日本のセメント製造は1873年、大蔵省土木寮建築局[1]が深川清澄町に摂綿篤製造所を創設したことに始まる。10年後の1883年4月、初代浅野総一郎がこれを借り受け、翌年には渋沢栄一と共同で匿名組合・浅野工場として発足した[2]。当時の生産能力は徳利窯8基で年800樽(約145トン)、湿式石灰法による小規模生産であり、製品は皇居造営や横浜築港などの大工事に使用された。
1903年にはアメリカから回転窯を輸入して深川工場に据え付け、日本初の回転窯設置を完了した[3]。1912年10月に浅野セメント株式会社が設立され、翌13年に浅野セメント資を合併して資本金500万円で新発足[4]。以後1915年の北海道セメント、1924年の木津川セメント合併で年産170万トンを突破し、[5]1929年には西多摩工場で早強セメント、1934年には日本初の低熱セメントの製造を開始するなど、特殊品開発でも先行した。[6]
1930年代後半から満州事変後の外地進出が加速する。1933年に大同洋灰(満州)、1936年に朝鮮浅野セメント、1938年に太原工場(華北)、1939年に広東工場(華南)の経営を順次開始した。国内では1939年に旧日本セメント、1940年に土佐セメント、1941年に日東セメント、1942年に東亜セメントを相次ぎ合併し、[7]糸崎・尼崎・大船渡・八代・佐伯を加えて全国網を築いた。1941年には川崎工場を分離して日本鋼管と日本高炉セメント(現第一セメント)を設立した。
敗戦により膨大な在外施設を喪失し、荒廃した国内各施設と物資不足で窮境に立った。GHQの第二次財閥解体命令により、創業以来63年にわたって会社を主宰した浅野家から別れ、1947年5月、日本セメント株式会社に社名を変更して再出発した。[8]朝鮮戦争による特需景気を受けて西多摩・上磯両工場で回転窯を増設し、昭和30年代には埼玉(1955)・熊谷(1962)工場新設など高度経済成長期の設備拡張に動いた。[9]
1973年の第1次石油危機はセメント業界に打撃を与えた。日本セメントは集中生産体制を徹底し、SP・NSPキルンの導入や燃料の石炭への転換を行ったが、第2次石油危機の追い打ちもあり、1980年には門司・八代両工場を閉鎖した。1983年の創業100周年には中央研究所の新築と組織改正を断行し[10]、研究開発体制を刷新した。
1984年、セメント業界は産業構造改善臨時措置法の適用を受けた。日本セメントは大阪セメント等と大日本セメント共同事業株を設立し[11]、共同販売・物流合理化・過剰生産設備の廃棄を実施した。一方で、1960年代の業界には小野田セメント(1881年創業)と秩父セメント(1923年創業)という有力系譜が併存しており、[12]浅野系の日本セメントを含む3系譜が国内シェアを分け合う構図が続いていた。過剰設備問題が業界全体の経営課題として明確化し、より深い合併への地均しが進んだ。
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|---|---|---|---|---|
| 1881〜1984年3つの系譜と業界再編の序章 | 小野田セメント設立 | ★★ | ||
| 官営深川工作分局を借り受け(浅野セメント/日本セメントの源流) | ★ | |||
| 日本初の回転窯によるセメント製造を開始 | ★★ | |||
| 浅野セメント設立 | ★ | |||
| 秩父セメント設立 | ★ | |||
| 西多摩工場新設、早強セメント製造開始 | ★ | |||
| 日本初の低熱セメントの製造を開始 | ★ | |||
| 旧日本セメントを合併 | ★★ | |||
| 日本セメントに商号変更 | ★ | |||
| 安藤豊禄 | 株式上場 | ★ | ||
| 安藤豊禄 | 埼玉工場が竣工 | ★ | ||
| 安藤豊禄 | 熊谷工場が竣工 | ★ | ||
| 森清治 | 明星セメントの全株式取得 | ★ | ||
| 大島健司 | 創立100周年、中央研究所新築 | ★ | ||
| 今村一輔 | 大日本セメント共同事業株を設立 | ★ | ||
| 1985〜2011年1998年統合と米国事業の確立 | 今村一輔 | カリフォルニア・ポルトランド・セメントを買収 | ★★ | |
| 今村一輔 | 小野田セメントと秩父セメントが合併し秩父小野田発足 | ★★ | ||
| 平賀一次 | ギソンセメントコーポレーションを設立 | ★ | ||
| 木村道夫 | 秩父小野田と日本セメントの合併による太平洋セメントの発足と、浅野・小野田・秩父の三系譜の統合 1998年10月1日、秩父小野田が日本セメントを合併し、太平洋セメントが発足した。存続会社は秩父小野田で、本社を東京都千代田区西神田に置いた。1994年に小野田セメントと秩父セメントが合併して生まれた秩父小野田に、浅野系の日本セメントが加わり、国内シェア約39%の業界首位企業となった。今村一輔会長が主導した業界再編であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 木村道夫 | 都市ごみ・産業廃棄物の受け入れによる廃棄物処理事業の確立と、エコセメントの事業化 1998年の合併で発足した太平洋セメントが、セメント窯を廃棄物の処理設備として使い直し、排出者から処理費を受け取る収益事業へ組み替えた経営判断。1998年に環境事業本部を置き、2000年4月にはゼロエミッション事業部として専門部隊を組織した。2001年4月には都市ごみの焼却灰を主原料とするエコセメントの工場が操業を始めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 鮫島章男 | 本社を移転 | ★ | ||
| 鮫島章男 | パシフィックシステムがジャスダック上場 | ★ | ||
| 徳植桂治 | 初の純損失を計上 | ★★ | ||
| 徳植桂治 | 本社を移転 | ★ | ||
| 徳植桂治 | 2期連続の純損失 | ★ | ||
| 2012〜2023年値上げ戦と繰り返される損失 | 福田修二 | 福田修二が代表取締役社長就任 | ★ | |
| 福田修二 | 米国西海岸でのオログランデ工場・レディング工場の取得と、生コン・骨材までの買い足し 1990年に買収した米カリフォルニア・ポルトランド・セメントを足場に、太平洋セメントが2015年以降、米国西海岸でセメント工場・生コン・骨材を連続して買い足していった経営判断。2015年にオログランデ工場、2022年にレディング工場と生コン14工場、2025年にはVulcan社のカリフォルニア州生コン事業を取得した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 福田修二 | デイ・シイを株式交換により完全子会社化 | ★ | ||
| 不死原正文 | 不死原正文が代表取締役社長就任 | ★ | ||
| 不死原正文 | 石炭サーチャージ制度の導入表明と撤回、セメント1トン3000円値上げへの切り替えと収益重視への価格政策転換 石炭価格の急騰で13年ぶりの赤字に沈んだ太平洋セメントが、2022年から国内セメントの値決めを作り直した経営判断。石炭価格に連動するサーチャージ制度の導入をいったん表明したのち撤回し、1トン3000円の値上げと1年固定を選べる形に改めた。2024年の26中期経営計画では『シェア重視から収益重視への転換』を明記した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 不死原正文 | 純損失▲332億円 | ★★ | ||
| 田浦良文 | 田浦良文が代表取締役社長就任 | ★ | ||
| 田浦良文 | 営業利益778億円、過去高水準 | ★ |
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事実根拠:出所(太平洋セメント)