秩父セメント の歴史

創業

1923年

創業者

諸井恒平

創業地

東京市麹町区永楽町(現・東京都千代田区丸の内)

直近売上高(1984/5)

716億円

長期業績と転換点(1976/5〜1984/5)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1923年に海運の便のない秩父へ大工場を建てたのか
A 秩父セメントは1923年1月30日、諸井恒平氏を発起人総代として資本金500万円で創立された。当時のセメント工場は海運の便を取り入れた臨海立地が定型で、関東の奥地に大工場を建てる構想には同業から批判も寄せられた。それでも変えなかったのは数字に根拠があったためである。全国生産1,000万樽のうち九州が4割5分を占めるのに対し、東京は第1位の消費地でありながら1割5分7厘にとどまり、移入には1樽1円以上の運賃がかかった。原料山に近接して建てられる分、建設費は既設会社の平均6〜7円に対し1樽3円5〜60銭で足りた
Q なぜ1949年に新工場ではなく既設工場の若返りを選んだのか
A 秩父工場は回転窯5基に対しボイラーが実質3基分しかなく、共通煙道の操作で運転していた。これ以上の増産には新設に等しい大改造が要る。1949年上期の常務会は新工場建設案に傾き、少なくとも4常務が賛成して結論が出たとみられた。翌日、諸井貫一社長がこれを覆す。ここで新工場に取りかかれば旧工場の再建整備の機会は永久に失われる、いま若返り整備を講じれば生産能力は倍増するという理屈だった。1952年秋に回転窯5基の並列運転を実現し、1954年5月には月産7万2,000トンで国内最大の工場となった
Q なぜ1994年に小野田セメントとの合併で商号が消えたのか
A 会社年鑑1986年版によれば、単体売上高は1981年5月期の862億円を頂点に3年続けて減り、1984年5月期は717億円まで落ちた。同期の売上構成はセメントが694億円で97%を占める。他社の依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、日本セメント80%、住友セメント93%で、秩父セメントは6社で最も小さく依存度が最も高い。1994年10月に小野田セメントと合併して秩父小野田が発足し、国内シェアは24%で業界首位となる。存続会社は小野田セメント側で、1923年から71年続いた商号はここで消えた

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1907年〜 渋沢栄一の後押しと武甲山の石灰石を頼りに始まった諸井恒平の起業

  1. 1922年 渋沢栄一氏らによる工場予定地の視察と起業の決定
  2. 1923年 臨海立地の定型を破り、武甲山の麓に建てた内陸のセメント工場 東京は消費地1位なのに生産は1割5分7厘——運賃1円の差を取りにいった1923年の創業
  3. 1923年 関東大震災による本社事務所の焼失と設計図面の大半の喪失
  4. 1925年 従業員の生活と修養の場としての有恒園の発足
  5. 1925年 製品の初出荷、8月3日を営業開始記念日に制定
  6. 1925年 わが国のセメント容器として初の紙袋使用
  7. 1926年 第7期に創業以来初の株主配当(年1割)

煉瓦から始まった実業家が石灰石に向かうまで

創業者の諸井恒平氏は1862年5月26日、諸井泉右衛門の次男として埼玉県本庄町[1]に生まれた。諸井家は繭と蚕糸を商う旧家だったが、父の代に4度の火災に遭い[2]、15歳で父を失った[3]恒平氏が傾いた家業を継いだ。母の佐久は渋沢栄一氏の従姉弟[4]にあたり、22歳年上の渋沢氏は恒平氏を早くから引き立てた。恒平氏が実業界に入ったのは26歳のとき、1887年秋に設立された日本煉瓦製造へ書記として入社した[5]ときである。同社は官庁街を欧米風の建築で整えるという政府の要請を受け、渋沢氏と益田孝氏ら財界人が設立した[6]ものだった。恒平氏は書記から支配人、取締役、専務、会長を歴任[7]し、建設基礎資材の製造を生涯の足場とした。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)三代社長小伝 初代社長諸井恒平
    • [1]諸井恒平は1862年(文久2年)5月26日、諸井泉右衛門の次男として埼玉県本庄町に生まれた
    • [2]諸井家は祖父の代から繭と蚕糸の商売に転じた旧家で、父の代に4度の火災に遭い家運が傾いた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第3節 起業の背景
    • [3]諸井恒平は15歳で父を失い、過重な負債と家業の責任を負って家運の挽回に当たった
    • [4]諸井恒平の母佐久は渋沢栄一とは従姉弟の関係にあり、渋沢は恒平より22歳年上だった
    • [5]諸井恒平が実業界に入ったのは26歳のときで、1887年秋に設立された日本煉瓦製造に書記として入社した
    • [6]日本煉瓦製造は官庁街の欧米風建築を進める政府の強い要請に基づき、渋沢栄一・益田孝ら財界有力者によって設立された
    • [7]諸井恒平は日本煉瓦製造で書記から順次支配人・取締役・専務・会長を歴任した

セメントへ向かう最初の示唆は1907年9月[8]に与えられた。欧米から帰朝した東京帝国大学教授の本多静六氏を主賓として渋沢栄一氏が王子の自邸で晩餐会を催し、席上で本多氏は水力発電とセメントの両事業が埼玉振興の双璧である[9]と断定した。本多氏は欧米ではすでに赤煉瓦の時代が去って鉄筋コンクリートの時代を迎え、徳利窯も効率の高い回転窯に替わっている[10]と述べ、秩父地方に武甲山の石灰石と良質の粘土が賦存する[11]点を指摘した。当時は煉瓦の需要が旺盛で日本煉瓦製造も好況にあり[12]、諸井恒平氏はただちに動かなかった。秩父の交通が整うのを待つ必要もあった。1899年に創立された上武鉄道が秩父まで通じたのは1914年[13]、全線電化は1922年初[14]のことである。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第3節 起業の背景
    • [8]1907年9月、欧米遊学から帰朝した東京帝国大学教授の本多静六を主賓に、渋沢栄一が王子の自邸で晩餐会を催した
    • [9]本多静六は席上で水力発電とセメントの両事業が埼玉振興の双璧であると断定した
    • [10]本多静六は欧米ではすでに赤煉瓦時代が去って鉄筋コンクリート時代を迎え、徳利窯時代も去って効率の高い回転窯時代に入ったと述べた
    • [11]本多静六は秩父地方に武甲山の石灰石をはじめ良質の粘土が付近の台地一面に賦存することを指摘した
    • [12]そのころ赤煉瓦の需要が旺盛で日本煉瓦社も好況の波に乗っており、諸井恒平は直ちに具現化するほどの心境にならなかった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第2節 秩父地方の素描
    • [13]上武鉄道(後の秩父鉄道)は1899年に創立され、1914年10月に秩父(当時の大宮町)まで開通した
    • [14]秩父鉄道は1922年初に全国私鉄に先がけて全線の電化を完成した

起業構想が最初に形をとったのは1919年2月の武蔵電化の設立[15]である。武蔵水電と秩父鉄道を主要出資者とし、影森村に工場を置いて武甲山の石灰石から炭酸カルシウムや石灰窒素を生産する計画[16]だったが、具現化しないまま1920年12月に解散した[17]。構想は次に製材業との併営へ、さらにセメント製造の専営へと転じ[18]、最後は日本煉瓦製造を母体とする日本煉瓦セメントの設立に変わった。1920年3月30日には設立が本決まりとなり[19]定款も発起人も決まっていたが、同年4月17日の創立委員会で財界の混乱を理由に見合わせ[20]となった。それでも諸井恒平氏の決意は固まり、以後2年半にわたって原石山の調査、機械設備の選定、原価計算、需要分布の検討[21]が続けられた。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第4節 起業の胎動
    • [15]武蔵電化は1919年2月、武蔵水電と秩父鉄道を主要出資者として設立された
    • [16]武蔵電化は秩父郡影森村に工場を設け、武甲山の石灰石を原料として炭酸カルシウム・石灰窒素などを生産する計画だった
    • [17]武蔵電化は1920年12月に解散した
    • [18]起業構想は武甲山の石灰石利用によるセメント製造業と奥秩父森林資源開発による製材業の併営に一転し、再転してセメント製造業の専営に変わり、さらに日本煉瓦社を母体とする日本煉瓦セメントの設立に変わった
    • [19]1920年3月30日に日本煉瓦セメントの設立が本決まりとなり、定款・株式・発起人等の検討を終えた
    • [20]1920年4月17日の日本煉瓦セメント創立委員会で、当時の財界事情の混乱を理由に会社設立が一時見合わせとなった
    • [21]会社設立の見合わせ後、原石山や工場予定地の現地調査、機械設備、原価計算、需要分布の見通しなど基礎的調査が活発に進められた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)三代社長小伝 初代社長諸井恒平
    • [1]諸井恒平は1862年(文久2年)5月26日、諸井泉右衛門の次男として埼玉県本庄町に生まれた
    • [2]諸井家は祖父の代から繭と蚕糸の商売に転じた旧家で、父の代に4度の火災に遭い家運が傾いた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第3節 起業の背景
    • [3]諸井恒平は15歳で父を失い、過重な負債と家業の責任を負って家運の挽回に当たった
    • [4]諸井恒平の母佐久は渋沢栄一とは従姉弟の関係にあり、渋沢は恒平より22歳年上だった
    • [5]諸井恒平が実業界に入ったのは26歳のときで、1887年秋に設立された日本煉瓦製造に書記として入社した
    • [6]日本煉瓦製造は官庁街の欧米風建築を進める政府の強い要請に基づき、渋沢栄一・益田孝ら財界有力者によって設立された
    • [7]諸井恒平は日本煉瓦製造で書記から順次支配人・取締役・専務・会長を歴任した
    • [8]1907年9月、欧米遊学から帰朝した東京帝国大学教授の本多静六を主賓に、渋沢栄一が王子の自邸で晩餐会を催した
    • [9]本多静六は席上で水力発電とセメントの両事業が埼玉振興の双璧であると断定した
    • [10]本多静六は欧米ではすでに赤煉瓦時代が去って鉄筋コンクリート時代を迎え、徳利窯時代も去って効率の高い回転窯時代に入ったと述べた
    • [11]本多静六は秩父地方に武甲山の石灰石をはじめ良質の粘土が付近の台地一面に賦存することを指摘した
    • [12]そのころ赤煉瓦の需要が旺盛で日本煉瓦社も好況の波に乗っており、諸井恒平は直ちに具現化するほどの心境にならなかった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第2節 秩父地方の素描
    • [13]上武鉄道(後の秩父鉄道)は1899年に創立され、1914年10月に秩父(当時の大宮町)まで開通した
    • [14]秩父鉄道は1922年初に全国私鉄に先がけて全線の電化を完成した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第4節 起業の胎動
    • [15]武蔵電化は1919年2月、武蔵水電と秩父鉄道を主要出資者として設立された
    • [16]武蔵電化は秩父郡影森村に工場を設け、武甲山の石灰石を原料として炭酸カルシウム・石灰窒素などを生産する計画だった
    • [17]武蔵電化は1920年12月に解散した
    • [18]起業構想は武甲山の石灰石利用によるセメント製造業と奥秩父森林資源開発による製材業の併営に一転し、再転してセメント製造業の専営に変わり、さらに日本煉瓦社を母体とする日本煉瓦セメントの設立に変わった
    • [19]1920年3月30日に日本煉瓦セメントの設立が本決まりとなり、定款・株式・発起人等の検討を終えた
    • [20]1920年4月17日の日本煉瓦セメント創立委員会で、当時の財界事情の混乱を理由に会社設立が一時見合わせとなった
    • [21]会社設立の見合わせ後、原石山や工場予定地の現地調査、機械設備、原価計算、需要分布の見通しなど基礎的調査が活発に進められた

後発参入を決めた1922年8月3日の現地視察

起業の可否は1922年8月3日[22]に決した。この日、83歳の渋沢栄一氏をはじめ和田豊治氏、小倉常吉氏[23]らが上野から汽車と人力車を乗り継いで工場予定地に立ち、桑畑に覆われた敷地と粘土山の麓を視察した。諸井恒平氏は後年、会社が生まれたのは1923年1月30日だが「懐姙致しましたのが11年の8月3日」(庶務課彙報 1939/8/15)[24]と述べている。翌月14日には首唱者会議と呼ばれる第1回会合[25]が開かれ、大橋新太郎氏、根津嘉一郎氏ら12人[26]が集まった。10月3日の第2回会合では発起人と賛成人が40余人に達し[27]、社名は「東京セメント」と「秩父セメント」の両案から後者が採られた[28]。公称資本金は500万円と決まり、当面は半額程度の払込みにとどめて残りは借入金で賄う[29]こととした。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第4節 起業の胎動
    • [22]1922年8月3日、会社設立首脳者による工場予定地の現地視察が行われた
    • [23]現地視察には当時83歳の渋沢栄一のほか、和田豊治・小倉常吉ら財界有力者が加わった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第1節 総観(庶務課彙報 1939年8月15日)
    • [24]諸井恒平は営業開始記念日の挨拶で、会社が生まれたのは1923年1月30日で懐姙したのが1922年8月3日にあたると述べた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立
    • [25]会社設立準備会の第1回会合は1922年9月14日に開かれ、首唱者会議と呼ばれた
    • [26]第1回会合の出席者は大橋新太郎・大倉喜七郎・小倉常吉・和田豊治・根津嘉一郎ら12人だった
    • [27]1922年10月3日の第2回会合の時点で発起人賛成人は財界有力者を含めて40余人に達していた
    • [28]社名については「東京セメント」と「秩父セメント」の両案が提出され、審議の結果後者が採られた
    • [29]公称資本金は将来を考慮して500万円とし、当面は半額程度の払込みにとどめ他は借入金によることとした

