日鉄鉱業 の歴史

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沿革

1939〜2026年 1899年に官営八幡製鉄所の石炭を掘るため設置された農商務省八幡製鉄所二瀬出張所が起源。1939年に日本製鐵の鉱山部門が分離して設立され、2003年にはチリのアタカマ銅鉱山で操業を始めた。石灰石と銅を主力とする資源会社で、石灰石は鉄鋼とセメントの需要家へ納め、銅は電気銅として販売する。

沿革

1899年に官営八幡製鉄所の石炭を掘るため設置された農商務省八幡製鉄所二瀬出張所が起源。

1939年に日本製鐵の鉱山部門が分離して設立され、2003年にはチリのアタカマ銅鉱山で操業を始めた。石灰石と銅を主力とする資源会社で、石灰石は鉄鋼とセメントの需要家へ納め、銅は電気銅として販売する。

1939年〜創業期日本製鐵からの分離独立と東証一部上場

  1. 旧日本製鐵の鉱山部門の分離独立により日鉄鉱業設立
  2. 東鹿越採石所を開設
  3. 津久見採石所(現・大分事業所)を開設
  4. 関東証券の経営に参画
  5. 東京証券取引所第一部に上場
日鉄鉱業売上高

1955年〜転換期伊王島鉱業所の閉山による石炭生産からの撤退

  1. 幸袋工作所への資本参加により機械事業へ参入
  2. 尻屋鉱業所を開設
  3. 三鷹研究所を開設
  4. 三井金属鉱業との共同出資により日比共同製錬を設立
  5. 鳥形山鉱業所を開設
  6. 伊王島鉱業所の閉山をもって石炭生産部門から撤退
  7. 機械営業部門を設置
日鉄鉱業売上高1978年3月期576億円

1979年〜成熟期釜石鉱業所の分離と化成品・不動産への多角化

  1. 釜石鉱業所の廃止と釜石鉱山の設立
  2. 化成品部門を設置
  3. 不動産事業部門を設置
  4. 新日本製鐵との共同出資により日鉄鹿児島地熱を設立
  5. オーストラリアにポート・ケンブラ・カパー社を設立
  6. 袖ヶ浦物流センターを開設
日鉄鉱業売上高2002年3月期887億円

2003年〜安定成長期アタカマ銅鉱山の操業開始とアルケロス鉱山の買収

  1. アタカマ銅鉱山(チリ)の操業を開始
  2. ポート・ケンブラ・カパー社の経営から撤退
  3. 北海道共同石灰(現・北海道石灰化工)の全株式を取得
  4. 堂島関東証券株式の売却により証券事業から撤退
  5. 鹿児島事業所を開設
  6. 再生可能エネルギー事業部門を設置
  7. 住金鉱業(現・八戸鉱山)の株式を新日鐵住金から取得
  8. アルケロス鉱山(チリ)の株式を追加取得して子会社化
  9. 東京証券取引所プライム市場へ移行
  10. Nittetsu Mining USAとWedgetail Operationsを特定子会社化
日鉄鉱業売上高2025年3月期1,968億円
長期業績の推移 1954〜2025年

業績

日鉄鉱業:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1970年3月期〜2025年3月期

第1章 1939年〜 日本製鐵からの分離独立と東証一部上場

1939年〜製鉄原料の一元経営を担う全額出資子会社としての発足

日鉄鉱業は1939年5月20日、石炭・鉄鉱石・石灰石など製鉄用原料の総合開発と資源確保を目的に、資本金5,000万円で設立された。もとをたどれば、1934年2月に官営八幡製鉄所と民間の主要製鉄所を中心として日本製鐵が発足した際、政府は炭鉱その他の資源関係もあわせて出資したのに対し、民間側は評価などの都合で工場だけを出資し、鉱山関係を保留していた。5年を経て各社鉱山の評価がおおむね済むと、日本製鐵は工場を中心とする製鉄業と石炭・鉄鉱石の採掘部門を分け、別個の経営体とするのが適当だと決めた。二瀬炭鉱ほかを現物出資の主体とし、釜石・倶知安・价川などの鉱山を買収して、全株を日本製鐵が所有する新会社へ一元経営を移した。

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [1]1939年5月20日、石炭・鉄鉱石・石灰石等の製鉄用原料の総合開発と資源確保を目的に、資本金50,000千円で日鉄鉱業を設立
    • [2]日本製鐵は1934年2月に官営八幡製鉄所ほか民間主要製鉄所を中心に設立され、政府は炭鉱その他の資源関係も出資したが、民間は評価等の都合で工場のみ出資し鉱山関係は保留された
    • [3]5年を経て各社鉱山の評価がほぼ済み、日本製鐵は工場中心の製鉄業と石炭・鉄鉱石の採掘部門を分離して別個の経営体とするのが適当と決定した
  • 証券 1954年
    • [4]日本製鐵所有の炭鉱・鉱山による現物出資を主体とし、釜石・倶知安・价川その他の鉱山を買収して日鉄鉱業を設立、全株を日本製鐵が所有した

事業の源流は1899年12月1日にさかのぼり、官営八幡製鉄所のコークス用と一般燃料用の石炭を採掘して供給するため、農商務省告示第98号によって農商務省八幡製鉄所二瀬出張所が二瀬町に置かれ、稼行が始まった。1910年には事務所を穂波村へ移し、同年3月に旧海軍省の予備炭田だった稲築鉱区の所管も受けている。1934年2月1日の日本製鐵設立でこの炭鉱は同社の所管となり、1939年の日鉄鉱業創立とともに一切が引き継がれた。日本製鐵が全株を持つ会社として生まれたため、生産品のほとんどは日本製鐵へ供給され、民間事業の保護や援助の面でも国策会社の性格を強く与えられた。

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
    • [5]二瀬炭鉱は官営八幡製鉄所の骸炭用および一般燃料用の石炭を採掘供給する目的で、1899年12月1日の農商務省告示第98号により農商務省八幡製鉄所二瀬出張所として二瀬町に設置され創業稼行を始めた
    • [6]1910年に現在の穂波村へ事務所を移転するとともに、同年3月に旧海軍省の予備炭田である稲築鉱区が所管に移管された
    • [7]1934年2月1日の日本製鐵創立で二瀬炭鉱は同社の所管となり、日鉄鉱業の創立とともにその一切が引き継がれた
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [8]設立の経緯から生産品はほとんど日本製鐵に供給され、一般民間事業の保護援助等において強く国策会社としての性格を持たされた

創立と同時に、日本製鐵二瀬鉱業所の最後の所長だった吉田健三郎が常務取締役へ、室木隆三郎が日鉄鉱業二瀬鉱業所の初代所長へ就任した。取締役に名を連ねた平生釟三郎は、1941年1月14日以降、代表取締役社長に選任されている。発足直後の6月1日、釜石鉱山株式会社から釜石鉱山とその付属設備を、輪西鉱山株式会社から倶知安を引き継いだ。11月には定款を変更して地方鉄道法による運輸業を目的に加え、釜石鉱山鉄道の譲渡を受けて経営にあたり、12月には静鉱業株式会社から長崎県内の鉱区を買収した。この鉱区がのちの神田鉱である。

