    • [20]トヨタ自工の月産3,000台計画で特殊鋼需要増。刈谷に敷地・受電の余裕が無く上野村に新工場を決定。1939年8月25日建設許可。予算1,000万円が完成時1,980万円
    • [22]圧延鋼材は1944年9月の1,855トンをピークに1945年7月544トンへ低下
  • 会社銀行八十年史(1955)「愛知製鋼」
    • [15]1940年3月、豊田自動織機製作所の製鋼部門を分離し資本金1,700万円で豊田製鋼を設立
    • [21]1943年5月塩基性平炉、8月酸性平炉が稼動。1944年4月知多・刈谷両工場が軍需会社に指定
    • [27]両工場とも戦災を免れた。1945年11月愛知製鋼と改称し自動車用特殊鋼・紡織機用鋼の生産を継続
    • [28]両工場とも戦災を免れた。1945年11月愛知製鋼と改称し自動車用特殊鋼・紡織機用鋼の生産を継続
  • 愛知製鋼50年史(1990)第2章(昭和21年~30年)
    • [23]1945年11月6日GHQが制限会社を指定。豊田系各社は経営陣更迭・社名変更。11月29日愛知製鋼に改称、豊田利三郎が社長辞任し大島理三郎が就任、制限会社指定を免れる
    • [24]1945年11月6日GHQが制限会社を指定。豊田系各社は経営陣更迭・社名変更。11月29日愛知製鋼に改称、豊田利三郎が社長辞任し大島理三郎が就任、制限会社指定を免れる
    • [25]1945年11月6日GHQが制限会社を指定。豊田系各社は経営陣更迭・社名変更。11月29日愛知製鋼に改称、豊田利三郎が社長辞任し大島理三郎が就任、制限会社指定を免れる
    • [26]1945年11月6日GHQが制限会社を指定。豊田系各社は経営陣更迭・社名変更。11月29日愛知製鋼に改称、豊田利三郎が社長辞任し大島理三郎が就任、制限会社指定を免れる

1947年〜名証上場と特殊鋼重点への転換と、トヨタの型鍛造を受けた刈谷の鍛造工場

軍需を失った1945年の圧延鋼材生産高は5,600トンで、1944年の1万5,500トンの36%にとどまった。普通鋼には価格差補給金と資材の優先配給があり、愛知製鋼も普通鋼の生産を増やした。1947年7月施行の独占禁止法第13条により、新川工業の社長を兼ねる大島理三郎氏は兼務を続けられなくなった。10月29日に大島理三郎氏は社長を辞任し、副社長の藤村秀穂氏が後任に就任した。1948年7月に資本金を3,700万円へ増資し、同年に生産高は1万7,300トンと戦時の最高を上回った。従業員が株式を持ったことから市場での売買を整えるため、1949年5月16日に名古屋証券取引所へ上場した。普通鋼は1951年に2万836トンに達し、生産高全体の66%にあたる。

  • 愛知製鋼50年史(1990)第2章(昭和21年~30年)
    • [29]1945年圧延鋼材5,600トン(1944年1万5,500トンの36%)。補給金・優先配給で普通鋼を指向、1951年2万836トン66%。独禁法13条で大島理三郎が1947年10月29日辞任、副社長藤村秀穂が社長就任。1949年生産1万7,300トン
    • [30]1945年圧延鋼材5,600トン(1944年1万5,500トンの36%)。補給金・優先配給で普通鋼を指向、1951年2万836トン66%。独禁法13条で大島理三郎が1947年10月29日辞任、副社長藤村秀穂が社長就任。1949年生産1万7,300トン
    • [31]1945年圧延鋼材5,600トン(1944年1万5,500トンの36%)。補給金・優先配給で普通鋼を指向、1951年2万836トン66%。独禁法13条で大島理三郎が1947年10月29日辞任、副社長藤村秀穂が社長就任。1949年生産1万7,300トン
    • [32]1945年圧延鋼材5,600トン(1944年1万5,500トンの36%)。補給金・優先配給で普通鋼を指向、1951年2万836トン66%。独禁法13条で大島理三郎が1947年10月29日辞任、副社長藤村秀穂が社長就任。1949年生産1万7,300トン
    • [34]1948年7月26日資本金3,700万円に増資。従業員株式所有に伴い1949年5月16日名古屋証券取引所に上場
    • [35]1945年圧延鋼材5,600トン(1944年1万5,500トンの36%)。補給金・優先配給で普通鋼を指向、1951年2万836トン66%。独禁法13条で大島理三郎が1947年10月29日辞任、副社長藤村秀穂が社長就任。1949年生産1万7,300トン
  • 会社銀行八十年史(1955)「愛知製鋼」
    • [33]1947年8月刈谷工場で百余日のストライキ、1948年7月3,700万円に増資

