1899年に官営八幡製鉄所の石炭を掘るため設置された農商務省八幡製鉄所二瀬出張所が起源。
1939年に日本製鐵の鉱山部門が分離して設立され、2003年にはチリのアタカマ銅鉱山で操業を始めた。石灰石と銅を主力とする資源会社で、石灰石は鉄鋼とセメントの需要家へ納め、銅は電気銅として販売する。
日鉄鉱業は1939年5月20日、石炭・鉄鉱石・石灰石など製鉄用原料の総合開発と資源確保を目的に、資本金5,000万円で設立された。もとをたどれば、1934年2月に官営八幡製鉄所と民間の主要製鉄所を中心として日本製鐵が発足した際、政府は炭鉱その他の資源関係もあわせて出資したのに対し、民間側は評価などの都合で工場だけを出資し、鉱山関係を保留していた。5年を経て各社鉱山の評価がおおむね済むと、日本製鐵は工場を中心とする製鉄業と石炭・鉄鉱石の採掘部門を分け、別個の経営体とするのが適当だと決めた。二瀬炭鉱ほかを現物出資の主体とし、釜石・倶知安・价川などの鉱山を買収して、全株を日本製鐵が所有する新会社へ一元経営を移した。
事業の源流は1899年12月1日にさかのぼり、官営八幡製鉄所のコークス用と一般燃料用の石炭を採掘して供給するため、農商務省告示第98号によって農商務省八幡製鉄所二瀬出張所が二瀬町に置かれ、稼行が始まった。1910年には事務所を穂波村へ移し、同年3月に旧海軍省の予備炭田だった稲築鉱区の所管も受けている。1934年2月1日の日本製鐵設立でこの炭鉱は同社の所管となり、1939年の日鉄鉱業創立とともに一切が引き継がれた。日本製鐵が全株を持つ会社として生まれたため、生産品のほとんどは日本製鐵へ供給され、民間事業の保護や援助の面でも国策会社の性格を強く与えられた。
創立と同時に、日本製鐵二瀬鉱業所の最後の所長だった吉田健三郎が常務取締役へ、室木隆三郎が日鉄鉱業二瀬鉱業所の初代所長へ就任した。取締役に名を連ねた平生釟三郎は、1941年1月14日以降、代表取締役社長に選任されている。発足直後の6月1日、釜石鉱山株式会社から釜石鉱山とその付属設備を、輪西鉱山株式会社から倶知安を引き継いだ。11月には定款を変更して地方鉄道法による運輸業を目的に加え、釜石鉱山鉄道の譲渡を受けて経営にあたり、12月には静鉱業株式会社から長崎県内の鉱区を買収した。この鉱区がのちの神田鉱である。
1939年12月6日、三菱鉱業が持っていた朝鮮の茂山鉱山を鉄鋼国策の見地から共同経営へ移すため、三菱鉱業・日本製鐵との三者共同出資で茂山鉄鉱開発株式会社を設立した。翌1940年は石灰石の確保に重点を置き、2月に明治鉱業から船尾石灰石山・鼠ケ池石灰石山・津久見石灰石を買収したのを手はじめに、様似石灰石山や尻労石灰石山を買い集めている。大陸では昌平・莱蕪・弧山・武安の各炭鉱と鉱山を開発して北支那採鉱株式会社を立て、北支那製鉄株式会社の原料部門を担った。海南島・セレベス・マライ・フィリッピンの資源開発にも及び、事業所は朝鮮・満州・華北・南方に広がって、1942年には資本金が1億5,000万円となった。
増産の要請は内地資源を急速にすり減らした。鋼材生産高は1938年の4,870千瓲を頂点として1943年まで4,000千瓲台を保ったが、原材料の輸入が窮屈になるにつれ増産の要請は激しくなった。1939年から1945年までに掘り出した鉄鉱石は、釜石4,560千瓲、倶知安3,040千瓲、赤谷397千瓲、徳舜瞥675千瓲、庭坂174千瓲など合計9,229千瓲にのぼる。石炭は二瀬と北松で採掘し、二瀬鉱業所の出炭は1941年度の1,207,504瓲が最高だった。経済性を度外視した強行生産のもとで、二瀬炭鉱は乱掘に陥っている。
外地の各作業所が正式に廃止されたのは、終戦で在外資産をすべて失ったためである。外地鉱業所を失ったうえ復員者も戻り、人員は過剰になった。1945年末までに整理を三次にわたって行い、退職者は1,460名に上った。年が明けた1946年3月には制限会社令による指定を受け、新しい資源を押さえることも経済活動も、厳しい規制の下に置かれた。同じ年に政府が戦時中の国家補償を全面的に打ち切る方針を示したため、1946年末の資産総額476,000千円のうち、在外資産や損失金などいわゆる擬制資本が約228,000千円を占めた。会社経理応急措置法と会社再建整備法に基づき、新旧勘定の分離と擬制資本の切り捨てによる再建計画に着手した。