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
    • [9]日本製鐵二瀬鉱業所の最後の所長・吉田健三郎が日鉄鉱業の常務取締役に就任し、創立と同時に室木隆三郎が二瀬鉱業所の初代所長に任命された
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立以來現在に至る役員氏名及びその任期」
    • [10]平生釟三郎は1939年5月20日に取締役に就任し、代表取締役として1941年1月14日以降社長に選任された
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [11]1939年6月1日、釜石鉱山株式会社から釜石鉱山およびその付属設備を、輪西鉱山株式会社から倶知安を引き継いで経営にあたった
    • [12]1939年11月に定款を変更して目的事項に地方鉄道法による運輸業を加え釜石鉱山鉄道の譲渡を受け、12月に静鉱業株式会社から長崎県下の同社所有鉱区を買収した
    • [13]1939年12月に買収した長崎県下の鉱区が現在の神田鉱である
参考文献[1]-[13]
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [1]1939年5月20日、石炭・鉄鉱石・石灰石等の製鉄用原料の総合開発と資源確保を目的に、資本金50,000千円で日鉄鉱業を設立
    • [2]日本製鐵は1934年2月に官営八幡製鉄所ほか民間主要製鉄所を中心に設立され、政府は炭鉱その他の資源関係も出資したが、民間は評価等の都合で工場のみ出資し鉱山関係は保留された
    • [3]5年を経て各社鉱山の評価がほぼ済み、日本製鐵は工場中心の製鉄業と石炭・鉄鉱石の採掘部門を分離して別個の経営体とするのが適当と決定した
    • [8]設立の経緯から生産品はほとんど日本製鐵に供給され、一般民間事業の保護援助等において強く国策会社としての性格を持たされた
    • [11]1939年6月1日、釜石鉱山株式会社から釜石鉱山およびその付属設備を、輪西鉱山株式会社から倶知安を引き継いで経営にあたった
    • [12]1939年11月に定款を変更して目的事項に地方鉄道法による運輸業を加え釜石鉱山鉄道の譲渡を受け、12月に静鉱業株式会社から長崎県下の同社所有鉱区を買収した
    • [13]1939年12月に買収した長崎県下の鉱区が現在の神田鉱である
  • 証券 1954年
    • [4]日本製鐵所有の炭鉱・鉱山による現物出資を主体とし、釜石・倶知安・价川その他の鉱山を買収して日鉄鉱業を設立、全株を日本製鐵が所有した
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
    • [5]二瀬炭鉱は官営八幡製鉄所の骸炭用および一般燃料用の石炭を採掘供給する目的で、1899年12月1日の農商務省告示第98号により農商務省八幡製鉄所二瀬出張所として二瀬町に設置され創業稼行を始めた
    • [6]1910年に現在の穂波村へ事務所を移転するとともに、同年3月に旧海軍省の予備炭田である稲築鉱区が所管に移管された
    • [7]1934年2月1日の日本製鐵創立で二瀬炭鉱は同社の所管となり、日鉄鉱業の創立とともにその一切が引き継がれた
    • [9]日本製鐵二瀬鉱業所の最後の所長・吉田健三郎が日鉄鉱業の常務取締役に就任し、創立と同時に室木隆三郎が二瀬鉱業所の初代所長に任命された
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立以來現在に至る役員氏名及びその任期」
    • [10]平生釟三郎は1939年5月20日に取締役に就任し、代表取締役として1941年1月14日以降社長に選任された

1940年〜海外へ展開した事業所と、終戦で失った在外資産の一切

1939年12月6日、三菱鉱業が持っていた朝鮮の茂山鉱山を鉄鋼国策の見地から共同経営へ移すため、三菱鉱業・日本製鐵との三者共同出資で茂山鉄鉱開発株式会社を設立した。翌1940年は石灰石の確保に重点を置き、2月に明治鉱業から船尾石灰石山・鼠ケ池石灰石山・津久見石灰石を買収したのを手はじめに、様似石灰石山や尻労石灰石山を買い集めている。大陸では昌平・莱蕪・弧山・武安の各炭鉱と鉱山を開発して北支那採鉱株式会社を立て、北支那製鉄株式会社の原料部門を担った。海南島・セレベス・マライ・フィリッピンの資源開発にも及び、事業所は朝鮮・満州・華北・南方に広がって、1942年には資本金が1億5,000万円となった。

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [14]三菱鉱業所有の朝鮮茂山鉱山につき鉄鋼国策の見地から日本製鐵が合弁経営を申し入れ、三菱鉱業・日本製鐵・日鉄鉱業の三者共同出資で1939年12月6日に茂山鉄鉱開発株式会社を設立
    • [15]1940年に石灰石の確保に重点を置き、2月に明治鉱業株式会社から船尾石灰石山・鼠ケ池石灰石山・津久見石灰石を買収、さらに様似石灰石山・尻労石灰石山等を買収した
  • 証券 1954年
    • [16]支那大陸で昌平・莱蕪・弧山・武安等の各炭鉱・鉱山の開発に当たり、北支那採鉱株式会社を設立して北支那製鉄株式会社の原料部門を担った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 32_鉱業「日鉄鉱業」
    • [17]海南島・セレベス・マライ・フィリッピン等の資源を開発し、事業所は鮮・満・華・南方に及び、1942年には資本金1億5,000万円となった

増産の要請は内地資源を急速にすり減らした。鋼材生産高は1938年の4,870千瓲を頂点として1943年まで4,000千瓲台を保ったが、原材料の輸入が窮屈になるにつれ増産の要請は激しくなった。1939年から1945年までに掘り出した鉄鉱石は、釜石4,560千瓲、倶知安3,040千瓲、赤谷397千瓲、徳舜瞥675千瓲、庭坂174千瓲など合計9,229千瓲にのぼる。石炭は二瀬と北松で採掘し、二瀬鉱業所の出炭は1941年度の1,207,504瓲が最高だった。経済性を度外視した強行生産のもとで、二瀬炭鉱は乱掘に陥っている。

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立十周年に際して」
    • [18]生産増強の要請にあらゆる努力を払って応えただけに、当社の内地資源は急速な減少を免れなかった
    • [19]鋼材生産高は1938年の4,870千瓲を頂点として1943年まで4,000千瓲台を維持したが漸減し、各種原材料の輸入が窮屈となるのに比例して当社への増産要請は激しくなった
    • [20]1939年から1945年までに採掘した鉄鉱石は釜石4,560千瓲、倶知安3,040千瓲、赤谷397千瓲、徳舜瞥675千瓲、庭坂174千瓲、その他383千瓲の合計9,229千瓲
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
    • [21]二瀬鉱業所としての出炭最高は1941年度の1,207,504瓲
    • [22]二瀬炭鉱は製鉄原料炭として戦時中に当局の要請に応えて大増産を敢行し、そのために乱掘に陥った