1951年3月、アメリカが戦略物資の買い付けを止めたのを機に、朝鮮戦争の特需は後退した。19mmの普通鋼丸棒の市価はトン5万6,500円から1952年10月に3万6,500円へ下落し、ニッケルクロム鋼は13万円前後を保った。価格の開きを受け、愛知製鋼は1952年以降に普通鋼の受注を抑え、特殊鋼を重点に生産する方針へ転じた。同年7月に東京出張所を東京事務所へ改め、大阪連絡所を新設して自動車メーカーへの販売を強化した。1952年2月の小形圧延設備の改修を皮切りに、1954年9月の大中形圧延設備の改修で設備合理化計画をひとまず終えた。1953年6月期には特殊鋼の比率が86%を超えた。市況の崩れた普通鋼を離れ、価格を保つ特殊鋼に経営資源を集中する判断だったと考えられる。

  • 愛知製鋼50年史(1990)第2章(昭和21年~30年)
    • [36]1951年3月米国の戦略物資買い付け停止で特需後退。普通鋼丸棒19mm 5万6,500円→3万6,500円、Ni-Cr鋼2種は13万円前後。1952年以降普通鋼受注を控え特殊鋼重点へ。東京事務所改称・大阪連絡所新設。1953年6月期特殊鋼比率86%超
    • [37]1951年3月米国の戦略物資買い付け停止で特需後退。普通鋼丸棒19mm 5万6,500円→3万6,500円、Ni-Cr鋼2種は13万円前後。1952年以降普通鋼受注を控え特殊鋼重点へ。東京事務所改称・大阪連絡所新設。1953年6月期特殊鋼比率86%超
    • [38]1951年3月米国の戦略物資買い付け停止で特需後退。普通鋼丸棒19mm 5万6,500円→3万6,500円、Ni-Cr鋼2種は13万円前後。1952年以降普通鋼受注を控え特殊鋼重点へ。東京事務所改称・大阪連絡所新設。1953年6月期特殊鋼比率86%超
    • [39]1951年3月米国の戦略物資買い付け停止で特需後退。普通鋼丸棒19mm 5万6,500円→3万6,500円、Ni-Cr鋼2種は13万円前後。1952年以降普通鋼受注を控え特殊鋼重点へ。東京事務所改称・大阪連絡所新設。1953年6月期特殊鋼比率86%超
    • [41]1951年3月米国の戦略物資買い付け停止で特需後退。普通鋼丸棒19mm 5万6,500円→3万6,500円、Ni-Cr鋼2種は13万円前後。1952年以降普通鋼受注を控え特殊鋼重点へ。東京事務所改称・大阪連絡所新設。1953年6月期特殊鋼比率86%超
  • 会社銀行八十年史(1955)「愛知製鋼」
    • [40]1952年2月小形圧延設備改修を皮切りに1954年9月大中形圧延設備改修完成で設備合理化計画を一応完了

