日本ガイシ の歴史

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創業 1904年
母体 日本陶器
創業地 愛知県名古屋市
創業
1919年5月、大倉和親・森村開作ら8名が発起人となり、日本陶器(現ノリタケ)の碍子部門を分離して資本金200万円の日本碍子が名古屋に設立された。発端は1905年、芝浦製作所の岸敬二郎が米トーマス社から持ち帰った碍子の一片を日本陶器社長の大倉和親に示し、国産化を勧めたことにある。1907年には芝浦製作所へ15kV用碍子を初納入した。創業時の主力は特別高圧碍子と碍管類で、顧客は送電線を建設する電力会社だけである。1922年に磁器製耐酸機器の製造を始め、1936年10月には点火プラグ部門を日本特殊陶業として分離した。1949年5月に東京・名古屋・大阪の各証券取引所へ上場している。
決断
顧客が電力会社しかない状態を、20年かけて解いた。1964年に始めた第1次長期経営計画で売上構成を碍子6・非碍子4とする6:4構想を掲げ、上下水処理装置・化学工業機器・ベリリウム銅を候補に挙げた。1962年に米レオポルド社から急速濾過用集水装置の技術導入を受けて水処理へ参入し、1970年の米国大気浄化法の成立を受けてセラミックス製ハニカム担体を開発、1976年にフォードへ納入した。1977年3月にはベルギーの碍子メーカーを買収してNGKボドゥールを設立し、輸出と技術供与で押さえていた欧州へ生産を移している。電力部門の売上構成比は1974年3月期の94%から1984年3月期の51.4%へ下がった。電力投資の増減に縛られていた売上は、この20年で世界の自動車生産台数に連動する売上へ置き換わった。
現況
半導体へ転換すると宣言した後も、利益の7割は自動車の部材が上げている。2026年3月期の売上高は6,701億円、営業利益は950億円である。自動車の排ガス浄化ハニカムを主とするエンバイロメント事業が売上3,995億円・利益686億円を計上した。半導体製造装置用部材と電子部品のデジタルソサエティ事業は売上2,054億円・利益281億円、碍子とNAS電池のエネルギー&インダストリー事業は売上653億円で13億円の損失である。2021年に半導体製造装置用セラミックス部材への事業構成転換を掲げ、デジタルソサエティ事業へ3年で1,300億円以上を投じる計画を立てた。2026年4月に決めた多治見のサセプター新工場も約700億円を要し、量産開始は2029年10月である。それまでは細り始めた排ガス部材が半導体向けの投資を支える。
競合
同じ森村系の三社は、焼き物の用途ごとに競う相手を分けた。1904年に設立された日本陶器から、1919年に碍子部門が日本碍子として、1936年には点火プラグ部門が日本特殊陶業として分かれ、食器・産業セラミックス・点火プラグへ役割が定まる。碍子では1965年に500kV変電所用、1966年以降に500kV大容量送電線用の高強度懸垂碍子を開発し、1974年には超々高圧送電の技術に先進国から商談が集まった。1973年には米GEが合弁を申し入れ、ボルチモア工場の設備と人員を引き継ぐロック・インシュレーターズが設立されている。碍子で世界の首位に立てたのは電力会社の投資の大きさが決めたためだが、現在の半導体材料では装置メーカーの設備投資の周期が採算を決めている。
日本ガイシ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

設立ストーリー 碍子専業から多角化宣言まで (1919年〜)

森村組から分離した特別高圧碍子工場

日本の電気事業は1886年に東京電灯が営業[1]を始めたのを皮切りに各地で興り、電力を長距離送電する送電線が年々増えた。送電線の伸びに比例して碍子の需要も急増したが、当時はアメリカ・イギリスなど先進国からその全量を輸入[2]していた。1905年春、芝浦製作所の岸敬二郎は、アメリカのトーマス社から持ち帰った碍子の一片を日本陶器社長の大倉和親に示し、国産化を勧めた。これがわが国における特別高圧碍子製造の発端である。[3]大倉喜八郎社長は『営利ではなく、国家への奉仕としてやるのだ』[引用元]との決意[4]で技術陣の研究を始めさせた。輸入に頼っていた送電用碍子を国産で置き換えるというこの動機が、後に碍子部門を日本陶器から独立させる選択へつながった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1886年(明治19年)東京電灯が営業を始め、以後各地で電気事業が興り送電線が増加
    • [2]当時のガイシはアメリカ・イギリスなど先進国から全量を輸入していた
    • [3]1905年春、芝浦製作所の岸敬二郎が米トーマス社から持ち帰った碍子の一片を日本陶器社長の大倉和親に示し国産化を勧めた(特別高圧碍子製造の発端)
    • [4]大倉和親社長が「営利ではなく、国家への奉仕としてやるのだ」との決意で技術研究を始めさせた