後発として参入する以上、勝算は数字で説明されなければならなかった。第1回会合で諸井恒平氏が示した計画書によれば、当時の全国生産1,000万樽のうち九州方面が4割5分を占める[30]のに対し、第1位の消費地である東京はわずか1割5分7厘にすぎず[31]、不足分を九州や大阪から移入するため運賃が1樽1円以上かかり、東京の相場は他地方より常に1円高かった[32]。武甲山の石灰石は品質に定評があり、山麓には全国無比とされる粘土山が連なる[33]。原料山に近接して鉄道本線沿いに工場を建てられるため、生産費は1樽3円7〜80銭と全国最低の4円を下回り[34]、年産70万樽の建設費は250万円、1樽あたり3円5〜60銭で既設会社の平均6〜7円の半額[35]で済む。この見積りが出資者を動かした。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立(首唱者会議議事録 1922年9月)
    • [30]大正11年当時のセメント年産額は1,000万樽で、生産分布は九州方面が全産額の4割5分を占めた
    • [31]東京は第1位の消費地でありながら生産は1割5分7厘にとどまり、東北を加えても2割に達しなかった
    • [32]九州・大阪方面からの移入には1樽1円以上の運賃を要し、東京は他地方に比べて常に1円の高値を保っていた
    • [33]秩父武甲山の石灰石は豊富かつ優良と定評があり、山麓に連なる粘土山も化学的試験により全国無比の良質と確かめられていた
    • [34]生産費は1樽3円7〜80銭で足り、当時全国最低とみられた4円以下で生産できると見積もられた
    • [35]年額70万樽を生産する建設費は250万円、1樽あたり3円5〜60銭で、既設会社の平均6〜7円の約半額と見積もられた

創立総会は1923年1月30日、東京市麹町区永楽町の日本工業倶楽部[36]で開かれた。株式引受人は100人、総株数10万株、資本金500万円に対し払込資本金は125万円[37]だった。社長には諸井恒平氏、常務取締役には大友幸助氏[38]が就いた。大友氏は東京帝国大学理科大学化学科を卒業して東京高等工業学校教授を務めたのち東京毛織物に移り、1922年12月に同社取締役[39]となっていた技術者である。相談役の和田豊治氏は富士瓦斯紡績社長として繊維業界の重鎮[40]であり、大正9年の起業企画以来つねに主導的な立場にあった。設立から半年後の1923年9月1日、関東大震災が本社事務所を襲う[41]。日本橋区の日本煉瓦製造3階に置かれた事務所は夕刻には火が入り、半年をかけた設計図面のほとんどが灰になった[42]

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立
    • [36]秩父セメントの創立総会は1923年1月30日午前10時30分から東京市麹町区永楽町の日本工業倶楽部で開催された
    • [37]株式引受人総数100人・総株数10万株・資本金500万円・払込資本金125万円で発足した
    • [38]創立総会で取締役社長に諸井恒平、常務取締役に大友幸助が選任された
    • [40]相談役の和田豊治は富士瓦斯紡績社長として明治・大正期の繊維業界の重鎮であり、1920年のセメント起業企画以来主導的立場にあった
    • [41]1923年9月1日の関東大震災により日本橋区三代町の日本煉瓦製造3階に置かれた本社事務所は火災で焼失した
    • [42]設立以来半年余をかけた設計図面は本社事務所の焼失によりほとんどが失われた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)三代社長小伝 二代社長大友幸助
    • [39]大友幸助は1906年7月に東京帝国大学理科大学化学科を卒業し東京高等工業学校教授を経て東京毛織物に入社、1922年12月に同社取締役に就任した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第4節 起業の胎動
    • [22]1922年8月3日、会社設立首脳者による工場予定地の現地視察が行われた
    • [23]現地視察には当時83歳の渋沢栄一のほか、和田豊治・小倉常吉ら財界有力者が加わった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第1節 総観(庶務課彙報 1939年8月15日)
    • [24]諸井恒平は営業開始記念日の挨拶で、会社が生まれたのは1923年1月30日で懐姙したのが1922年8月3日にあたると述べた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立
    • [25]会社設立準備会の第1回会合は1922年9月14日に開かれ、首唱者会議と呼ばれた
    • [26]第1回会合の出席者は大橋新太郎・大倉喜七郎・小倉常吉・和田豊治・根津嘉一郎ら12人だった
    • [27]1922年10月3日の第2回会合の時点で発起人賛成人は財界有力者を含めて40余人に達していた
    • [28]社名については「東京セメント」と「秩父セメント」の両案が提出され、審議の結果後者が採られた
    • [29]公称資本金は将来を考慮して500万円とし、当面は半額程度の払込みにとどめ他は借入金によることとした
    • [36]秩父セメントの創立総会は1923年1月30日午前10時30分から東京市麹町区永楽町の日本工業倶楽部で開催された
    • [37]株式引受人総数100人・総株数10万株・資本金500万円・払込資本金125万円で発足した
    • [38]創立総会で取締役社長に諸井恒平、常務取締役に大友幸助が選任された
    • [40]相談役の和田豊治は富士瓦斯紡績社長として明治・大正期の繊維業界の重鎮であり、1920年のセメント起業企画以来主導的立場にあった
    • [41]1923年9月1日の関東大震災により日本橋区三代町の日本煉瓦製造3階に置かれた本社事務所は火災で焼失した
    • [42]設立以来半年余をかけた設計図面は本社事務所の焼失によりほとんどが失われた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立(首唱者会議議事録 1922年9月)
    • [30]大正11年当時のセメント年産額は1,000万樽で、生産分布は九州方面が全産額の4割5分を占めた
    • [31]東京は第1位の消費地でありながら生産は1割5分7厘にとどまり、東北を加えても2割に達しなかった
    • [32]九州・大阪方面からの移入には1樽1円以上の運賃を要し、東京は他地方に比べて常に1円の高値を保っていた
    • [33]秩父武甲山の石灰石は豊富かつ優良と定評があり、山麓に連なる粘土山も化学的試験により全国無比の良質と確かめられていた
    • [34]生産費は1樽3円7〜80銭で足り、当時全国最低とみられた4円以下で生産できると見積もられた
    • [35]年額70万樽を生産する建設費は250万円、1樽あたり3円5〜60銭で、既設会社の平均6〜7円の約半額と見積もられた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)三代社長小伝 二代社長大友幸助
    • [39]大友幸助は1906年7月に東京帝国大学理科大学化学科を卒業し東京高等工業学校教授を経て東京毛織物に入社、1922年12月に同社取締役に就任した

震災を越えて八三記念日にたどり着くまで

工事が頓挫せずに済んだのは、図面の一部を松井清足建築事務所に建築資料として送っていた[43]ためだった。同事務所は第一相互ビルディング4階[44]にあって火災に襲われながら類焼を免れ、図面は無事に残った。本社は日本工業倶楽部へ移り、設計部門は建設現場に近い長瀞の養浩亭[45]に置かれた。当時のセメント工場は海運の便を立地条件に取り入れて臨海部に建てるのが定型[46]であり、関東の奥地とみられていた秩父に大工場を構える構想には、同業から好意的な忠言も悪意的な批判も寄せられた[47]。それでも東京市場とその周辺の潜在需要を見込んだ内陸立地の判断は変えず、地元との用地折衝が妥結した1923年11月[48]を経て、12月5日に地鎮祭が行われた[49]

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立(第2回営業報告書 1923年12月)
    • [43]設計図面の一部は建築資料として松井清足建築事務所に送付されており、第一相互ビルディング4階にあった同事務所は火災に襲われながら奇跡的に類焼を免れた
    • [44]松井建築事務所は第一相互ビルディング4階の一室にあり、同じく火災に襲われながら奇跡的に類焼を免れて図面が残った
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立
    • [45]震災後に本社事務所は麹町区永楽町の日本工業倶楽部へ移り、設計部門だけは工場建設現場に近い長瀞の養浩亭に移された
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第3節 工場建設
    • [46]当時のセメント工場は大部分が海運の便を立地条件に取り入れた原料地または臨海地区の工場であり、それが工場立地の定型とみられていた
    • [47]関東地方の奥地とみられていた秩父地区に大工場を建設する構想は、同業の間で好意的な忠言あるいは悪意的な批判の対象となった
    • [48]地元との用地買収折衝は1923年11月初旬にすべて円満に妥結した
    • [49]1923年12月5日に秩父工場の地鎮祭が行われ、以後の建設工事は比較的順調に進んだ

主要機械は予算超過を承知で外国一流製品に統一する方針[50]が採られ、原料・焼成・仕上の3部門はいずれも米国アリス・チャーマーズ社の製品で揃えられた[51]。工場の基本設計は同社から浅野セメントへ嘱託として来日していたバンザント技師[52]が担当し、直線配列法による配置は増設条件まで織り込んだものとして関係者の評価を得た。第1号回転窯が試運転に入ったのは1925年6月18日[53]、製品が初出荷されたのは同年8月3日[54]である。会社の設立を決めた日と同じ日付が選ばれ、以後「八三記念日」として営業開始の記念日[55]になった。月末までの出荷は樽詰と袋詰を合わせて556トン[56]だった。同年11月には輸入紙袋での試験出荷を経て国産紙袋の使用に踏み切り、業界の記録ではこれがわが国のセメント容器としての紙袋使用の嚆矢[57]とされる。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第3節 工場建設
    • [50]予算の超過を犠牲にしても主要機械は定評のある外国一流製品をそろえるという基本方針が決定された
    • [51]原料・焼成・仕上の3部を通ずる主要機械は米国アリス・チャーマーズ社の製品でそろえられた
    • [52]工場の基本設計は数年前から浅野社の嘱託として来日していたアリス・チャーマーズ社のバンザント技師が担当した
    • [53]第1号回転窯の試運転が開始されたのは1925年6月18日である
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第5節 営業開始
    • [54]製品の初出荷は1925年8月3日に行われ、同社ではこの日を八三記念日として営業開始記念日とした
    • [55]初出荷した8月3日は営業開始記念日とされ、同社では毎年この日を八三記念日として創業時を偲ぶ催しが開かれた
    • [56]初出荷から月末までに樽詰品・袋詰品を合わせて556トンが出荷された
    • [57]業界の記録では1925年11月に秩父セメントが紙袋を使用したことがわが国におけるセメント容器としての紙袋使用の嚆矢とされる

諸井恒平氏が工場と同時に建てたのが有恒園[58]である。社宅の東寮が1924年10月に完成[59]し、食堂・浴場・物品供給所などが翌年中に整った。工場建設と機械据付けに資金を集中すべき時期に厚生施設まで建てるのは時期尚早だという役員の批判もあったが、押し切られた[60]。有恒の名は孟子の「無恒産者無恒心」[61]から採られ、一定の生業による収入がなければ心は定まらないという考えによる。1926年5月には各営業期の従業員所得総額に対し、株主配当と同率の金額を会社が本人名義で積み立てる有恒積立金制度が発足[62]した。この期、すなわち1925年12月から1926年5月までの第7期の売上高は156万7,036円[63]、経常利益は18万9,606円となり、創業以来初の年1割の配当を実現した[64]

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第4節 有恒園の発足
    • [58]有恒園は工場建設と並行して社宅・食堂・浴場などの厚生施設として建設された
    • [59]有恒園は工場職制から独立した組織とされ、社宅の東寮が1924年10月に完成して入居が始まり、食堂・浴場・物品供給所などが1925年中に完成した
    • [60]工場建設や機械据付けに多額の資金と労力を投じる時期に厚生施設を建設するのは時期尚早だという一部役員の批判があったが押し切られた
    • [61]有恒の語句は諸井恒平が孟子から抽出した「無恒産者無恒心」に由来する
    • [62]1926年5月に有恒積立金制度が発足し、各営業期の従業員所得総額に対し株主配当と同率の金額を会社が本人名義で積み立てた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第5節 営業開始
    • [63]1925年12月1日から1926年5月31日に至る第7期の売上高は156万7,036円だった
    • [64]第7期の経常利益は18万9,606円で、創業以来初となる年1割の株主配当を実現した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立(第2回営業報告書 1923年12月)
    • [43]設計図面の一部は建築資料として松井清足建築事務所に送付されており、第一相互ビルディング4階にあった同事務所は火災に襲われながら奇跡的に類焼を免れた
    • [44]松井建築事務所は第一相互ビルディング4階の一室にあり、同じく火災に襲われながら奇跡的に類焼を免れて図面が残った
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立
    • [45]震災後に本社事務所は麹町区永楽町の日本工業倶楽部へ移り、設計部門だけは工場建設現場に近い長瀞の養浩亭に移された
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第3節 工場建設
    • [46]当時のセメント工場は大部分が海運の便を立地条件に取り入れた原料地または臨海地区の工場であり、それが工場立地の定型とみられていた
    • [47]関東地方の奥地とみられていた秩父地区に大工場を建設する構想は、同業の間で好意的な忠言あるいは悪意的な批判の対象となった
    • [48]地元との用地買収折衝は1923年11月初旬にすべて円満に妥結した
    • [49]1923年12月5日に秩父工場の地鎮祭が行われ、以後の建設工事は比較的順調に進んだ
    • [50]予算の超過を犠牲にしても主要機械は定評のある外国一流製品をそろえるという基本方針が決定された
    • [51]原料・焼成・仕上の3部を通ずる主要機械は米国アリス・チャーマーズ社の製品でそろえられた
    • [52]工場の基本設計は数年前から浅野社の嘱託として来日していたアリス・チャーマーズ社のバンザント技師が担当した
    • [53]第1号回転窯の試運転が開始されたのは1925年6月18日である
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第5節 営業開始
    • [54]製品の初出荷は1925年8月3日に行われ、同社ではこの日を八三記念日として営業開始記念日とした
    • [55]初出荷した8月3日は営業開始記念日とされ、同社では毎年この日を八三記念日として創業時を偲ぶ催しが開かれた
    • [56]初出荷から月末までに樽詰品・袋詰品を合わせて556トンが出荷された
    • [57]業界の記録では1925年11月に秩父セメントが紙袋を使用したことがわが国におけるセメント容器としての紙袋使用の嚆矢とされる
    • [63]1925年12月1日から1926年5月31日に至る第7期の売上高は156万7,036円だった
    • [64]第7期の経常利益は18万9,606円で、創業以来初となる年1割の株主配当を実現した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第4節 有恒園の発足
    • [58]有恒園は工場建設と並行して社宅・食堂・浴場などの厚生施設として建設された
    • [59]有恒園は工場職制から独立した組織とされ、社宅の東寮が1924年10月に完成して入居が始まり、食堂・浴場・物品供給所などが1925年中に完成した
    • [60]工場建設や機械据付けに多額の資金と労力を投じる時期に厚生施設を建設するのは時期尚早だという一部役員の批判があったが押し切られた
    • [61]有恒の語句は諸井恒平が孟子から抽出した「無恒産者無恒心」に由来する
    • [62]1926年5月に有恒積立金制度が発足し、各営業期の従業員所得総額に対し株主配当と同率の金額を会社が本人名義で積み立てた