1959年春にトヨタ自動車工業が型鍛造品を大量に発注し、愛知製鋼は刈谷工場の鍛造部門を量産向けに改めた。1960年5月に1,000トンプレス、1961年7月に2,500トンプレスを稼働させ、金型を自社で彫る型彫工場も新設した。1961年の鍛造品生産高は前年比50%増の1万トンで、過去最高。1959年6月末時点の筆頭株主はトヨタ自動車工業で、トヨタ系各社向けは生産高の3割から4割にあたる。財務基盤を広く社会に求めるため、1959年9月1日に大阪証券取引所、1961年9月6日に東京証券取引所へ上場した。トヨタ自動車工業の鍛造需要への対応は、次の知多鍛造工場の建設へつながる起点になったとうかがえる。

  • 愛知製鋼50年史(1990)第3章「鉄鋼合理化と新工場建設」
    • [42]1959年春トヨタ自工から型鍛造品を大量受注し刈谷の鍛造部門を強化。1960年5月1,000トンプレス、1961年7月2,500トンプレス、型彫工場新設。1961年鍛造品は前年比50%増の1万トン
    • [43]1959年春トヨタ自工から型鍛造品を大量受注し刈谷の鍛造部門を強化。1960年5月1,000トンプレス、1961年7月2,500トンプレス、型彫工場新設。1961年鍛造品は前年比50%増の1万トン
    • [44]1959年春トヨタ自工から型鍛造品を大量受注し刈谷の鍛造部門を強化。1960年5月1,000トンプレス、1961年7月2,500トンプレス、型彫工場新設。1961年鍛造品は前年比50%増の1万トン
    • [46]増資を機に財務基盤を広く社会に求め、1959年9月1日大阪証券取引所、1961年9月6日東京証券取引所に上場
  • 証券業報 1960年「愛知製鋼株式会社」
    • [45]1959年6月30日現在の大株主首位はトヨタ自動車工業2,168,400株。トヨタ系各社へ生産高の3〜4割を供給
参考文献[29]-[46]
  • 愛知製鋼50年史(1990)第2章(昭和21年~30年)
    • [29]1945年圧延鋼材5,600トン(1944年1万5,500トンの36%)。補給金・優先配給で普通鋼を指向、1951年2万836トン66%。独禁法13条で大島理三郎が1947年10月29日辞任、副社長藤村秀穂が社長就任。1949年生産1万7,300トン
    • [30]1945年圧延鋼材5,600トン(1944年1万5,500トンの36%)。補給金・優先配給で普通鋼を指向、1951年2万836トン66%。独禁法13条で大島理三郎が1947年10月29日辞任、副社長藤村秀穂が社長就任。1949年生産1万7,300トン
    • [31]1945年圧延鋼材5,600トン(1944年1万5,500トンの36%)。補給金・優先配給で普通鋼を指向、1951年2万836トン66%。独禁法13条で大島理三郎が1947年10月29日辞任、副社長藤村秀穂が社長就任。1949年生産1万7,300トン
    • [32]1945年圧延鋼材5,600トン(1944年1万5,500トンの36%)。補給金・優先配給で普通鋼を指向、1951年2万836トン66%。独禁法13条で大島理三郎が1947年10月29日辞任、副社長藤村秀穂が社長就任。1949年生産1万7,300トン
    • [34]1948年7月26日資本金3,700万円に増資。従業員株式所有に伴い1949年5月16日名古屋証券取引所に上場
    • [35]1945年圧延鋼材5,600トン(1944年1万5,500トンの36%)。補給金・優先配給で普通鋼を指向、1951年2万836トン66%。独禁法13条で大島理三郎が1947年10月29日辞任、副社長藤村秀穂が社長就任。1949年生産1万7,300トン
    • [36]1951年3月米国の戦略物資買い付け停止で特需後退。普通鋼丸棒19mm 5万6,500円→3万6,500円、Ni-Cr鋼2種は13万円前後。1952年以降普通鋼受注を控え特殊鋼重点へ。東京事務所改称・大阪連絡所新設。1953年6月期特殊鋼比率86%超
