日鉄鉱業は1939年5月20日、石炭・鉄鉱石・石灰石など製鉄用原料の総合開発と資源確保を目的に、資本金5,000万円で設立された[1]。もとをたどれば、1934年2月に官営八幡製鉄所と民間の主要製鉄所を中心として日本製鐵が発足した際、政府は炭鉱その他の資源関係もあわせて出資したのに対し、民間側は評価などの都合で工場だけを出資し、鉱山関係を保留していた[2]。5年を経て各社鉱山の評価がおおむね済むと、日本製鐵は工場を中心とする製鉄業と石炭・鉄鉱石の採掘部門を分け、別個の経営体とするのが適当だと決めた[3]。二瀬炭鉱ほかを現物出資の主体とし、釜石・倶知安・价川などの鉱山を買収して、全株を日本製鐵が所有する新会社へ一元経営を移した[4]。
事業の源流は1899年12月1日にさかのぼり、官営八幡製鉄所のコークス用と一般燃料用の石炭を採掘して供給するため、農商務省告示第98号によって農商務省八幡製鉄所二瀬出張所が二瀬町に置かれ、稼行が始まった[5]。1910年には事務所を穂波村へ移し、同年3月に旧海軍省の予備炭田だった稲築鉱区の所管も受けている[6]。1934年2月1日の日本製鐵設立でこの炭鉱は同社の所管となり、1939年の日鉄鉱業創立とともに一切が引き継がれた[7]。日本製鐵が全株を持つ会社として生まれたため、生産品のほとんどは日本製鐵へ供給され、民間事業の保護や援助の面でも国策会社の性格を強く与えられた[8]。
創立と同時に、日本製鐵二瀬鉱業所の最後の所長だった吉田健三郎が常務取締役へ、室木隆三郎が日鉄鉱業二瀬鉱業所の初代所長へ就いた[9]。取締役に名を連ねた平生釟三郎は、1941年1月14日以降、代表取締役社長に選任されている[10]。発足直後の6月1日、釜石鉱山株式会社から釜石鉱山とその付属設備を、輪西鉱山株式会社から倶知安を引き継いだ[11]。11月には定款を変更して地方鉄道法による運輸業を目的に加え、釜石鉱山鉄道の譲渡を受けて経営にあたり、12月には静鉱業株式会社から長崎県内の鉱区を買収した[12]。この鉱区がのちの神田鉱である[13]。
1939年12月6日、三菱鉱業が持っていた朝鮮の茂山鉱山を鉄鋼国策の見地から共同経営へ移すため、三菱鉱業・日本製鐵との三者共同出資で茂山鉄鉱開発株式会社を設立した[14]。翌1940年は石灰石の確保に重点を置き、2月に明治鉱業から船尾石灰石山・鼠ケ池石灰石山・津久見石灰石を買収したのを手はじめに、様似石灰石山や尻労石灰石山を買い集めている[15]。大陸では昌平・莱蕪・弧山・武安の各炭鉱と鉱山を開発して北支那採鉱株式会社を立て、北支那製鉄株式会社の原料部門を担った[16]。海南島・セレベス・マライ・フィリッピンの資源開発にも及び、事業所は朝鮮・満州・華北・南方に広がって、1942年には資本金が1億5,000万円となった[17]。
増産の要請は内地資源を急速にすり減らした[18]。鋼材生産高は1938年の4,870千瓲を頂点として1943年まで4,000千瓲台を保ったが、原材料の輸入が窮屈になるにつれ増産の要請は激しくなった[19]。1939年から1945年までに掘り出した鉄鉱石は、釜石4,560千瓲、倶知安3,040千瓲、赤谷397千瓲、徳舜瞥675千瓲、庭坂174千瓲など合計9,229千瓲にのぼる[20]。石炭は二瀬と北松で採掘し、二瀬鉱業所の出炭は1941年度の1,207,504瓲が最高だった[21]。経済性を度外視した強行生産のもとで、二瀬炭鉱は乱掘に陥っている[22]。
終戦とともに在外資産の一切を失い、外地各作業所は正式に廃止された[23]。外地鉱業所の喪失と復員で過剰人員を抱えたため、1945年末までに三次にわたる整理を行い、1,460名が退職している[24]。1946年3月には制限会社令による制限会社の指定を受け、新たな資源の確保も経済活動も厳しい規制のもとに置かれた[25]。同じ年に政府が戦時中の国家補償を全面的に打ち切る方針を示したため、1946年末の資産総額476,000千円のうち、在外資産や損失金などいわゆる擬制資本が約228,000千円を占めた[26]。会社経理応急措置法と会社再建整備法に基づき、新旧勘定の分離と擬制資本の切り捨てによる再建計画に着手した[27]。