1926年〜 後発の生き残り方を決めた販売三原則とセメント聯合会との距離

  1. 1926年 第7期に創業以来初の株主配当(年1割)
  2. 1926年 生産制限の適用免除を条件としたセメント聯合会への入会
  3. 1928年 第二秩父セメントの合併による資本金1200万円への増加
  4. 1930年 第5号回転窯の完成、保有回転窯5基・月産能力4万トン超
  5. 1930年 武甲山生川地区の原石山紛争の和解、渋沢栄一氏が斡旋
  6. 1934年 第3次増設計画の完成、保有回転窯6基・月産能力7万トン
  7. 1935年 シリカセメント「秩父硅酸セメント」の発売

業界カルテルに条件を付けて入った後発会社

秩父セメントがセメント聯合会に入ったのは1926年9月1日[65]である。営業開始の前後から理事者による勧誘が繰り返されたが、創業早々で経営基盤も固まっていないことを理由に断り続け[66]、営業開始から1年を経てようやく手続きを取った。それも無条件ではない。入会後1年間は生産制限・出荷制限・最低価格に関する諸協定の拘束を受けないこと、第2次拡張計画を容認すること[67]の2条件を付し、1年経過後もさらに制限免除の延長を話し合うという了解事項を添えた。他社が脱会した場合には自社の脱会を無条件で認めよという条項も出したが、聯合会成立の根本を薄弱にするという反対を受けて撤回[68]した。1927年8月には了解事項に基づいて免除の延長を申し入れ、紛糾の末に制限率を半減して適用する条件で妥結[69]した。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
    • [65]秩父セメントがセメント聯合会に入会したのは1926年9月1日である
    • [66]営業開始の前後から聯合会理事者による入会勧誘があったが、創業早々で経営基盤が確立していないことを理由に受け入れなかった
    • [67]入会の条件は、入会後1年間は生産制限・出荷制限・最低価格等の諸協定の拘束を受けないこと、および第2次拡張計画を容認することの2点だった
    • [68]他に脱会する会社があった場合は当社の脱会を無条件で認めるという条項も出したが、聯合会成立の根本を薄弱にするとの反対申入れで撤回した
    • [69]1927年8月、入会時の了解事項に基づきさらに1か年の諸制限免除を申し入れたが容れられず、紆余曲折を経て1か年間諸制限率半減適用の条件で妥結した

距離の取り方が最も鋭く出たのが原石山紛争である。武甲山北麓の生川地区をめぐる石灰石採掘の土地使用権の争奪[70]で、1927年10月に秩父セメントはまず敗れた[71]。1年余の小康を経て1929年、相手会社が工場建設の着手をほのめかして紛争は再燃[72]する。地元横瀬村の村民が両社側に分かれて対立し、石灰石採掘禁止の訴訟は大審院上告にまで至った[73]。諸井貫一氏は後年、この争いを「秩父セメントもやむなく他社の進出を防ぐために紛争にまきこまれていった」(日本経済新聞 1960/5)[74]と回想している。当時の井上蔵相からも人を介して自制を促され[75]、聯合会への調停一任も満足のいく方向にならず、1929年末から1年間は聯合会への加入を留保[76]した。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
    • [70]原石山紛争は武甲山北麓の生川地区における石灰石採掘をめぐる土地使用権の争奪だった
    • [71]1927年10月に秩父セメントはこの争奪戦にまず敗れ、1年余の小康状態を経て1929年に紛争が再燃した
    • [72]1927年10月の敗北から1年余の小康状態を経て1929年に相手会社が工場建設着手をほのめかし紛争が再燃した
    • [73]紛争は地元横瀬村の村民が両社側に分かれて対立する事態に発展し、生川地区共有者側が提出した石灰石採掘禁止の訴訟は大審院上告に至った
    • [76]聯合会の調停方向が満足すべきものでなかったため、1929年末から1年間は同会への加入を留保した
  • 私の履歴書 経済人5 諸井貫一(日本経済新聞 1960年5月)
    • [74]諸井貫一は私の履歴書で、秩父セメントもやむなく他社の進出を防ぐために紛争にまきこまれていったと回想している
    • [75]金解禁と産業合理化を説いていた井上蔵相が人を介して会社同士の紛争継続を批判した

決着をつけたのは渋沢栄一氏[77]だった。業界の混乱を憂慮した渋沢氏の斡旋で、紛争当事者が和解協定書に調印したのは1930年10月[78]である。和解条件により、以後15年間は相手会社が横瀬地区に工場を建設しないことが双方で確認[79]された。ここでも諸井恒平氏は自主独立の線を固守して譲らず、恩義のある先輩知友の仲介に心ならずも従わないこともあった[80]。父の頑なさに手を焼いた諸井貫一氏は、渋沢氏の女婿である阪谷芳郎氏に呼ばれ、2〜3時間かけて経緯を説明した[81]うえで「たとえ自分に理があっても、ほどほどにしなければならない場合もある」(日本経済新聞 1960/5)[82]と諭されている。翌月、秩父セメントは聯合会に再入会[83]した。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
    • [77]業界の深刻な混乱を憂慮した渋沢栄一の斡旋により原石山紛争は円満解決した
    • [78]紛争当事者が和解協定書に調印したのは1930年10月である
    • [79]和解条件により、その後15年間は相手会社が横瀬地区に工場を建設しないことが当事者双方によって確認された
    • [80]諸井恒平は本事件で終始会社の自主独立の線を固守して譲らず、恩義ある先輩知友の仲介に心ならずも従わないこともあった
    • [83]紛争が解決した翌月の1930年11月、秩父セメントは再びセメント聯合会に入会した
  • 私の履歴書 経済人5 諸井貫一(日本経済新聞 1960年5月)
    • [81]諸井貫一は渋沢栄一の女婿である阪谷芳郎に呼ばれ、2〜3時間にわたって事のいきさつを説明した
    • [82]阪谷芳郎は諸井貫一に、たとえ自分に理があってもほどほどにしなければならない場合もあると述べた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
    • [65]秩父セメントがセメント聯合会に入会したのは1926年9月1日である
    • [66]営業開始の前後から聯合会理事者による入会勧誘があったが、創業早々で経営基盤が確立していないことを理由に受け入れなかった
    • [67]入会の条件は、入会後1年間は生産制限・出荷制限・最低価格等の諸協定の拘束を受けないこと、および第2次拡張計画を容認することの2点だった
    • [68]他に脱会する会社があった場合は当社の脱会を無条件で認めるという条項も出したが、聯合会成立の根本を薄弱にするとの反対申入れで撤回した
    • [69]1927年8月、入会時の了解事項に基づきさらに1か年の諸制限免除を申し入れたが容れられず、紆余曲折を経て1か年間諸制限率半減適用の条件で妥結した
    • [70]原石山紛争は武甲山北麓の生川地区における石灰石採掘をめぐる土地使用権の争奪だった
    • [71]1927年10月に秩父セメントはこの争奪戦にまず敗れ、1年余の小康状態を経て1929年に紛争が再燃した
    • [72]1927年10月の敗北から1年余の小康状態を経て1929年に相手会社が工場建設着手をほのめかし紛争が再燃した
    • [73]紛争は地元横瀬村の村民が両社側に分かれて対立する事態に発展し、生川地区共有者側が提出した石灰石採掘禁止の訴訟は大審院上告に至った
    • [76]聯合会の調停方向が満足すべきものでなかったため、1929年末から1年間は同会への加入を留保した
    • [77]業界の深刻な混乱を憂慮した渋沢栄一の斡旋により原石山紛争は円満解決した
    • [78]紛争当事者が和解協定書に調印したのは1930年10月である
    • [79]和解条件により、その後15年間は相手会社が横瀬地区に工場を建設しないことが当事者双方によって確認された
    • [80]諸井恒平は本事件で終始会社の自主独立の線を固守して譲らず、恩義ある先輩知友の仲介に心ならずも従わないこともあった
    • [83]紛争が解決した翌月の1930年11月、秩父セメントは再びセメント聯合会に入会した
  • 私の履歴書 経済人5 諸井貫一(日本経済新聞 1960年5月)
    • [74]諸井貫一は私の履歴書で、秩父セメントもやむなく他社の進出を防ぐために紛争にまきこまれていったと回想している
    • [75]金解禁と産業合理化を説いていた井上蔵相が人を介して会社同士の紛争継続を批判した
    • [81]諸井貫一は渋沢栄一の女婿である阪谷芳郎に呼ばれ、2〜3時間にわたって事のいきさつを説明した
    • [82]阪谷芳郎は諸井貫一に、たとえ自分に理があってもほどほどにしなければならない場合もあると述べた

大手問屋を通さず中小販売店と直接取引した理由

販売の設計も同業とは違う道を選んだ。当時の業界では小野田セメントが三井物産を、磐城セメントが三菱商事をそれぞれ総代理店として全国一手販売制[84]を採り、その他の各社もおおむね大手問屋に地域ごとの販売を委ねていた。大手問屋は資力を背景に需要の媒介、信用の供与、情報の収集を担い[85]、傘下に二次店や小売店を抱えていたが、販売実績を積むほどメーカーへの発言力を強め、メーカーの販売方針の徹底を妨げる[86]ことも少なくなかった。秩父セメントは大手問屋制を採らず、流通機構の末端に近い中小販売店と直接取引する方法を打ち出した[87]。販売店の分布密度が高くなることから一駅一店主義とも呼ばれ[88]、手間はかかったが、先発会社が固めた流通機構に食い込む手段として働いた。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第4節 販売基盤の確立
    • [84]当時の業界では小野田社が三井物産を、磐城社が三菱商事をそれぞれ総代理店として全国一手販売制を採っていた
    • [85]大手問屋は需要の媒介・信用の供与・情報の収集を主要業務とし、傘下にいくつかの二次店・小売店を抱えていた
    • [86]大手問屋は販売実績を積むとともにメーカーに対する発言力を強め、メーカーの販売方針の徹底を妨げることが少なくなかった
    • [87]秩父セメントは大手問屋制を採らず、流通機構の末端に近い中小販売店と直接取引する独自の方法を打ち出し、これを中小販売店主義と称した
    • [88]中小販売店主義は販売店の分布密度が高くなるため一駅一店主義とも呼ばれた

残る2本は現金取引主義と直売主義[89]である。前者は販売店との取引を前金または荷為替を原則とし、事情が判明するにつれて1か月分の取引高に相当する担保か保証を差し入れさせ[90]、その範囲内で取引するものだった。諸井恒平氏は営業部長の深谷辰次郎氏に、三井高利が延宝年間に越後屋を開いたとき盆暮決済の商慣行を破って現金取引を掲げた故知にならった[91]のだと語っている。後者は官公庁や大手請負業者などの大口引合を直接受ける方針で、当時も直売を行う同業はあったが、これほど重点を置いた会社はなかった[92]。三原則は営業開始後2年ほどの販売経験を経て諸井貫一支配人によって体系づけられ[93]、1927年7月に発足した出張員制度[94]がその運用を担った。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第4節 販売基盤の確立
    • [89]販売基本構想は中小販売店主義・現金取引主義・直売主義の3本の柱で組み立てられていた
    • [90]現金取引主義は販売店との取引で前金取引または荷為替取引を原則とし、その後の事情に応じて約1か月分の取引高に相当する担保または保証を差し入れさせる方法だった
    • [91]諸井恒平は営業部長の深谷辰次郎に、三井高利が延宝年間に江戸で越後屋呉服店を開いたとき盆暮決済等の商慣行を破って現金取引主義を掲げた故知にならったと話した
    • [92]直売主義の対象は官公庁・大会社・大手請負業者等の大口引合で、当時も同業他社で直売は行われていたが秩父セメントほど重点を置いた会社はなかった
    • [93]販売三原則の実施構想は営業開始後約2年の販売経験を経て固められ、諸井貫一支配人によって体系づけられた
    • [94]1927年7月に高崎駐在の高田庫重と前橋駐在の志賀篤が赴任し、出張員制度が発足した

