日鉄鉱業 の歴史

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創業 1939年
母体 日本製鐵
創業地 東京都千代田区
創業
1939年5月20日、日本製鐵の鉱山部門が分離し、資本金5,000万円で日鉄鉱業が設立された。石炭・鉄鉱石・石灰石という製鉄用原料をまとめて開発し確保することが目的で、二瀬・釜石・倶知安・赤谷の各鉱山を引き継いで稼行した。源流は1899年12月、官営八幡製鉄所のコークス用と一般燃料用の石炭を掘るため、農商務省八幡製鉄所二瀬出張所が二瀬町に置かれたところにある。設立の翌月には釜石鉱山と輪西鉱山から鉱山と付属設備を譲り受け、同年12月には三菱鉱業・日本製鐵との共同出資で朝鮮の茂山鉄鉱開発を設立した。ただし外地の資産は終戦とともに全て失い、1945年末までに三次の整理で1,460名が退職している。
決断
設立の目的に掲げた石炭と鉄鉱石を、どちらも直営から外した。1955年3月期に売上の65.0%を占めた石炭は、原油の輸入自由化と石炭政策の転換で構成比を下げ続け、1972年6月の伊王島鉱業所の閉山をもって生産から撤退した。鉄鉱石も1979年3月に釜石鉱業所を廃止し、釜石鉱山株式会社へ承継させている。代わりに伸びたのは石灰石と銅で、石灰石の売上構成比は1955年3月期の4.5%から1970年3月期の20.3%へ、銅鉱石は5.5%から20.4%へ上がった。銅では1968年11月に三井金属鉱業との共同出資で日比共同製錬を設立し、1992年からチリで探鉱に入り、1999年5月にアタカマ・コーザン鉱山特約会社を設けて、2003年1月に試操業を始めた。
現況
売上の6割を占める金属事業より、石灰石を掘る鉱石事業のほうが利益は大きい。2026年3月期の連結売上高は2,097億円、営業利益は188億円。金属が売上1,202億円・利益67億円、鉱石が682億円・80億円で、売上の順位と利益の順位が入れ替わっている。金属の中身は電気銅789億円と銅精鉱255億円で、価格は国際相場が決める。鉱石の中身は石灰石359億円・砕石69億円・タンカル42億円で、いずれも国内の需要家へ納める。同期は金属部門の有形固定資産を300億円積み増し、チリの銅鉱山へ投資を続けた。不動産は売上47億円に対して33億円の利益を計上している。
競合
石灰石の商圏は鉱山からの輸送距離が決め、遠方の同業とは競合しない。単価に対して運賃が重く、鉱山と工場の位置関係が取引先を決める。日鉄鉱業はこの条件のもとで掘る工程を自社に置き、掘る場所そのものを買い集めた。2008年4月に北海道共同石灰を、2013年10月には住金鉱業を取得して八戸鉱山としている。2026年3月末の大株主には設立母体の日本製鉄が10.32%、麻生が5.00%、住友大阪セメントが1.64%と、鉄鋼とセメントの需要家が並ぶ。銅の製錬は1968年設立の日比共同製錬に委ね、2006年6月には豪ポート・ケンブラ・カパー社の株式を古河メタルリソースへ譲渡した。掘る場所を買い足し製錬を共同出資へ委ねたことが、鉱石部門の利益率を金属部門の2倍に保っている。
長期業績の推移 1954〜2025年
日鉄鉱業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2025年3月期

設立ストーリー 日本製鐵の鉱山部門から分かれ、外地を失い国内で立て直すまで (1939年〜)

設立ストーリー(1)

製鉄原料の一元経営を担う全額出資子会社としての発足

日鉄鉱業は1939年5月20日、石炭・鉄鉱石・石灰石など製鉄用原料の総合開発と資源確保を目的に、資本金5,000万円で設立された[1]。もとをたどれば、1934年2月に官営八幡製鉄所と民間の主要製鉄所を中心として日本製鐵が発足した際、政府は炭鉱その他の資源関係もあわせて出資したのに対し、民間側は評価などの都合で工場だけを出資し、鉱山関係を保留していた[2]。5年を経て各社鉱山の評価がおおむね済むと、日本製鐵は工場を中心とする製鉄業と石炭・鉄鉱石の採掘部門を分け、別個の経営体とするのが適当だと決めた[3]。二瀬炭鉱ほかを現物出資の主体とし、釜石・倶知安・价川などの鉱山を買収して、全株を日本製鐵が所有する新会社へ一元経営を移した[4]

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [1]1939年5月20日、石炭・鉄鉱石・石灰石等の製鉄用原料の総合開発と資源確保を目的に、資本金50,000千円で日鉄鉱業を設立
    • [2]日本製鐵は1934年2月に官営八幡製鉄所ほか民間主要製鉄所を中心に設立され、政府は炭鉱その他の資源関係も出資したが、民間は評価等の都合で工場のみ出資し鉱山関係は保留された
    • [3]5年を経て各社鉱山の評価がほぼ済み、日本製鐵は工場中心の製鉄業と石炭・鉄鉱石の採掘部門を分離して別個の経営体とするのが適当と決定した
  • 証券 1954年
    • [4]日本製鐵所有の炭鉱・鉱山による現物出資を主体とし、釜石・倶知安・价川その他の鉱山を買収して日鉄鉱業を設立、全株を日本製鐵が所有した

