秩父セメントの歴史
1907年〜渋沢栄一の後押しと武甲山の石灰石による諸井恒平の起業
- 渋沢栄一氏らによる工場予定地の視察と起業の決定[3]
- 会社設立準備会の第1回会合(首唱者会議)を開催[4]
- 社名を秩父セメントに決定、公称資本金は500万円[5]
- 武甲山麓に工場建設[4]
- 関東大震災による本社事務所の焼失と設計図面の大半の喪失[4]
- 地元との用地買収折衝が妥結[6]
- 秩父工場の地鎮祭[6]
- 社宅の東寮が完成[7]
- 従業員の生活と修養の場としての有恒園の発足[5]
- 第1号回転窯の試運転開始[6]
- 製品の初出荷、8月3日を営業開始記念日に制定[8]
- わが国のセメント容器として初の紙袋使用[8]
- 第2号回転窯の火入れによる第1次計画の完成[5]
- 売上高
筆者所見
秩父セメントの勝算は、原石の良さ以上に、臨海立地の定型を外した運賃の計算にあった。当時のセメント工場は大部分が海運の便に依存する原料地か臨海地区にあった[1]。九州・大阪からの移入には1樽1円以上の運賃を要し、東京は他地方より常に1円の高値を保っていた[2]。内陸の武甲山麓の工場は、他社が負う運賃をそのまま利幅に変える設計だった。奥地の大工場への同業の批判は、後発が東京市場で価格の主導権を掌握する余地を見落としていた。
- [1]秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第3節 工場建設
- [2]秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立(首唱者会議議事録 1922年9月)
1926年〜販売三原則の確立とセメント聯合会への条件付き入会
- 株主配当と同率を従業員に積み立てる有恒積立金制度の発足[7]
- 第7期に創業以来初の株主配当(年1割)[10]
- 生産制限の適用免除を条件としたセメント聯合会への入会[5]
- 高崎・前橋への出張員配置と出張員制度の発足[11]
- 第2次増設の資金調達を目的とする第二秩父セメントの設立[12]
- 第二秩父セメントの合併による資本金1200万円への増加[12]
- 第2次増設計画による第3・4号回転窯の完成[13]
- 第5号回転窯の完成、保有回転窯5基・月産能力4万トン超[5]
- 武甲山生川地区の原石山紛争の和解、渋沢栄一氏が斡旋[5]
- セメント容器の紙袋への統一[5]
- 早強セメント「秩父高級セメント」の発売[5]
- 第3次増設計画の完成、保有回転窯6基・月産能力7万トン[13]
- シリカセメント「秩父硅酸セメント」の発売[13]
- 波形スレートの製造開始による経営多角化の着手[5]
- 会長制の新設と諸井恒平社長の会長就任、大友幸助常務の社長就任[12]
- 事業目的を各種セメント及セメント加工品の製造販売へ改める定款変更[14]
- 日本製鉄との共同による回転窯を用いたバッセー法製銑の試験開始[15]
- 石綿パイプ工場の完成と「チチブパイプ」の生産開始[15]
- 売上高
筆者所見
販売三原則の価値は、問屋の資金繰りに市況を左右されない取引網を先に築いた点にある。小野田社が三井物産を、磐城社が三菱商事を総代理店とする全国一手販売制を採るなか、秩父セメントは中小販売店と直接取引する中小販売店主義を打ち出した[9]。金策を大手問屋に依存する会社では、問屋の売り急ぎが市価の低落に拍車をかけた[9]。現金取引による与信の管理が、乱売期に赤字受注を拒む余力を生んだ。流通の末端の掌握が、財閥商社を持たない後発の対抗策として機能した。
- [9]秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第3章第4節 販売基盤の確立
1940年〜戦時統制からの復旧と秩父工場の若返り整備
- セメント共販の設立による一元配給への移行[5]
- 日本セメント工業組合の発足、大友幸助社長が理事長に就任[5]
- 創立者である諸井恒平会長の逝去[14]
- 軍需会社法による軍需会社への指定[5]
- 第3号回転窯の日本軽金属への譲渡[5]
- 米第八軍からの横田基地向けセメント3万トンの条件付き受注[18]