この方針は昭和初期の乱売期に効いた。1929年から1930年は業界史に残る乱売が行われた時期で、とくに1930年前半は破壊的な様相[95]を呈した。秩父セメントは「造るよりまず売る」を掲げ、有利な注文を充たす程度に生産を任意制限[96]し、採算を無視した投げ売りを避けた。諸井貫一氏は当時の父の態度を、一時しのぎで出血覚悟の入札をしなければならないと言うと「初めから赤字とわかっている入札は背任だ」(日本経済新聞 1960/5)[97]といってどんなに在庫があっても許さなかった、と書き残している。金融が逼迫して金策を大手問屋に頼る同業が現れ、問屋が換金を急いで売り急いだことが市価の低落に拍車をかけた[98]なかで、中小販売店と直接結ぶ体制は赤字乱売の影響を最小限にとどめた[99]

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
    • [95]1929年から1930年は業界史に残る未曽有の乱売が行われた時期で、とくに1930年前半期は破壊的な様相を呈した
    • [96]市況混迷期に秩父セメントは「造るよりまず売る」をモットーとし、有利な注文引受けを充足する程度に生産を任意制限して採算を無視した乱売を避けた
  • 私の履歴書 経済人5 諸井貫一(日本経済新聞 1960年5月)
    • [97]諸井恒平は初めから赤字とわかっている入札は背任だといって、どんなに在庫があっても許さなかった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第4節 販売基盤の確立
    • [98]当時はセメント製造業者の金融が逼迫し、金策を大手問屋に依存する会社もあって、問屋側が換金を早めるために売り急ぎ市価の低落に拍車をかけた
    • [99]誠実・勤勉な中小販売店の自主的育成と健全取引の徹底により、当時業界を風靡した赤字乱売の影響を最小限にとどめることができた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第4節 販売基盤の確立
    • [84]当時の業界では小野田社が三井物産を、磐城社が三菱商事をそれぞれ総代理店として全国一手販売制を採っていた
    • [85]大手問屋は需要の媒介・信用の供与・情報の収集を主要業務とし、傘下にいくつかの二次店・小売店を抱えていた
    • [86]大手問屋は販売実績を積むとともにメーカーに対する発言力を強め、メーカーの販売方針の徹底を妨げることが少なくなかった
    • [87]秩父セメントは大手問屋制を採らず、流通機構の末端に近い中小販売店と直接取引する独自の方法を打ち出し、これを中小販売店主義と称した
    • [88]中小販売店主義は販売店の分布密度が高くなるため一駅一店主義とも呼ばれた
    • [89]販売基本構想は中小販売店主義・現金取引主義・直売主義の3本の柱で組み立てられていた
    • [90]現金取引主義は販売店との取引で前金取引または荷為替取引を原則とし、その後の事情に応じて約1か月分の取引高に相当する担保または保証を差し入れさせる方法だった
    • [91]諸井恒平は営業部長の深谷辰次郎に、三井高利が延宝年間に江戸で越後屋呉服店を開いたとき盆暮決済等の商慣行を破って現金取引主義を掲げた故知にならったと話した
    • [92]直売主義の対象は官公庁・大会社・大手請負業者等の大口引合で、当時も同業他社で直売は行われていたが秩父セメントほど重点を置いた会社はなかった
    • [93]販売三原則の実施構想は営業開始後約2年の販売経験を経て固められ、諸井貫一支配人によって体系づけられた
    • [94]1927年7月に高崎駐在の高田庫重と前橋駐在の志賀篤が赴任し、出張員制度が発足した
    • [98]当時はセメント製造業者の金融が逼迫し、金策を大手問屋に依存する会社もあって、問屋側が換金を早めるために売り急ぎ市価の低落に拍車をかけた
    • [99]誠実・勤勉な中小販売店の自主的育成と健全取引の徹底により、当時業界を風靡した赤字乱売の影響を最小限にとどめることができた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
    • [95]1929年から1930年は業界史に残る未曽有の乱売が行われた時期で、とくに1930年前半期は破壊的な様相を呈した
    • [96]市況混迷期に秩父セメントは「造るよりまず売る」をモットーとし、有利な注文引受けを充足する程度に生産を任意制限して採算を無視した乱売を避けた
  • 私の履歴書 経済人5 諸井貫一(日本経済新聞 1960年5月)
    • [97]諸井恒平は初めから赤字とわかっている入札は背任だといって、どんなに在庫があっても許さなかった

不況下の増設と、特殊セメントから二次製品へ

不況下でも設備は増やした。1927年に決めた第2次増設計画は回転窯3基を軸とするもので、途中で消極案に傾いた時期もあったが、不況期こそ増設の好機だという判断で当初予算を上回る積極案に決まった[100]。所要資金は未払込株金の徴収によらず、1927年11月に第二秩父セメントを設立して調達[101]し、翌1928年3月にこれを合併して資本金を1,200万円、株主を451人から800人に増やした[102]。1929年10月に第3・4号回転窯、1930年2月に第5号回転窯が完成[103]し、月産能力は4万トンを超えた。生産能力は一挙に4倍を超えたが、投下資本は2倍に達せず、従業員の増加は20%[104]にとどまった。1934年6月に完成した第3次増設で回転窯は6基、月産能力は7万トン[105]となった。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第3節 設備増強と技術の充実
    • [100]第2次増設計画は回転窯3基を中心とするもので、不況にかんがみ消極案に転じた時期もあったが、不況期こそ増設の好機であるとの長期的判断により当初予算を上回る積極案に決まった
    • [103]1929年10月に第3・4号回転窯が完成し、第5号回転窯は1930年2月に完成した
    • [104]第2次計画の完成により生産能力は一挙に4倍を超えたが、この間の投下資本は2倍を出ず、従業員の増加は20%に過ぎなかった
    • [105]1934年6月に完成した第3次増設計画により保有回転窯は6基、月産能力は7万トンとなった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
    • [101]増設所要資金の調達のため1927年11月17日に第二秩父セメントが設立された
    • [102]1928年3月1日に第二秩父セメントを合併し、資本金は1,200万円、株主数は合併前の451人から800人に増加した

増設と並行して製品を分けた。早強セメントは第2次増設でデンマークのエフ・エル・スミス社製の湿式ユナックスキルンを組み込んだときからの念願[106]で、1931年5月に試製へ着手し、1933年2月に「秩父高級セメント」の名で市場に出た[107]。売出し後まもなく京浜電気鉄道品川駅の改造工事に使われ[108]、新製品の評価を高めた。1935年6月に発売した「秩父硅酸セメント」[109]は、セメントの水和で生じる水酸化石灰とシリカ分が結びつくポゾラニック作用を利用したもので、長期強度が大きく水密性に富み、水和熱が低い[110]。1938年末に竣工した東京日比谷の第一生命館は皇居の内堀を隔てた立地で水の浸透が懸念された[111]が、30数年を経ても浸透はみられなかった。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第3節 設備増強と技術の充実
    • [106]早強セメントの製造は念願であり、第2次増設計画の新設回転窯3基のうち1基にデンマークのエフ・エル・スミス社製の湿式ユナックスキルンを含めたのはこのためだった
    • [107]早強セメントの試製着手は1931年5月で、市場への出荷は1933年2月、商品名は「秩父高級セメント」だった
    • [108]早強セメントは売出し後まもなく京浜電気鉄道品川駅の改造工事に使用され、新製品の評価を高めた
    • [109]シリカセメントを初めて市場に出荷したのは1935年6月で、商品名は「秩父硅酸セメント」だった
    • [110]シリカセメントはセメントの水和作用で生成する水酸化石灰とシリカ質混合材中のシリカ分が結合するポゾラニック作用を利用し、長期強度が大きく水密性に富み水和熱が低い
    • [111]1938年末に竣工した東京日比谷の第一生命館はシリカセメントが大量に使われた代表的構築物で、皇居の内堀を隔てた立地から水の浸透が懸念されたが30数年を経ても浸透はみられなかった

1934年の第3次計画完了を境に、増設から多角化へ方針を切り替えた[112]。1936年8月に本社へスレート部を置いて波形スレートの製造を始め[113]、発足から1年数か月後には抄造機6台・従業員185人、月10万枚を超える生産[114]に達した。1939年8月には石綿パイプ工場が完成し「チチブパイプ」の名で出荷[115]を始めた。1937年6月には定款の事業目的を「各種セメント及セメント加工品の製造販売並に工事の請負」と改め[116]、同時に会長制を新設して諸井恒平氏が会長、大友幸助氏が社長、諸井貫一氏が常務に就いた[117]。恒平氏はこの年75歳[118]で、健康を害して重役会を欠くことも多かった。1938年10月からは日本製鉄との共同で回転窯を用いたバッセー法製銑の試験[119]も引き受けた。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第1節 総観
    • [112]第3次計画の完工をもって従来の増設方針を転換し、以後は経営多角化の方向が打ち出された
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第2節 経営多角化
    • [113]1936年8月に本社にスレート部が設けられ波形スレートの製造が始まった
    • [114]波形スレートは発足後1年数か月を経た1938年初めには抄造機6台・従業員185人に達し、生産能力は月10万枚を超えた
    • [115]1939年8月に石綿パイプ工場が完成し、商品名は「チチブパイプ」と決定された
    • [119]1938年10月から日本製鉄との共同でセメント回転窯を用いたバッセー法製銑の試験が開始された
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第1節 総観
    • [116]1937年6月に定款を改正し、事業目的を「各種セメント及セメント加工品の製造販売並に工事の請負」と改めた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
    • [117]1937年6月の第29回定時株主総会で会長制新設の定款変更が決議され、取締役会長に諸井恒平、取締役社長に大友幸助、常務取締役に諸井貫一が就任した
    • [118]諸井恒平は1937年に満75歳を数え、それまでにも健康を害して重役会等を欠席することが多かった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第3節 設備増強と技術の充実
    • [100]第2次増設計画は回転窯3基を中心とするもので、不況にかんがみ消極案に転じた時期もあったが、不況期こそ増設の好機であるとの長期的判断により当初予算を上回る積極案に決まった
    • [103]1929年10月に第3・4号回転窯が完成し、第5号回転窯は1930年2月に完成した
    • [104]第2次計画の完成により生産能力は一挙に4倍を超えたが、この間の投下資本は2倍を出ず、従業員の増加は20%に過ぎなかった
    • [105]1934年6月に完成した第3次増設計画により保有回転窯は6基、月産能力は7万トンとなった
    • [106]早強セメントの製造は念願であり、第2次増設計画の新設回転窯3基のうち1基にデンマークのエフ・エル・スミス社製の湿式ユナックスキルンを含めたのはこのためだった
    • [107]早強セメントの試製着手は1931年5月で、市場への出荷は1933年2月、商品名は「秩父高級セメント」だった
    • [108]早強セメントは売出し後まもなく京浜電気鉄道品川駅の改造工事に使用され、新製品の評価を高めた
    • [109]シリカセメントを初めて市場に出荷したのは1935年6月で、商品名は「秩父硅酸セメント」だった
    • [110]シリカセメントはセメントの水和作用で生成する水酸化石灰とシリカ質混合材中のシリカ分が結合するポゾラニック作用を利用し、長期強度が大きく水密性に富み水和熱が低い
    • [111]1938年末に竣工した東京日比谷の第一生命館はシリカセメントが大量に使われた代表的構築物で、皇居の内堀を隔てた立地から水の浸透が懸念されたが30数年を経ても浸透はみられなかった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
    • [101]増設所要資金の調達のため1927年11月17日に第二秩父セメントが設立された
    • [102]1928年3月1日に第二秩父セメントを合併し、資本金は1,200万円、株主数は合併前の451人から800人に増加した
    • [117]1937年6月の第29回定時株主総会で会長制新設の定款変更が決議され、取締役会長に諸井恒平、取締役社長に大友幸助、常務取締役に諸井貫一が就任した
    • [118]諸井恒平は1937年に満75歳を数え、それまでにも健康を害して重役会等を欠席することが多かった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第1節 総観
    • [112]第3次計画の完工をもって従来の増設方針を転換し、以後は経営多角化の方向が打ち出された
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第2節 経営多角化
    • [113]1936年8月に本社にスレート部が設けられ波形スレートの製造が始まった
    • [114]波形スレートは発足後1年数か月を経た1938年初めには抄造機6台・従業員185人に達し、生産能力は月10万枚を超えた
    • [115]1939年8月に石綿パイプ工場が完成し、商品名は「チチブパイプ」と決定された
    • [119]1938年10月から日本製鉄との共同でセメント回転窯を用いたバッセー法製銑の試験が開始された
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第1節 総観
    • [116]1937年6月に定款を改正し、事業目的を「各種セメント及セメント加工品の製造販売並に工事の請負」と改めた