終戦から1946年末までは、石炭の供給不足が決定的な要因となって製鉄業が未曾有の減産に陥った[28]。普通圧延鋼材の生産は1945年に40万瓲、1946年には32万瓲まで落ち、鉄鉱石と石灰石・硅石など副原料の需要も激減した[29]。石炭と違って国家の援助はなく、1947年4月から2か月にわたって釜石鉱山は慢性的な怠業に陥り、月24千瓲の生産計画に対して4月の実績は3,154瓲、5月は4,245瓲にとどまった[30]。6月に怠業は終わり、7月10日には鉱石価格が260円から460円へ、翌1948年6月23日には949円へ引き上げられ、鉄鉱石部門は立ち直った[31]。
石炭と鉄鉱石に加えて石灰石とドロマイトを掘るため、日鉄鉱業は1943年2月に東鹿越採石所を開き、1950年は8月に井倉採石所、10月に津久見採石所、12月に船尾採石所を続けて開設した[32]。1951年10月には羽鶴鉱業所を開設し、翌11月に関東証券の経営へ参画している[33]。鉄鉱では1951年以降、北海道鉱業所で白老・赤沼・本竜の各鉱山を開き、虻田地区の硫化鉱の開発にも入った[34]。石炭では北松鉱業所の神田鉱・御橋鉱に重液選炭設備を広げ、二瀬潤野鉱にバウム水洗機を据えて、中央鉱の運搬合理化工事を仕上げた[35]。
1954年3月3日、日鉄鉱業は東京証券取引所へ新規上場した[36]。上場時の資本金は2億4,800万円、上場株式数は4,960千株で、大株主には八幡製鉄621,000株、富士製鉄579,000株、関東証券493,564株が並ぶ[37]。事業場は二瀬・北松の石炭、釜石・北海道・赤谷の鉄と石灰石、井倉・畑・津久見・船尾・葛生の珪石とドロマイトの10鉱業所と大阪・八幡・福岡・有明の4事務所からなり、従業員は12,000名を数えた[38]。生産比率は石炭59%、鉄鉱石35%、石灰石4%、その他2%で、そのほとんどを富士製鉄と八幡製鉄の2社へ納めた[39]。1953年4月から9月の鉄鉱石生産は全国802,460瓲に対し日鉄鉱業が351,980瓲を占め、全国比は43.6%に達した[40]。
1955年3月期の売上は石炭が65.0%を占め、鉄鉱石21.4%、銅鉱石5.5%、石灰石4.5%、ドロマイト3.1%が続いた[41]。主力の伊王島鉱業所は、長崎港外約10キロに浮かぶ周囲11キロの伊王島で端島夾炭層を稼行し、弱粘結性の原料炭を出炭の50%まで八幡製鉄と富士製鉄へ納めていた[42]。稼行炭層は5層あり、中心は山丈4.4メートル・炭丈4.0メートルの十尺層で、坑道は総延長50キロに及ぶ規模だった[43]。1963年の出炭は367,500トン、1964年度は40万トン、能率33トン/月・人を計画した[44]。
日鉄鉱業は現に掘っている炭鉱だけでなく、新しい炭田の開発にも資金を投じ、有明海の海底炭田では1952年4月に探査を始め、5年で相当量の埋蔵炭量を確認し、1958年10月に人工島の構築へ着手して1959年12月に完成させた[45]。1964年1月には鉱区北部を開発するため、柳川市の郊外で第3立坑の開さくに入った[46]。炭層は傾斜5〜6度でほぼ水平、理論可採埋蔵炭量は約4億トン、炭質は硫黄分がきわめて少ない粘結性の瀝青炭で、原料炭として最も適していた[47]。海底のほぼ水平な炭層を掘るためホリゾンタル・マイニング方式を採り、最終的な出炭は年200万トン前後を見込んだ[48]。