終戦から1946年末までは、石炭の供給不足が決定的な要因となって製鉄業が未曾有の減産に陥った。普通圧延鋼材の生産は1945年に40万瓲、1946年には32万瓲まで落ち、鉄鉱石と石灰石・硅石など副原料の需要も激減した。石炭と違って国家の援助はなく、1947年4月から2か月にわたって釜石鉱山は慢性的な怠業に陥り、月24千瓲の生産計画に対して4月の実績は3,154瓲、5月は4,245瓲にとどまった。6月に怠業は終わり、7月10日には鉱石価格が260円から460円へ、翌1948年6月23日には949円へ引き上げられ、鉄鉱石部門は立ち直った。
石炭と鉄鉱石に加えて石灰石とドロマイトを掘るため、日鉄鉱業は1943年2月に東鹿越採石所を開設し、1950年は8月に井倉採石所、10月に津久見採石所、12月に船尾採石所を続けて開設した。1951年10月には羽鶴鉱業所を開設し、翌11月に関東証券の経営へ参画している。鉄鉱では1951年以降、北海道鉱業所で白老・赤沼・本竜の各鉱山を開き、虻田地区の硫化鉱の開発にも入った。石炭では北松鉱業所の神田鉱・御橋鉱に重液選炭設備を広げ、二瀬潤野鉱にバウム水洗機を据えて、中央鉱の運搬合理化工事を仕上げた。
1954年3月3日、日鉄鉱業は東京証券取引所へ新規上場した。上場時の資本金は2億4,800万円、上場株式数は4,960千株で、大株主には八幡製鉄621,000株、富士製鉄579,000株、関東証券493,564株が並ぶ。事業場は二瀬・北松の石炭、釜石・北海道・赤谷の鉄と石灰石、井倉・畑・津久見・船尾・葛生の珪石とドロマイトの10鉱業所と大阪・八幡・福岡・有明の4事務所からなり、従業員は12,000名を数えた。生産比率は石炭59%、鉄鉱石35%、石灰石4%、その他2%で、そのほとんどを富士製鉄と八幡製鉄の2社へ納めた。1953年4月から9月の鉄鉱石生産は全国802,460瓲に対し日鉄鉱業が351,980瓲を占め、全国比は43.6%に達した。
日鉄鉱業が1970年代に生き延びたのは、掘る場所を変えたからではなく、掘る鉱種を入れ替えたからである。1955年3月期に売上の65.0%を占めた石炭は、製鉄所へ原料を納めるという創立以来の役割そのものだった。その石炭が重油に置き換えられたとき、会社に残された道は二つしかない。石炭で粘るか、同じ製鉄所に別のものを納めるか。有明炭鉱に投じた100億円は前者の答えであり、15年をかけて海底炭田に竪坑を打ち続けた末、出水と工費の膨張を前に1967年12月に中断された。この失敗の重さが、後者を選ぶ理由を会社の内側に作った。
1968年1月、小林社長が所長会議で示した方針は、探鉱の的を絞り直すというものだった。非鉄金属に年6億〜8億円を投じても有望な鉱区は出ない、製鉄原料の鉱山会社という生い立ちがそもそも当たりを引きにくくしている、という自己診断である。代わりに選ばれた石灰石と砕石は、鉄鋼の増産がそのまま需要になる鉱種だった。鳥形山の工期を2年に絞った理由が君津製鉄所の第3高炉の火入れに間に合わせることだったのは、この会社が誰に向かって商売しているかを何より正確に示している。納める相手は変えず、納めるものだけを石炭から石灰石と銅へ替えた。
1955年3月期の売上構成比は石炭65.0%、鉄鉱石21.4%、銅鉱石5.5%、石灰石4.5%、ドロマイト3.1%で、収益の3分の2を石炭が担っていた。掘った原料のほとんどは日本製鐵を分割した八幡製鉄と富士製鉄へ納めており、製鉄用原料の供給に特化した体制は創立時のまま残っていた。石炭が売れるかぎり安定を約束する体制だが、燃料の主役が代われば逃げ場がない。1961年7月に原油輸入の自由化方針が決定されて以来、石炭は重油攻勢にほとんどなす術が見出せなかった。1962年には原油の輸入が自由化され、この年、日本のエネルギー供給は初めて石油が石炭を抜いた。1963年度までに炭価を1,200円引き下げる合理化計画も、重油価格の大幅な低下には追いつかなかった。
