デンカ国産技術によるクロロプレンゴムの企業化と、丸善石油化学コンビナートへの参加

カーバイドで登るか、石油へ移るか——野村與曾市 社長はなぜ1962年に二本の柱を同時に立てたか

時期 1962年6月
意思決定者(推定) 野村與曾市 電気化学工業 社長
論点 原料系統の二本立てと高付加価値化
概要
1962年、電気化学工業が青海工場の田海地区でクロロプレンゴムの企業化に日本で初めて成功し、同じ年にデンカ石油化学工業を設立して千葉・五井の丸善石油化学コンビナートへ参加した経営判断。野村與曾市 社長は、カーバイド系と石油化学系という二本の柱を同時に立てた。
背景
カーバイド1トンの生産には約3,000キロワット時の電力と570キログラムの炭素材が要り、生産費の5割を両者が占めていた。石油化学のエチレンは1キログラム40円を割り込み、カーバイド由来のアセチレンで価格を張り合うことが難しくなっていた。
内容
米デュポンからの技術導入は採算が合わないとして断念し、自社開発でクロロプレンゴムの工業化に踏み切った。工程で爆発しやすい物質が副生するため成功していたのは米デュポンと独バイエルだけで、同社は世界3社目となった。並行して五井に20万坪の用地を確保し、丸善石油化学へユーザー5社均等で資本参加した。
含意
クロロプレンゴムは以後60年の主力製品となり、青海のアセチレン法という独自の製法も残った。半世紀後、同社は元祖デュポンの米国拠点を買い取る側に回り、2025年にはその設備を止めて青海工場の生産品へ供給を戻した。
筆者の見解

逃げ場のない原価と、二本立ての代償

カーバイド1トンに3,000キロワット時——この数字が電気化学工業の選択肢を狭めていた。電力と炭素材で原価の半分が決まる事業は、買電の価格が上がれば逃げ場がない。野村與曾市 社長が1962年に選んだのは、原料系統を石油へ乗り換えることでも、カーバイドに賭け続けることでもなく、その両方を同じ年に始めることであった。爆発の危険から2社しか作れなかった製品に世界3社目として挑む一方で、五井には20万坪の用地を押さえている。

ただし、二本の柱が対等に伸びたわけではない。五井で始めたスチレン系樹脂は需要が2割細り、販売と生産体制の見直しを要する事業になった。残ったのは、採算が合わないとして技術導入を断念した末に自前で作ったほうであった。そのクロロプレンゴムでさえ、元祖デュポンの設備を買い取った先で行き詰まり、2025年には青海の1拠点へ戻っている。踏み切る判断より、60年抱え続ける判断のほうが重かったとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

原価の半分を電力と炭素材が決める事業

カーバイドを1トン作るには、約3,000キロワット時の電力と570キログラムの炭素材、920キログラムの生石灰が要る。野村與曾市 社長は、生産費に占める電力と炭素材の比率が5割を超えると書き残している。石灰石は採掘と運搬の合理化で足りるが、電力は買っていたのでは追いつかない。多少の設備投資費を負っても自家発電のほうが安いという計算が、青海工場の発電所を支えていた[1][2]

青海は黒部川・姫川・海川の水に恵まれ、自家水力発電は12万キロワットに達していた。火力を合わせた自家発電の出力は14万キロワットで、当時の国内最大であり、全国の電力量の1%を超えた。戦時の電力国家管理では大牟田工場の3万5,000キロワットの発電所を接収され、青海の発電所についても終戦まで反対を続けて手放さなかった経緯がある[3][4]

アセチレンとエチレンの価格差

1966年11月、野村社長は証券アナリストの部会で、自社のカーバイド生産原価は工場で1トン当り1万5,000円になると述べた。アセチレンに換算すれば1キログラム50円から55円で、石油化学のエチレンの35円に十分匹敵し、原価に関するかぎり負けない自信があるという。もっとも同じ時期の回想では、エチレンはすでに40円を割り込んでおり、アセチレンを対抗させるのはかなり難しいとも書いていた[5][6]

有機合成向けのカーバイドは楽観を許さなくなり、通商産業省は生産18社の再編成指導に乗り出していた。当時の日本のカーバイドは18社で年産170万トン、そのうち同社が24%近い40万トン近くを占める首位にあった。首位のままでは事業が伸びない——カーバイド工業の伸びで足りないところを石油化学で補うという方針は、この読みから出ている[7][8]

決断

技術導入を断念して自前で作る

クロロプレンゴムは、当初は発明者である米デュポンから技術を導入する案が検討されていた。しかし採算が合わずに断念し、野村社長の記述によれば多少の反発心も手伝って、最後は自分たちで作ろうという結論に落ち着いた。1957年ごろのことである。製造上の最大の難点は爆発事故で、試験中の事故から工業化を断念した例は内外に少なくなく、デュポン自身も大爆発を起こした経験を持っていた[9][10]

開発は原田梧楼 氏らの手で進み、1959年に中間試験まで到達、1960年7月に月産500キログラムの試験設備が完成した。本格操業は1962年の夏からで、有価証券報告書の沿革は同年6月に青海工場の田海地区で国産クロロプレンゴムの製造に成功したと記す。担当の若い技術者のなかには、爆発して死体となったとき見苦しくないようにと、毎朝下着を替えて出勤する者がいた[11][12]

米デュポンと独バイエルに次ぐ世界3社目の企業化であった。野村社長は部会の質疑で、内外の有力会社が製造に着手しながらいずれも技術的に失敗し、工程中の爆発の危険を避ける固定化防止が難しかったと説明している。国産技術による企業化として化学工業界の評価は高く、関係者は大河内記念賞などを受けた[13][14]

東京湾に決めた石油化学

石油化学の立地について、野村社長は10年ほど前から神奈川と千葉の海岸をひそかに見て回っていた。首都圏の人口は当時2,700万人で、近い将来に4,000万人を越えるといわれていた。原料の原油をすべて輸入に頼る以上、海運の良否が死命を制する。適地は首都圏の心臓部である東京湾周辺のほかにないと断定し、躊躇なくここに決めたと書いている[15][16]

参加先に選んだのは千葉・五井地区の丸善石油化学コンビナートであった。ユーザー5社が競合回避・相互補完・共同運営の三原則を守り、丸善石油化学へは5社均等で半額を出資した。五井には20万坪の用地を確保し、1962年11月にデンカ石油化学工業を設立してスチレンとポリスチレンの生産に入る。カーバイド系と石油化学系という二本の柱は、こうして同じ年に立った[17][18]

結果

二本の柱のその後

クロロプレンゴムは電線被覆、空気バネ、接着剤、ベルト、ホース、救命ボートへと用途を広げ、2014年には世界約80カ国へ供給する最大級のメーカーになっていた。青海のアセチレン法は独自技術のまま残る。2015年11月には元祖デュポンの米国拠点を譲り受けて第2の生産拠点としたが、その設備は2025年5月に期限を定めず暫定停止し、需要家への供給は青海工場の生産品へ戻った[19][20][21]

もう一方の柱はかたちを変えた。デンカ石油化学工業は1974年4月に本体へ合併されて千葉工場となり、五井で始めたスチレン系樹脂の事業はいまも続いている。ただし主用途である食品包装の需要は新型コロナ前と比べて約2割減り、2025年2月の決算説明会で同社は販売と生産体制の最適化が必要だと述べた。二本のうち長く主力であり続けたのは、カーバイド側の製品であった[22][23]

出典・参考

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