1904年、森村組は対米輸出用の陶磁器生産のため愛知県鷹羽村に日本陶器合名会社(現ノリタケ)を設立した[5]。翌1905年、アメリカ視察から戻った芝浦製作所(現東芝)電気部主任の岸敬二郎が、特別高圧碍子[6]の製造研究を勧めた。日本陶器はこの助言に従って研究に着手し、1907年には芝浦製作所に15kV用碍子を初納入する。[7]以後、日本の電気事業の興隆とともに碍子需要が急増し、1919年5月、大倉和親・森村開作ら8名が発起人となって碍子部門を独立させる形で、資本金200万円の日本碍子株式会社が名古屋に設立された。[8][9]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [5]1904年 森村組が愛知県鷹羽村に日本陶器合名会社(現ノリタケ)を設立
    • [6]1905年 芝浦製作所(現東芝)電気部主任の岸敬二郎が特別高圧碍子の製造研究を勧めた
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [7]1907年 芝浦製作所に15kV用碍子を初納入
  • 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
    • [8]1919年5月 日本陶器の碍子部門を独立させ資本金200万円の日本碍子株式会社を名古屋に設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [9]1919年5月の設立は大倉和親・森村開作ら8名(大倉和親・森村開作他六名)が発起人

創業時の主力商品は特別高圧碍子と碍管類で、顧客は電力会社[10]だった。1920年代にはアメリカ製のハロップ式トンネル窯と1000kV級高圧試験装置を導入、東京・大阪・福岡・仙台・札幌に出張所を開設し[11]、アメリカ・カナダ・インドへも社員を派遣して販路を開拓した。1922年には磁器製耐酸機器の製造も開始し[12]、化学工業の勃興に合わせて事業を広げた。同じ森村組系の日本陶器が食器、日本ガイシが産業セラミックスという役割分担が、固まった。

  • 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
    • [10]創業時の主力商品は特別高圧碍子と碍管類で顧客は電力会社
    • [12]1922年 磁器製耐酸機器(化学工業用機器類)の製造を開始
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [11]1920年代にアメリカ製ハロップ式トンネル窯と1000kV級高圧試験装置を導入、東京・大阪・福岡・仙台・札幌に出張所を開設し米加印へ社員派遣
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]1886年(明治19年)東京電灯が営業を始め、以後各地で電気事業が興り送電線が増加
    • [2]当時のガイシはアメリカ・イギリスなど先進国から全量を輸入していた
    • [3]1905年春、芝浦製作所の岸敬二郎が米トーマス社から持ち帰った碍子の一片を日本陶器社長の大倉和親に示し国産化を勧めた(特別高圧碍子製造の発端)
    • [4]大倉和親社長が「営利ではなく、国家への奉仕としてやるのだ」との決意で技術研究を始めさせた
    • [9]1919年5月の設立は大倉和親・森村開作ら8名(大倉和親・森村開作他六名)が発起人
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [5]1904年 森村組が愛知県鷹羽村に日本陶器合名会社(現ノリタケ)を設立
    • [6]1905年 芝浦製作所(現東芝)電気部主任の岸敬二郎が特別高圧碍子の製造研究を勧めた
    • [11]1920年代にアメリカ製ハロップ式トンネル窯と1000kV級高圧試験装置を導入、東京・大阪・福岡・仙台・札幌に出張所を開設し米加印へ社員派遣
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)
    • [7]1907年 芝浦製作所に15kV用碍子を初納入
  • 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
    • [8]1919年5月 日本陶器の碍子部門を独立させ資本金200万円の日本碍子株式会社を名古屋に設立
    • [10]創業時の主力商品は特別高圧碍子と碍管類で顧客は電力会社
    • [12]1922年 磁器製耐酸機器(化学工業用機器類)の製造を開始

