1907年〜 渋沢栄一の後押しと武甲山の石灰石を頼りに始まった諸井恒平の起業
- 1922年 渋沢栄一氏らによる工場予定地の視察と起業の決定
- 1923年 臨海立地の定型を破り、武甲山の麓に建てた内陸のセメント工場 東京は消費地1位なのに生産は1割5分7厘——運賃1円の差を取りにいった1923年の創業
- 1923年 関東大震災による本社事務所の焼失と設計図面の大半の喪失
- 1925年 従業員の生活と修養の場としての有恒園の発足
- 1925年 製品の初出荷、8月3日を営業開始記念日に制定
- 1925年 わが国のセメント容器として初の紙袋使用
- 1926年 第7期に創業以来初の株主配当(年1割)
煉瓦から始まった実業家が石灰石に向かうまで
創業者の諸井恒平氏は1862年5月26日、諸井泉右衛門の次男として埼玉県本庄町[1]に生まれた。諸井家は繭と蚕糸を商う旧家だったが、父の代に4度の火災に遭い[2]、15歳で父を失った[3]恒平氏が傾いた家業を継いだ。母の佐久は渋沢栄一氏の従姉弟[4]にあたり、22歳年上の渋沢氏は恒平氏を早くから引き立てた。恒平氏が実業界に入ったのは26歳のとき、1887年秋に設立された日本煉瓦製造へ書記として入社した[5]ときである。同社は官庁街を欧米風の建築で整えるという政府の要請を受け、渋沢氏と益田孝氏ら財界人が設立した[6]ものだった。恒平氏は書記から支配人、取締役、専務、会長を歴任[7]し、建設基礎資材の製造を生涯の足場とした。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)三代社長小伝 初代社長諸井恒平
- [1]諸井恒平は1862年(文久2年)5月26日、諸井泉右衛門の次男として埼玉県本庄町に生まれた
- [2]諸井家は祖父の代から繭と蚕糸の商売に転じた旧家で、父の代に4度の火災に遭い家運が傾いた
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第3節 起業の背景
- [3]諸井恒平は15歳で父を失い、過重な負債と家業の責任を負って家運の挽回に当たった
- [4]諸井恒平の母佐久は渋沢栄一とは従姉弟の関係にあり、渋沢は恒平より22歳年上だった
- [5]諸井恒平が実業界に入ったのは26歳のときで、1887年秋に設立された日本煉瓦製造に書記として入社した
- [6]日本煉瓦製造は官庁街の欧米風建築を進める政府の強い要請に基づき、渋沢栄一・益田孝ら財界有力者によって設立された
- [7]諸井恒平は日本煉瓦製造で書記から順次支配人・取締役・専務・会長を歴任した
セメントへ向かう最初の示唆は1907年9月[8]に与えられた。欧米から帰朝した東京帝国大学教授の本多静六氏を主賓として渋沢栄一氏が王子の自邸で晩餐会を催し、席上で本多氏は水力発電とセメントの両事業が埼玉振興の双璧である[9]と断定した。本多氏は欧米ではすでに赤煉瓦の時代が去って鉄筋コンクリートの時代を迎え、徳利窯も効率の高い回転窯に替わっている[10]と述べ、秩父地方に武甲山の石灰石と良質の粘土が賦存する[11]点を指摘した。当時は煉瓦の需要が旺盛で日本煉瓦製造も好況にあり[12]、諸井恒平氏はただちに動かなかった。秩父の交通が整うのを待つ必要もあった。1899年に創立された上武鉄道が秩父まで通じたのは1914年[13]、全線電化は1922年初[14]のことである。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第3節 起業の背景
- [8]1907年9月、欧米遊学から帰朝した東京帝国大学教授の本多静六を主賓に、渋沢栄一が王子の自邸で晩餐会を催した
- [9]本多静六は席上で水力発電とセメントの両事業が埼玉振興の双璧であると断定した
- [10]本多静六は欧米ではすでに赤煉瓦時代が去って鉄筋コンクリート時代を迎え、徳利窯時代も去って効率の高い回転窯時代に入ったと述べた
- [11]本多静六は秩父地方に武甲山の石灰石をはじめ良質の粘土が付近の台地一面に賦存することを指摘した
- [12]そのころ赤煉瓦の需要が旺盛で日本煉瓦社も好況の波に乗っており、諸井恒平は直ちに具現化するほどの心境にならなかった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第2節 秩父地方の素描
- [13]上武鉄道(後の秩父鉄道)は1899年に創立され、1914年10月に秩父(当時の大宮町)まで開通した
- [14]秩父鉄道は1922年初に全国私鉄に先がけて全線の電化を完成した