事業の源流は1899年12月1日にさかのぼり、官営八幡製鉄所のコークス用と一般燃料用の石炭を採掘して供給するため、農商務省告示第98号によって農商務省八幡製鉄所二瀬出張所が二瀬町に置かれ、稼行が始まった[5]。1910年には事務所を穂波村へ移し、同年3月に旧海軍省の予備炭田だった稲築鉱区の所管も受けている[6]。1934年2月1日の日本製鐵設立でこの炭鉱は同社の所管となり、1939年の日鉄鉱業創立とともに一切が引き継がれた[7]。日本製鐵が全株を持つ会社として生まれたため、生産品のほとんどは日本製鐵へ供給され、民間事業の保護や援助の面でも国策会社の性格を強く与えられた[8]

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
    • [5]二瀬炭鉱は官営八幡製鉄所の骸炭用および一般燃料用の石炭を採掘供給する目的で、1899年12月1日の農商務省告示第98号により農商務省八幡製鉄所二瀬出張所として二瀬町に設置され創業稼行を始めた
    • [6]1910年に現在の穂波村へ事務所を移転するとともに、同年3月に旧海軍省の予備炭田である稲築鉱区が所管に移管された
    • [7]1934年2月1日の日本製鐵創立で二瀬炭鉱は同社の所管となり、日鉄鉱業の創立とともにその一切が引き継がれた
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [8]設立の経緯から生産品はほとんど日本製鐵に供給され、一般民間事業の保護援助等において強く国策会社としての性格を持たされた

創立と同時に、日本製鐵二瀬鉱業所の最後の所長だった吉田健三郎が常務取締役へ、室木隆三郎が日鉄鉱業二瀬鉱業所の初代所長へ就いた[9]。取締役に名を連ねた平生釟三郎は、1941年1月14日以降、代表取締役社長に選任されている[10]。発足直後の6月1日、釜石鉱山株式会社から釜石鉱山とその付属設備を、輪西鉱山株式会社から倶知安を引き継いだ[11]。11月には定款を変更して地方鉄道法による運輸業を目的に加え、釜石鉱山鉄道の譲渡を受けて経営にあたり、12月には静鉱業株式会社から長崎県内の鉱区を買収した[12]。この鉱区がのちの神田鉱である[13]

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
    • [9]日本製鐵二瀬鉱業所の最後の所長・吉田健三郎が日鉄鉱業の常務取締役に就任し、創立と同時に室木隆三郎が二瀬鉱業所の初代所長に任命された
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立以來現在に至る役員氏名及びその任期」
    • [10]平生釟三郎は1939年5月20日に取締役に就任し、代表取締役として1941年1月14日以降社長に選任された
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [11]1939年6月1日、釜石鉱山株式会社から釜石鉱山およびその付属設備を、輪西鉱山株式会社から倶知安を引き継いで経営にあたった
    • [12]1939年11月に定款を変更して目的事項に地方鉄道法による運輸業を加え釜石鉱山鉄道の譲渡を受け、12月に静鉱業株式会社から長崎県下の同社所有鉱区を買収した
    • [13]1939年12月に買収した長崎県下の鉱区が現在の神田鉱である
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [1]1939年5月20日、石炭・鉄鉱石・石灰石等の製鉄用原料の総合開発と資源確保を目的に、資本金50,000千円で日鉄鉱業を設立
    • [2]日本製鐵は1934年2月に官営八幡製鉄所ほか民間主要製鉄所を中心に設立され、政府は炭鉱その他の資源関係も出資したが、民間は評価等の都合で工場のみ出資し鉱山関係は保留された
    • [3]5年を経て各社鉱山の評価がほぼ済み、日本製鐵は工場中心の製鉄業と石炭・鉄鉱石の採掘部門を分離して別個の経営体とするのが適当と決定した
    • [8]設立の経緯から生産品はほとんど日本製鐵に供給され、一般民間事業の保護援助等において強く国策会社としての性格を持たされた
    • [11]1939年6月1日、釜石鉱山株式会社から釜石鉱山およびその付属設備を、輪西鉱山株式会社から倶知安を引き継いで経営にあたった
    • [12]1939年11月に定款を変更して目的事項に地方鉄道法による運輸業を加え釜石鉱山鉄道の譲渡を受け、12月に静鉱業株式会社から長崎県下の同社所有鉱区を買収した
    • [13]1939年12月に買収した長崎県下の鉱区が現在の神田鉱である
  • 証券 1954年
    • [4]日本製鐵所有の炭鉱・鉱山による現物出資を主体とし、釜石・倶知安・价川その他の鉱山を買収して日鉄鉱業を設立、全株を日本製鐵が所有した
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
    • [5]二瀬炭鉱は官営八幡製鉄所の骸炭用および一般燃料用の石炭を採掘供給する目的で、1899年12月1日の農商務省告示第98号により農商務省八幡製鉄所二瀬出張所として二瀬町に設置され創業稼行を始めた
    • [6]1910年に現在の穂波村へ事務所を移転するとともに、同年3月に旧海軍省の予備炭田である稲築鉱区が所管に移管された
    • [7]1934年2月1日の日本製鐵創立で二瀬炭鉱は同社の所管となり、日鉄鉱業の創立とともにその一切が引き継がれた
    • [9]日本製鐵二瀬鉱業所の最後の所長・吉田健三郎が日鉄鉱業の常務取締役に就任し、創立と同時に室木隆三郎が二瀬鉱業所の初代所長に任命された
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立以來現在に至る役員氏名及びその任期」
    • [10]平生釟三郎は1939年5月20日に取締役に就任し、代表取締役として1941年1月14日以降社長に選任された
設立ストーリー(2)