1940年〜 戦時統制からの復旧と、新工場より優先された既設の若返り整備

  1. 1940年 セメント共販の設立による一元配給への移行
  2. 1941年 創立者である諸井恒平会長の逝去
  3. 1946年 米第八軍からの横田基地向けセメント3万トンの条件付き受注
  4. 1948年 大友幸助社長の不慮の事故による急逝
  5. 1948年 諸井貫一常務の社長就任と4常務制の発足
  6. 1949年 常務会が決めた新工場建設案を翌日に覆し、既設工場の若返りを選ぶ 朝鮮動乱の増設競争に加わらず、5年かけて回転窯5基の並列運転へ——1949年の決定
  7. 1950年 セメントの配給・価格統制の解除と自由販売の復活

統制下の生産縮小と進駐軍セメントの受注

製銑試験は採算に乗らなかった。1938年10月から1941年3月までに11回行われ、出銑高はなまこ銑と屑銑を合わせて963トン[120]、生産原価が最も安かった回でも銑鉄1トンあたり370円で、当時の公定価格1トン90円との開き[121]は埋まらなかった。それでも試験を続けたのは、遊休設備の活用による銑鉄増産に対する政府の要請が強硬[122]だったためである。統制はさらに進む。1940年2月に商工省の半ば命令的な慫慂でセメント共販が設立され[123]、製造業者は自家用分を除くほぼ全量を共販会社に売り渡す義務を負った[124]。1943年には共販会社の直売制に改められ[125]、セメント各社は流通面から全面的に撤退して、自由経済時代に築いた販売店網を失った。1937年度に39万2,000トンだった生産高は、1945年度には8万5,000トン[126]まで落ちた。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第2節 経営多角化
    • [120]バッセー法製銑試験は1938年10月の第1回から1941年3月までに前後11回行われ、出銑高はなまこ銑のほか屑銑まで合わせて963トンだった
    • [121]生産原価がもっとも安かった第2回・第5回試験でも銑鉄1トン当たり370円で、当時の銑鉄の公定価格1トン90円とのひらきが大きく採算に合わなかった
    • [122]セメント業の遊休施設の活用による銑鉄増産に対する政府の態度はすこぶる強硬だった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第1節 総観
    • [123]セメント共販は1940年2月に国内のセメント需給不円滑に対処するため商工省の半ば命令的な慫慂により設立された
    • [124]セメント製造業者は少量の自家用分を除いて製造にかかわるセメントのほとんどすべてを共販会社に売り渡すことが義務づけられた
    • [125]1943年に製造業者の代行制をやめて共販会社の直売制に改められ、セメント各社は流通面から全面的に撤退して長年築いた販売店網を失った
    • [126]1937年度のセメント生産高は創業以来最高の39万2,000トンを記録したが、終戦の1945年度は8万5,000トンにすぎなかった

1946年4月、秩父工場は予告なしに2度の進駐軍ジープの来訪[127]を受けた。数日後、横浜の米第八軍司令部に呼ばれ、米連邦規格によるI型セメント3万トンを同年5月20日から出荷し可及的すみやかに米空軍横田基地へ納入せよ[128]という指令書を受領する。当時の工場は回転窯2基をかろうじて動かす状態で、クリンカーの生産は月1万から1万5,000トンが限界[129]とみられていた。I型セメントには高カロリーの石炭が要る[130]。それでも大友幸助社長は、指令書の履行に責任を負う以上その履行に必要な条件の供与を相手方に要求するのは当然であり、認められれば積極的に引き受けるべきだ[131]という立場を崩さなかった。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第3節 特需セメントの受注
    • [127]1946年4月、秩父工場は何の予告もなしに2度の進駐軍ジープの来訪を受けた
    • [128]指令書の内容は米連邦規格によるI型セメント3万トンを1946年5月20日から出荷し、可及的すみやかに米空軍横田基地の建設現場に納入せよというものだった
    • [129]当時の秩父工場はかろうじて回転窯2基運転の体制を整えたところで、クリンカー生産高は月1万から1万5,000トンが限界とみられていた
    • [130]I型セメントの生産には相当高カロリーの石炭の入手が絶対必要条件だった
    • [131]大友幸助社長は、指令書内容の履行に責任を負う立場である以上その履行に必要な条件の供与を相手方に要求するのは当然であり、認められれば積極的に生産を引き受けるべきだという考えを終始一貫させた

米第八軍に申し入れた条件は3つ[132]だった。平均6,000キロカロリー毎キログラム以上の石炭の所要量確保、高級潤滑油と石灰石・石膏の確保、配車その他輸送条件の確保[133]である。いずれも当然のこととして容認され[134]、受注が決まった。総量3万トンの納入は1946年9月初旬に完了[135]し、その後も基地向けの受注は増えて、進駐軍特需が全出荷高に占める割合は1946年度57%、1947年度76%、1948年度27%[136]に達した。占領軍との接触に消極的な同業が多かったなかで、条件の供与を前提に受注を申し入れた態度はかえって米軍当局の好感を買った[137]。品質と納期に厳しい条件が付いた[138]ため、工場の生産体制もこれによって整備が促された。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第3節 特需セメントの受注
    • [132]秩父セメントは米第八軍に対して指令引受けの条件として3条件を申し入れた
    • [133]米第八軍に申し入れた条件は、平均6,000Kcal/kg以上の石炭の所要量確保、高級潤滑油・石灰石・石膏等の所要量確保、配車その他輸送条件の確保の3つだった
    • [134]当社が要求した諸条件は米第八軍担当官によって当然のこととして容認され、受注が決まった
    • [135]横田空軍基地向けセメントは総量3万トンの納入を1946年9月初旬に終えた
    • [136]進駐軍特需セメント出荷高が全出荷高に占める割合は1946年度57%、1947年度76%、1948年度27%に達した
    • [137]業界では進駐軍との接触に消極的で折衝の場を嫌ったが、必要条件の供与を前提として積極的に受注を申し入れた態度はかえって米軍当局者の好感を買った
    • [138]進駐軍特需の受注には品質・納期等について厳しい条件が付けられていたため、工場生産体制の整備が促された
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第2節 経営多角化
    • [120]バッセー法製銑試験は1938年10月の第1回から1941年3月までに前後11回行われ、出銑高はなまこ銑のほか屑銑まで合わせて963トンだった
    • [121]生産原価がもっとも安かった第2回・第5回試験でも銑鉄1トン当たり370円で、当時の銑鉄の公定価格1トン90円とのひらきが大きく採算に合わなかった
    • [122]セメント業の遊休施設の活用による銑鉄増産に対する政府の態度はすこぶる強硬だった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第1節 総観
    • [123]セメント共販は1940年2月に国内のセメント需給不円滑に対処するため商工省の半ば命令的な慫慂により設立された
    • [124]セメント製造業者は少量の自家用分を除いて製造にかかわるセメントのほとんどすべてを共販会社に売り渡すことが義務づけられた
    • [125]1943年に製造業者の代行制をやめて共販会社の直売制に改められ、セメント各社は流通面から全面的に撤退して長年築いた販売店網を失った
    • [126]1937年度のセメント生産高は創業以来最高の39万2,000トンを記録したが、終戦の1945年度は8万5,000トンにすぎなかった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第3節 特需セメントの受注
    • [127]1946年4月、秩父工場は何の予告もなしに2度の進駐軍ジープの来訪を受けた
    • [128]指令書の内容は米連邦規格によるI型セメント3万トンを1946年5月20日から出荷し、可及的すみやかに米空軍横田基地の建設現場に納入せよというものだった
    • [129]当時の秩父工場はかろうじて回転窯2基運転の体制を整えたところで、クリンカー生産高は月1万から1万5,000トンが限界とみられていた
    • [130]I型セメントの生産には相当高カロリーの石炭の入手が絶対必要条件だった
    • [131]大友幸助社長は、指令書内容の履行に責任を負う立場である以上その履行に必要な条件の供与を相手方に要求するのは当然であり、認められれば積極的に生産を引き受けるべきだという考えを終始一貫させた
    • [132]秩父セメントは米第八軍に対して指令引受けの条件として3条件を申し入れた
    • [133]米第八軍に申し入れた条件は、平均6,000Kcal/kg以上の石炭の所要量確保、高級潤滑油・石灰石・石膏等の所要量確保、配車その他輸送条件の確保の3つだった
    • [134]当社が要求した諸条件は米第八軍担当官によって当然のこととして容認され、受注が決まった
    • [135]横田空軍基地向けセメントは総量3万トンの納入を1946年9月初旬に終えた
    • [136]進駐軍特需セメント出荷高が全出荷高に占める割合は1946年度57%、1947年度76%、1948年度27%に達した
    • [137]業界では進駐軍との接触に消極的で折衝の場を嫌ったが、必要条件の供与を前提として積極的に受注を申し入れた態度はかえって米軍当局者の好感を買った
    • [138]進駐軍特需の受注には品質・納期等について厳しい条件が付けられていたため、工場生産体制の整備が促された

社長交代と、常務会の結論を覆した1949年の決定

経営陣の交代は続いた。創立者の諸井恒平氏は1941年2月13日に78歳9か月で逝去[139]し、日本煉瓦製造・秩父鉄道との3社合同葬[140]が営まれた。戦後の再建を主宰した大友幸助氏も1948年4月9日、不慮の事故で急逝[141]する。同年6月15日の取締役会で諸井貫一氏が社長に就き[142]、大友恒夫氏ら4人の常務による4常務制が会社運営の基本体制[143]となった。労働組合は1946年5月1日の復活メーデーの日に工場と本社でそれぞれ結成[144]され、翌6月から7月にかけて労働協約が結ばれた。諸井貫一氏は日本経営者団体連盟の設立に参画して代表常任理事を長く務めており、その後の秩父セメントで労使紛争が起きたことはない[145]

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第1節 総観
    • [139]創立者の諸井恒平は1941年2月13日に逝去し、享年は78年9か月だった
    • [140]諸井恒平の葬儀は日本煉瓦製造・秩父鉄道と協議のうえ3社合同葬として営まれた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第1節 総観
    • [141]大友幸助社長は1948年4月9日に不慮の事故で急逝した
    • [142]1948年6月15日開催の取締役会で互選の結果、諸井貫一常務が取締役社長に就任した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第2節 再出発
    • [143]諸井貫一社長の就任時に大友恒夫・堀口信・山内冨之助・吉井勝哉の4取締役が常務に選任され、4常務制が会社運営の基本体制として確立した
    • [144]秩父セメント工場労働組合と本社従業員組合は1946年5月1日の戦後復活メーデーの日に結成された
    • [145]諸井貫一は日本経営者団体連盟の設立に参画して代表常任理事を長く務め、同社では労使間に紛争事件が発生したことはない

1949年上期、戦後の復旧がようやく回転窯3基の運転にこぎつけた段階[146]で、次の設備をどうするかが常務会に諮られた。当時の工場は回転窯5基に対しボイラーが小型6缶しかなく、実質3基分の容量を共通煙道の操作でやりくりしていた[147]。これ以上の増産には新設に等しい大改造[148]が要る。大改造か新工場建設かで議論は割れ、最後は山内常務が提案した新工場建設案に4常務が賛成して結論は出たものとみられた[149]。ところが翌日、諸井貫一社長が前日の結論への反対を唱えた[150]。骨は折れても大改造を先にやるべきで、新工場は後回しにすべき[151]だという主張である。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画(社報特集号 1968年6月)
    • [146]1949年上期は戦後の荒廃した工場の復旧を始めて回転窯3基程度の運転が可能となった状態だった
    • [147]当時の工場は回転窯5基に対しボイラーが小型6缶(実質3基分)しかなく、共通煙道の操作によって運転を続けていた
    • [148]ほとんど新設に等しい大改造を行わなければこれ以上の増産は不可能という状態にあった
    • [149]常務会の議論は最後に山内常務が提案した新工場建設案に傾き、少なくとも4常務がこれに賛成して結論が出たものとみられた
    • [150]翌日になると諸井貫一社長から前日の結論への反対論が出され、骨が折れても大改造をやるべきで新工場は後回しにすべきだと諄々と説かれた
    • [151]諸井貫一社長は、只今の状態では骨が折れても大改造をやるべきで新工場は後まわしにすべきだと説いた

社長の理屈は明快だった。ここで新工場に取りかかれば旧工場の再建整備の機会は永久に失われる[152]。いま若返り整備を講じれば生産能力は明らかに倍増し[153]、そのうえで新工場にかかれば資金的にも技術的にも十分な準備をもって当たれる。大友恒夫氏は後年これを「重大なデシジョンの瞬間」(社報特集号 1968/6)[154]と題して書き残している。工事は第8期にあたる第1・2号ボイラの解体新設が核心だったことから、社内では⑧工事と呼ばれた[155]。1950年6月の朝鮮動乱を機に同業各社が回転窯の増設に走るなかで、秩父セメントは既定方針を守って改造を続けた[156]。所要資金は多額に上ったが、若返り効果が途中から現れ、すべてを社内に留保した利益でまかなったうえ多額の償却も進めた[157]