外地の各作業所が正式に廃止されたのは、終戦で在外資産をすべて失ったためである。外地鉱業所を失ったうえ復員者も戻り、人員は過剰になった。1945年末までに整理を三次にわたって行い、退職者は1,460名に上った。年が明けた1946年3月には制限会社令による指定を受け、新しい資源を押さえることも経済活動も、厳しい規制の下に置かれた。同じ年に政府が戦時中の国家補償を全面的に打ち切る方針を示したため、1946年末の資産総額476,000千円のうち、在外資産や損失金などいわゆる擬制資本が約228,000千円を占めた。会社経理応急措置法と会社再建整備法に基づき、新旧勘定の分離と擬制資本の切り捨てによる再建計画に着手した。

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「事業の推移」
    • [23]終戦とともに在外資産の一切を失い、1946年に在外資産喪失により外地各作業所を正式に廃止した
    • [24]外地鉱業所の喪失・復員に起因する過剰人員のため1945年末までに三次にわたって整理を行い、1,460名が退職した
    • [25]1946年3月、制限会社令による制限会社の指定を受け、新たな資源の確保もその他の経済活動も厳格な規制を受けた
    • [26]政府が戦時補償を全面打切とする方針を示し、1946年末の資産総額476,000千円のうち在外資産および損失金等いわゆる擬制資本が約228,000千円を占めた
    • [27]会社経理応急措置法・会社再建整備法に基づき新旧勘定の分離と擬制資本の切捨てにより本格的な会社再建計画に着手した
参考文献[14]-[27]
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
    • [14]三菱鉱業所有の朝鮮茂山鉱山につき鉄鋼国策の見地から日本製鐵が合弁経営を申し入れ、三菱鉱業・日本製鐵・日鉄鉱業の三者共同出資で1939年12月6日に茂山鉄鉱開発株式会社を設立
    • [15]1940年に石灰石の確保に重点を置き、2月に明治鉱業株式会社から船尾石灰石山・鼠ケ池石灰石山・津久見石灰石を買収、さらに様似石灰石山・尻労石灰石山等を買収した
  • 証券 1954年
    • [16]支那大陸で昌平・莱蕪・弧山・武安等の各炭鉱・鉱山の開発に当たり、北支那採鉱株式会社を設立して北支那製鉄株式会社の原料部門を担った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 32_鉱業「日鉄鉱業」
    • [17]海南島・セレベス・マライ・フィリッピン等の資源を開発し、事業所は鮮・満・華・南方に及び、1942年には資本金1億5,000万円となった
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立十周年に際して」
    • [18]生産増強の要請にあらゆる努力を払って応えただけに、当社の内地資源は急速な減少を免れなかった
    • [19]鋼材生産高は1938年の4,870千瓲を頂点として1943年まで4,000千瓲台を維持したが漸減し、各種原材料の輸入が窮屈となるのに比例して当社への増産要請は激しくなった
    • [20]1939年から1945年までに採掘した鉄鉱石は釜石4,560千瓲、倶知安3,040千瓲、赤谷397千瓲、徳舜瞥675千瓲、庭坂174千瓲、その他383千瓲の合計9,229千瓲
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
    • [21]二瀬鉱業所としての出炭最高は1941年度の1,207,504瓲
    • [22]二瀬炭鉱は製鉄原料炭として戦時中に当局の要請に応えて大増産を敢行し、そのために乱掘に陥った
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「事業の推移」
    • [23]終戦とともに在外資産の一切を失い、1946年に在外資産喪失により外地各作業所を正式に廃止した
    • [24]外地鉱業所の喪失・復員に起因する過剰人員のため1945年末までに三次にわたって整理を行い、1,460名が退職した
    • [25]1946年3月、制限会社令による制限会社の指定を受け、新たな資源の確保もその他の経済活動も厳格な規制を受けた
    • [26]政府が戦時補償を全面打切とする方針を示し、1946年末の資産総額476,000千円のうち在外資産および損失金等いわゆる擬制資本が約228,000千円を占めた
    • [27]会社経理応急措置法・会社再建整備法に基づき新旧勘定の分離と擬制資本の切捨てにより本格的な会社再建計画に着手した

1946年〜石灰石とドロマイトを足して立て直した国内事業と上場

終戦から1946年末までは、石炭の供給不足が決定的な要因となって製鉄業が未曾有の減産に陥った。普通圧延鋼材の生産は1945年に40万瓲、1946年には32万瓲まで落ち、鉄鉱石と石灰石・硅石など副原料の需要も激減した。石炭と違って国家の援助はなく、1947年4月から2か月にわたって釜石鉱山は慢性的な怠業に陥り、月24千瓲の生産計画に対して4月の実績は3,154瓲、5月は4,245瓲にとどまった。6月に怠業は終わり、7月10日には鉱石価格が260円から460円へ、翌1948年6月23日には949円へ引き上げられ、鉄鉱石部門は立ち直った。

  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「事業の推移」
    • [28]終戦後より1946年末までは、敗戦に伴う一般的な政治経済情勢と決定的な要因としての石炭供給不足により、製鉄業は未曾有の減産に陥った
    • [29]普通圧延鋼材は1945年に40万瓲、1946年に32万瓲となり、当社の鉄鉱石ならびに石灰石・硅石等の副原料部門の需要は激減した
    • [30]1947年4月から2か月にわたり釜石鉱山は慢性的な怠業状況を呈し、各月の生産計画24千瓲に対して4月実績3,154瓲、5月実績4,245瓲だった
    • [31]1947年6月に怠業状態が終わり、7月10日に鉱石価格が260円から460円(Fe48%)へ引き上げられ、1948年6月23日に949円(Fe50%)へ改訂されて鉄鉱石部門は立ち直った

石炭と鉄鉱石に加えて石灰石とドロマイトを掘るため、日鉄鉱業は1943年2月に東鹿越採石所を開設し、1950年は8月に井倉採石所、10月に津久見採石所、12月に船尾採石所を続けて開設した。1951年10月には羽鶴鉱業所を開設し、翌11月に関東証券の経営へ参画している。鉄鉱では1951年以降、北海道鉱業所で白老・赤沼・本竜の各鉱山を開き、虻田地区の硫化鉱の開発にも入った。石炭では北松鉱業所の神田鉱・御橋鉱に重液選炭設備を広げ、二瀬潤野鉱にバウム水洗機を据えて、中央鉱の運搬合理化工事を仕上げた。

  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1943年2月に東鹿越採石所、1950年8月に井倉採石所、1950年10月に津久見採石所、1950年12月に船尾採石所を開設
    • [33]1951年10月に羽鶴鉱業所を開設、1951年11月に関東証券株式会社の経営に参画
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 32_鉱業「日鉄鉱業」
    • [34]1951年以降、北海道鉱業所において白老・赤沼・本竜(鉄鉱石)等の各鉱山を開設し、虻田地区の硫化鉱(埋蔵量500万屯)の開発に乗り出した
    • [35]石炭部門で北松鉱業所の神田鉱・御橋鉱の重液選炭設備を拡充し、二瀬潤野鉱のバウム水洗機(100屯)および中央鉱の運搬合理化一連工事を完成した