海外へ広げた事業所と、終戦で失った在外資産の一切

1939年12月6日、三菱鉱業が持っていた朝鮮の茂山鉱山を鉄鋼国策の見地から共同経営へ移すため、三菱鉱業・日本製鐵との三者共同出資で茂山鉄鉱開発株式会社を設立した[14]。翌1940年は石灰石の確保に重点を置き、2月に明治鉱業から船尾石灰石山・鼠ケ池石灰石山・津久見石灰石を買収したのを手はじめに、様似石灰石山や尻労石灰石山を買い集めている[15]。大陸では昌平・莱蕪・弧山・武安の各炭鉱と鉱山を開発して北支那採鉱株式会社を立て、北支那製鉄株式会社の原料部門を担った[16]。海南島・セレベス・マライ・フィリッピンの資源開発にも及び、事業所は朝鮮・満州・華北・南方に広がって、1942年には資本金が1億5,000万円となった[17]

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [14]三菱鉱業所有の朝鮮茂山鉱山につき鉄鋼国策の見地から日本製鐵が合弁経営を申し入れ、三菱鉱業・日本製鐵・日鉄鉱業の三者共同出資で1939年12月6日に茂山鉄鉱開発株式会社を設立
    • [15]1940年に石灰石の確保に重点を置き、2月に明治鉱業株式会社から船尾石灰石山・鼠ケ池石灰石山・津久見石灰石を買収、さらに様似石灰石山・尻労石灰石山等を買収した
  • 証券 1954年
    • [16]支那大陸で昌平・莱蕪・弧山・武安等の各炭鉱・鉱山の開発に当たり、北支那採鉱株式会社を設立して北支那製鉄株式会社の原料部門を担った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 32_鉱業「日鉄鉱業」
    • [17]海南島・セレベス・マライ・フィリッピン等の資源を開発し、事業所は鮮・満・華・南方に及び、1942年には資本金1億5,000万円となった

増産の要請は内地資源を急速にすり減らした[18]。鋼材生産高は1938年の4,870千瓲を頂点として1943年まで4,000千瓲台を保ったが、原材料の輸入が窮屈になるにつれ増産の要請は激しくなった[19]。1939年から1945年までに掘り出した鉄鉱石は、釜石4,560千瓲、倶知安3,040千瓲、赤谷397千瓲、徳舜瞥675千瓲、庭坂174千瓲など合計9,229千瓲にのぼる[20]。石炭は二瀬と北松で採掘し、二瀬鉱業所の出炭は1941年度の1,207,504瓲が最高だった[21]。経済性を度外視した強行生産のもとで、二瀬炭鉱は乱掘に陥っている[22]

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立十周年に際して」
    • [18]生産増強の要請にあらゆる努力を払って応えただけに、当社の内地資源は急速な減少を免れなかった
    • [19]鋼材生産高は1938年の4,870千瓲を頂点として1943年まで4,000千瓲台を維持したが漸減し、各種原材料の輸入が窮屈となるのに比例して当社への増産要請は激しくなった
    • [20]1939年から1945年までに採掘した鉄鉱石は釜石4,560千瓲、倶知安3,040千瓲、赤谷397千瓲、徳舜瞥675千瓲、庭坂174千瓲、その他383千瓲の合計9,229千瓲
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
    • [21]二瀬鉱業所としての出炭最高は1941年度の1,207,504瓲
    • [22]二瀬炭鉱は製鉄原料炭として戦時中に当局の要請に応えて大増産を敢行し、そのために乱掘に陥った

終戦とともに在外資産の一切を失い、外地各作業所は正式に廃止された[23]。外地鉱業所の喪失と復員で過剰人員を抱えたため、1945年末までに三次にわたる整理を行い、1,460名が退職している[24]。1946年3月には制限会社令による制限会社の指定を受け、新たな資源の確保も経済活動も厳しい規制のもとに置かれた[25]。同じ年に政府が戦時中の国家補償を全面的に打ち切る方針を示したため、1946年末の資産総額476,000千円のうち、在外資産や損失金などいわゆる擬制資本が約228,000千円を占めた[26]。会社経理応急措置法と会社再建整備法に基づき、新旧勘定の分離と擬制資本の切り捨てによる再建計画に着手した[27]