起業構想が最初に形をとったのは1919年2月の武蔵電化の設立[15]である。武蔵水電と秩父鉄道を主要出資者とし、影森村に工場を置いて武甲山の石灰石から炭酸カルシウムや石灰窒素を生産する計画[16]だったが、具現化しないまま1920年12月に解散した[17]。構想は次に製材業との併営へ、さらにセメント製造の専営へと転じ[18]、最後は日本煉瓦製造を母体とする日本煉瓦セメントの設立に変わった。1920年3月30日には設立が本決まりとなり[19]定款も発起人も決まっていたが、同年4月17日の創立委員会で財界の混乱を理由に見合わせ[20]となった。それでも諸井恒平氏の決意は固まり、以後2年半にわたって原石山の調査、機械設備の選定、原価計算、需要分布の検討[21]が続けられた。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第4節 起業の胎動
- [15]武蔵電化は1919年2月、武蔵水電と秩父鉄道を主要出資者として設立された
- [16]武蔵電化は秩父郡影森村に工場を設け、武甲山の石灰石を原料として炭酸カルシウム・石灰窒素などを生産する計画だった
- [17]武蔵電化は1920年12月に解散した
- [18]起業構想は武甲山の石灰石利用によるセメント製造業と奥秩父森林資源開発による製材業の併営に一転し、再転してセメント製造業の専営に変わり、さらに日本煉瓦社を母体とする日本煉瓦セメントの設立に変わった
- [19]1920年3月30日に日本煉瓦セメントの設立が本決まりとなり、定款・株式・発起人等の検討を終えた
- [20]1920年4月17日の日本煉瓦セメント創立委員会で、当時の財界事情の混乱を理由に会社設立が一時見合わせとなった
- [21]会社設立の見合わせ後、原石山や工場予定地の現地調査、機械設備、原価計算、需要分布の見通しなど基礎的調査が活発に進められた
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)三代社長小伝 初代社長諸井恒平
- [1]諸井恒平は1862年(文久2年)5月26日、諸井泉右衛門の次男として埼玉県本庄町に生まれた
- [2]諸井家は祖父の代から繭と蚕糸の商売に転じた旧家で、父の代に4度の火災に遭い家運が傾いた
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第3節 起業の背景
- [3]諸井恒平は15歳で父を失い、過重な負債と家業の責任を負って家運の挽回に当たった
- [4]諸井恒平の母佐久は渋沢栄一とは従姉弟の関係にあり、渋沢は恒平より22歳年上だった
- [5]諸井恒平が実業界に入ったのは26歳のときで、1887年秋に設立された日本煉瓦製造に書記として入社した
- [6]日本煉瓦製造は官庁街の欧米風建築を進める政府の強い要請に基づき、渋沢栄一・益田孝ら財界有力者によって設立された
- [7]諸井恒平は日本煉瓦製造で書記から順次支配人・取締役・専務・会長を歴任した
- [8]1907年9月、欧米遊学から帰朝した東京帝国大学教授の本多静六を主賓に、渋沢栄一が王子の自邸で晩餐会を催した
- [9]本多静六は席上で水力発電とセメントの両事業が埼玉振興の双璧であると断定した
- [10]本多静六は欧米ではすでに赤煉瓦時代が去って鉄筋コンクリート時代を迎え、徳利窯時代も去って効率の高い回転窯時代に入ったと述べた
- [11]本多静六は秩父地方に武甲山の石灰石をはじめ良質の粘土が付近の台地一面に賦存することを指摘した
- [12]そのころ赤煉瓦の需要が旺盛で日本煉瓦社も好況の波に乗っており、諸井恒平は直ちに具現化するほどの心境にならなかった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第2節 秩父地方の素描
- [13]上武鉄道(後の秩父鉄道)は1899年に創立され、1914年10月に秩父(当時の大宮町)まで開通した
- [14]秩父鉄道は1922年初に全国私鉄に先がけて全線の電化を完成した
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第4節 起業の胎動
- [15]武蔵電化は1919年2月、武蔵水電と秩父鉄道を主要出資者として設立された
- [16]武蔵電化は秩父郡影森村に工場を設け、武甲山の石灰石を原料として炭酸カルシウム・石灰窒素などを生産する計画だった
- [17]武蔵電化は1920年12月に解散した
- [18]起業構想は武甲山の石灰石利用によるセメント製造業と奥秩父森林資源開発による製材業の併営に一転し、再転してセメント製造業の専営に変わり、さらに日本煉瓦社を母体とする日本煉瓦セメントの設立に変わった
- [19]1920年3月30日に日本煉瓦セメントの設立が本決まりとなり、定款・株式・発起人等の検討を終えた
- [20]1920年4月17日の日本煉瓦セメント創立委員会で、当時の財界事情の混乱を理由に会社設立が一時見合わせとなった
- [21]会社設立の見合わせ後、原石山や工場予定地の現地調査、機械設備、原価計算、需要分布の見通しなど基礎的調査が活発に進められた
後発参入を決めた1922年8月3日の現地視察