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画
    • [152]諸井貫一社長の基本的な考えは、ここで新工場の建設にとりかかれば旧工場の再建整備の機を永久に逸すること、いま若返り整備補強策を講ずれば生産能力は明らかに倍増し、そのうえで新工場の建設にかかれば資金的にも技術的にも十分の準備と余裕をもって当たれることにあった
    • [153]いま旧工場の若返り整備補強策を講ずればその生産能力は明らかに倍増し、そのうえで新工場の建設にかかれば資金的にも技術的にも十分の準備と余裕をもって当たれるという判断だった
    • [155]若返り整備計画は第1期から第15期工事に分かれ、核心的工事であった第1・2号ボイラの解体ならびに新設工事が第8期工事だったため、社内では若返り整備工事全体を⑧工事と呼ぶようになった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画(社報特集号 1968年6月)
    • [154]大友恒夫は社報特集号でこの決定を「重大なデシジョンの瞬間」と題して回想した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第1節 総観
    • [156]1950年6月の朝鮮動乱ブームを迎えて同業各社は回転窯の増設による即効的な生産増強を企図したが、秩父セメントは既定方針を堅持した
    • [157]計画工事の遂行に要する莫大な資金のすべてを社内留保でまかない、その間に多額の償却を続けて工事を完了した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第1節 総観
    • [139]創立者の諸井恒平は1941年2月13日に逝去し、享年は78年9か月だった
    • [140]諸井恒平の葬儀は日本煉瓦製造・秩父鉄道と協議のうえ3社合同葬として営まれた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第1節 総観
    • [141]大友幸助社長は1948年4月9日に不慮の事故で急逝した
    • [142]1948年6月15日開催の取締役会で互選の結果、諸井貫一常務が取締役社長に就任した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第2節 再出発
    • [143]諸井貫一社長の就任時に大友恒夫・堀口信・山内冨之助・吉井勝哉の4取締役が常務に選任され、4常務制が会社運営の基本体制として確立した
    • [144]秩父セメント工場労働組合と本社従業員組合は1946年5月1日の戦後復活メーデーの日に結成された
    • [145]諸井貫一は日本経営者団体連盟の設立に参画して代表常任理事を長く務め、同社では労使間に紛争事件が発生したことはない
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画(社報特集号 1968年6月)
    • [146]1949年上期は戦後の荒廃した工場の復旧を始めて回転窯3基程度の運転が可能となった状態だった
    • [147]当時の工場は回転窯5基に対しボイラーが小型6缶(実質3基分)しかなく、共通煙道の操作によって運転を続けていた
    • [148]ほとんど新設に等しい大改造を行わなければこれ以上の増産は不可能という状態にあった
    • [149]常務会の議論は最後に山内常務が提案した新工場建設案に傾き、少なくとも4常務がこれに賛成して結論が出たものとみられた
    • [150]翌日になると諸井貫一社長から前日の結論への反対論が出され、骨が折れても大改造をやるべきで新工場は後回しにすべきだと諄々と説かれた
    • [151]諸井貫一社長は、只今の状態では骨が折れても大改造をやるべきで新工場は後まわしにすべきだと説いた
    • [154]大友恒夫は社報特集号でこの決定を「重大なデシジョンの瞬間」と題して回想した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画
    • [152]諸井貫一社長の基本的な考えは、ここで新工場の建設にとりかかれば旧工場の再建整備の機を永久に逸すること、いま若返り整備補強策を講ずれば生産能力は明らかに倍増し、そのうえで新工場の建設にかかれば資金的にも技術的にも十分の準備と余裕をもって当たれることにあった
    • [153]いま旧工場の若返り整備補強策を講ずればその生産能力は明らかに倍増し、そのうえで新工場の建設にかかれば資金的にも技術的にも十分の準備と余裕をもって当たれるという判断だった
    • [155]若返り整備計画は第1期から第15期工事に分かれ、核心的工事であった第1・2号ボイラの解体ならびに新設工事が第8期工事だったため、社内では若返り整備工事全体を⑧工事と呼ぶようになった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第1節 総観
    • [156]1950年6月の朝鮮動乱ブームを迎えて同業各社は回転窯の増設による即効的な生産増強を企図したが、秩父セメントは既定方針を堅持した
    • [157]計画工事の遂行に要する莫大な資金のすべてを社内留保でまかない、その間に多額の償却を続けて工事を完了した

若返りの成果と建築家を迎えた秩父第二工場

結果は数字に出た。工事の主目標は回転窯の機能強化と並列運転体制の実現にあり、第1〜4号回転窯の胴体延長と、第1〜5号回転窯へのエアクエンチングクーラの取付け[158]が行われた。採用したスミス社のフォーラックスクーラはわが国で初めて使われ、急冷性と熱回収性で焼成能率を高めた[159]。1952年秋には回転窯5基の並列運転が実現[160]し、1954年5月には7万2,000トンの生産実績を上げて月産能力7万トンの国内最大工場となった[161]。回転窯の新設を伴わないため生産高の伸びは同業他社をやや下回ったが、1950年から1954年の生産高は年平均約23%増え、1954年度には70万トンを超えた[162]。工事の完工は1955年上期[163]である。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画
    • [158]若返り整備計画の主要目標は回転窯の機能強化と並列運転体制の実現に必要な付帯設備の抜本的整備にあり、第1〜4号回転窯の胴体延長と第1〜5号回転窯へのエアクエンチングクーラ取付けが行われた
    • [159]採用したエアクエンチングクーラはスミス社のフォーラックスクーラでわが国で初めて使用され、効率の高い急冷性と熱回収性で焼成能率の向上に寄与した
    • [160]1952年秋に回転窯5基の並列運転が実現した
    • [161]1954年5月には7万2,000トンの生産実績を上げ、月産能力7万トンを擁する本邦最大の工場になった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第1節 総観
    • [162]1950年から1954年の生産高は年平均約23%の増伸を続け、1954年度には70万トンを超えた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第3節 生産態勢充実
    • [163]若返り整備工事は1955年上期に完工した

新工場の意図が公にされたのは1953年5月9日、創立30周年記念式典の式辞[164]である。1954年11月に起工した秩父第二工場では、東京工業大学の二見秀雄・谷口吉郎・加藤六美の3教授を委員に加えた第二工場建設委員会が設けられ、最終回までに53回[165]を数えた。敷地は28万500平方メートルと従来のセメント工場の常識を破る広さ[166]で、レイアウトは回転窯4基以上の備付けを前提に決められた[167]。主要機械と基本設計はデンマークのエフ・エル・スミス社に一括して依頼[168]した。1956年4月から5月にかけて第1・2号回転窯が火入れされ[169]、直径3.75メートル・長さ170メートルの湿式ロングキルンは当時のわが国で最新鋭かつ最大のもの[170]だった。谷口教授はこの工場の設計により1956年度の日本建築学会作品賞[171]を受けた。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第4節 創立30周年
    • [164]諸井貫一社長が新工場建設の意図を初めて表明したのは1953年5月9日の創立30周年記念式典の式辞である
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第2節 秩父第二工場の建設
    • [165]第二工場建設委員会には東京工業大学の二見秀雄・谷口吉郎・加藤六美の3教授が委員として加わり、委員会は1956年3月の最終回までに53回を数えた
    • [166]秩父第二工場の敷地総面積は約28万500平方メートル(8万5,000坪)で従来のセメント工場の常識を破る広大なものだった
    • [167]委員会で決定された基本事項の第一は、工場のレイアウトを回転窯4基以上の備付けを前提とすることだった
    • [168]回転窯をはじめ原料粉末機・冷却機・仕上粉末機等の主要機械はすべてデンマークのエフ・エル・スミス社製が採用され、工場基本設計も同社に依頼された
    • [169]1956年4月から5月にかけて秩父第二工場の第1・2号回転窯が相ついで火入れされた
    • [170]秩父第二工場の回転窯は直径3.75メートルおよび3.45メートル、長さ170メートルの湿式ロングキルンで、当時のわが国では最新鋭・最大のものだった
    • [171]谷口吉郎教授は設計・意匠の面での力作『秩父セメント第二工場』により1956年度の日本建築学会作品賞を受賞した

第二工場が持ち込んだもう一つの新しさは制御である。わが国で初めてセメント工場にオートメーションを採り入れ、必要な計器類をすべてパネルに組み込むグラフィックパネル方式の中央管理を実現[172]した。勘に頼って運転していた回転窯が計器の指示で動くようになり、以後この会社は業界におけるオートメーションのペースメーカー[173]になる。1958年6月には第2期工事が完成して回転窯4基・月産能力10万トンとなり[174]、翌年からは中庸熱セメントと高炉セメントの販売も始めた。1958年11月に納入を開始した建設省二瀬ダム向け高炉セメント8万4,000トンは創業以来の大口成約で、工場一次出荷における初のバラトラック大量輸送[175]でもあった。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第2節 秩父第二工場の建設
    • [172]秩父第二工場でわが国で初めてセメント工場のオートメーションが採り入れられ、焼成部門ではわが国初のグラフィックパネルによる中央管理方式が採用された
    • [173]従来は勘に頼って運転していたキルンが計器の指示によって運転されるようになり、秩父セメントは業界におけるオートメーションのペースメーカーとなった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第1節 総観
    • [174]1958年6月に秩父第二工場の第2期工事が完成し、回転窯4基・月産能力10万トンの新鋭工場となった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第5節 販売体制の進展
    • [175]1958年11月に納入を開始した建設省関東地方建設局二瀬ダム向け高炉セメント8万4,000トンは創業以来の大口成約であり、工場一次出荷における初のバラトラックによる大量出荷でもあった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画
    • [158]若返り整備計画の主要目標は回転窯の機能強化と並列運転体制の実現に必要な付帯設備の抜本的整備にあり、第1〜4号回転窯の胴体延長と第1〜5号回転窯へのエアクエンチングクーラ取付けが行われた
    • [159]採用したエアクエンチングクーラはスミス社のフォーラックスクーラでわが国で初めて使用され、効率の高い急冷性と熱回収性で焼成能率の向上に寄与した
    • [160]1952年秋に回転窯5基の並列運転が実現した
    • [161]1954年5月には7万2,000トンの生産実績を上げ、月産能力7万トンを擁する本邦最大の工場になった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第1節 総観
    • [162]1950年から1954年の生産高は年平均約23%の増伸を続け、1954年度には70万トンを超えた
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第3節 生産態勢充実
    • [163]若返り整備工事は1955年上期に完工した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第4節 創立30周年
    • [164]諸井貫一社長が新工場建設の意図を初めて表明したのは1953年5月9日の創立30周年記念式典の式辞である
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第2節 秩父第二工場の建設
    • [165]第二工場建設委員会には東京工業大学の二見秀雄・谷口吉郎・加藤六美の3教授が委員として加わり、委員会は1956年3月の最終回までに53回を数えた
    • [166]秩父第二工場の敷地総面積は約28万500平方メートル(8万5,000坪)で従来のセメント工場の常識を破る広大なものだった
    • [167]委員会で決定された基本事項の第一は、工場のレイアウトを回転窯4基以上の備付けを前提とすることだった
    • [168]回転窯をはじめ原料粉末機・冷却機・仕上粉末機等の主要機械はすべてデンマークのエフ・エル・スミス社製が採用され、工場基本設計も同社に依頼された
    • [169]1956年4月から5月にかけて秩父第二工場の第1・2号回転窯が相ついで火入れされた
    • [170]秩父第二工場の回転窯は直径3.75メートルおよび3.45メートル、長さ170メートルの湿式ロングキルンで、当時のわが国では最新鋭・最大のものだった
    • [171]谷口吉郎教授は設計・意匠の面での力作『秩父セメント第二工場』により1956年度の日本建築学会作品賞を受賞した
    • [172]秩父第二工場でわが国で初めてセメント工場のオートメーションが採り入れられ、焼成部門ではわが国初のグラフィックパネルによる中央管理方式が採用された
    • [173]従来は勘に頼って運転していたキルンが計器の指示によって運転されるようになり、秩父セメントは業界におけるオートメーションのペースメーカーとなった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第1節 総観
    • [174]1958年6月に秩父第二工場の第2期工事が完成し、回転窯4基・月産能力10万トンの新鋭工場となった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第5節 販売体制の進展
    • [175]1958年11月に納入を開始した建設省関東地方建設局二瀬ダム向け高炉セメント8万4,000トンは創業以来の大口成約であり、工場一次出荷における初のバラトラックによる大量出荷でもあった

1958年〜 計算機とSF焼成法に賭けた30年と、系列を跨いだ越境合併

秩父セメントの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1958年 秩父第二工場第2期工事の完成、回転窯4基・月産能力10万トン
  2. 1962年 熊谷工場第1号回転窯の火入れ、設備は重油専焼で設計
  3. 1962年 熊谷工場へのプロセスコントロール用コンピュータの導入
  4. 1967年 熊谷工場第2期工事の完成、月産能力55万トン
  5. 1968年 諸井貫一社長の会長就任と大友恒夫専務の社長就任
  6. 1972年 小型テスト窯を飛ばし、実用窯で開発したSF式セメント焼成法 回転窯の大型化が直径6メートルで限界に達したあと、石川島播磨重工業と組んで出した答え
  7. 1994年 小野田セメントとの合併による秩父小野田の発足