1954年3月3日、日鉄鉱業は東京証券取引所へ新規上場した。上場時の資本金は2億4,800万円、上場株式数は4,960千株で、大株主には八幡製鉄621,000株、富士製鉄579,000株、関東証券493,564株が並ぶ。事業場は二瀬・北松の石炭、釜石・北海道・赤谷の鉄と石灰石、井倉・畑・津久見・船尾・葛生の珪石とドロマイトの10鉱業所と大阪・八幡・福岡・有明の4事務所からなり、従業員は12,000名を数えた。生産比率は石炭59%、鉄鉱石35%、石灰石4%、その他2%で、そのほとんどを富士製鉄と八幡製鉄の2社へ納めた。1953年4月から9月の鉄鉱石生産は全国802,460瓲に対し日鉄鉱業が351,980瓲を占め、全国比は43.6%に達した。

  • 証券 1954年
    • [36]日鉄鉱業は1954年3月3日に新規上場した(東京証券取引所第一部に上場)
    • [37]上場時の資本金248,000千円、上場株式数4,960千株、大株主は八幡製鉄621,000株・富士製鉄579,000株・関東証券493,564株ほか
    • [38]事業場は二瀬・北松(石炭)、釜石・北海道・赤谷(鉄、石灰石)、井倉・畑・津久見・船尾・葛生(珪石、ドロマイト)の10鉱業所と大阪・八幡・福岡・有明の4事務所からなり、従業員12,000名
    • [39]生産比率は石炭59%、鉄鉱石35%、石灰石4%、その他2%で、そのほとんどが製鉄用原料として富士・八幡の両製鉄会社に納入されている
    • [40]1953年4月から9月の鉄鉱石生産は全国802,460瓲に対し当社351,980瓲、全国比43.6%
参考文献[28]-[40]
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「事業の推移」
    • [28]終戦後より1946年末までは、敗戦に伴う一般的な政治経済情勢と決定的な要因としての石炭供給不足により、製鉄業は未曾有の減産に陥った
    • [29]普通圧延鋼材は1945年に40万瓲、1946年に32万瓲となり、当社の鉄鉱石ならびに石灰石・硅石等の副原料部門の需要は激減した
    • [30]1947年4月から2か月にわたり釜石鉱山は慢性的な怠業状況を呈し、各月の生産計画24千瓲に対して4月実績3,154瓲、5月実績4,245瓲だった
    • [31]1947年6月に怠業状態が終わり、7月10日に鉱石価格が260円から460円(Fe48%)へ引き上げられ、1948年6月23日に949円(Fe50%)へ改訂されて鉄鉱石部門は立ち直った
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1943年2月に東鹿越採石所、1950年8月に井倉採石所、1950年10月に津久見採石所、1950年12月に船尾採石所を開設
    • [33]1951年10月に羽鶴鉱業所を開設、1951年11月に関東証券株式会社の経営に参画
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 32_鉱業「日鉄鉱業」
    • [34]1951年以降、北海道鉱業所において白老・赤沼・本竜(鉄鉱石)等の各鉱山を開設し、虻田地区の硫化鉱(埋蔵量500万屯)の開発に乗り出した
    • [35]石炭部門で北松鉱業所の神田鉱・御橋鉱の重液選炭設備を拡充し、二瀬潤野鉱のバウム水洗機(100屯)および中央鉱の運搬合理化一連工事を完成した
  • 証券 1954年
    • [36]日鉄鉱業は1954年3月3日に新規上場した(東京証券取引所第一部に上場)
    • [37]上場時の資本金248,000千円、上場株式数4,960千株、大株主は八幡製鉄621,000株・富士製鉄579,000株・関東証券493,564株ほか
    • [38]事業場は二瀬・北松(石炭)、釜石・北海道・赤谷(鉄、石灰石)、井倉・畑・津久見・船尾・葛生(珪石、ドロマイト)の10鉱業所と大阪・八幡・福岡・有明の4事務所からなり、従業員12,000名
    • [39]生産比率は石炭59%、鉄鉱石35%、石灰石4%、その他2%で、そのほとんどが製鉄用原料として富士・八幡の両製鉄会社に納入されている
    • [40]1953年4月から9月の鉄鉱石生産は全国802,460瓲に対し当社351,980瓲、全国比43.6%

第2章 1955年〜 伊王島鉱業所の閉山による石炭生産からの撤退有明開発の中断から鳥形山・日比共同製錬への資源配分

筆者考察y.sugiura, author

日鉄鉱業が1970年代に生き延びたのは、掘る場所を変えたからではなく、掘る鉱種を入れ替えたからである。1955年3月期に売上の65.0%を占めた石炭は、製鉄所へ原料を納めるという創立以来の役割そのものだった。その石炭が重油に置き換えられたとき、会社に残された道は二つしかない。石炭で粘るか、同じ製鉄所に別のものを納めるか。有明炭鉱に投じた100億円は前者の答えであり、15年をかけて海底炭田に竪坑を打ち続けた末、出水と工費の膨張を前に1967年12月に中断された。この失敗の重さが、後者を選ぶ理由を会社の内側に作った。

1968年1月、小林社長が所長会議で示した方針は、探鉱の的を絞り直すというものだった。非鉄金属に年6億〜8億円を投じても有望な鉱区は出ない、製鉄原料の鉱山会社という生い立ちがそもそも当たりを引きにくくしている、という自己診断である。代わりに選ばれた石灰石と砕石は、鉄鋼の増産がそのまま需要になる鉱種だった。鳥形山の工期を2年に絞った理由が君津製鉄所の第3高炉の火入れに間に合わせることだったのは、この会社が誰に向かって商売しているかを何より正確に示している。納める相手は変えず、納めるものだけを石炭から石灰石と銅へ替えた。

売上に占める石炭の比率 1955年3月期〜1970年3月期(単体)(%)

65 55年3月期 60.2 60年3月期 49.2 62年3月期 33.1 66年3月期 22 70年3月期
  • 出所は上場会社総覧 1956年版・会社年鑑 1971年版。

1955年〜重油攻勢のもとで縮んだ石炭と、幸袋工作所による機械事業への足がかり

石炭に6割を預けた収益構造

1955年3月期の売上構成比は石炭65.0%、鉄鉱石21.4%、銅鉱石5.5%、石灰石4.5%、ドロマイト3.1%で、収益の3分の2を石炭が担っていた。掘った原料のほとんどは日本製鐵を分割した八幡製鉄と富士製鉄へ納めており、製鉄用原料の供給に特化した体制は創立時のまま残っていた。石炭が売れるかぎり安定を約束する体制だが、燃料の主役が代われば逃げ場がない。1961年7月に原油輸入の自由化方針が決定されて以来、石炭は重油攻勢にほとんどなす術が見出せなかった。1962年には原油の輸入が自由化され、この年、日本のエネルギー供給は初めて石油が石炭を抜いた。1963年度までに炭価を1,200円引き下げる合理化計画も、重油価格の大幅な低下には追いつかなかった。