点火プラグの分離と戦時動員

1936年10月、同社は点火プラグ部門を資本金100万円の日本特殊陶業株式会社[13]として分離独立させた。自動車・航空機用プラグの軍需増に応えるための切り出しで、森村グループの産業セラミックス系統がさらに分岐した形である。1942年には愛知県半田市に知多工場を建設、主に耐酸機器の研磨・組立工場とした[14]。太平洋戦争下では資材不足で電力会社の送電線建設が停滞し、同社は軍需用通信碍子・耐酸機器メーカーとして1944年に軍需会社の指定を受けたが、生産継続には多大な困難を伴った。[15]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [13]1936年10月 点火プラグ部門を資本金100万円の日本特殊陶業株式会社として分離独立
    • [15]1944年 軍需会社の指定を受けた(軍需用通信碍子・耐酸機器メーカーとして)
  • 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
    • [14]1942年 愛知県半田市に知多工場を建設(耐酸機器の研磨・組立工場)

戦後、同社は1948年以降インド・アメリカ・オーストラリア・スウェーデン[16]などから碍子を受注して輸出を再開した。1949年5月には東京・名古屋・大阪の各証券取引所[17]に株式を上場、戦後復興期の資金基盤を整えた。1950年の朝鮮戦争勃発以降、電源開発への大量の財政資金投入で国内外の碍子需要が急増し、1957年に熱田工場、1962年に小牧工場を新設して一連の増産・試験設備の拡充を図った。[18]当期の成長原動力は、戦後日本の電力インフラ投資そのものだった。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [16]1948年以降 インド・アメリカ・オーストラリア・スウェーデンなどから碍子を受注し輸出を再開
    • [18]1957年 熱田工場を新設、1962年 小牧工場を新設
  • 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
    • [17]1949年5月 東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式上場
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [13]1936年10月 点火プラグ部門を資本金100万円の日本特殊陶業株式会社として分離独立
    • [15]1944年 軍需会社の指定を受けた(軍需用通信碍子・耐酸機器メーカーとして)
    • [16]1948年以降 インド・アメリカ・オーストラリア・スウェーデンなどから碍子を受注し輸出を再開
    • [18]1957年 熱田工場を新設、1962年 小牧工場を新設
  • 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
    • [14]1942年 愛知県半田市に知多工場を建設(耐酸機器の研磨・組立工場)
    • [17]1949年5月 東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式上場

1964年の「6:4構想」

1964年から発足した第1次長期経営計画で、同社は売上構成を碍子6・非碍子製品4[19]まで高めるという6:4構想を発表した。熱田・小牧両工場の完成で碍子生産は世界的規模の第一人者の基盤が確立できたとの認識に立ち、本業の碍子に依拠しつつ周辺分野の多角化に成長の方向を求める宣言だった。具体的な候補は、磁器製散気板から始まった上下水処理装置、耐酸機器から広がる化学工業機器、1958年に工業生産に成功していたベリリウム銅などの金属部門だった。[20]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [19]1964年から発足の第1次長期経営計画で売上構成を碍子6・非碍子製品4とする6:4構想を発表
  • 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
    • [20]1958年 ベリリウム銅の工業生産に成功(金属製品の製造販売開始)

1962年には米レオポルド社から急速濾過用集水装置の技術導入を受け[21]、上下水処理・汚泥処理装置のプラントメーカーへ参入した。1963年には環境装置類の販売を開始[22]している。碍子という一製品で世界一になった会社が、次の成長源を複数の分野に分散させる戦略を明示した点で、この構想は以後60年間の事業展開の枠組みを決めた。セラミック技術を碍子に閉じ込めず、用途を広げて多角化していく思考様式が、このとき組織に埋め込まれた。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [21]1962年 米レオポルド社から急速濾過用集水装置の技術導入を受け上下水処理プラントメーカーへ参入
  • 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
    • [22]1963年 環境装置類の販売を開始
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [19]1964年から発足の第1次長期経営計画で売上構成を碍子6・非碍子製品4とする6:4構想を発表
    • [21]1962年 米レオポルド社から急速濾過用集水装置の技術導入を受け上下水処理プラントメーカーへ参入
  • 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
    • [20]1958年 ベリリウム銅の工業生産に成功(金属製品の製造販売開始)
    • [22]1963年 環境装置類の販売を開始

