安藤豊禄
太平洋セメント・元取締役社長
社長就任 1948年
生年月日 —
学歴 東京帝国大学工学部応用化学科
出自 —
社長就任までの出自
出自
1897年、大分県大野郡重岡村に生まれた。父の秀吉氏は同村の村長を務めていた。東京帝国大学工学部応用化学科を出て小野田セメントに入り、朝鮮の平壌支社へ赴任した。ドイツへ留学してベルリン工科大学で学び、帰任後は第三工場の建設でスイス製の新式窯を据えた。朝鮮で25年を過ごし、終戦後は現地に抑留された。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1947年7月3日に舞鶴へ引き揚げ、同年9月に「パージにならぬから帰って来てくれ」との電報を受けて小野田へ戻った。利益の出ていた工場はほとんど失われ、外地から1000人以上の社員が引き揚げてきたうえ、残る工場も能力の何分の一かでしか動いていなかった。1945年春に狩野社長と交わした約束では安藤氏が社長に推されるはずだったが、「今社長になれば米軍からにらまれる恐れがある」という狩野氏の助言により、1947年11月1日の取締役会で専務代表取締役に就任した。社長は空席のままだった。
在任中の主な施策
施策
1950年6月に始まった朝鮮戦争を、朝鮮での経験から2、3年は続くと読み、工場の増設と整備に踏み切った。閉鎖が内定していた北九州の恒見工場と八幡工場は、現地を見たうえで存続を宣言し撤回した。1951年8月には本店業務を東京・丸の内の鉄鋼ビルへ移して実質の東京本社とし、晴海の米極東空軍用地4000坪を買って営業の拠点に据えた。GHQによる集中排除では、セメント事業の分割を免れた。
在任の評価
評価
執筆予定
経歴 1948〜1965年
在任中の業績
就任前-
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
変化-