世界に先んじて計算機を入れた熊谷工場

第三の工場は消費地に寄せた。1959年10月、首都圏整備法により三ケ尻地区が工場団地に指定されたとして熊谷市長が秩父第一工場を訪ね[176]、進出の意志があれば全面的に協力すると申し入れた。秩父の2工場は原料に近い代わりに輸送で制約を受けており、大消費地に近く鉄道と道路の便に恵まれた土地[177]が求められていた。1960年1月末に214人の全地主の承諾を得て41万2,500平方メートルの敷地が確定[178]し、同年11月3日に起工した[179]。1962年7月8日に第1号回転窯が火入れされ、8月3日に製品を初出荷[180]した。1961年10月25日には東京証券取引所市場第二部に株式が上場[181]された。上場当日の株価は770円[182]で、前後の変動はほとんどみられなかった。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第2節 熊谷工場の建設
    • [176]1959年10月、首都圏整備法に基づき熊谷市三ケ尻地区が工場団地に指定されたとして栗原熊谷市長が秩父第一工場を訪れ、進出の意志があれば工場誘致に全面的に協力すると申し入れた
    • [177]秩父第一工場と第二工場は原材料・製品の輸送量と輸送費の両面で工場が秩父地区に位置する立地上の制約を受けることが多く、新設する第三工場は大消費地に近接し鉄道・道路輸送の便に恵まれた地域を指向する構想が生まれた
    • [178]1960年1月末に214人におよぶ全地主の承諾を得て41万2,500平方メートル(12万5,000坪)の工場敷地が確定した
    • [179]熊谷工場は1960年11月3日に起工式を行った
    • [180]熊谷工場の第1号回転窯は1962年7月8日に火入れされ、8月3日に製品を初出荷した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第1節 総観
    • [181]1961年10月25日から秩父セメントの株式が東京証券取引所市場第二部に上場された
    • [182]上場当日の株価は770円で、上場前後の株価の変動はほとんど見られなかった

熊谷工場では計算機による工程制御に踏み込んだ。1960年夏に米国TRW社が秩父の両工場を予備調査し導入の利点を認めたが、建設が具体化していた熊谷工場へ先に入れる判断[183]が下された。コンピュータRW-300の通電式は1962年10月[184]に行われ、1963年秋に原料調合制御、1965年初にキルン制御が軌道に乗った。プロセスコントロールシステムのセメント工場への導入は当時の米国に乾式法の1例があるだけで、湿式法では前例がなく、この導入は世界に先鞭をつけるもの[185]となった。1965年4月には自社技術陣が開発した「セメント製造工程の計算機制御方式の開発」が第11回大河内記念生産賞[186]を受けた。1967年5月の第2期工事完成により、同社の月産能力は55万トンに達した[187]

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第2節 熊谷工場の建設
    • [183]1960年夏に米国TRW社が秩父第一・第二工場について予備調査を行い、導入した場合のメリットが少なくないとの結論を得たが、建設が具体化していた熊谷工場へ先に導入することとなった
    • [184]コンピュータRW-300は1962年10月に熊谷工場中央管理室で通電式が行われ、1963年秋にオートロメータと連結して原料調合制御が始まり、1965年早々にキルン制御が軌道に乗った
    • [185]コンピュータによるプロセスコントロールシステムのセメント工場への導入は当時の米国に乾式法の1例があったが湿式法には例がなく、秩父セメントの導入は世界に先鞭をつけるものだった
    • [186]1965年4月、当社技術陣が開発した「セメント製造工程の計算機制御方式の開発」が第11回大河内記念生産賞を受賞した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第1節 総観
    • [187]熊谷工場の完成と秩父第一工場の設備増強により、同社の月産能力は一挙に2.6倍の55万トンとなった

1968年3月、諸井貫一氏が会長に退き、大友恒夫氏が社長に就いた[188]。諸井貫一会長は同年5月21日に71歳7か月で逝去[189]する。社長在任は20年に及び[190]、この間に秩父第一工場の復興、秩父第二工場と熊谷工場の建設を完工した。大友社長が就任後まず取り上げたのは販売体制の刷新で、なかでも重点が置かれたのは生コンクリート対策[191]だった。同社の生コン事業は1961年10月の秩父生コン浦和工場の操業に始まるが、業界の生コン転化率がすでに13%に達していた時期であり、発足は出遅れていた[192]。1968年に積極的育成へ方針を転換すると、系列生コン工場は1967年の103工場から1972年には295工場へ増え[193]、生コン向け販売高は290万トンを超えて全販売高の51.4%を占めた[194]。1972年6月には本社・3工場・7営業所を結ぶ営業オンラインシステムを業界に先がけて実施[195]した。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第2節 経営新体制
    • [188]1968年3月に諸井貫一社長が会長に退き、大友恒夫専務が社長に就任した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第1節 総観
    • [189]諸井貫一会長は1968年5月21日に東京都文京区本郷の自宅で逝去し、享年は71年7か月だった
    • [190]諸井貫一の社長在任は1948年の就任以来20年の長きにわたり、この間に秩父第一工場の復興に続いて秩父第二工場・熊谷工場の建設を相ついで完工した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第3節 販売体制の確立
    • [191]大友社長が就任後最初に取り上げたのは販売体制の刷新強化で、最も重点的な対象となったのは生コン対策だった
    • [192]秩父セメントの生コン事業の実質的な発足は1961年10月の秩父生コン浦和工場の操業開始で、当時の業界の生コン転化率はすでに13%に達しており発足は出遅れていた
    • [193]系列生コン工場は1967年の103工場から1972年には295工場に増加した
    • [194]1972年の生コン向け販売高は290万トンを超え、全販売高の51.4%を占めた
    • [195]業界に先がけて1972年6月に本社・3工場・7営業所を結ぶ営業オンラインシステムが実施された
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第2節 熊谷工場の建設
    • [176]1959年10月、首都圏整備法に基づき熊谷市三ケ尻地区が工場団地に指定されたとして栗原熊谷市長が秩父第一工場を訪れ、進出の意志があれば工場誘致に全面的に協力すると申し入れた
    • [177]秩父第一工場と第二工場は原材料・製品の輸送量と輸送費の両面で工場が秩父地区に位置する立地上の制約を受けることが多く、新設する第三工場は大消費地に近接し鉄道・道路輸送の便に恵まれた地域を指向する構想が生まれた
    • [178]1960年1月末に214人におよぶ全地主の承諾を得て41万2,500平方メートル(12万5,000坪)の工場敷地が確定した
    • [179]熊谷工場は1960年11月3日に起工式を行った
    • [180]熊谷工場の第1号回転窯は1962年7月8日に火入れされ、8月3日に製品を初出荷した
    • [183]1960年夏に米国TRW社が秩父第一・第二工場について予備調査を行い、導入した場合のメリットが少なくないとの結論を得たが、建設が具体化していた熊谷工場へ先に導入することとなった
    • [184]コンピュータRW-300は1962年10月に熊谷工場中央管理室で通電式が行われ、1963年秋にオートロメータと連結して原料調合制御が始まり、1965年早々にキルン制御が軌道に乗った
    • [185]コンピュータによるプロセスコントロールシステムのセメント工場への導入は当時の米国に乾式法の1例があったが湿式法には例がなく、秩父セメントの導入は世界に先鞭をつけるものだった
    • [186]1965年4月、当社技術陣が開発した「セメント製造工程の計算機制御方式の開発」が第11回大河内記念生産賞を受賞した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第1節 総観
    • [181]1961年10月25日から秩父セメントの株式が東京証券取引所市場第二部に上場された
    • [182]上場当日の株価は770円で、上場前後の株価の変動はほとんど見られなかった
    • [187]熊谷工場の完成と秩父第一工場の設備増強により、同社の月産能力は一挙に2.6倍の55万トンとなった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第2節 経営新体制
    • [188]1968年3月に諸井貫一社長が会長に退き、大友恒夫専務が社長に就任した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第1節 総観
    • [189]諸井貫一会長は1968年5月21日に東京都文京区本郷の自宅で逝去し、享年は71年7か月だった
    • [190]諸井貫一の社長在任は1948年の就任以来20年の長きにわたり、この間に秩父第一工場の復興に続いて秩父第二工場・熊谷工場の建設を相ついで完工した
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第3節 販売体制の確立
    • [191]大友社長が就任後最初に取り上げたのは販売体制の刷新強化で、最も重点的な対象となったのは生コン対策だった
    • [192]秩父セメントの生コン事業の実質的な発足は1961年10月の秩父生コン浦和工場の操業開始で、当時の業界の生コン転化率はすでに13%に達しており発足は出遅れていた
    • [193]系列生コン工場は1967年の103工場から1972年には295工場に増加した
    • [194]1972年の生コン向け販売高は290万トンを超え、全販売高の51.4%を占めた
    • [195]業界に先がけて1972年6月に本社・3工場・7営業所を結ぶ営業オンラインシステムが実施された

SF焼成法の共同開発と、財界で発言する経営者

技術では焼成法に踏み込んだ。1971年5月から秩父第一工場の第7号回転窯を使い、石川島播磨重工業との共同研究[196]が始まる。目的は気流炉によるセメント焼成法の研究で、共同研究は成功し、1972年7月にSF式セメント焼成法の共同開発をもたらした[197]。この方式はサスペンションプレヒータ付きキルンに改良を加えたもので、プレヒータと回転窯の間に別個の熱源による仮焼装置を組み込み、回転窯の熱負荷を軽減して生産高を高める[198]。ほぼ時を同じくして国内で類似の新焼成法3件が開発され、これらは一括してNSP方式と呼ばれるようになった[199]。同社は新焼成法をただちに大型機へ具現することとし、1972年11月には熊谷工場第6号回転窯のSF化工事に着手[200]した。

  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第1節 総観
    • [196]1971年5月から秩父第一工場第7号回転窯による秩父セメントと石川島播磨重工業との共同研究が開始され、気流炉によるセメント焼成法の研究を目的としていた
    • [197]共同研究は成功し、1972年7月に画期的なSFセメント焼成法の共同開発をもたらした
    • [198]SF式セメント焼成法はSP方式に改良を加えたもので、SPと回転窯との間に別個の熱源による仮焼装置を組み込むことで回転窯の熱負荷を軽減し生産高を飛躍的に高める
    • [199]SF式焼成法とほとんど時を同じくしてわが国では類似の新焼成法3件が開発され、これらを一括してNSP方式と呼称されるようになった
    • [200]秩父セメントは新焼成法を直ちに大型機に具現することとし、1972年11月に熊谷工場第6号回転窯のSF化工事に着手した

1976年に社長となり1986年から会長を務めた諸井虔氏[201]は、社外での発言で知られた。1928年4月に東京で生まれ、1953年に東京大学経済学部を卒業して日本興業銀行に入行[202]し、調査役まで務めたのち1967年に秩父セメントへ移って社長秘書を務めた[203]。1985年4月から1988年12月まで経済同友会の副代表幹事を務め[204]、農業近代化を考える委員会の委員長として、コメの生産コストを5年以内に半減できないかと提言した[205]。中核農家へ農地を集約するには税制が壁になるとして、農地として保有すれば固定資産税も相続税も有利になる仕組みを見直すよう求め、「550万ヘクタールを確保していくという現在の農地法の基本的な考え方」(日経ビジネス 1989/10/16)[206]そのものの再検討まで踏み込んだ。

  • 日経ビジネス 1989年10月16日号増刊号 p57 諸井虔・秩父セメント会長 農地法を見直せ
    • [201]諸井虔は1976年に秩父セメント社長に就任し、1986年から会長を務めた
    • [202]諸井虔は1928年4月に東京都で生まれ、1953年に東京大学経済学部を卒業して日本興業銀行に入行した
    • [204]諸井虔は1985年4月から1988年12月まで経済同友会の副代表幹事を務めた
    • [205]諸井虔が農業委員長を務めた経済同友会は、コメの生産コストを5年以内に現在の半分にできないかと提言した
    • [206]諸井虔は農地として保有すれば固定資産税も相続税も有利になる現行制度が農地の集約化を妨げていると指摘し、550万ヘクタールを確保するという農地法の基本的な考え方を見直すべきだと主張した
  • 日経ビジネス 1991年7月8日号 p82 21世紀へ 諸井虔[秩父セメント会長]
    • [203]諸井虔は日本興業銀行で調査役まで勤めたのち1967年に秩父セメントに入社し、まず社長秘書を務めた

一方、本業の数字は縮んでいた。会社年鑑1986年版によれば、単体売上高は1981年5月期の862億円を頂点に3年続けて減り、1984年5月期は717億円まで落ちた[207]。同期の売上構成はセメントが694億円で97%を占め、その他は22億円[208]にすぎない。同じ年鑑に載る他の5社の依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、日本セメント80%、住友セメント93%[209]であり、秩父セメントは6社のうち最も規模が小さく、最もセメントに寄りかかっていた。1991年6月には栗原隆専務が社長に就いた[210]。1932年に東京で生まれ、1956年に横浜国立大学経済学部を卒業して入社し[211]、1979年からは経営不振に陥った系列の敦賀セメントに社長室長として出向した経歴[212]を持つ。