起業の可否は1922年8月3日[22]に決した。この日、83歳の渋沢栄一氏をはじめ和田豊治氏、小倉常吉氏[23]らが上野から汽車と人力車を乗り継いで工場予定地に立ち、桑畑に覆われた敷地と粘土山の麓を視察した。諸井恒平氏は後年、会社が生まれたのは1923年1月30日だが「懐姙致しましたのが11年の8月3日」(庶務課彙報 1939/8/15)[24]と述べている。翌月14日には首唱者会議と呼ばれる第1回会合[25]が開かれ、大橋新太郎氏、根津嘉一郎氏ら12人[26]が集まった。10月3日の第2回会合では発起人と賛成人が40余人に達し[27]、社名は「東京セメント」と「秩父セメント」の両案から後者が採られた[28]。公称資本金は500万円と決まり、当面は半額程度の払込みにとどめて残りは借入金で賄う[29]こととした。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第4節 起業の胎動
- [22]1922年8月3日、会社設立首脳者による工場予定地の現地視察が行われた
- [23]現地視察には当時83歳の渋沢栄一のほか、和田豊治・小倉常吉ら財界有力者が加わった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第1節 総観(庶務課彙報 1939年8月15日)
- [24]諸井恒平は営業開始記念日の挨拶で、会社が生まれたのは1923年1月30日で懐姙したのが1922年8月3日にあたると述べた
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立
- [25]会社設立準備会の第1回会合は1922年9月14日に開かれ、首唱者会議と呼ばれた
- [26]第1回会合の出席者は大橋新太郎・大倉喜七郎・小倉常吉・和田豊治・根津嘉一郎ら12人だった
- [27]1922年10月3日の第2回会合の時点で発起人賛成人は財界有力者を含めて40余人に達していた
- [28]社名については「東京セメント」と「秩父セメント」の両案が提出され、審議の結果後者が採られた
- [29]公称資本金は将来を考慮して500万円とし、当面は半額程度の払込みにとどめ他は借入金によることとした
後発として参入する以上、勝算は数字で説明されなければならなかった。第1回会合で諸井恒平氏が示した計画書によれば、当時の全国生産1,000万樽のうち九州方面が4割5分を占める[30]のに対し、第1位の消費地である東京はわずか1割5分7厘にすぎず[31]、不足分を九州や大阪から移入するため運賃が1樽1円以上かかり、東京の相場は他地方より常に1円高かった[32]。武甲山の石灰石は品質に定評があり、山麓には全国無比とされる粘土山が連なる[33]。原料山に近接して鉄道本線沿いに工場を建てられるため、生産費は1樽3円7〜80銭と全国最低の4円を下回り[34]、年産70万樽の建設費は250万円、1樽あたり3円5〜60銭で既設会社の平均6〜7円の半額[35]で済む。この見積りが出資者を動かした。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立(首唱者会議議事録 1922年9月)
- [30]大正11年当時のセメント年産額は1,000万樽で、生産分布は九州方面が全産額の4割5分を占めた
- [31]東京は第1位の消費地でありながら生産は1割5分7厘にとどまり、東北を加えても2割に達しなかった
- [32]九州・大阪方面からの移入には1樽1円以上の運賃を要し、東京は他地方に比べて常に1円の高値を保っていた
- [33]秩父武甲山の石灰石は豊富かつ優良と定評があり、山麓に連なる粘土山も化学的試験により全国無比の良質と確かめられていた
- [34]生産費は1樽3円7〜80銭で足り、当時全国最低とみられた4円以下で生産できると見積もられた
- [35]年額70万樽を生産する建設費は250万円、1樽あたり3円5〜60銭で、既設会社の平均6〜7円の約半額と見積もられた
創立総会は1923年1月30日、東京市麹町区永楽町の日本工業倶楽部[36]で開かれた。株式引受人は100人、総株数10万株、資本金500万円に対し払込資本金は125万円[37]だった。社長には諸井恒平氏、常務取締役には大友幸助氏[38]が就いた。大友氏は東京帝国大学理科大学化学科を卒業して東京高等工業学校教授を務めたのち東京毛織物に移り、1922年12月に同社取締役[39]となっていた技術者である。相談役の和田豊治氏は富士瓦斯紡績社長として繊維業界の重鎮[40]であり、大正9年の起業企画以来つねに主導的な立場にあった。設立から半年後の1923年9月1日、関東大震災が本社事務所を襲う[41]。日本橋区の日本煉瓦製造3階に置かれた事務所は夕刻には火が入り、半年をかけた設計図面のほとんどが灰になった[42]。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立