  • 上場会社総覧(1956年版)
    • [41]1955年3月期の売上構成比は石炭65.0%、鉄鉱石21.4%、銅鉱石5.5%、石灰石4.5%、ドロマイト3.1%
  • 証券 1954年
    • [42]生産比率は石炭59%、鉄鉱石35%、石灰石4%、その他2%で、そのほとんどが製鉄用原料として富士・八幡の両製鉄会社に納入されている
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「エネルギー革命下の各炭鉱と二瀬・北松の閉山」
    • [43]石炭は関連産業の需要不振に加え、昭和36年7月に原油輸入の自由化方針が決定されて以来、エネルギー源としての重油攻勢にほとんどなす術が見出せなかった
    • [45]昭和38年度までの炭価1,200円引き下げ目標の合理化計画は、世界的な重油供給過剰傾向、海上運賃の低迷、自由化を目前にした国内石油各社の激しいシェア争いなどの結果、重油価格が大幅に低下して到底石炭の太刀打ちできるものではなかった
  • 資源エネルギー庁「【日本のエネルギー、150年の歴史③】エネルギー革命の時代。主役は石炭から石油へ交代し、原子力発電やLPガスも」
    • [44]昭和37年(1962年)に原油の輸入が自由化され、この年、日本のエネルギー供給は初めて石油が石炭を抜いた
発祥の二瀬を閉じる

政府は1962年5月に石炭鉱業調査団を特命編成し、11月、目標年次1967年度の生産規模5,500万t、閉山年産規模累計約1,200万tという合理化を目指す石炭対策大綱を決定した。これが第1次石炭対策だが、結局は閉山促進の効果しかもたらさなかった。日鉄鉱業では1961年3月に北松の神田鉱、10月に小佐々坑と二瀬の潤野鉱が閉山し、8月までに希望退職者を含む266名が退職している。1962年12月には炭量の蓄減を考慮して中央鉱と高雄2坑の直営稼行を廃止し、1963年1月15日、二瀬鉱業所を廃止した。1899年12月に官営製鉄所二瀬出張所として発足してから64年、総出炭量は4,500万3,000tに達していた。石炭の売上構成比は1960年3月期の60.2%から1962年3月期には49.2%へ低下した。

  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「エネルギー革命下の各炭鉱と二瀬・北松の閉山」
    • [46]政府は昭和37年5月に石炭鉱業調査団を特命編成し、その答申をまって11月に目標年次42年度の生産規模5,500万t、生産能率38.6t、閉山年産規模累計約1,200万tという大規模な合理化を目指す「石炭対策大綱」を決定した
    • [47]これが第1次石炭対策であり、その後の相次ぐ政府の石炭対策の先導をつとめたが、それも結局は閉山促進効果しかもたらさなかった
    • [48]昭和36年3月に北松の神田鉱、10月に小佐々坑と二瀬の潤野鉱が閉山し、6月に日職連と臨時労使協議会を開催して人員整理を提案、8月には希望退職者を含め266名が退職した
    • [49]昭和37年12月、減員進捗による保安面への影響と予期しない炭量の蓄減を考慮して中央鉱と高雄2坑の直営稼行を廃止し、38年1月15日に二瀬鉱業所を廃止した
    • [50]明治32年12月の官営製鉄所二瀬出張所としての発足以来64年、二瀬鉱業所の総出炭量は4,500万3,000t
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [51]石炭の売上構成比は1960年3月期60.2%、1962年3月期49.2%
炭鉱機械の会社を製鉄用機械へ振り替える

1956年5月、日鉄鉱業は炭鉱機械メーカーであった幸袋工作所へ資本参加し、機械事業へ進出した。幸袋工作所は明治20年代から炭鉱機械を製造してきた会社で、経営への参画は同社の要請によるものだった。ただし石炭が縮めば炭鉱機械も縮む。1959年には主力製品を製鉄用機械、とくにコークス炉の炉回り機械とライン装置機械へ移し、八幡製鉄所からの幹部派遣も求めて受注の拡大を図った。1963年5月には再度の要請を受けて全面的に経営を引き受けている。売上額は1960年代半ばに年間30億円前後まで伸び、その80〜90%を圧延関係を含む製鉄用機械が占めた。掘る会社が作る会社を抱えたのは、石炭という鉱種ではなく製鉄という取引先に軸足を残す選び方だったのだろう。

  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [52]1956年5月、炭鉱機械メーカーであった㈱幸袋工作所に資本参加することにより機械事業へ進出
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「幸袋工作所の経営」
    • [53]明治20年代から炭鉱機械を製造してきた株式会社幸袋工作所については、その要請により昭和31年5月に経営に参画した
    • [54]昭和34年に主力製品を製鉄用機械、特にコークス炉の炉回り機械及びライン装置機械に移行させ、八幡製鉄所の幹部の派遣も求めて受注の拡大を図った
    • [55]再び要請を受けて昭和38年5月に幸袋工作所の経営を全面的に引き受けた
    • [56]幸袋工作所の売上額は昭和40年代の半ばには年間30億円前後にまで伸び、その80〜90%は圧延関係を含めた製鉄用機械が占めている
参考文献[41]-[56]
  • 上場会社総覧(1956年版)
    • [41]1955年3月期の売上構成比は石炭65.0%、鉄鉱石21.4%、銅鉱石5.5%、石灰石4.5%、ドロマイト3.1%
  • 証券 1954年
    • [42]生産比率は石炭59%、鉄鉱石35%、石灰石4%、その他2%で、そのほとんどが製鉄用原料として富士・八幡の両製鉄会社に納入されている
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「エネルギー革命下の各炭鉱と二瀬・北松の閉山」
    • [43]石炭は関連産業の需要不振に加え、昭和36年7月に原油輸入の自由化方針が決定されて以来、エネルギー源としての重油攻勢にほとんどなす術が見出せなかった
    • [45]昭和38年度までの炭価1,200円引き下げ目標の合理化計画は、世界的な重油供給過剰傾向、海上運賃の低迷、自由化を目前にした国内石油各社の激しいシェア争いなどの結果、重油価格が大幅に低下して到底石炭の太刀打ちできるものではなかった
    • [46]政府は昭和37年5月に石炭鉱業調査団を特命編成し、その答申をまって11月に目標年次42年度の生産規模5,500万t、生産能率38.6t、閉山年産規模累計約1,200万tという大規模な合理化を目指す「石炭対策大綱」を決定した
    • [47]これが第1次石炭対策であり、その後の相次ぐ政府の石炭対策の先導をつとめたが、それも結局は閉山促進効果しかもたらさなかった
    • [48]昭和36年3月に北松の神田鉱、10月に小佐々坑と二瀬の潤野鉱が閉山し、6月に日職連と臨時労使協議会を開催して人員整理を提案、8月には希望退職者を含め266名が退職した
    • [49]昭和37年12月、減員進捗による保安面への影響と予期しない炭量の蓄減を考慮して中央鉱と高雄2坑の直営稼行を廃止し、38年1月15日に二瀬鉱業所を廃止した
    • [50]明治32年12月の官営製鉄所二瀬出張所としての発足以来64年、二瀬鉱業所の総出炭量は4,500万3,000t
  • 資源エネルギー庁「【日本のエネルギー、150年の歴史③】エネルギー革命の時代。主役は石炭から石油へ交代し、原子力発電やLPガスも」
    • [44]昭和37年(1962年)に原油の輸入が自由化され、この年、日本のエネルギー供給は初めて石油が石炭を抜いた
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [51]石炭の売上構成比は1960年3月期60.2%、1962年3月期49.2%
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [52]1956年5月、炭鉱機械メーカーであった㈱幸袋工作所に資本参加することにより機械事業へ進出
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「幸袋工作所の経営」
    • [53]明治20年代から炭鉱機械を製造してきた株式会社幸袋工作所については、その要請により昭和31年5月に経営に参画した
    • [54]昭和34年に主力製品を製鉄用機械、特にコークス炉の炉回り機械及びライン装置機械に移行させ、八幡製鉄所の幹部の派遣も求めて受注の拡大を図った
    • [55]再び要請を受けて昭和38年5月に幸袋工作所の経営を全面的に引き受けた
    • [56]幸袋工作所の売上額は昭和40年代の半ばには年間30億円前後にまで伸び、その80〜90%は圧延関係を含めた製鉄用機械が占めている