    • [37]1951年3月米国の戦略物資買い付け停止で特需後退。普通鋼丸棒19mm 5万6,500円→3万6,500円、Ni-Cr鋼2種は13万円前後。1952年以降普通鋼受注を控え特殊鋼重点へ。東京事務所改称・大阪連絡所新設。1953年6月期特殊鋼比率86%超
    • [38]1951年3月米国の戦略物資買い付け停止で特需後退。普通鋼丸棒19mm 5万6,500円→3万6,500円、Ni-Cr鋼2種は13万円前後。1952年以降普通鋼受注を控え特殊鋼重点へ。東京事務所改称・大阪連絡所新設。1953年6月期特殊鋼比率86%超
    • [39]1951年3月米国の戦略物資買い付け停止で特需後退。普通鋼丸棒19mm 5万6,500円→3万6,500円、Ni-Cr鋼2種は13万円前後。1952年以降普通鋼受注を控え特殊鋼重点へ。東京事務所改称・大阪連絡所新設。1953年6月期特殊鋼比率86%超
    • [41]1951年3月米国の戦略物資買い付け停止で特需後退。普通鋼丸棒19mm 5万6,500円→3万6,500円、Ni-Cr鋼2種は13万円前後。1952年以降普通鋼受注を控え特殊鋼重点へ。東京事務所改称・大阪連絡所新設。1953年6月期特殊鋼比率86%超
  • 会社銀行八十年史(1955)「愛知製鋼」
    • [33]1947年8月刈谷工場で百余日のストライキ、1948年7月3,700万円に増資
    • [40]1952年2月小形圧延設備改修を皮切りに1954年9月大中形圧延設備改修完成で設備合理化計画を一応完了
  • 愛知製鋼50年史(1990)第3章「鉄鋼合理化と新工場建設」
    • [42]1959年春トヨタ自工から型鍛造品を大量受注し刈谷の鍛造部門を強化。1960年5月1,000トンプレス、1961年7月2,500トンプレス、型彫工場新設。1961年鍛造品は前年比50%増の1万トン
    • [43]1959年春トヨタ自工から型鍛造品を大量受注し刈谷の鍛造部門を強化。1960年5月1,000トンプレス、1961年7月2,500トンプレス、型彫工場新設。1961年鍛造品は前年比50%増の1万トン
    • [44]1959年春トヨタ自工から型鍛造品を大量受注し刈谷の鍛造部門を強化。1960年5月1,000トンプレス、1961年7月2,500トンプレス、型彫工場新設。1961年鍛造品は前年比50%増の1万トン
    • [46]増資を機に財務基盤を広く社会に求め、1959年9月1日大阪証券取引所、1961年9月6日東京証券取引所に上場
  • 証券業報 1960年「愛知製鋼株式会社」
    • [45]1959年6月30日現在の大株主首位はトヨタ自動車工業2,168,400株。トヨタ系各社へ生産高の3〜4割を供給

1934年〜1963年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1959年12月期 単体 55 n/a n/a n/a n/a
1960年12月期 単体 76 +38.2% n/a n/a n/a
1961年12月期 単体 94 +23.7% n/a n/a n/a
1962年12月期 単体 86 ▲8.5% n/a n/a n/a
1963年12月期 単体 121 +40.7% 1 0.8% n/a

出所:会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)+会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算

出典・参考

5件
出典・参考
  • 愛知製鋼50年史(1990)第1章「会社創立と知多工場の建設」
  • 愛知製鋼50年史(1990)第2章(昭和21年~30年)
  • 愛知製鋼50年史(1990)第3章「鉄鋼合理化と新工場建設」
  • 会社銀行八十年史(1955)「愛知製鋼」
  • 証券業報 1960年「愛知製鋼株式会社」

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