秩父セメント 武甲山麓に工場建設 臨海立地という定型を破り、原料山の足元に置いた内陸型セメント生産の始まり
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何をなぜ決めたか
- 概要
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1923年1月30日、諸井恒平氏を発起人総代として秩父セメントが創立された。資本金500万円、株式引受人100人。工場は海運の便を持たない秩父盆地に置かれ、当時のセメント工場立地の定型を外れていた。
- 背景
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武蔵電化は具現化せずに解散し、日本煉瓦セメントの設立も財界の混乱で見合わされている。
- 内容
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全国生産1,000万樽のうち九州が4割5分を占め、東京は消費地1位でありながら1割5分7厘にとどまる。移入には1樽1円以上の運賃がかかり、東京の相場は常に1円高かった。この差を取りにいく計画だった。
- 含意
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建設費は年産70万樽で250万円、既設会社の平均6〜7円に対し1樽3円5〜60銭。生産費も全国最低の4円を下回る見積りで、後発の参入を数字で正当化した。
いつ何が起きたか 8件
筆者の見解
定型を外した立地が成立した条件
海運の便を持たない内陸に大工場を置くという判断は、当時の業界では非常識に属した。それが成り立ったのは、武甲山の石灰石と山麓の粘土という原料が近接し、秩父鉄道が1914年に秩父まで通じ1922年初に全線電化を終えていて、東京市場との間に1樽1円という運賃差が存在したという3つの条件が重なったためである。どれか一つでも欠ければ、既設会社の半額という建設費も全国最低という生産費も成り立たなかった。計画書が説得力を持ったのは、立地の非常識さを数字で相殺してみせたからだった。
もっとも、創業の成否を決めたのは計画の精度だけではない。1923年9月の震災は設計図面をほぼ焼き、松井建築事務所に控えが残っていなければ工事は止まっていた。その震災による復興需要が、政府の復旧工事の遅れによって工場完成の時期まで持ち越されたことも、後発会社にとっては偶然の追い風である。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
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参考文献
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第1章 創業前史
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章 創業期(大正12年1月〜15年6月)
- 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第2章第2節 会社創立(首唱者会議議事録 1922年9月)
- 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史 p161 秩父セメント