炭鉱に賭けた投資は坑内の外にも及び、1956年5月には炭鉱機械メーカーの幸袋工作所に資本参加して機械事業へ進出した[49]。1959年5月には三鷹研究所を開設[50]。有明では第1立坑を排気と原炭搬出に、内径7.5メートル・深さ377メートルの第2立坑を入気と人員材料の搬入にあて、1965年11月の時点で前者が367メートル、後者が309メートルまで達していた[51]。立坑の井筒が岩盤に届いて以降は断層帯からの出水で工事が難航し、坑底から50〜60メートルの長孔さく岩を行って薬液を注入し、水を止めてから掘さくを進めた[52]。見学者の概算では、年200万トンを出炭する段階で毎分30〜40トンを排水するとして、ポンプの電力費だけで年1億円を下らなかった[53]。
昭和40年代に入って各産業で生産設備の大型化が進み、石灰石とドロマイトの需要が急激に拡大した[54]。石灰石が売上に占める割合は、1955年3月期の4.5%から1962年3月期に11.9%、1966年3月期に16.1%、1970年3月期には20.3%へ上がった[55]。砕石も1966年3月期の3.3%から1970年3月期の7.5%へ伸びた[56]。会社は1958年4月、青森県に尻屋鉱業所を開設した[57]。1971年4月には高知県で鳥形山鉱業所が操業に入った[58]。石灰石と砕石にドロマイトとけい石を加えると、1970年3月期の非金属の鉱種は売上の31.1%を占めた[59]。
銅鉱石の売上構成比は1955年3月期の5.5%から1962年3月期に10.8%、1966年3月期に16.0%へ上がり、1970年3月期には20.4%と鉄鉱石の10.3%を倍近く上回った[60]。会社は1968年11月1日、三井金属鉱業との共同出資で日比共同製錬を設立した[61]。同社には1971年10月1日に古河鉱業が加わり、1972年1月22日に玉野製錬所の操業が始まった[62]。操業開始当初の生産能力は電気銅84,000トン/年、粗銅101,000トン/年、硫酸285,000トン/年で、溶錬炉には自熔炉を採用した[63]。電錬工程には周期的反転電流による高電流密度電解法を用いた[64]。
石炭の側では市況と政策が同時に動き、1960年以降の石炭産業は物価上昇にともなう採掘コストの上昇と、競合する石油の値下がりで経営が悪化して、大規模なストライキも頻発した[65]。1962年に原油の輸入が自由化され、この年に日本のエネルギー供給は初めて石油が石炭を抜いた[66]。政府は石炭産業を合理化する方向へ政策を転換し、昭和38年度から石炭政策が始まった[67]。政府は閉山が炭鉱関係者や地域社会に与える打撃を極力避けることとし、合理化に40年という歳月をかけた[68]。1973年には日本の1次エネルギーの8割近くを石油が占めた[69]。
エネルギー革命は売上構成にそのまま出て、石炭の構成比は1955年3月期の65.0%から1960年3月期に60.2%、1962年3月期に49.2%、1966年3月期に33.1%、1969年9月期に24.9%、1970年3月期には22.0%へ下がった[70]。もっとも石炭の売上高そのものは1966年3月期の31億円台から1970年3月期の30億円台へ4%あまり減っただけで、構成比の低下は他の鉱種が伸びた結果である[71]。閉山の前年、伊王島鉱業所の林田秀文次長は、自社の炭鉱が置かれた条件を坑内自然条件の悪化、年々上昇する生産原価、若年令層の募集難、在籍鉱員の高令化による労働力の不足の4点に整理して書いた[72]。
