日本発條豊田工場の新設によるトヨタ向け自動車シート事業への本格参入
系列に入らない専業メーカーが、得意先ごとに工場を建てるという選び方をした
- 概要
- 1961年6月、日本発條は川崎工場に精密ばね専門工場を新設すると同時に、シート専門工場としてトヨタ自動車の本拠地である愛知県豊田市に豊田工場を新設した。懸架ばねの会社が、座席そのものを作る事業へ入った判断である。
- 背景
- 売上の半分を重ね板ばねが占める構成で、乗用車の普及とともにシートばねの需要が伸びていた。ただしシートは車ごとに形状も設計方法も異なり、汎用の一工場でまとめて作れる製品ではなかった。
- 内容
- 得意先ごとに専用工場を持つ配置を採り、豊田工場をトヨタ自動車向けに充てた。1962年12月に川崎、1964年8月に広島、1969年7月に太田と同じ型で増やし、ポリウレタン一体発泡の特許を使ってシートの構造そのものを組み替えた。
- 含意
- 板ばねの売上構成比は1964年3月期の44%から1968年9月期に32.5%へ下がり、代わってシートばねが25%に達した。シートは2026年3月期に売上2,925億円と全セグメントで最大となる一方、営業利益率は2.8%にとどまる。
隣に建てるという選び方
1961年の判断で決まったのは、シートに入るかどうかよりも、どう入るかであった。設計が客先ごとに違う製品を扱う以上、汎用工場で束ねる道は最初から閉じている。日本発條は資本では中立を保ちつつ、工場という物理的な単位で得意先に寄り添う道を選んだ。豊田市に建てた工場は、その最初の一つである。以後の川崎・広島・太田も、フォルシア社と組んだ九州・襄陽・インドの合弁も、同じ図面の引き直しであった。
この選び方は、得意先の生産計画をそのまま自社の稼働率に写し取る。車種が売れれば工場は回り、モデルが終われば次の受注を取るまで固定費だけが残る。2026中期経営計画がシート事業に減収減益の計画を置き、後継機種の受注に向けた競争力強化を課題に挙げたことも、65年前に引いたこの線の延長線上にある。トヨタ自動車の隣に工場を建てた日は、量を得た日であると同時に、稼働率を他社の車種計画に委ねると決めた日でもあった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
板ばねが半分を占める会社
1960年代初めの日本発條は、まだ懸架ばねの会社であった。1960年10月からの半期の商品別売上高では、重ね板ばねが51.5%を占め、線ばね15.3%、薄板ばね9.5%が続いている。本社と横浜工場は横浜市磯子区にあり、川崎工場、大阪工場、長野県上伊那郡の宮田工場を合わせて従業員は1,593人であった。乗用車と小型トラックの量産が立ち上がるにつれ、この構成のままで伸ばせる範囲は狭くなっていた[1]。
シートばねはその頃すでに手がけていたが、性格の異なる製品であった。車ごとに形状が区々で、ばね自体の形も包み形からジグザグまであり、両方を併用するものもある。そのばねの上に詰め物をし、ビニールレザーや高級品では織物でカバーすると座席になる。工程は縫製と組み立てを含み、当時のシート生産は労働集約的な性格を持っていた。ばねを巻いて熱処理する工場の延長線上には置きにくい仕事であった[2]。
系列に入らない会社が、シートで抱えた事情
日本発條は専門部品メーカーとして特定の自動車メーカーの系列下に入らず、中立の立場を保つことを経営方針としていた。納入先はほとんどすべての自動車メーカーに及び、板ばねであれば同じ設備で複数の得意先の注文をさばける。系列に属さないことは、需要の波を客先の分散で吸収できるという実利でもあった[3]。
ところがシートでは、その中立が生産の効率に結びつかない。自動車メーカーによってシートの特徴も設計方法も違うため、一つの工場で複数の得意先の車種を並べても、金型も治具も工程も共有できない。そこで日本発條は、大手得意先に対して一工場を持つという配置を採り、工場ごとに系列的な営業活動と技術接触を行う体制を組んだ。資本の関係では中立を保ちながら、工場の単位では特定の得意先に寄り添う形になった[4]。
決断
得意先の本拠地に工場を建てる
1961年6月、日本発條は川崎工場に精密ばね専門工場を新設すると同時に、シート専門工場として愛知県豊田市に豊田工場を新設した。豊田市はトヨタ自動車の本拠地であり、この工場はトヨタ自動車向けのシートを作るために置かれている。1968年の講演で三浦浩常務取締役は同拠点を名古屋工場と呼び、そこではトヨタ自動車向けのシートばねを生産していると説明した。得意先の生産拠点の隣に自社の専用工場を置く配置は、以後の日本発條の標準になった[5][6]。