政府は1962年5月に石炭鉱業調査団を特命編成し、11月、目標年次1967年度の生産規模5,500万t、閉山年産規模累計約1,200万tという合理化を目指す石炭対策大綱を決定した。これが第1次石炭対策だが、結局は閉山促進の効果しかもたらさなかった。日鉄鉱業では1961年3月に北松の神田鉱、10月に小佐々坑と二瀬の潤野鉱が閉山し、8月までに希望退職者を含む266名が退職している。1962年12月には炭量の蓄減を考慮して中央鉱と高雄2坑の直営稼行を廃止し、1963年1月15日、二瀬鉱業所を廃止した。1899年12月に官営製鉄所二瀬出張所として発足してから64年、総出炭量は4,500万3,000tに達していた。石炭の売上構成比は1960年3月期の60.2%から1962年3月期には49.2%へ低下した。
1956年5月、日鉄鉱業は炭鉱機械メーカーであった幸袋工作所へ資本参加し、機械事業へ進出した。幸袋工作所は明治20年代から炭鉱機械を製造してきた会社で、経営への参画は同社の要請によるものだった。ただし石炭が縮めば炭鉱機械も縮む。1959年には主力製品を製鉄用機械、とくにコークス炉の炉回り機械とライン装置機械へ移し、八幡製鉄所からの幹部派遣も求めて受注の拡大を図った。1963年5月には再度の要請を受けて全面的に経営を引き受けている。売上額は1960年代半ばに年間30億円前後まで伸び、その80〜90%を圧延関係を含む製鉄用機械が占めた。掘る会社が作る会社を抱えたのは、石炭という鉱種ではなく製鉄という取引先に軸足を残す選び方だったのだろう。
有明炭鉱の探査は1952年4月に始まり、5年で相当量の石炭埋蔵量を確認した。炭層はほぼ水平で理論可採埋蔵炭量は約4億t、炭質は硫黄分のきわめて少ない粘結性の瀝青炭で、原料炭として最適とみられていた。ただし鉱区は全部が海底にあり、軟弱な第四紀層が厚く積もっているため、陸上の炭鉱と同じ開発はできない。海を埋め立てて陸地を造り、竪坑を掘って坑底から沖へ坑道を延ばす方式を採っている。基礎的な開発費が多額になるため、最初から年産200万t計画という規模で設計された。人工島は1958年10月に着手し、予定より7か月早く1960年3月に竣工して、工事費は約4億2,000万円を要した。埋立はその後も拡張され、総造成面積は約72万7,000m2、所要費用は約15億8,000万円に達した。
1965年11月の時点でも、第1立坑は367m、第2立坑は309mまでしか掘り進めていなかった。井筒が岩盤に達してから出水が工事を阻み、坑底から50〜60mの長孔をさく岩して薬液で止水し、そのうえで掘るという手順を重ねていた。見学した技術者は、200万t出炭時に毎分30〜40tの排水が要るとすれば、ポンプの電力費だけで少なくとも年1億円に上ると見積もった。1966年9月、現地から従来の計画では到底行けないという見方が上がった。毎分35m3で想定していた出水を場合によっては80m3で見込まねばならず、1972年に120万t出炭・総工費180億円としていた計画は、出炭が1975年から1976年へずれ、総工費は100億円程度増えるという見通しに変わった。
1967年12月2日の役員会で、有明開発工事の一時中断の方針が決まった。着手から15年余、投下した資金は100億円近くに達し、全社従業員の明日の希望と目されていた事業である。中断の理由は、石炭の現況が既に私企業の限界にきていて将来の見通しが全然たたないこと、そして坑内の状況が予想したより悪く、工期も延び金もかかることの二つだった。残る炭鉱も続かなかった。1970年3月10日、嘉穂炭鉱が累積赤字8億円のなかで閉山する。伊王島では労務者の充足難が続き、第4区の炭量も確保できず、社内各部門の収益による赤字補填も限度に達した。1972年3月、伊王島と柚木は同時に閉山し、同年6月、日鉄鉱業は石炭生産部門から撤退した。1899年の二瀬出張所から数えて73年続いた祖業が、ここで終わっている。