1958年〜有明炭鉱に投じた100億円と、私企業の限界という中断理由

海を埋めて竪坑を打つ

有明炭鉱の探査は1952年4月に始まり、5年で相当量の石炭埋蔵量を確認した。炭層はほぼ水平で理論可採埋蔵炭量は約4億t、炭質は硫黄分のきわめて少ない粘結性の瀝青炭で、原料炭として最適とみられていた。ただし鉱区は全部が海底にあり、軟弱な第四紀層が厚く積もっているため、陸上の炭鉱と同じ開発はできない。海を埋め立てて陸地を造り、竪坑を掘って坑底から沖へ坑道を延ばす方式を採っている。基礎的な開発費が多額になるため、最初から年産200万t計画という規模で設計された。人工島は1958年10月に着手し、予定より7か月早く1960年3月に竣工して、工事費は約4億2,000万円を要した。埋立はその後も拡張され、総造成面積は約72万7,000m2、所要費用は約15億8,000万円に達した。

  • 九州鉱山学会誌 1966年「日鉄鉱業有明炭鉱見学記」(陣内和彦)
    • [57]有明炭鉱は昭和27年4月に探査を開始し、5年で相当量の石炭埋蔵量を確認した
    • [58]炭層の傾斜は5〜6度でほぼ水平、理論可採埋蔵炭量は約4億トン、炭質は粘結性の瀝青炭で硫黄分がきわめて少なく原料炭として最適
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発基本計画の概要(第1次基本計画)」
    • [59]鉱区は全部が海底であり軟弱な第四紀層が厚いため、海を埋め立てて陸地を造り竪坑を掘って坑底から沖へ坑道を進める方式を採った
    • [60]基礎的な開発費が余りに多額なため、普通の陸上炭鉱のような小規模では到底成立たず、最初から年産200万t計画という大がかりなものになった
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「人工島の築造とその拡張」
    • [61]昭和33年10月に人工島の構築に着手し、予定より7か月早い35年3月に竣工した。工事費は約4億2,000万円
    • [62]拡張を重ねた有明の埋立の総造成面積は約72万7,000m2、所要費用は約15億8,000万円
水が工期と工費を膨らませる

1965年11月の時点でも、第1立坑は367m、第2立坑は309mまでしか掘り進めていなかった。井筒が岩盤に達してから出水が工事を阻み、坑底から50〜60mの長孔をさく岩して薬液で止水し、そのうえで掘るという手順を重ねていた。見学した技術者は、200万t出炭時に毎分30〜40tの排水が要るとすれば、ポンプの電力費だけで少なくとも年1億円に上ると見積もった。1966年9月、現地から従来の計画では到底行けないという見方が上がった。毎分35m3で想定していた出水を場合によっては80m3で見込まねばならず、1972年に120万t出炭・総工費180億円としていた計画は、出炭が1975年から1976年へずれ、総工費は100億円程度増えるという見通しに変わった。

  • 九州鉱山学会誌 1966年「日鉄鉱業有明炭鉱見学記」(陣内和彦)
    • [63]第1立坑は排気・原炭搬出用、第2立坑は内径7.5m・深さ377mで入気・人員材料搬入用、工事は前者が367m、後者が309mまで進捗(1965年11月3日の見学時点)
    • [64]立坑開さくで井筒が岩盤に到達して以後、出水のため工事が難行した
    • [65]坑底より50〜60mの長孔さく岩を行い、薬液注入で止水してから掘さくした
    • [66]同行者の概算で、200万t出炭時に排水量を30〜40t/minとすると、ポンプの電力費だけで年間1億円を下らない
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発工事一時中断の決定」
    • [67]前年の9月に有明の現地から、従来の計画ではとても行けそうもないという見方が出た
    • [68]毎分35m3で想定していた出水を場合によっては80m3と見込まねばならず、昭和47年に120万t出炭・総工費180億円という計画は、出炭が50年か51年になり総工費も100億円程度増えるという見通しに変わった
私企業の限界と決めて石炭をやめる

1967年12月2日の役員会で、有明開発工事の一時中断の方針が決まった。着手から15年余、投下した資金は100億円近くに達し、全社従業員の明日の希望と目されていた事業である。中断の理由は、石炭の現況が既に私企業の限界にきていて将来の見通しが全然たたないこと、そして坑内の状況が予想したより悪く、工期も延び金もかかることの二つだった。残る炭鉱も続かなかった。1970年3月10日、嘉穂炭鉱が累積赤字8億円のなかで閉山する。伊王島では労務者の充足難が続き、第4区の炭量も確保できず、社内各部門の収益による赤字補填も限度に達した。1972年3月、伊王島と柚木は同時に閉山し、同年6月、日鉄鉱業は石炭生産部門から撤退した。1899年の二瀬出張所から数えて73年続いた祖業が、ここで終わっている。

