日本ガイシ第1次長期経営計画での「碍子6・非碍子4」構想の策定と周辺分野への多角化
碍子で世界一になった会社が、なぜ売上の4割を碍子以外に置くと定めたか
- 概要
- 1964年から発足した第1次長期経営計画で、日本碍子は5年後に売上構成を碍子6・非碍子製品4まで高めるという6:4構想を打ち出した。熱田・小牧両工場の完成で碍子生産の基盤が固まったという認識に立ち、経営の重点を本業の碍子に置いたまま、本業周辺分野の多角化に成長の方向を求めた。社長は1959年就任の野淵三治氏であった。
- 背景
- 1960年度下期の売上は碍子類35億6273万円に対し、耐酸機器類と特殊金属を合わせても1割ほどにとどまり、業績は電力会社の送変電投資という単一の需要に結びついていた。1959年の事業部制導入、1962年の米レオポルド社からの技術導入など、周辺分野の仕込みは構想以前から進んでいた。
- 内容
- 5年後の売上構成を碍子6・非碍子4とする目標を掲げ、多角化の範囲を本業の周辺に限った。候補は磁器製散気板から広がった上下水処理装置、耐酸機器から伸びる化学工業機器、1958年に生産を始めたベリリウム銅の金属部門で、いずれも既存の技術か販路につながる領域であった。
- 含意
- 5年という期限は守られず、1974年3月期でも電力部門が売上の94%を占めた。比率が動いたのは1976年に自動車排ガス浄化用の触媒担体を事業化して以降で、1993年度には電力部門が42.7%まで下がり、非碍子が6割近くに達した。
どこまでを自社の領域とするか
この構想を、早い時期の多角化宣言として先見の明で片づけるのは、話を単純にしすぎる。芯にあるのは、多角化の候補をあらかじめ本業の周辺へ限った点にある。野淵三治社長は1959年の就任と同時に事業部制を敷いて化工機部と新商品部を置き、1962年には米レオポルド社から集水装置の技術を導入していた。碍子の焼成技術と耐酸機器の販路が届く範囲を先に区切り、そこだけを成長の候補としたとみることができる。
もっとも、5年で6:4という期限は守られていない。1984年の余語章財務部長の説明によれば、10年後の1974年3月期でも電力部門は売上の94%を占めており、比率が動いたのは自動車排ガス浄化用の触媒担体を1976年に事業化して以降であった。柴田昌治社長も達成までに「二〇年」を要したと語っている。数値目標としては外れた計画が、どの技術の隣までを自社の領域とみなすかという線引きとして残ったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
碍子一本で世界の頂点に立つまで
日本碍子は1919年、日本陶器の碍子部門を分離独立して設立され、特別高圧碍子と碍管を主力に伸びた。太平洋戦争下は資材不足で送電線建設が停滞し、1944年には軍需会社の指定を受けている。戦後は1948年以降の輸出再開と、1950年の朝鮮戦争以降の電源開発への財政資金投入で碍子需要が急増した。同社は1957年に熱田工場、1962年に小牧工場を新設し、知多工場の拡張や小牧超高圧試験所の完成など設備の拡充を重ねた[1][2][3]。
もっとも、その売上はほぼ碍子で占められていた。1960年10月から翌年3月までの半期の商品別売上高は、碍子類が35億6273万円、耐酸機器類が3億1824万円、特殊金属が1億0279万円で、非碍子は構成比で1割ほどにすぎない。碍子類は前の半期の30億1881万円から18%伸びており、本業の勢いそのものは強い。半面、従業員2,867人を抱える会社の業績が、電力会社の送変電投資という一つの需要に結びついていた[4]。
事業部制と、周辺分野の仕込み
1959年、野淵三治氏が第5代社長に就任し、同年に事業部制を導入して化工機部と新商品部を設けた。碍子以外の製品を担う組織を本社機構のなかへ置いた点で、のちの多角化の受け皿となる。1955年にはベリリウムの研究を始め、1958年に稀少金属ベリリウムと銅の合金であるベリリウム銅の工業生産に成功して母合金の製造販売へ入っており、焼物とは異なる素材の事業も手元にあった[5][6][7]。