- [36]秩父セメントの創立総会は1923年1月30日午前10時30分から東京市麹町区永楽町の日本工業倶楽部で開催された
- [37]株式引受人総数100人・総株数10万株・資本金500万円・払込資本金125万円で発足した
- [38]創立総会で取締役社長に諸井恒平、常務取締役に大友幸助が選任された
- [40]相談役の和田豊治は富士瓦斯紡績社長として明治・大正期の繊維業界の重鎮であり、1920年のセメント起業企画以来主導的立場にあった
- [41]1923年9月1日の関東大震災により日本橋区三代町の日本煉瓦製造3階に置かれた本社事務所は火災で焼失した
- [42]設立以来半年余をかけた設計図面は本社事務所の焼失によりほとんどが失われた
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)三代社長小伝 二代社長大友幸助
- [39]大友幸助は1906年7月に東京帝国大学理科大学化学科を卒業し東京高等工業学校教授を経て東京毛織物に入社、1922年12月に同社取締役に就任した
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第4節 起業の胎動
- [22]1922年8月3日、会社設立首脳者による工場予定地の現地視察が行われた
- [23]現地視察には当時83歳の渋沢栄一のほか、和田豊治・小倉常吉ら財界有力者が加わった
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第1節 総観(庶務課彙報 1939年8月15日)
- [24]諸井恒平は営業開始記念日の挨拶で、会社が生まれたのは1923年1月30日で懐姙したのが1922年8月3日にあたると述べた
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立
- [25]会社設立準備会の第1回会合は1922年9月14日に開かれ、首唱者会議と呼ばれた
- [26]第1回会合の出席者は大橋新太郎・大倉喜七郎・小倉常吉・和田豊治・根津嘉一郎ら12人だった
- [27]1922年10月3日の第2回会合の時点で発起人賛成人は財界有力者を含めて40余人に達していた
- [28]社名については「東京セメント」と「秩父セメント」の両案が提出され、審議の結果後者が採られた
- [29]公称資本金は将来を考慮して500万円とし、当面は半額程度の払込みにとどめ他は借入金によることとした
- [36]秩父セメントの創立総会は1923年1月30日午前10時30分から東京市麹町区永楽町の日本工業倶楽部で開催された
- [37]株式引受人総数100人・総株数10万株・資本金500万円・払込資本金125万円で発足した
- [38]創立総会で取締役社長に諸井恒平、常務取締役に大友幸助が選任された
- [40]相談役の和田豊治は富士瓦斯紡績社長として明治・大正期の繊維業界の重鎮であり、1920年のセメント起業企画以来主導的立場にあった
- [41]1923年9月1日の関東大震災により日本橋区三代町の日本煉瓦製造3階に置かれた本社事務所は火災で焼失した
- [42]設立以来半年余をかけた設計図面は本社事務所の焼失によりほとんどが失われた
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立(首唱者会議議事録 1922年9月)
- [30]大正11年当時のセメント年産額は1,000万樽で、生産分布は九州方面が全産額の4割5分を占めた
- [31]東京は第1位の消費地でありながら生産は1割5分7厘にとどまり、東北を加えても2割に達しなかった
- [32]九州・大阪方面からの移入には1樽1円以上の運賃を要し、東京は他地方に比べて常に1円の高値を保っていた
- [33]秩父武甲山の石灰石は豊富かつ優良と定評があり、山麓に連なる粘土山も化学的試験により全国無比の良質と確かめられていた
- [34]生産費は1樽3円7〜80銭で足り、当時全国最低とみられた4円以下で生産できると見積もられた
- [35]年額70万樽を生産する建設費は250万円、1樽あたり3円5〜60銭で、既設会社の平均6〜7円の約半額と見積もられた
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)三代社長小伝 二代社長大友幸助
- [39]大友幸助は1906年7月に東京帝国大学理科大学化学科を卒業し東京高等工業学校教授を経て東京毛織物に入社、1922年12月に同社取締役に就任した
震災を越えて八三記念日にたどり着くまで