  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発工事一時中断の決定」
    • [69]昭和42年12月2日の役員会において、有明開発工事の一時中断の方針を決定した
    • [70]開発に着手して既に15年余を経過し、その間100億円近い資金を投下して全社従業員の明日の希望と目されていた有明炭鉱開発だった
    • [71]中断の理由は、石炭の現況がすでに私企業の限界にきていることと将来の見透しが全然たたないこと、坑内の状況が予想したより悪く工期も延び金もかかることの二つ
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「嘉穂の斉々たる閉山」
    • [72]嘉穂炭鉱は累積赤字8億円の中での炭量枯渇により、昭和45年3月10日をもって閉山した
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「伊王島・柚木も閉山」
    • [73]伊王島では依然労務者の充足難に苦しみ、第4区の炭量も確保できずに不安定な生産を続けており、同炭鉱への社内各部門からの収益による赤字補塡も限度となった
    • [74]伊王島炭鉱と柚木炭鉱は昭和47年3月に同時閉山した
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [75]1972年6月、伊王島鉱業所の閉山をもって石炭生産部門から撤退
参考文献[57]-[75]
  • 九州鉱山学会誌 1966年「日鉄鉱業有明炭鉱見学記」(陣内和彦)
    • [57]有明炭鉱は昭和27年4月に探査を開始し、5年で相当量の石炭埋蔵量を確認した
    • [58]炭層の傾斜は5〜6度でほぼ水平、理論可採埋蔵炭量は約4億トン、炭質は粘結性の瀝青炭で硫黄分がきわめて少なく原料炭として最適
    • [63]第1立坑は排気・原炭搬出用、第2立坑は内径7.5m・深さ377mで入気・人員材料搬入用、工事は前者が367m、後者が309mまで進捗(1965年11月3日の見学時点)
    • [64]立坑開さくで井筒が岩盤に到達して以後、出水のため工事が難行した
    • [65]坑底より50〜60mの長孔さく岩を行い、薬液注入で止水してから掘さくした
    • [66]同行者の概算で、200万t出炭時に排水量を30〜40t/minとすると、ポンプの電力費だけで年間1億円を下らない
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発基本計画の概要(第1次基本計画)」
    • [59]鉱区は全部が海底であり軟弱な第四紀層が厚いため、海を埋め立てて陸地を造り竪坑を掘って坑底から沖へ坑道を進める方式を採った
    • [60]基礎的な開発費が余りに多額なため、普通の陸上炭鉱のような小規模では到底成立たず、最初から年産200万t計画という大がかりなものになった
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「人工島の築造とその拡張」
    • [61]昭和33年10月に人工島の構築に着手し、予定より7か月早い35年3月に竣工した。工事費は約4億2,000万円
    • [62]拡張を重ねた有明の埋立の総造成面積は約72万7,000m2、所要費用は約15億8,000万円
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発工事一時中断の決定」
    • [67]前年の9月に有明の現地から、従来の計画ではとても行けそうもないという見方が出た
    • [68]毎分35m3で想定していた出水を場合によっては80m3と見込まねばならず、昭和47年に120万t出炭・総工費180億円という計画は、出炭が50年か51年になり総工費も100億円程度増えるという見通しに変わった
    • [69]昭和42年12月2日の役員会において、有明開発工事の一時中断の方針を決定した
    • [70]開発に着手して既に15年余を経過し、その間100億円近い資金を投下して全社従業員の明日の希望と目されていた有明炭鉱開発だった
    • [71]中断の理由は、石炭の現況がすでに私企業の限界にきていることと将来の見透しが全然たたないこと、坑内の状況が予想したより悪く工期も延び金もかかることの二つ
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「嘉穂の斉々たる閉山」
    • [72]嘉穂炭鉱は累積赤字8億円の中での炭量枯渇により、昭和45年3月10日をもって閉山した
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「伊王島・柚木も閉山」
    • [73]伊王島では依然労務者の充足難に苦しみ、第4区の炭量も確保できずに不安定な生産を続けており、同炭鉱への社内各部門からの収益による赤字補塡も限度となった
    • [74]伊王島炭鉱と柚木炭鉱は昭和47年3月に同時閉山した
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [75]1972年6月、伊王島鉱業所の閉山をもって石炭生産部門から撤退

1968年〜石灰石・砕石への集中と、日比共同製錬による銅製錬への進出

伸ばす事業を石灰石と砕石に集中する

1968年1月の所長会議で、小林社長は有明開発の中断経緯に触れたのち、今後の方向を示した。鉄鉱石・硫化鉱・硫黄にも大きな需要の伸びがなく、石炭も具合が悪い以上、将来伸ばしていけるのは石灰石と砕石以外にないという判断である。石類は年産約1,000万tを採掘しており、これを2,000万tへ引き上げる。高知の鳥形山に鉱区を取得し、津久見の増産と砕石を加える筋書きだった。日鉄鉱業は10年以上、年6億〜8億円を投じて非鉄金属の探鉱を続けていたが、生い立ちが製鉄原料の鉱山会社であるため有望な鉱区を持たず、無いところを探しても見つからないのではないかという疑いが社長にはあった。石灰石の売上構成比は1955年3月期の4.5%から1966年3月期に16.1%、1970年3月期には20.3%へ上がった。

  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「石類倍増生産の構想と君津製鉄所向けの社内応援送鉱」
    • [76]昭和43年1月の所長会議の冒頭において、小林社長は有明炭鉱開発の中断経緯に詳しく触れたのち今後の方向を述べた
    • [77]鉄鉱石・硫化鉱・硫黄についても大きな需要の伸びがなく、石炭も具合が悪い現状で、将来伸ばしていくのは石灰石、砕石以外にないと小林社長が述べた
    • [78]石類は年産約1,000万屯を採掘しており、できるならこれを2,000万屯に持っていきたいと小林社長が述べた
    • [79]具体的には高知の鳥形山に鉱区を取得し、津久見の増産や砕石を加える
    • [80]日鉄鉱業は10年以上、年に6億〜8億円程度を使って毎年非鉄金属の探鉱をしてきたが、生い立ちが製鉄原料の鉱山会社だったため他の非鉄金属会社に比べて有望な鉱区をもっておらず、ないところをいくら探しても見つからないのではないかと小林社長は述べた
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [81]石灰石の売上構成比は1955年3月期4.5%、1962年3月期11.9%、1966年3月期16.1%、1970年3月期20.3%
君津の高炉に間に合わせる

鳥形山の開発は1967年12月に決定し、生産開始を1971年度、第1期計画を第1年次320万t、第3年次以降520万tと定めた。1969年3月に本格的な開発工事へ入り、工期をわずか2年に絞ったのは、君津製鉄所の稼働に合わせてタイムリミットを設けたためである。同製鉄所は1971年9月に予定された第3高炉の火入れで、一挙に年産1,000万t体制へ上がることになっていた。所要石灰石の全量供給を引き受けていた以上、遅れは許されない。完成までは津久見と尻屋の2山から応援送鉱を行い、1968年度から1972年度までに合計236万7,518tを振り向けた。1971年4月、鳥形山鉱業所が開設される。高度成長で各産業の生産設備が大型化し、石灰石とドロマイトの需要が急激に拡大した時期である。

  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発決定までの事情」
    • [82]鳥形山の開発計画は昭和42年12月に決定し、生産開始は昭和46年度より、第1期計画は第1年次320万t、第2年次480万t、第3年次以降520万t
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「石類倍増生産の構想と君津製鉄所向けの社内応援送鉱」
    • [83]昭和44年3月から本格的開発工事を開始し、46年出鉱を目標にわずか2年間という短期間に工期をしぼったのは、ひたすら君津製鉄所の稼働状況に合わせてタイムリミットを設けたためであった
    • [84]君津製鉄所は昭和46年9月に予定される第3高炉の火入れによって一挙に年産1,000万t体制にスケールアップすることとなっていた
    • [85]鳥形山完成までの間、君津製鉄所向け石灰石を津久見・尻屋の2山からの応援送鉱でカバーし、昭和43年度から47年度までの合計は2,367,518t
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [86]1971年4月、鳥形山鉱業所を開設
  • 資源処理技術 1989年「特別講演 日本の石灰石および砕石の現状と将来」(菊池登・佐藤敏人)
    • [87]昭和40年代に日本経済の高度成長期に入り、各産業共生産設備の大型化が積極的に推進され、旺盛な需要に応えて石灰石、ドロマイトとも需要が急激に拡大した
銅を掘るだけでなく製錬まで持つ