炭鉱は一つずつ閉じられ、嘉穂炭鉱では1966年に工程管理へPERTを採用して日程管理は一応軌道に乗ったものの、閉山によってそれ以上の改良を断念した[73]。林田秀文次長は1970年1月20日付で伊王島炭鉱の勤務となり、坑内の採炭工程に同じ日程管理を持ち込んだ[74]。伊王島炭鉱では1971年1月23日に第3区B5号10尺スライシングホーベル払の上段払を終えて同B6号の上段払へ移り、2月6日に下段払を終えたうえで翌7日から同B6号の下段払へ移る計画を立てていた[75]。そして1972年6月、日鉄鉱業は伊王島鉱業所の閉山をもって石炭生産部門から撤退した[76]。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/1515/manifest.json https://the-shashi.com/api/1515/history.json https://the-shashi.com/api/1515/timeline.json https://the-shashi.com/api/1515/executives.json https://the-shashi.com/api/1515/shareholders.json https://the-shashi.com/api/1515/financials.json https://the-shashi.com/api/1515/financials-longterm.json https://the-shashi.com/api/1515/segments.json https://the-shashi.com/api/1515/regions.json https://the-shashi.com/api/1515/workforce.json | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1939〜1954年日本製鐵の鉱山部門から分かれ、外地を失い国内で立て直すまで | 旧日本製鐵の鉱山部門の分離独立により日鉄鉱業設立 | ★★★ | ||
| 東鹿越採石所を開設 | ★ | |||
| 津久見採石所(現・大分事業所)を開設 | ★★ | |||
| 関東証券の経営に参画 | ★★ | |||
| 東京証券取引所第一部に上場 | ★ | |||
| 1955〜1972年売上の6割だった石炭を捨て、石灰石と銅をそれぞれ2割へ上げる | 幸袋工作所への資本参加により機械事業へ参入 | ★★ | ||
| 尻屋鉱業所を開設 | ★ | |||
| 三鷹研究所を開設 | ★ | |||
| 三井金属鉱業との共同出資により日比共同製錬を設立 | ★★ | |||
| 鳥形山鉱業所を開設 | ★★ | |||
| 伊王島鉱業所の閉山をもって石炭生産部門から撤退 | ★★★ | |||
| 1973〜1999年鉄鉱石を閉じて石灰石を主力に据え、銅は海外へ出る | 機械営業部門を設置 | ★ | ||
| 釜石鉱業所の廃止と釜石鉱山の設立 | ★★★ | |||
| 化成品部門を設置 | ★★ | |||
| 不動産事業部門を設置 | ★★ | |||
| 新日本製鐵との共同出資により日鉄鹿児島地熱を設立 | ★★ | |||
| オーストラリアにポート・ケンブラ・カパー社を設立 | ★★ | |||
| 袖ヶ浦物流センターを開設 | ★ | |||
| 2000〜2025年銅は自山で、石灰石は買い集めて、証券は手放す | 高橋三郎 | アタカマ銅鉱山(チリ)の操業を開始 | ★★★ | |
| 高橋三郎 | ポート・ケンブラ・カパー社の経営から撤退 | ★★ | ||
| 松本六朗 | 北海道共同石灰(現・北海道石灰化工)の全株式を取得 | ★★ | ||
| 松本六朗 | 堂島関東証券株式の売却により証券事業から撤退 | ★★ | ||
| 松本六朗 | 鹿児島事業所を開設 | ★ | ||
| 松本六朗 | 再生可能エネルギー事業部門を設置 | ★★ | ||
| 松本六朗 | 住金鉱業(現・八戸鉱山)の株式を新日鐵住金から取得 | ★★ | ||
| 佐藤公生 | アルケロス鉱山(チリ)の株式を追加取得して子会社化 | ★★ | ||
| 森川玲一 | 東京証券取引所プライム市場へ移行 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日鉄鉱業)