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「事業の推移」
    • [23]終戦とともに在外資産の一切を失い、1946年に在外資産喪失により外地各作業所を正式に廃止した
    • [24]外地鉱業所の喪失・復員に起因する過剰人員のため1945年末までに三次にわたって整理を行い、1,460名が退職した
    • [25]1946年3月、制限会社令による制限会社の指定を受け、新たな資源の確保もその他の経済活動も厳格な規制を受けた
    • [26]政府が戦時補償を全面打切とする方針を示し、1946年末の資産総額476,000千円のうち在外資産および損失金等いわゆる擬制資本が約228,000千円を占めた
    • [27]会社経理応急措置法・会社再建整備法に基づき新旧勘定の分離と擬制資本の切捨てにより本格的な会社再建計画に着手した
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [14]三菱鉱業所有の朝鮮茂山鉱山につき鉄鋼国策の見地から日本製鐵が合弁経営を申し入れ、三菱鉱業・日本製鐵・日鉄鉱業の三者共同出資で1939年12月6日に茂山鉄鉱開発株式会社を設立
    • [15]1940年に石灰石の確保に重点を置き、2月に明治鉱業株式会社から船尾石灰石山・鼠ケ池石灰石山・津久見石灰石を買収、さらに様似石灰石山・尻労石灰石山等を買収した
  • 証券 1954年
    • [16]支那大陸で昌平・莱蕪・弧山・武安等の各炭鉱・鉱山の開発に当たり、北支那採鉱株式会社を設立して北支那製鉄株式会社の原料部門を担った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 32_鉱業「日鉄鉱業」
    • [17]海南島・セレベス・マライ・フィリッピン等の資源を開発し、事業所は鮮・満・華・南方に及び、1942年には資本金1億5,000万円となった
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立十周年に際して」
    • [18]生産増強の要請にあらゆる努力を払って応えただけに、当社の内地資源は急速な減少を免れなかった
    • [19]鋼材生産高は1938年の4,870千瓲を頂点として1943年まで4,000千瓲台を維持したが漸減し、各種原材料の輸入が窮屈となるのに比例して当社への増産要請は激しくなった
    • [20]1939年から1945年までに採掘した鉄鉱石は釜石4,560千瓲、倶知安3,040千瓲、赤谷397千瓲、徳舜瞥675千瓲、庭坂174千瓲、その他383千瓲の合計9,229千瓲
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
    • [21]二瀬鉱業所としての出炭最高は1941年度の1,207,504瓲
    • [22]二瀬炭鉱は製鉄原料炭として戦時中に当局の要請に応えて大増産を敢行し、そのために乱掘に陥った
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「事業の推移」
    • [23]終戦とともに在外資産の一切を失い、1946年に在外資産喪失により外地各作業所を正式に廃止した
    • [24]外地鉱業所の喪失・復員に起因する過剰人員のため1945年末までに三次にわたって整理を行い、1,460名が退職した
    • [25]1946年3月、制限会社令による制限会社の指定を受け、新たな資源の確保もその他の経済活動も厳格な規制を受けた
    • [26]政府が戦時補償を全面打切とする方針を示し、1946年末の資産総額476,000千円のうち在外資産および損失金等いわゆる擬制資本が約228,000千円を占めた
    • [27]会社経理応急措置法・会社再建整備法に基づき新旧勘定の分離と擬制資本の切捨てにより本格的な会社再建計画に着手した
設立ストーリー(3)

石灰石とドロマイトを足して立て直した国内事業と上場

終戦から1946年末までは、石炭の供給不足が決定的な要因となって製鉄業が未曾有の減産に陥った[28]。普通圧延鋼材の生産は1945年に40万瓲、1946年には32万瓲まで落ち、鉄鉱石と石灰石・硅石など副原料の需要も激減した[29]。石炭と違って国家の援助はなく、1947年4月から2か月にわたって釜石鉱山は慢性的な怠業に陥り、月24千瓲の生産計画に対して4月の実績は3,154瓲、5月は4,245瓲にとどまった[30]。6月に怠業は終わり、7月10日には鉱石価格が260円から460円へ、翌1948年6月23日には949円へ引き上げられ、鉄鉱石部門は立ち直った[31]

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「事業の推移」
    • [28]終戦後より1946年末までは、敗戦に伴う一般的な政治経済情勢と決定的な要因としての石炭供給不足により、製鉄業は未曾有の減産に陥った
    • [29]普通圧延鋼材は1945年に40万瓲、1946年に32万瓲となり、当社の鉄鉱石ならびに石灰石・硅石等の副原料部門の需要は激減した
    • [30]1947年4月から2か月にわたり釜石鉱山は慢性的な怠業状況を呈し、各月の生産計画24千瓲に対して4月実績3,154瓲、5月実績4,245瓲だった
    • [31]1947年6月に怠業状態が終わり、7月10日に鉱石価格が260円から460円(Fe48%)へ引き上げられ、1948年6月23日に949円(Fe50%)へ改訂されて鉄鉱石部門は立ち直った

石炭と鉄鉱石に加えて石灰石とドロマイトを掘るため、日鉄鉱業は1943年2月に東鹿越採石所を開き、1950年は8月に井倉採石所、10月に津久見採石所、12月に船尾採石所を続けて開設した[32]。1951年10月には羽鶴鉱業所を開設し、翌11月に関東証券の経営へ参画している[33]。鉄鉱では1951年以降、北海道鉱業所で白老・赤沼・本竜の各鉱山を開き、虻田地区の硫化鉱の開発にも入った[34]。石炭では北松鉱業所の神田鉱・御橋鉱に重液選炭設備を広げ、二瀬潤野鉱にバウム水洗機を据えて、中央鉱の運搬合理化工事を仕上げた[35]

  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1943年2月に東鹿越採石所、1950年8月に井倉採石所、1950年10月に津久見採石所、1950年12月に船尾採石所を開設
    • [33]1951年10月に羽鶴鉱業所を開設、1951年11月に関東証券株式会社の経営に参画
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 32_鉱業「日鉄鉱業」
    • [34]1951年以降、北海道鉱業所において白老・赤沼・本竜(鉄鉱石)等の各鉱山を開設し、虻田地区の硫化鉱(埋蔵量500万屯)の開発に乗り出した
    • [35]石炭部門で北松鉱業所の神田鉱・御橋鉱の重液選炭設備を拡充し、二瀬潤野鉱のバウム水洗機(100屯)および中央鉱の運搬合理化一連工事を完成した

1954年3月3日、日鉄鉱業は東京証券取引所へ新規上場した[36]。上場時の資本金は2億4,800万円、上場株式数は4,960千株で、大株主には八幡製鉄621,000株、富士製鉄579,000株、関東証券493,564株が並ぶ[37]。事業場は二瀬・北松の石炭、釜石・北海道・赤谷の鉄と石灰石、井倉・畑・津久見・船尾・葛生の珪石とドロマイトの10鉱業所と大阪・八幡・福岡・有明の4事務所からなり、従業員は12,000名を数えた[38]。生産比率は石炭59%、鉄鉱石35%、石灰石4%、その他2%で、そのほとんどを富士製鉄八幡製鉄の2社へ納めた[39]。1953年4月から9月の鉄鉱石生産は全国802,460瓲に対し日鉄鉱業が351,980瓲を占め、全国比は43.6%に達した[40]