工事が頓挫せずに済んだのは、図面の一部を松井清足建築事務所に建築資料として送っていた[43]ためだった。同事務所は第一相互ビルディング4階[44]にあって火災に襲われながら類焼を免れ、図面は無事に残った。本社は日本工業倶楽部へ移り、設計部門は建設現場に近い長瀞の養浩亭[45]に置かれた。当時のセメント工場は海運の便を立地条件に取り入れて臨海部に建てるのが定型[46]であり、関東の奥地とみられていた秩父に大工場を構える構想には、同業から好意的な忠言も悪意的な批判も寄せられた[47]。それでも東京市場とその周辺の潜在需要を見込んだ内陸立地の判断は変えず、地元との用地折衝が妥結した1923年11月[48]を経て、12月5日に地鎮祭が行われた[49]。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立(第2回営業報告書 1923年12月)
- [43]設計図面の一部は建築資料として松井清足建築事務所に送付されており、第一相互ビルディング4階にあった同事務所は火災に襲われながら奇跡的に類焼を免れた
- [44]松井建築事務所は第一相互ビルディング4階の一室にあり、同じく火災に襲われながら奇跡的に類焼を免れて図面が残った
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立
- [45]震災後に本社事務所は麹町区永楽町の日本工業倶楽部へ移り、設計部門だけは工場建設現場に近い長瀞の養浩亭に移された
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第3節 工場建設
- [46]当時のセメント工場は大部分が海運の便を立地条件に取り入れた原料地または臨海地区の工場であり、それが工場立地の定型とみられていた
- [47]関東地方の奥地とみられていた秩父地区に大工場を建設する構想は、同業の間で好意的な忠言あるいは悪意的な批判の対象となった
- [48]地元との用地買収折衝は1923年11月初旬にすべて円満に妥結した
- [49]1923年12月5日に秩父工場の地鎮祭が行われ、以後の建設工事は比較的順調に進んだ
主要機械は予算超過を承知で外国一流製品に統一する方針[50]が採られ、原料・焼成・仕上の3部門はいずれも米国アリス・チャーマーズ社の製品で揃えられた[51]。工場の基本設計は同社から浅野セメントへ嘱託として来日していたバンザント技師[52]が担当し、直線配列法による配置は増設条件まで織り込んだものとして関係者の評価を得た。第1号回転窯が試運転に入ったのは1925年6月18日[53]、製品が初出荷されたのは同年8月3日[54]である。会社の設立を決めた日と同じ日付が選ばれ、以後「八三記念日」として営業開始の記念日[55]になった。月末までの出荷は樽詰と袋詰を合わせて556トン[56]だった。同年11月には輸入紙袋での試験出荷を経て国産紙袋の使用に踏み切り、業界の記録ではこれがわが国のセメント容器としての紙袋使用の嚆矢[57]とされる。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第3節 工場建設
- [50]予算の超過を犠牲にしても主要機械は定評のある外国一流製品をそろえるという基本方針が決定された
- [51]原料・焼成・仕上の3部を通ずる主要機械は米国アリス・チャーマーズ社の製品でそろえられた
- [52]工場の基本設計は数年前から浅野社の嘱託として来日していたアリス・チャーマーズ社のバンザント技師が担当した
- [53]第1号回転窯の試運転が開始されたのは1925年6月18日である
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第5節 営業開始
- [54]製品の初出荷は1925年8月3日に行われ、同社ではこの日を八三記念日として営業開始記念日とした
- [55]初出荷した8月3日は営業開始記念日とされ、同社では毎年この日を八三記念日として創業時を偲ぶ催しが開かれた
- [56]初出荷から月末までに樽詰品・袋詰品を合わせて556トンが出荷された
- [57]業界の記録では1925年11月に秩父セメントが紙袋を使用したことがわが国におけるセメント容器としての紙袋使用の嚆矢とされる
諸井恒平氏が工場と同時に建てたのが有恒園[58]である。社宅の東寮が1924年10月に完成[59]し、食堂・浴場・物品供給所などが翌年中に整った。工場建設と機械据付けに資金を集中すべき時期に厚生施設まで建てるのは時期尚早だという役員の批判もあったが、押し切られた[60]。有恒の名は孟子の「無恒産者無恒心」[61]から採られ、一定の生業による収入がなければ心は定まらないという考えによる。1926年5月には各営業期の従業員所得総額に対し、株主配当と同率の金額を会社が本人名義で積み立てる有恒積立金制度が発足[62]した。この期、すなわち1925年12月から1926年5月までの第7期の売上高は156万7,036円[63]、経常利益は18万9,606円となり、創業以来初の年1割の配当を実現した[64]。