同じ型はすぐに増やされた。1962年12月に川崎工場へシート専門工場を新設し、1964年8月には東洋工業向けとして広島県安芸郡に広島工場、1969年7月には群馬県太田市に太田工場を置いている。1968年の時点で日本発條は横浜・川崎・長野・名古屋・広島の5工場を持ち、太田工場を建設中であった。得意先が増えるたびに工場が一つ増える建て方で、日本発條は自動車メーカーの生産拠点の地図をなぞるように国内へ広がった[7][8]。
ばねから、座席そのものへ
工場を建てただけでは、労働集約的な工程はそのままである。日本発條はポリウレタン一体発泡の特許を保有し、型の中にばねを入れて軟質ポリウレタンをばねごと一体で発泡させる方法を実用化した。これによりシートの構造が単純になり、設計面の複雑さから解放されたうえで付加価値も上げられる。バイエルとデュポンのクロスライセンスを受け、東洋ゴムと提携して愛知の工場で生産し、1969年3月頃には広島工場にも同じ設備を入れる計画を立てていた[9]。
座席まわりの製品はさらに増えた。安全マクラとバックルは、それまで自動車用品ではあっても部品ではなかったが、法律改正により安全マクラは1969年4月から、バックルは同年7月から8月にかけて強制装着となる。日本発條は軟質ポリウレタンから半硬質ポリウレタンへ研究を進めて安全マクラを開発し、トヨタ自動車の小型車に採用される約束を取り付けた。バックルは自社の下請工場で生産し、安全ベルトで国内最大のシェアを持つ滋賀県の高田工場へ一手に供給する契約を結んで、半期で約5億円の売上を見込んでいる[10]。
結果
板ばねを抜きにかかったシート
品目構成の入れ替わりは数字に出た。1964年3月期に売上構成比44%であった板ばねは、1968年9月期に32.5%まで下がっている。代わって伸び幅が最も大きかったのがシートばねで、同じ1968年9月期に25%の水準へ達した。1964年3月期の半期売上は53億7,000万円、利益は1億5,200万円であったが、1968年9月期には売上102億8,000万円、税引利益2億2,100万円となり、配当は12%を据え置いている。自動車部品メーカーの通例として利益率は高くなかった[11][12]。
シートでの地位は板ばねよりも高くなった。日経ビジネスは1981年6月15日号で、日本発條のシェアは板ばねと巻ばねでは全国生産量の約35%、新車の組付用ばねで約50%であるのに対し、トーションバーと自動車用シートでは70〜90%に達すると書いている。同誌は、年間売上高が1,000億円に満たない会社でありながらばねに限れば世界屈指であるとして、日本発條を「小さな巨人」と呼んだ。系列に属さないまま、得意先ごとの工場でシェアを積み上げる形が定着した[13]。
最大の売上と、最も薄い利益
シートは国境も越えた。2001年10月にはフランスのフォルシア社との合弁でフォルシア・ニッパツとフォルシア・ニッパツ九州を設立し、2007年7月にはタイのオートモーティブ シーティング&インテリア社の株式をトヨタ紡織へ譲渡している。2012年10月には同じくフォルシア社との合弁で中国・襄陽にシート会社を、2013年2月にはインドでニッパツ エフ クリシュナ インド オートモーティブ シーティング社を設立した。得意先ごとに拠点を置く1961年の配置を、そのまま海外へ移した展開である[14]。
2026年3月期のシート事業は売上2,925億円で、5つの報告セグメントのうち最大となった。ただし営業利益は80億円、営業利益率は2.8%にとどまる。同じ期のDDS事業は売上1,267億円に対し営業利益260億円、営業利益率20.6%であった。売上で全社の3分の1超を占めるシートが、利益では懸架ばねに次いで薄い。1961年に建てた一顧客一工場の配置は、量を運ぶ力と引き換えに、稼働率を得意先の車種計画に預ける取引でもあった[15]。
- 証券アナリストジャーナル 6巻12号(1968年12月)「日本発条の現状と将来」(三浦浩常務取締役講演)
- 日経ビジネス 1981年6月15日号「高視点経営で『ばね』のトップひた走り」
- 株式会社年鑑 昭和37年版(1962年)「日本發條」
- 日本発條 有価証券報告書(2014年3月期)【沿革】
- 日本発条 2026年3月期 決算説明会資料(2026年5月11日)