- 工場労働組合と本社従業員組合の結成[19]
- 大友幸助社長の不慮の事故による急逝[20]
- 諸井貫一常務の社長就任と4常務制の発足[20]
- 香港向け5777トンの出荷による12年ぶりの輸出再開[5]
- 秩父工場の若返り選択[21]
- セメントの配給・価格統制の解除と自由販売の復活[21]
- 第一次資産再評価の実施、再評価差額は3億2499万円[5]
- 回転窯5基の並列運転の実現[21]
- 創立30周年記念式典での新工場建設の意図表明[22]
- 秩父第二工場の建設着手[21]
- 若返り整備工事の完工、月産能力7万トンの国内最大工場に[5]
- 秩父第二工場の第1号回転窯火入れ、全長170mの湿式ロングキルン[23]
- 谷口吉郎氏設計の秩父第二工場の日本建築学会作品賞受賞[5]
- 売上高
筆者所見
秩父工場の若返りは、増産の速さより、新工場に投じる資金と技術を蓄える順序の選択だった。常務会が新工場建設案に傾いた翌日、諸井貫一社長は結論を覆し、大改造を先行させる方針を通した[16]。1950年6月の朝鮮動乱ブームで同業各社が回転窯の増設を企図しても、秩父セメントは既定方針を堅持した[17]。需要の山を見送る代わりに、借入に頼らない投資の余力を残した。第二工場の最新鋭設備は、朝鮮動乱期の見送りの上に成り立つ投資だった。
- [16]秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画(社報特集号 1968年6月)
- [17]秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第1節 総観
1958年〜SF焼成法の確立と小野田セメントとの合併による秩父小野田の発足
- 秩父第二工場第2期工事の完成、回転窯4基・月産能力10万トン[27]
- 二瀬ダム向け高炉セメント8万4000トンの納入開始[28]
- 熊谷工場の建設着手[5]
- 東京証券取引所市場第二部への株式上場[29]
- 熊谷工場第1号回転窯の火入れ、設備は重油専焼で設計[30]
- 熊谷工場へのプロセスコントロール用コンピュータの導入[30]
- 熊谷工場第1期工事の完成と回転窯4基の稼働[5]
- フライアッシュセメントの生産開始によるJIS全品種の生産体制[5]
- 計算機によるセメント製造工程制御の開発での大河内記念生産賞受賞[30]
- 熊谷工場第2期工事の完成、月産能力55万トン[5]
- 諸井貫一社長の会長就任と大友恒夫専務の社長就任[31]
- 諸井貫一会長の逝去[32]
- 埼玉事業所と中央研究所を置く創業以来の組織大改正[5]
- 業界に先がけた営業オンラインシステムの実施[33]
- SF式焼成法を開発[5]
- 創立50周年と第100回定時株主総会[5]
- 諸井虔取締役の社長就任[34]
- 諸井虔社長の会長就任と野坂和彦氏の社長就任[34]
- 栗原隆専務の社長就任[35]
- 小野田セメントとの合併による秩父小野田の発足[36]
- 売上高
- 経常利益率
筆者所見
秩父セメントの技術の先行は、セメント専業という事業構成を変えるには至らなかった。SF式焼成法は、仮焼装置を組み込んで回転窯の熱負荷を軽減し、生産高を飛躍的に高める方式だった[24]。それでも1984年5月期の売上構成はセメントが97%を占め、同業では小野田セメント76%、三菱鉱業セメント53%だった[25][26]。焼成の効率で生んだ余力は、国内需要の減退局面で他事業へ配分されなかった。小野田セメントとの合併は、専業の限界を規模で補う手になった。
- [24]秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第9章第1節 総観
- [25]会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5236 秩父セメント
- [26]会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社、1985年)5231 日本セメント・5232 住友セメント・5233 小野田セメント・5238 三菱鉱業セメント