1968年1月の所長会議で、小林社長は有明開発の中断経緯に触れたのち、今後の方向を示した。鉄鉱石・硫化鉱・硫黄にも大きな需要の伸びがなく、石炭も具合が悪い以上、将来伸ばしていけるのは石灰石と砕石以外にないという判断である。石類は年産約1,000万tを採掘しており、これを2,000万tへ引き上げる。高知の鳥形山に鉱区を取得し、津久見の増産と砕石を加える筋書きだった。日鉄鉱業は10年以上、年6億〜8億円を投じて非鉄金属の探鉱を続けていたが、生い立ちが製鉄原料の鉱山会社であるため有望な鉱区を持たず、無いところを探しても見つからないのではないかという疑いが社長にはあった。石灰石の売上構成比は1955年3月期の4.5%から1966年3月期に16.1%、1970年3月期には20.3%へ上がった。
鳥形山の開発は1967年12月に決定し、生産開始を1971年度、第1期計画を第1年次320万t、第3年次以降520万tと定めた。1969年3月に本格的な開発工事へ入り、工期をわずか2年に絞ったのは、君津製鉄所の稼働に合わせてタイムリミットを設けたためである。同製鉄所は1971年9月に予定された第3高炉の火入れで、一挙に年産1,000万t体制へ上がることになっていた。所要石灰石の全量供給を引き受けていた以上、遅れは許されない。完成までは津久見と尻屋の2山から応援送鉱を行い、1968年度から1972年度までに合計236万7,518tを振り向けた。1971年4月、鳥形山鉱業所が開設される。高度成長で各産業の生産設備が大型化し、石灰石とドロマイトの需要が急激に拡大した時期である。
1968年11月1日、日鉄鉱業は三井金属鉱業との共同出資で日比共同製錬を設立した。1971年10月1日に古河鉱業が加わり、翌1972年1月22日に玉野製錬所が操業を開始した。操業開始当初の生産能力は電気銅84,000t/年だった。銅精鉱を売る側から、製錬して地金にする側へ参入した。銅鉱石の売上構成比は1955年3月期の5.5%から1970年3月期の20.4%へ上がり、鉄鉱石10.3%を超えた。釜石鉱山は低品位の鉄が主体で、鉄鉱石のみでは大幅赤字が避けられなかった。オイルショック後の1974年に赤字へ転落するまで収益を保てたのは、鉄と銅の2本の柱があったからである。1955年3月期に90億円だった売上高は、1978年3月期には576億円になっている。掘る鉱種を入れ替えることで、製鉄原料の供給者という立場は変えずに済ませたのだろう。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/1515/company.json https://the-shashi.com/api/1515/history.json https://the-shashi.com/api/1515/ceo.json https://the-shashi.com/api/1515/financials.json https://the-shashi.com/api/1515/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/1515/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/1515/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/1515/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/1515/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/1515/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/1515/financials.csv https://the-shashi.com/api/1515/financials_history.csv 免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日鉄鉱業)