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第4節 有恒園の発足
- [58]有恒園は工場建設と並行して社宅・食堂・浴場などの厚生施設として建設された
- [59]有恒園は工場職制から独立した組織とされ、社宅の東寮が1924年10月に完成して入居が始まり、食堂・浴場・物品供給所などが1925年中に完成した
- [60]工場建設や機械据付けに多額の資金と労力を投じる時期に厚生施設を建設するのは時期尚早だという一部役員の批判があったが押し切られた
- [61]有恒の語句は諸井恒平が孟子から抽出した「無恒産者無恒心」に由来する
- [62]1926年5月に有恒積立金制度が発足し、各営業期の従業員所得総額に対し株主配当と同率の金額を会社が本人名義で積み立てた
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第5節 営業開始
- [63]1925年12月1日から1926年5月31日に至る第7期の売上高は156万7,036円だった
- [64]第7期の経常利益は18万9,606円で、創業以来初となる年1割の株主配当を実現した
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立(第2回営業報告書 1923年12月)
- [43]設計図面の一部は建築資料として松井清足建築事務所に送付されており、第一相互ビルディング4階にあった同事務所は火災に襲われながら奇跡的に類焼を免れた
- [44]松井建築事務所は第一相互ビルディング4階の一室にあり、同じく火災に襲われながら奇跡的に類焼を免れて図面が残った
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立
- [45]震災後に本社事務所は麹町区永楽町の日本工業倶楽部へ移り、設計部門だけは工場建設現場に近い長瀞の養浩亭に移された
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第3節 工場建設
- [46]当時のセメント工場は大部分が海運の便を立地条件に取り入れた原料地または臨海地区の工場であり、それが工場立地の定型とみられていた
- [47]関東地方の奥地とみられていた秩父地区に大工場を建設する構想は、同業の間で好意的な忠言あるいは悪意的な批判の対象となった
- [48]地元との用地買収折衝は1923年11月初旬にすべて円満に妥結した
- [49]1923年12月5日に秩父工場の地鎮祭が行われ、以後の建設工事は比較的順調に進んだ
- [50]予算の超過を犠牲にしても主要機械は定評のある外国一流製品をそろえるという基本方針が決定された
- [51]原料・焼成・仕上の3部を通ずる主要機械は米国アリス・チャーマーズ社の製品でそろえられた
- [52]工場の基本設計は数年前から浅野社の嘱託として来日していたアリス・チャーマーズ社のバンザント技師が担当した
- [53]第1号回転窯の試運転が開始されたのは1925年6月18日である
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第5節 営業開始
- [54]製品の初出荷は1925年8月3日に行われ、同社ではこの日を八三記念日として営業開始記念日とした
- [55]初出荷した8月3日は営業開始記念日とされ、同社では毎年この日を八三記念日として創業時を偲ぶ催しが開かれた
- [56]初出荷から月末までに樽詰品・袋詰品を合わせて556トンが出荷された
- [57]業界の記録では1925年11月に秩父セメントが紙袋を使用したことがわが国におけるセメント容器としての紙袋使用の嚆矢とされる
- [63]1925年12月1日から1926年5月31日に至る第7期の売上高は156万7,036円だった
- [64]第7期の経常利益は18万9,606円で、創業以来初となる年1割の株主配当を実現した
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第4節 有恒園の発足
- [58]有恒園は工場建設と並行して社宅・食堂・浴場などの厚生施設として建設された
- [59]有恒園は工場職制から独立した組織とされ、社宅の東寮が1924年10月に完成して入居が始まり、食堂・浴場・物品供給所などが1925年中に完成した
- [60]工場建設や機械据付けに多額の資金と労力を投じる時期に厚生施設を建設するのは時期尚早だという一部役員の批判があったが押し切られた
- [61]有恒の語句は諸井恒平が孟子から抽出した「無恒産者無恒心」に由来する
- [62]1926年5月に有恒積立金制度が発足し、各営業期の従業員所得総額に対し株主配当と同率の金額を会社が本人名義で積み立てた