1968年11月1日、日鉄鉱業は三井金属鉱業との共同出資で日比共同製錬を設立した。1971年10月1日に古河鉱業が加わり、翌1972年1月22日に玉野製錬所が操業を開始した。操業開始当初の生産能力は電気銅84,000t/年だった。銅精鉱を売る側から、製錬して地金にする側へ参入した。銅鉱石の売上構成比は1955年3月期の5.5%から1970年3月期の20.4%へ上がり、鉄鉱石10.3%を超えた。釜石鉱山は低品位の鉄が主体で、鉄鉱石のみでは大幅赤字が避けられなかった。オイルショック後の1974年に赤字へ転落するまで収益を保てたのは、鉄と銅の2本の柱があったからである。1955年3月期に90億円だった売上高は、1978年3月期には576億円になっている。掘る鉱種を入れ替えることで、製鉄原料の供給者という立場は変えずに済ませたのだろう。

  • 資源と素材 1993年「玉野製錬所における銅製錬(日比共同製錬(株))」(佐々木健次)
    • [88]日比共同製錬(株)は昭和43年11月1日、三井金属鉱業(株)と日鉄鉱業(株)の共同出資により設立
    • [89]昭和46年10月1日に古河鉱業(株)が参加し、昭和47年1月22日に玉野製錬所の操業を開始
    • [90]操業開始当初の生産能力は電気銅84,000t/年、粗銅101,000t/年、硫酸285,000t/年
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [91]銅鉱石の売上構成比は1955年3月期5.5%、1970年3月期20.4%(同期の鉄鉱石は10.3%)
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「閉山提案とその実施」
    • [92]釜石鉱山は低品位でしかも坑内採掘のうえ選鉱を要するため、鉄鉱石のみの生産では大幅赤字が避けられなかった
    • [93]オイルショック後の昭和49年に赤字に転落するまで収益を維持し得たのは、銅鉱床の開発により鉄と銅という二本の柱があってこそだった
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [94]1978年3月期の売上高576億円、経常利益8億円(単体)
参考文献[76]-[94]
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「石類倍増生産の構想と君津製鉄所向けの社内応援送鉱」
    • [76]昭和43年1月の所長会議の冒頭において、小林社長は有明炭鉱開発の中断経緯に詳しく触れたのち今後の方向を述べた
    • [77]鉄鉱石・硫化鉱・硫黄についても大きな需要の伸びがなく、石炭も具合が悪い現状で、将来伸ばしていくのは石灰石、砕石以外にないと小林社長が述べた
    • [78]石類は年産約1,000万屯を採掘しており、できるならこれを2,000万屯に持っていきたいと小林社長が述べた
    • [79]具体的には高知の鳥形山に鉱区を取得し、津久見の増産や砕石を加える
    • [80]日鉄鉱業は10年以上、年に6億〜8億円程度を使って毎年非鉄金属の探鉱をしてきたが、生い立ちが製鉄原料の鉱山会社だったため他の非鉄金属会社に比べて有望な鉱区をもっておらず、ないところをいくら探しても見つからないのではないかと小林社長は述べた
    • [83]昭和44年3月から本格的開発工事を開始し、46年出鉱を目標にわずか2年間という短期間に工期をしぼったのは、ひたすら君津製鉄所の稼働状況に合わせてタイムリミットを設けたためであった
    • [84]君津製鉄所は昭和46年9月に予定される第3高炉の火入れによって一挙に年産1,000万t体制にスケールアップすることとなっていた
    • [85]鳥形山完成までの間、君津製鉄所向け石灰石を津久見・尻屋の2山からの応援送鉱でカバーし、昭和43年度から47年度までの合計は2,367,518t
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [81]石灰石の売上構成比は1955年3月期4.5%、1962年3月期11.9%、1966年3月期16.1%、1970年3月期20.3%
    • [91]銅鉱石の売上構成比は1955年3月期5.5%、1970年3月期20.4%(同期の鉄鉱石は10.3%)
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発決定までの事情」
    • [82]鳥形山の開発計画は昭和42年12月に決定し、生産開始は昭和46年度より、第1期計画は第1年次320万t、第2年次480万t、第3年次以降520万t
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
    • [86]1971年4月、鳥形山鉱業所を開設
  • 資源処理技術 1989年「特別講演 日本の石灰石および砕石の現状と将来」(菊池登・佐藤敏人)
    • [87]昭和40年代に日本経済の高度成長期に入り、各産業共生産設備の大型化が積極的に推進され、旺盛な需要に応えて石灰石、ドロマイトとも需要が急激に拡大した
  • 資源と素材 1993年「玉野製錬所における銅製錬(日比共同製錬(株))」(佐々木健次)
    • [88]日比共同製錬(株)は昭和43年11月1日、三井金属鉱業(株)と日鉄鉱業(株)の共同出資により設立
    • [89]昭和46年10月1日に古河鉱業(株)が参加し、昭和47年1月22日に玉野製錬所の操業を開始
    • [90]操業開始当初の生産能力は電気銅84,000t/年、粗銅101,000t/年、硫酸285,000t/年
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「閉山提案とその実施」
    • [92]釜石鉱山は低品位でしかも坑内採掘のうえ選鉱を要するため、鉄鉱石のみの生産では大幅赤字が避けられなかった
    • [93]オイルショック後の昭和49年に赤字に転落するまで収益を維持し得たのは、銅鉱床の開発により鉄と銅という二本の柱があってこそだった
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [94]1978年3月期の売上高576億円、経常利益8億円(単体)

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出典・参考 25件
出典・参考
  • 日鉄鉱業 有価証券報告書【沿革】
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「會社のあゆみ」
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「各事業所の變遷の槪要」
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立以來現在に至る役員氏名及びその任期」
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「創立十周年に際して」
  • 日鉄鉱業株式会社創立拾年史(日鉄鉱業、1949年)「事業の推移」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「エネルギー革命下の各炭鉱と二瀬・北松の閉山」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「幸袋工作所の経営」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発基本計画の概要(第1次基本計画)」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「人工島の築造とその拡張」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発工事一時中断の決定」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「嘉穂の斉々たる閉山」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「伊王島・柚木も閉山」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「石類倍増生産の構想と君津製鉄所向けの社内応援送鉱」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「開発決定までの事情」
  • 四十年史(日鉄鉱業、1979年)「閉山提案とその実施」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 32_鉱業「日鉄鉱業」
  • 上場会社総覧(1956年版)
  • 会社年鑑(1971年版)
  • 会社年鑑(1986年版)
  • 証券 1954年
  • 九州鉱山学会誌 1966年「日鉄鉱業有明炭鉱見学記」(陣内和彦)
  • 資源処理技術 1989年「特別講演 日本の石灰石および砕石の現状と将来」(菊池登・佐藤敏人)
  • 資源と素材 1993年「玉野製錬所における銅製錬(日比共同製錬(株))」(佐々木健次)
  • 資源エネルギー庁「【日本のエネルギー、150年の歴史③】エネルギー革命の時代。主役は石炭から石油へ交代し、原子力発電やLPガスも」

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