  • 証券 1954年
    • [36]日鉄鉱業は1954年3月3日に新規上場した(東京証券取引所第一部に上場)
    • [37]上場時の資本金248,000千円、上場株式数4,960千株、大株主は八幡製鉄621,000株・富士製鉄579,000株・関東証券493,564株ほか
    • [38]事業場は二瀬・北松(石炭)、釜石・北海道・赤谷(鉄、石灰石)、井倉・畑・津久見・船尾・葛生(珪石、ドロマイト)の10鉱業所と大阪・八幡・福岡・有明の4事務所からなり、従業員12,000名
    • [39]生産比率は石炭59%、鉄鉱石35%、石灰石4%、その他2%で、そのほとんどが製鉄用原料として富士・八幡の両製鉄会社に納入されている
    • [40]1953年4月から9月の鉄鉱石生産は全国802,460瓲に対し当社351,980瓲、全国比43.6%
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「事業の推移」
    • [28]終戦後より1946年末までは、敗戦に伴う一般的な政治経済情勢と決定的な要因としての石炭供給不足により、製鉄業は未曾有の減産に陥った
    • [29]普通圧延鋼材は1945年に40万瓲、1946年に32万瓲となり、当社の鉄鉱石ならびに石灰石・硅石等の副原料部門の需要は激減した
    • [30]1947年4月から2か月にわたり釜石鉱山は慢性的な怠業状況を呈し、各月の生産計画24千瓲に対して4月実績3,154瓲、5月実績4,245瓲だった
    • [31]1947年6月に怠業状態が終わり、7月10日に鉱石価格が260円から460円(Fe48%)へ引き上げられ、1948年6月23日に949円(Fe50%)へ改訂されて鉄鉱石部門は立ち直った
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1943年2月に東鹿越採石所、1950年8月に井倉採石所、1950年10月に津久見採石所、1950年12月に船尾採石所を開設
    • [33]1951年10月に羽鶴鉱業所を開設、1951年11月に関東証券株式会社の経営に参画
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 32_鉱業「日鉄鉱業」
    • [34]1951年以降、北海道鉱業所において白老・赤沼・本竜(鉄鉱石)等の各鉱山を開設し、虻田地区の硫化鉱(埋蔵量500万屯)の開発に乗り出した
    • [35]石炭部門で北松鉱業所の神田鉱・御橋鉱の重液選炭設備を拡充し、二瀬潤野鉱のバウム水洗機(100屯)および中央鉱の運搬合理化一連工事を完成した
  • 証券 1954年
    • [36]日鉄鉱業は1954年3月3日に新規上場した(東京証券取引所第一部に上場)
    • [37]上場時の資本金248,000千円、上場株式数4,960千株、大株主は八幡製鉄621,000株・富士製鉄579,000株・関東証券493,564株ほか
    • [38]事業場は二瀬・北松(石炭)、釜石・北海道・赤谷(鉄、石灰石)、井倉・畑・津久見・船尾・葛生(珪石、ドロマイト)の10鉱業所と大阪・八幡・福岡・有明の4事務所からなり、従業員12,000名
    • [39]生産比率は石炭59%、鉄鉱石35%、石灰石4%、その他2%で、そのほとんどが製鉄用原料として富士・八幡の両製鉄会社に納入されている
    • [40]1953年4月から9月の鉄鉱石生産は全国802,460瓲に対し当社351,980瓲、全国比43.6%
設立ストーリー(4)

石炭が売上の6割を占めた原料炭供給の時代

1955年3月期の売上は石炭が65.0%を占め、鉄鉱石21.4%、銅鉱石5.5%、石灰石4.5%、ドロマイト3.1%が続いた[41]。主力の伊王島鉱業所は、長崎港外約10キロに浮かぶ周囲11キロの伊王島で端島夾炭層を稼行し、弱粘結性の原料炭を出炭の50%まで八幡製鉄富士製鉄へ納めていた[42]。稼行炭層は5層あり、中心は山丈4.4メートル・炭丈4.0メートルの十尺層で、坑道は総延長50キロに及ぶ規模だった[43]。1963年の出炭は367,500トン、1964年度は40万トン、能率33トン/月・人を計画した[44]

  • 上場会社総覧(1956年版)
    • [41]1955年3月期の売上構成比は石炭65.0%、鉄鉱石21.4%、銅鉱石5.5%、石灰石4.5%、ドロマイト3.1%
  • 九州鉱山学会誌 1965年「日鉄鉱業伊王島鉱業所見学記」(森祐行)
    • [42]伊王島鉱業所は端島夾炭層を稼行し、炭質は弱粘結性で原料炭として八幡製鉄と富士製鉄に出炭の50%を納入
    • [43]稼行炭層は5層、主力は十尺層(山丈4.4m炭丈4.0m)、坑道は総延長50km
    • [44]伊王島鉱業所は367,500t/年(昭和38年)を産し、39年度は40万t/年、能率33t/月・人が計画されていた