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日本ガイシの沿革1904〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
森村組が日本陶器合名会社を設立
芝浦製作所に15kV用碍子を初納入
1919〜1964年碍子専業から多角化宣言まで日本碍子を設立★★
化学工業用機器類の製造販売開始
点火プラグ部門を分離、日本特殊陶業を設立★★
知多工場を新設
東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式上場
金属製品(ベリリウム銅)の製造販売開始
レオポルド社から急速濾過用集水装置の技術導入
小牧工場を新設
第1次長期経営計画での「碍子6・非碍子4」構想の策定と周辺分野への多角化

1964年から発足した第1次長期経営計画で、日本碍子は5年後に売上構成を碍子6・非碍子製品4まで高めるという6:4構想を打ち出した。熱田・小牧両工場の完成で碍子生産の基盤が固まったという認識に立ち、経営の重点を本業の碍子に置いたまま、本業周辺分野の多角化に成長の方向を求めた。社長は1959年就任の野淵三治氏であった。

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★★★
1965〜2010年セラミック多角化と海外現地生産500kV変電所用碍子の開発
販売会社NGK INSULATORS OF AMERICAを設立
電子工業用セラミックス製品の製造販売開始
GE社と合弁でロックインスレーターズ(LOCKE INSULATORS)を設立
フォード社に自動車排ガス浄化用セラミックスハニカム担体を初納入★★
自動車用セラミックス製品の製造販売開始
ベルギーの碍子メーカーの買収と欧州生産拠点NGKボドゥールの設立

1977年3月、日本碍子はベルギーの碍子メーカーを買収し、製造会社NGK-BAUDOUR S.A.として欧州の生産拠点にした。同じ年に販売会社NGK EUROPE S.A.もベルギーに設立し、作る会社と売る会社を同時に据えた。1962年にハンブルクへ駐在員事務所を置いてから15年を経ての欧州進出であった。

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★★★
ベルギーに自動車用セラミックス製造会社NGK CERAMICS EUROPEを設立
社名表記を「日本ガイシ」に変更
自動車用セラミックス製造会社NGK CERAMICS USAを設立
インドネシアと中国に海外子会社を設立
自動車用セラミックス製造会社NGK(蘇州)環保陶瓷を設立
松下雋米半導体製造装置用モジュール製造会社FM INDUSTRIESに資本参加
電力貯蔵用NAS電池(ナトリウム/硫黄電池)を事業化★★
松下雋2008年3月期売上高3648億円、営業利益693億円を記録
2011〜2024年半導体シフトと事業転換加藤太郎加藤太郎氏が社長に就任
加藤太郎NAS電池火災事故が発生★★
加藤太郎親会社株主に帰属する当期純損失356億円を計上★★
加藤太郎大島卓氏が社長に就任
大島卓新日鐵住金から日鉄住金エレクトロデバイスの全株式を取得★★
大島卓エヌジーケイ・セラミックデバイス多治見工場が操業開始
小林茂小林茂が代表取締役社長に就任
小林茂半導体製造装置用セラミックス部材を柱とするデジタル社会領域への事業構成転換

2021年4月、社長に就いた小林茂氏のもとで、日本ガイシは中長期ビジョン『NGKグループビジョン Road to 2050』を掲げ、カーボンニュートラルとデジタル社会の二領域を柱とする事業構成の転換を打ち出した。デジタル社会領域の中核に据えたのが、半導体製造装置用セラミックス部材(SPE)である。祖業のがいしと自動車排ガス浄化用セラミックスで培った技術を、成長が続く半導体・AI関連の部材へ接続する方針であった。

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★★★
小林茂NAS電池の製造・販売活動終了を決議★★
小林茂社名を「日本ガイシ」から「NGKコーポレーション」に変更予定
出典・参考
  • 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 『日本会社史総覧』(東洋経済新報社, 1995年)

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