  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5236 秩父セメント
    • [207]秩父セメントの単体売上高は1981年5月期の862億4,300万円を頂点に3年続けて減少し、1984年5月期は716億8,100万円だった
    • [208]1984年5月期の売上構成はセメント694億5,000万円で97%を占め、その他は22億3,000万円だった
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5231 日本セメント・5232 住友セメント・5233 小野田セメント・5238 三菱鉱業セメント
    • [209]同じ会社年鑑に載る直近期のセメント依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、日本セメント80%、住友セメント93%だった
  • 日経ビジネス 1991年8月5日・12日号 p106 栗原氏[秩父セメント]登場
    • [210]1991年6月に栗原隆専務が秩父セメント社長に就任した
    • [211]栗原隆は1932年に東京都で生まれ、1956年に横浜国立大学経済学部を卒業して同年秩父セメントに入社した
    • [212]栗原隆は1977年の第1次石油ショック後に経営不振に陥った系列の敦賀セメントへ社長室長として出向し、1979年に同社取締役となった
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第1節 総観
    • [196]1971年5月から秩父第一工場第7号回転窯による秩父セメントと石川島播磨重工業との共同研究が開始され、気流炉によるセメント焼成法の研究を目的としていた
    • [197]共同研究は成功し、1972年7月に画期的なSFセメント焼成法の共同開発をもたらした
    • [198]SF式セメント焼成法はSP方式に改良を加えたもので、SPと回転窯との間に別個の熱源による仮焼装置を組み込むことで回転窯の熱負荷を軽減し生産高を飛躍的に高める
    • [199]SF式焼成法とほとんど時を同じくしてわが国では類似の新焼成法3件が開発され、これらを一括してNSP方式と呼称されるようになった
    • [200]秩父セメントは新焼成法を直ちに大型機に具現することとし、1972年11月に熊谷工場第6号回転窯のSF化工事に着手した
  • 日経ビジネス 1989年10月16日号増刊号 p57 諸井虔・秩父セメント会長 農地法を見直せ
    • [201]諸井虔は1976年に秩父セメント社長に就任し、1986年から会長を務めた
    • [202]諸井虔は1928年4月に東京都で生まれ、1953年に東京大学経済学部を卒業して日本興業銀行に入行した
    • [204]諸井虔は1985年4月から1988年12月まで経済同友会の副代表幹事を務めた
    • [205]諸井虔が農業委員長を務めた経済同友会は、コメの生産コストを5年以内に現在の半分にできないかと提言した
    • [206]諸井虔は農地として保有すれば固定資産税も相続税も有利になる現行制度が農地の集約化を妨げていると指摘し、550万ヘクタールを確保するという農地法の基本的な考え方を見直すべきだと主張した
  • 日経ビジネス 1991年7月8日号 p82 21世紀へ 諸井虔[秩父セメント会長]
    • [203]諸井虔は日本興業銀行で調査役まで勤めたのち1967年に秩父セメントに入社し、まず社長秘書を務めた
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5236 秩父セメント
    • [207]秩父セメントの単体売上高は1981年5月期の862億4,300万円を頂点に3年続けて減少し、1984年5月期は716億8,100万円だった
    • [208]1984年5月期の売上構成はセメント694億5,000万円で97%を占め、その他は22億3,000万円だった
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5231 日本セメント・5232 住友セメント・5233 小野田セメント・5238 三菱鉱業セメント
    • [209]同じ会社年鑑に載る直近期のセメント依存度は三菱鉱業セメント53%、小野田セメント76%、日本セメント80%、住友セメント93%だった
  • 日経ビジネス 1991年8月5日・12日号 p106 栗原氏[秩父セメント]登場
    • [210]1991年6月に栗原隆専務が秩父セメント社長に就任した
    • [211]栗原隆は1932年に東京都で生まれ、1956年に横浜国立大学経済学部を卒業して同年秩父セメントに入社した
    • [212]栗原隆は1977年の第1次石油ショック後に経営不振に陥った系列の敦賀セメントへ社長室長として出向し、1979年に同社取締役となった

系列を跨いで小野田セメントと合併するまで

1994年10月、秩父セメントは小野田セメントと合併し、秩父小野田が発足[213]した。合併後の国内シェアは24%で業界首位[214]となる。存続会社は1881年に山口県で創業した小野田セメント[215]側であり、1923年1月の創立総会から71年続いた秩父セメントの商号はここで消えた[216]。会社年鑑1986年版に載る直近期の単体売上高で見ると、小野田セメントの2,027億円に対して秩父セメントは717億円[217]で、規模はおよそ3分の1だった。同じ1994年10月には住友セメントと大阪セメントも共販を解消して合併[218]した。

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)通史 p105 創造的革新に挑む
    • [213]1994年10月に小野田セメントが秩父セメントを合併して秩父小野田が発足した
    • [214]合併後の国内シェアは24%でトップとなった
    • [215]小野田セメントは1881年5月に山口県小野田で創業した
    • [216]秩父セメントは1923年1月の創立総会から1994年10月の合併まで71年にわたり商号を保った
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5233 小野田セメント・5236 秩父セメント
    • [217]会社年鑑1986年版の直近期単体売上高は小野田セメント2,027億4,500万円、秩父セメント716億8,100万円だった
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)通史 p14 事業再構築の試み
    • [218]1994年10月に住友セメントと大阪セメントも共販を解消して合併した

この合併が業界で注目されたのは規模だけではない。小野田セメントは三井グループ、秩父セメントは第一勧業銀行グループ[219]に属しており、系列を跨いだ組み合わせだった。住友セメントと大阪セメントの合併が住友グループ内の再編だった[220]のとは対照的である。秩父小野田はさらに4年後の1998年10月、芙蓉グループの日本セメントと合併して太平洋セメントとなった[221]。国内シェア4割の会社が生まれ[222]、1994年に一つになった2つの商号もこのとき消えた。太平洋セメントは後年、この合併を「合併は自らの判断で決断」(週刊東洋経済 1998/11/28)[223]したものだと説明している。

  • 週刊東洋経済 1998年11月28日号 p36 [特集]富士銀・芙蓉グループの危機
    • [219]秩父小野田は三井グループの小野田セメントと第一勧業銀行グループの秩父セメントが合併した会社である
    • [220]住友セメントと大阪セメントの合併は住友グループ内の再編だった
    • [221]秩父小野田は1998年10月に芙蓉グループの日本セメントと合併して太平洋セメントとなった
    • [223]太平洋セメントは1998年の合併について芙蓉には深入りせず縁切りもない、合併は自らの判断で決断したと説明した
  • 週刊東洋経済 1997年10月18日号 p60 [フラッシュ]秩父小野田・日セメ 合併でガリバー化
    • [222]秩父小野田と日本セメントの合併により国内シェア4割の会社が生まれた
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)通史 p105 創造的革新に挑む
    • [213]1994年10月に小野田セメントが秩父セメントを合併して秩父小野田が発足した
    • [214]合併後の国内シェアは24%でトップとなった
    • [215]小野田セメントは1881年5月に山口県小野田で創業した
    • [216]秩父セメントは1923年1月の創立総会から1994年10月の合併まで71年にわたり商号を保った
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5233 小野田セメント・5236 秩父セメント
    • [217]会社年鑑1986年版の直近期単体売上高は小野田セメント2,027億4,500万円、秩父セメント716億8,100万円だった
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)通史 p14 事業再構築の試み
    • [218]1994年10月に住友セメントと大阪セメントも共販を解消して合併した
  • 週刊東洋経済 1998年11月28日号 p36 [特集]富士銀・芙蓉グループの危機
    • [219]秩父小野田は三井グループの小野田セメントと第一勧業銀行グループの秩父セメントが合併した会社である
    • [220]住友セメントと大阪セメントの合併は住友グループ内の再編だった
    • [221]秩父小野田は1998年10月に芙蓉グループの日本セメントと合併して太平洋セメントとなった
    • [223]太平洋セメントは1998年の合併について芙蓉には深入りせず縁切りもない、合併は自らの判断で決断したと説明した
  • 週刊東洋経済 1997年10月18日号 p60 [フラッシュ]秩父小野田・日セメ 合併でガリバー化
    • [222]秩父小野田と日本セメントの合併により国内シェア4割の会社が生まれた

秩父セメントの沿革1922〜1994年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
渋沢栄一氏らによる工場予定地の視察と起業の決定★★
社名を秩父セメントに決定、公称資本金は500万円
臨海立地の定型を破り、武甲山の麓に建てた内陸のセメント工場東京は消費地1位なのに生産は1割5分7厘——運賃1円の差を取りにいった1923年の創業 詳細を読む★★★
関東大震災による本社事務所の焼失と設計図面の大半の喪失★★
秩父工場の地鎮祭
従業員の生活と修養の場としての有恒園の発足★★
第1号回転窯の試運転開始
製品の初出荷、8月3日を営業開始記念日に制定★★
わが国のセメント容器として初の紙袋使用★★
第2号回転窯の火入れによる第1次計画の完成
株主配当と同率を従業員に積み立てる有恒積立金制度の発足
第7期に創業以来初の株主配当(年1割)★★
生産制限の適用免除を条件としたセメント聯合会への入会★★
高崎・前橋への出張員配置と出張員制度の発足
第2次増設の資金調達を目的とする第二秩父セメントの設立
第二秩父セメントの合併による資本金1200万円への増加★★
第2次増設計画による第3・4号回転窯の完成
第5号回転窯の完成、保有回転窯5基・月産能力4万トン超★★
武甲山生川地区の原石山紛争の和解、渋沢栄一氏が斡旋★★
セメント容器の紙袋への統一
早強セメント「秩父高級セメント」の発売
第3次増設計画の完成、保有回転窯6基・月産能力7万トン★★
シリカセメント「秩父硅酸セメント」の発売★★
波形スレートの製造開始による経営多角化の着手★★
会長制の新設と諸井恒平社長の会長就任、大友幸助常務の社長就任★★
事業目的を各種セメント及セメント加工品の製造販売へ改める定款変更
日本製鉄との共同による回転窯を用いたバッセー法製銑の試験開始
石綿パイプ工場の完成と「チチブパイプ」の生産開始
セメント共販の設立による一元配給への移行★★
日本セメント工業組合の発足、大友幸助社長が理事長に就任
創立者である諸井恒平会長の逝去★★
軍需会社法による軍需会社への指定
第3号回転窯の日本軽金属への譲渡
米第八軍からの横田基地向けセメント3万トンの条件付き受注★★
工場労働組合と本社従業員組合の結成
大友幸助社長の不慮の事故による急逝★★
諸井貫一常務の社長就任と4常務制の発足★★
香港向け5777トンの出荷による12年ぶりの輸出再開
常務会が決めた新工場建設案を翌日に覆し、既設工場の若返りを選ぶ朝鮮動乱の増設競争に加わらず、5年かけて回転窯5基の並列運転へ——1949年の決定 詳細を読む★★★
セメントの配給・価格統制の解除と自由販売の復活★★
第一次資産再評価の実施、再評価差額は3億2499万円
回転窯5基の並列運転の実現
創立30周年記念式典での新工場建設の意図表明
秩父第二工場の建設着手
若返り整備工事の完工、月産能力7万トンの国内最大工場に★★
秩父第二工場の第1号回転窯火入れ、全長170mの湿式ロングキルン★★
谷口吉郎氏設計の秩父第二工場の日本建築学会作品賞受賞
秩父第二工場第2期工事の完成、回転窯4基・月産能力10万トン★★
二瀬ダム向け高炉セメント8万4000トンの納入開始
熊谷工場の建設着手
東京証券取引所市場第二部への株式上場
熊谷工場第1号回転窯の火入れ、設備は重油専焼で設計★★
熊谷工場へのプロセスコントロール用コンピュータの導入★★
熊谷工場第1期工事の完成と回転窯4基の稼働
フライアッシュセメントの生産開始によるJIS全品種の生産体制
計算機によるセメント製造工程制御の開発での大河内記念生産賞受賞
熊谷工場第2期工事の完成、月産能力55万トン★★
諸井貫一社長の会長就任と大友恒夫専務の社長就任★★
諸井貫一会長の逝去
埼玉事業所と中央研究所を置く創業以来の組織大改正★★
業界に先がけた営業オンラインシステムの実施★★
小型テスト窯を飛ばし、実用窯で開発したSF式セメント焼成法回転窯の大型化が直径6メートルで限界に達したあと、石川島播磨重工業と組んで出した答え 詳細を読む★★★
創立50周年と第100回定時株主総会
諸井虔取締役の社長就任★★
諸井虔社長の会長就任と野坂和彦氏の社長就任★★
栗原隆専務の社長就任
小野田セメントとの合併による秩父小野田の発足★★★
出典・参考
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)三代社長小伝 初代社長諸井恒平
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第3節 起業の背景
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第2節 秩父地方の素描
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章第4節 起業の胎動
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第1節 総観(庶務課彙報 1939年8月15日)
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立(首唱者会議議事録 1922年9月)
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)三代社長小伝 二代社長大友幸助
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立(第2回営業報告書 1923年12月)
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第3節 工場建設
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第5節 営業開始
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第4節 有恒園の発足
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第2節 経営基盤の確立
  • 私の履歴書 経済人5 諸井貫一(日本経済新聞 1960年5月)
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第4節 販売基盤の確立
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第3節 設備増強と技術の充実
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第1節 総観
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第2節 経営多角化
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第4章第1節 総観
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第3節 特需セメントの受注
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第1節 総観
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第2節 再出発
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画(社報特集号 1968年6月)
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第1節 総観
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第3節 生産態勢充実
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第4節 創立30周年
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第2節 秩父第二工場の建設
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第1節 総観
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第7章第5節 販売体制の進展
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第2節 熊谷工場の建設
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第8章第1節 総観
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第2節 経営新体制
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第1節 総観
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第3節 販売体制の確立
  • 日経ビジネス 1989年10月16日号増刊号 p57 諸井虔・秩父セメント会長 農地法を見直せ
  • 日経ビジネス 1991年7月8日号 p82 21世紀へ 諸井虔[秩父セメント会長]
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5236 秩父セメント
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5231 日本セメント・5232 住友セメント・5233 小野田セメント・5238 三菱鉱業セメント
  • 日経ビジネス 1991年8月5日・12日号 p106 栗原氏[秩父セメント]登場
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)通史 p105 創造的革新に挑む
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5233 小野田セメント・5236 秩父セメント
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)通史 p14 事業再構築の試み
  • 週刊東洋経済 1998年11月28日号 p36 [特集]富士銀・芙蓉グループの危機
  • 週刊東洋経済 1997年10月18日号 p60 [フラッシュ]秩父小野田・日セメ 合併でガリバー化

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