日鉄鉱業は現に掘っている炭鉱だけでなく、新しい炭田の開発にも資金を投じ、有明海の海底炭田では1952年4月に探査を始め、5年で相当量の埋蔵炭量を確認し、1958年10月に人工島の構築へ着手して1959年12月に完成させた[45]。1964年1月には鉱区北部を開発するため、柳川市の郊外で第3立坑の開さくに入った[46]。炭層は傾斜5〜6度でほぼ水平、理論可採埋蔵炭量は約4億トン、炭質は硫黄分がきわめて少ない粘結性の瀝青炭で、原料炭として最も適していた[47]。海底のほぼ水平な炭層を掘るためホリゾンタル・マイニング方式を採り、最終的な出炭は年200万トン前後を見込んだ[48]

  • 九州鉱山学会誌 1966年「日鉄鉱業有明炭鉱見学記」(陣内和彦)
    • [45]有明炭鉱は昭和27年4月探査開始、5年で相当量の石炭埋蔵量を確認、33年10月人工島の構築に着手し34年12月完成
    • [46]昭和39年1月、鉱区北部地域開発のため柳川市の郊外に第3立坑の開さくを開始
    • [47]炭層の傾斜は5〜6度でほぼ水平、理論可採埋蔵炭量は約4億トン、炭質は粘結性の瀝青炭で硫黄分がきわめて少なく原料炭として最適
    • [48]ホリゾンタル・マイニング方式を採用し、最終的には200万t/年前後の出炭を予定

炭鉱に賭けた投資は坑内の外にも及び、1956年5月には炭鉱機械メーカーの幸袋工作所に資本参加して機械事業へ進出した[49]。1959年5月には三鷹研究所を開設[50]。有明では第1立坑を排気と原炭搬出に、内径7.5メートル・深さ377メートルの第2立坑を入気と人員材料の搬入にあて、1965年11月の時点で前者が367メートル、後者が309メートルまで達していた[51]。立坑の井筒が岩盤に届いて以降は断層帯からの出水で工事が難航し、坑底から50〜60メートルの長孔さく岩を行って薬液を注入し、水を止めてから掘さくを進めた[52]。見学者の概算では、年200万トンを出炭する段階で毎分30〜40トンを排水するとして、ポンプの電力費だけで年1億円を下らなかった[53]

  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1956年5月、炭鉱機械メーカーであった㈱幸袋工作所に資本参加することにより機械事業へ進出
    • [50]1959年5月、三鷹研究所を開設
  • 九州鉱山学会誌 1966年「日鉄鉱業有明炭鉱見学記」(陣内和彦)
    • [51]第1立坑は排気・原炭搬出用、第2立坑は内径7.5m・深さ377mで入気・人員材料搬入用、工事は前者が367m、後者が309mまで進捗(1965年11月3日の見学時点)
    • [52]立坑開さくで井筒が岩盤に到達して以後、出水のため工事が難行し、坑底より50〜60mの長孔さく岩を行い薬液注入で止水してから掘さくした
    • [53]同行者の概算で、200万t出炭時に排水量を30〜40t/minとすると、ポンプの電力費だけで年間1億円を下らない
  • 上場会社総覧(1956年版)
    • [41]1955年3月期の売上構成比は石炭65.0%、鉄鉱石21.4%、銅鉱石5.5%、石灰石4.5%、ドロマイト3.1%
  • 九州鉱山学会誌 1965年「日鉄鉱業伊王島鉱業所見学記」(森祐行)
    • [42]伊王島鉱業所は端島夾炭層を稼行し、炭質は弱粘結性で原料炭として八幡製鉄と富士製鉄に出炭の50%を納入
    • [43]稼行炭層は5層、主力は十尺層(山丈4.4m炭丈4.0m)、坑道は総延長50km
    • [44]伊王島鉱業所は367,500t/年(昭和38年)を産し、39年度は40万t/年、能率33t/月・人が計画されていた
  • 九州鉱山学会誌 1966年「日鉄鉱業有明炭鉱見学記」(陣内和彦)
    • [45]有明炭鉱は昭和27年4月探査開始、5年で相当量の石炭埋蔵量を確認、33年10月人工島の構築に着手し34年12月完成
    • [46]昭和39年1月、鉱区北部地域開発のため柳川市の郊外に第3立坑の開さくを開始
    • [47]炭層の傾斜は5〜6度でほぼ水平、理論可採埋蔵炭量は約4億トン、炭質は粘結性の瀝青炭で硫黄分がきわめて少なく原料炭として最適
    • [48]ホリゾンタル・マイニング方式を採用し、最終的には200万t/年前後の出炭を予定
    • [51]第1立坑は排気・原炭搬出用、第2立坑は内径7.5m・深さ377mで入気・人員材料搬入用、工事は前者が367m、後者が309mまで進捗(1965年11月3日の見学時点)
    • [52]立坑開さくで井筒が岩盤に到達して以後、出水のため工事が難行し、坑底より50〜60mの長孔さく岩を行い薬液注入で止水してから掘さくした
    • [53]同行者の概算で、200万t出炭時に排水量を30〜40t/minとすると、ポンプの電力費だけで年間1億円を下らない
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1956年5月、炭鉱機械メーカーであった㈱幸袋工作所に資本参加することにより機械事業へ進出
    • [50]1959年5月、三鷹研究所を開設
設立ストーリー(5)

石灰石・砕石の増産と日比共同製錬への出資

昭和40年代に入って各産業で生産設備の大型化が進み、石灰石とドロマイトの需要が急激に拡大した[54]。石灰石が売上に占める割合は、1955年3月期の4.5%から1962年3月期に11.9%、1966年3月期に16.1%、1970年3月期には20.3%へ上がった[55]。砕石も1966年3月期の3.3%から1970年3月期の7.5%へ伸びた[56]。会社は1958年4月、青森県に尻屋鉱業所を開設した[57]。1971年4月には高知県で鳥形山鉱業所が操業に入った[58]。石灰石と砕石にドロマイトとけい石を加えると、1970年3月期の非金属の鉱種は売上の31.1%を占めた[59]