仕込みは技術導入からも進んだ。1962年、同社は米レオポルド社から急速ろ過池用集水装置(有孔ブロック)の技術を導入し、上下水処理・汚泥処理装置のプラント事業へ入った。翌1963年には環境装置類の販売を始めている。後年、余語章財務部長はこの1963年を水処理分野への進出と説明した。戦前から多孔質磁器の家庭用減水器や曝気用の散気板を作っていた延長にあり、碍子の焼成技術が別の用途へ渡る道筋が見えていた[8][9][10][11]。
決断
1964年の「6:4構想」
1964年から発足した第1次長期経営計画で、日本碍子は5年後に売上構成を碍子6に対し非碍子製品4まで高めるという6:4構想を打ち出した。熱田・小牧両工場の完成によって碍子生産では世界的規模での第一人者の基盤が確立できたという認識が前提にあり、経営の重点を本業の碍子に置いたまま、成長の方向は別の製品群に求めるという宣言であった。期限は5年後の1969年にあたり、事業部制の採用と長期経営計画の導入は並行して進んだ[12]。
目を引くのは、多角化の範囲を本業の周辺に限った点にある。候補に挙がったのは、磁器製散気板から広がった上下水処理装置、耐酸機器から伸びる化学工業機器、そして1958年に生産を始めたベリリウム銅の金属部門で、いずれも既存の技術か販路につながる。構想の翌1965年には安全開閉器メーカーの高松電気製作所に資本参加し、同年、北米での碍子拡販のためNGKアメリカを設立した[13][14]。
結果
五カ年計画は次の計画へ引き継がれた
構想から5年目にあたる1968年3月期、日本碍子の売上高は124億円で、うち40.2%を輸出が占めた。創立50周年を翌年に控えた同社は、1968年度を初年度とする売上・利益倍増の新五カ年計画に着手し、あわせて大幅な機構改革を行っている。同じ1968年にはグラスライニング機器の池袋琺瑯工業の株式50%を取得して業務提携を結び、化学工業機器分野の拡充へつなげた。超高圧試験所の完成とNGKカナダの設立も同年である[15][16][17]。
非碍子の柱が定まったのは1970年代である。1970年に米国で大気浄化法が成立して自動車の排ガス規制が強まると、同社はセラミックス製ハニカム担体の開発に入り、1976年に触媒担体セラミックスの生産を始めてフォード社への納入に成功した。同じ1976年には電力・機械装置・特品の3事業本部からなる事業本部制へ移り、非碍子の事業を独立した単位で運営する体制を敷いた。その後は自動車用酸素センサーや電子部品にも進んでいる[18][19][20]。
碍子6・非碍子4に届くまで
比率がどう動いたかは、後年の数字が示している。1984年6月、余語章財務部長は日本証券アナリスト協会の企業分析部会で、碍子を中心とする電力部門の売上構成比が10年前の1974年3月期には94%だったのに対し、1984年3月期は51.4%、翌期は初めて50%を割って47%になる見通しだと説明した。従業員は約4,700人で10年前とほぼ変わらず、売上は2倍以上に増えていた[21][22]。
1993年度の売上構成は電力部門42.7%、セラミックス部門23.4%、エンジニアリング部門26.2%、金属部門7.7%となり、非碍子は6割近くに達した。柴田昌治社長は2001年の取材に「1950年代末に、化学工業用磁器を事業部化したのが多角化の始まり。その後二〇年で水道浄化装置など環境関連も増えて、碍子六割、非碍子四割になった」と語っている[23][24]。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 株式会社年鑑 昭和37年版(1962年)「日本碍子」
- 証券アナリストジャーナル 1984年 第22巻第8号「日本碍子 世界碍子界でリーダーの地位確保」(余語章 日本碍子財務部長 講演要旨)
- 週刊東洋経済 2001年5月12日号「[特集]ドラマチック名古屋2001 森村グループ 日本陶器“復活”の夢」
- 日本ガイシ「沿革(企業史略年表)」(公式サイト)
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】