自動車排ガス測定装置の事業化

医学用に磨いた分析計の速さを、自動車の排ガス測定へ転じられるか

更新:

時期 1965年11月
意思決定者 堀場雅夫 社長
論点 分析計測技術の新市場への展開
概要
1965年、堀場製作所が自動車排ガス測定装置の販売を始め、pHメータや赤外線ガス分析計で培った分析計測技術を自動車という新市場へ向けた判断。この装置は後の主力事業となる自動車計測分野の始まりにあたり、堀場を世界的な分析機器メーカーへ押し上げる代表的な製品となった。
背景
赤外線分析計の応答速度を、医学用の呼気ガス分析で0.1秒まで高めていた。この速さに公害資源研究所の八巻直臣氏が着目し、運転条件で刻々と変わる排ガスの成分を追える連続測定への道が開けた。1960年代の日本ではモータリゼーションが本格化していた。
内容
共同研究で高速形の連続分析装置を仕上げ、1964年の大阪の計測工業展に外装を出展して市場を探り、1966年には東京の展示会へ大型の試作第1号を出した。中古エンジンを持ち込んで実測し、運輸省や自動車メーカーの批判を仰ぎながら、車に積んで各社へデモを重ねた。
含意
1970年代の排ガス規制の強まりで測定装置の需要は急伸し、大手メーカーは生産ラインで全数検査を行うに至った。堀場は排ガス測定機器で高いシェアを握り、医学用に磨いた技術の転用が自動車計測という新しい柱を生んだ。
筆者の見解

一点の技術が新市場を開く

この判断の核心は、まったく新しい技術を起こしたのではなく、医学用に磨いた分析計の速さを別の対象へ転じた点にある。呼気ガスの分析で得た0.1秒の応答が、運転条件で変わる排ガスの測定にそのまま生きた。自社でセンサーを持ち、周辺は外に委ねるという堀場の分業が、対象を医学から自動車へ移す身軽さを支えたとみることができる。持てる技術をどの市場へ向けるかという問いに、この事業化は一つの答えを示している。

事業化の時点では、排ガス規制の強まりも需要の広がりも見通せてはいなかった。市場調査を兼ねた展示から始め、中古エンジンを持ち込んで批判を仰ぎながら装置を鍛えた過程には、需要を確かめてから量産へ向かう慎重さがうかがえる。やがて規制が追い風となり、装置は生産ラインの検査設備へと育った。技術の転用と規制の到来が重なったこの製品は、堀場が後年まで自動車計測を柱に据える出発点となった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

医学用に磨いた分析計の速さ

堀場製作所は、pHメータに続く柱として赤外線ガス分析計を育て、その用途を医学用の呼気ガス分析にまで広げていた。従来の測定器では自動車排ガスの応答速度が20秒ほどであったのに対し、呼気ガス用分析計は90パーセント応答で0.1秒という高速を実現していた。運転条件が変われば排ガスの成分も刻々と変わるため、その変化に即応できる速い測定が排ガス分析には欠かせなかった[1]

この速さに着目したのが、工業技術院公害資源研究所の八巻直臣氏であった。1962年から1963年ごろ、八巻氏は自動車排ガスを分析する手法を検討しており、応答速度の速い測定とサンプリング系統の組み方に課題を抱えていた。研究はまだ緒についたばかりであった。堀場の医学用分析計の応答の速さを応用できないか、という八巻氏のヒントが共同研究の始まりとなった[2]

モータリゼーションと排ガス規制の高まり

1950年代を通じて米国に、1960年代を通じて日本にも自動車社会が到来した。当初の自動車問題は交通事故や保険をめぐる議論が中心であったが、米国では1970年代に排ガスによる公害が問題視される時代へ向かっていた。1971年、読売新聞は「自動車の排ガスの徹底的規制を」と題する社説を掲げ、自動車メーカーへの圧力を強めた[3]

排ガスへの視線は制度にも及んだ。1970年10月、米国の上下両院協議会は、1975年以降に有害排ガスを出す自動車を製造・販売させない方針、通称マスキー法に同意した。読売新聞は「この法案が成立すれば、日本をはじめアメリカに自動車を輸出している国々も大きな影響を受ける[4]」と指摘した。規制の強まりは、排ガスを正確に測る装置の必要性を各国の自動車メーカーへ突きつけた。

決断

計測工業展での事業化

八巻氏との共同研究でテストを重ね、プロセス計器の応答速度を高めて、堀場は高速形の連続分析装置を仕上げた。1964年、大阪の計測工業展に自動車排ガス測定装置の外装だけを出展し、市場の動きを探るデモンストレーションを行った。2年後の1966年11月には、東京の計測工業展へ大型の排ガス測定装置の試作第1号を出した。有価証券報告書の沿革は、自動車排ガス測定装置の販売開始を1965年11月と記している[5]

この分野の経験は浅く、堀場は会場に中古エンジンを持ち込んで排ガスを実測し、運輸省や自動車メーカーに呼びかけて率直な批判を仰いだ。排ガス測定と同時にエンジンそのものの改良に役立つ点を売りに、計測工業展が終わると測定装置を車に積み、各社へ売り込みのデモを重ねながら東海道を下って京都へ帰った。どれだけの反響が返るか予測がつかないまま、この装置に大きな望みをかけて徹底したPRを続けた[6]

医学用から自動車用への転換

自動車排ガス測定装置は、赤外線分析計の用途開発が思わぬ方向へ進んだ末に生まれた製品であった。もともと医学用として磨いていた分析計の高速応答が、そのまま排ガスという移り変わりの速い対象に適していた。液体や気体の中の物質を探し量るセンサーを自社で開発し、周辺は外部に委ねるという分業が、新しい対象への転換を支えた[7]

堀場は1965年9月に本社を京都市南区の現在地へ移し、続く11月に自動車排ガス測定装置の販売を始めた。国産のpHメータで得た測定技術、赤外線分析計で得た高速応答、そして公害研究者との共同研究が重なって、自動車という巨大な市場へ向かう製品が形をとった。当時はまだ排ガス規制が本格化する前で、需要の広がりは見通せていなかった[8]

結果

排ガス規制の本格化と主力事業化

1970年以降、マスキー法を機に日米の自動車メーカーは基準を満たすエンジンの開発を競い、排ガス測定機器の需要が急伸した。堀場が自動車排ガス分析計を手がけて10年目にあたる1974年の夏には、大手の自動車メーカーが生産ラインの末端にコンピュータ制御の排ガス測定システムを据え、流れる車の全数検査を実施するまでになった。市場調査を兼ねた展示から始まった装置は、量産現場の検査設備へと育った[9]

排ガス測定装置は堀場の代表的な製品となった。日経ビジネスは1979年、堀場が排ガス測定機器で8割のシェアを保ち続けていると伝えた。医学用に高めた分析計の応答速度という一点の技術が、規制という追い風のもとで自動車計測という新しい柱を生み、堀場を世界的な分析機器メーカーへと導く製品になった[10]

出典・参考
  • おもしろおかしく25年(堀場製作所, 1978年1月)
  • 堀場製作所 有価証券報告書【沿革】
  • 読売新聞(1970年10月8日)
  • 読売新聞 社説(1971年)
  • 日経ビジネス 1979年4月9日号「堀場雅夫氏が語る知情分離の運命共同体経営」(日経マグロウヒル社)