    • [54]昭和40年代に日本経済の高度成長期に入り、各産業共生産設備の大型化が積極的に推進され、旺盛な需要に応えて石灰石、ドロマイトとも需要が急激に拡大した
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [55]石灰石の売上構成比は1955年3月期4.5%、1962年3月期11.9%、1966年3月期16.1%、1970年3月期20.3%
    • [56]砕石の売上構成比は1966年3月期3.3%、1970年3月期7.5%
    • [59]1970年3月期の売上構成比は石灰石20.3%、砕石7.5%、ドロマイト2.4%、けい石0.9%
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [57]1958年4月、尻屋鉱業所を開設
    • [58]1971年4月、鳥形山鉱業所を開設

銅鉱石の売上構成比は1955年3月期の5.5%から1962年3月期に10.8%、1966年3月期に16.0%へ上がり、1970年3月期には20.4%と鉄鉱石の10.3%を倍近く上回った[60]。会社は1968年11月1日、三井金属鉱業との共同出資で日比共同製錬を設立した[61]。同社には1971年10月1日に古河鉱業が加わり、1972年1月22日に玉野製錬所の操業が始まった[62]。操業開始当初の生産能力は電気銅84,000トン/年、粗銅101,000トン/年、硫酸285,000トン/年で、溶錬炉には自熔炉を採用した[63]。電錬工程には周期的反転電流による高電流密度電解法を用いた[64]

  • 会社年鑑(1971年版)
    • [60]銅鉱石の売上構成比は1955年3月期5.5%、1962年3月期10.8%、1966年3月期16.0%、1970年3月期20.4%(鉄鉱石は10.3%)
    • [61]日比共同製錬(株)は昭和43年11月1日、三井金属鉱業(株)と日鉄鉱業(株)の共同出資により設立
    • [62]昭和46年10月1日に古河鉱業(株)が参加し、昭和47年1月22日に玉野製錬所の操業を開始
    • [63]操業開始当初の生産能力は電気銅84,000t/年、粗銅101,000t/年、硫酸285,000t/年で、溶錬炉として自熔炉を採用
    • [64]電錬工程に周期的反転電流による高電流密度電解法を採用
    • [54]昭和40年代に日本経済の高度成長期に入り、各産業共生産設備の大型化が積極的に推進され、旺盛な需要に応えて石灰石、ドロマイトとも需要が急激に拡大した
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [55]石灰石の売上構成比は1955年3月期4.5%、1962年3月期11.9%、1966年3月期16.1%、1970年3月期20.3%
    • [56]砕石の売上構成比は1966年3月期3.3%、1970年3月期7.5%
    • [59]1970年3月期の売上構成比は石灰石20.3%、砕石7.5%、ドロマイト2.4%、けい石0.9%
    • [60]銅鉱石の売上構成比は1955年3月期5.5%、1962年3月期10.8%、1966年3月期16.0%、1970年3月期20.4%(鉄鉱石は10.3%)
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [57]1958年4月、尻屋鉱業所を開設
    • [58]1971年4月、鳥形山鉱業所を開設
    • [61]日比共同製錬(株)は昭和43年11月1日、三井金属鉱業(株)と日鉄鉱業(株)の共同出資により設立
    • [62]昭和46年10月1日に古河鉱業(株)が参加し、昭和47年1月22日に玉野製錬所の操業を開始
    • [63]操業開始当初の生産能力は電気銅84,000t/年、粗銅101,000t/年、硫酸285,000t/年で、溶錬炉として自熔炉を採用
    • [64]電錬工程に周期的反転電流による高電流密度電解法を採用
設立ストーリー(6)

エネルギー革命のなかで進んだ炭鉱の閉山

石炭の側では市況と政策が同時に動き、1960年以降の石炭産業は物価上昇にともなう採掘コストの上昇と、競合する石油の値下がりで経営が悪化して、大規模なストライキも頻発した[65]。1962年に原油の輸入が自由化され、この年に日本のエネルギー供給は初めて石油が石炭を抜いた[66]。政府は石炭産業を合理化する方向へ政策を転換し、昭和38年度から石炭政策が始まった[67]。政府は閉山が炭鉱関係者や地域社会に与える打撃を極力避けることとし、合理化に40年という歳月をかけた[68]。1973年には日本の1次エネルギーの8割近くを石油が占めた[69]

エネルギー革命は売上構成にそのまま出て、石炭の構成比は1955年3月期の65.0%から1960年3月期に60.2%、1962年3月期に49.2%、1966年3月期に33.1%、1969年9月期に24.9%、1970年3月期には22.0%へ下がった[70]。もっとも石炭の売上高そのものは1966年3月期の31億円台から1970年3月期の30億円台へ4%あまり減っただけで、構成比の低下は他の鉱種が伸びた結果である[71]。閉山の前年、伊王島鉱業所の林田秀文次長は、自社の炭鉱が置かれた条件を坑内自然条件の悪化、年々上昇する生産原価、若年令層の募集難、在籍鉱員の高令化による労働力の不足の4点に整理して書いた[72]

  • 会社年鑑(1971年版)
    • [70]石炭の売上構成比は1955年3月期65.0%、1960年3月期60.2%、1962年3月期49.2%、1966年3月期33.1%、1969年9月期24.9%、1970年3月期22.0%
    • [71]石炭の売上高は1966年3月期3,136,533千円、1970年3月期3,005,029千円
    • [72]伊王島鉱業所次長の林田秀文が、石炭産業の前途にある困難として坑内自然条件の悪化、年々上昇する生産原価、若年令層の募集難、在籍鉱員の高令化による労働力の不足を挙げた

炭鉱は一つずつ閉じられ、嘉穂炭鉱では1966年に工程管理へPERTを採用して日程管理は一応軌道に乗ったものの、閉山によってそれ以上の改良を断念した[73]。林田秀文次長は1970年1月20日付で伊王島炭鉱の勤務となり、坑内の採炭工程に同じ日程管理を持ち込んだ[74]。伊王島炭鉱では1971年1月23日に第3区B5号10尺スライシングホーベル払の上段払を終えて同B6号の上段払へ移り、2月6日に下段払を終えたうえで翌7日から同B6号の下段払へ移る計画を立てていた[75]。そして1972年6月、日鉄鉱業は伊王島鉱業所の閉山をもって石炭生産部門から撤退した[76]

    • [73]嘉穂炭鉱にPERTを採用したのは昭和41年で、PERT/timeは一応軌道に乗ったが閉山によりそれ以上の進歩は断念せざるを得なくなった
    • [74]林田秀文は昭和45年1月20日付で伊王島炭鉱勤務となり、採炭払の移行プロジェクトにPERTを実施した
    • [75]第3区B5号10尺スライシングホーベル払の上段払は昭和46年1月23日採炭終了し同B6号上段払に移行、B5号下段払は2月6日採炭終了し2月7日より同B6号下段払に移行する計画
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [76]1972年6月、伊王島鉱業所の閉山をもって石炭生産部門から撤退
    • [65]1960年以降、石炭産業は物価上昇にともなう採掘コストの上昇や競合関係にある石油の値下がりなどを背景に経営が悪化し、大規模なストライキも頻発した
    • [66]昭和37年(1962年)に原油の輸入が自由化され、この年、日本のエネルギー供給は初めて石油が石炭を抜いた
    • [68]政府は石炭産業を合理化する方向に政策を転換し、閉山にあたっては炭鉱関係者や地域社会に与える打撃を極力回避することとして40年という歳月をかけた
    • [69]昭和48年(1973年)には日本の1次エネルギーの8割近くを石油が占めた
    • [67]昭和38年度から石炭政策が始まった
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [70]石炭の売上構成比は1955年3月期65.0%、1960年3月期60.2%、1962年3月期49.2%、1966年3月期33.1%、1969年9月期24.9%、1970年3月期22.0%
    • [71]石炭の売上高は1966年3月期3,136,533千円、1970年3月期3,005,029千円
    • [72]伊王島鉱業所次長の林田秀文が、石炭産業の前途にある困難として坑内自然条件の悪化、年々上昇する生産原価、若年令層の募集難、在籍鉱員の高令化による労働力の不足を挙げた
    • [73]嘉穂炭鉱にPERTを採用したのは昭和41年で、PERT/timeは一応軌道に乗ったが閉山によりそれ以上の進歩は断念せざるを得なくなった
    • [74]林田秀文は昭和45年1月20日付で伊王島炭鉱勤務となり、採炭払の移行プロジェクトにPERTを実施した
    • [75]第3区B5号10尺スライシングホーベル払の上段払は昭和46年1月23日採炭終了し同B6号上段払に移行、B5号下段払は2月6日採炭終了し2月7日より同B6号下段払に移行する計画
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [76]1972年6月、伊王島鉱業所の閉山をもって石炭生産部門から撤退

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沿革年表 1939〜2022年

日鉄鉱業の沿革1939〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1939〜1954年日本製鐵の鉱山部門から分かれ、外地を失い国内で立て直すまで旧日本製鐵の鉱山部門の分離独立により日鉄鉱業設立★★★
東鹿越採石所を開設
津久見採石所(現・大分事業所)を開設★★
関東証券の経営に参画★★
東京証券取引所第一部に上場
1955〜1972年売上の6割だった石炭を捨て、石灰石と銅をそれぞれ2割へ上げる幸袋工作所への資本参加により機械事業へ参入★★
尻屋鉱業所を開設
三鷹研究所を開設
三井金属鉱業との共同出資により日比共同製錬を設立★★
鳥形山鉱業所を開設★★
伊王島鉱業所の閉山をもって石炭生産部門から撤退★★★
1973〜1999年鉄鉱石を閉じて石灰石を主力に据え、銅は海外へ出る機械営業部門を設置
釜石鉱業所の廃止と釜石鉱山の設立★★★
化成品部門を設置★★
不動産事業部門を設置★★
新日本製鐵との共同出資により日鉄鹿児島地熱を設立★★
オーストラリアにポート・ケンブラ・カパー社を設立★★
袖ヶ浦物流センターを開設
2000〜2025年銅は自山で、石灰石は買い集めて、証券は手放す高橋三郎アタカマ銅鉱山(チリ)の操業を開始★★★
高橋三郎ポート・ケンブラ・カパー社の経営から撤退★★
松本六朗北海道共同石灰(現・北海道石灰化工)の全株式を取得★★
松本六朗堂島関東証券株式の売却により証券事業から撤退★★
松本六朗鹿児島事業所を開設
松本六朗再生可能エネルギー事業部門を設置★★
松本六朗住金鉱業(現・八戸鉱山)の株式を新日鐵住金から取得★★
佐藤公生アルケロス鉱山(チリ)の株式を追加取得して子会社化★★
森川玲一東京証券取引所プライム市場へ移行
出典・参考 17件
出典・参考

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