日本発條大同発条の合併と日発販売の分離独立によるばね国内首位の地盤固め

素材メーカーが手放したばね部門を引き受け、補修品の販路を切り離した二手

時期 1958年5月
意思決定者(推定) 日本発條 取締役会 経営の実務を担った坂本寿氏・藤岡清俊氏
論点 事業基盤と販売体制
概要
1958年5月、日本発條は大同製鋼が半年前に分離設立した懸架ばね会社・大同発条を合併して川崎工場とし、翌1959年5月には自動車補修用ばねの販売部門を切り離して日発販売を設立した。生産の取り込みと販路の分離を1年おきに実行した二手である。
背景
乗用車と小型トラックの量産が立ち上がる一方、日本発條は神戸製鋼所からのばね鋼の完全な供給が難しくなっていた。大同製鋼の側には、鋼メーカーとして企業体制を一本化したいという意向があった。
内容
大同発条(資本金1億5,000万円)を合併してばね鋼の主たる調達先を大同製鋼に移し、川崎工場を得た。補修用ばねは組付用と客先も商流も異なるため、販売部門を全額出資の日発販売として独立させ、全国50店舗の網を敷いた。
含意
1961年3月末の大株主名簿では大同製鋼が26.6%を持つ筆頭株主となった。1968年には自動車メーカー向けが売上の約82%、全国のばね生産額のほぼ6割を日本発條が占め、専業メーカーが素材メーカーのばね部門を引き取る側に回った。
筆者の見解

買った工場と、手放した売り場

この二手は、方向が逆に見えて出所が同じであった。ばね鋼が細りかけたとき、日本発條は素材メーカーの内側にあったばね工場ごと引き取り、調達と生産をまとめて手当てした。一方、数量では10%まで落ちた補修品については、生産に抱え込まず、在庫と即納で回る別会社へ売り場を移した。作る場所は近くへ、売る場所は遠くへ。どちらも、自分の得意な仕事の輪郭をはっきりさせるための線引きであったとみられる。

線引きの正しさは、素材メーカーの側の結末が示している。大同特殊鋼も住友金属工業も、ばね鋼から一貫して作れる立場にありながら、ばね事業の赤字に手を焼いて専業メーカーへ委ねた。一貫生産の理屈は、その部門に人と時間を注げる会社にしか実らない。1961年3月末の大株主名簿で26.6%の筆頭株主になった大同製鋼は、ばねを作る会社ではなく、ばねを作る会社に鋼を売る会社として日本発條の隣に残った。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

上場4年目のばね専業メーカー

日本発條の出発は1936年6月、東京・芝浦に資本金60万円で設立された芝浦スプリング製作所にさかのぼる。1939年9月に日本鋼管・三菱商事・古河鉱業の出資参加を得て日本発条株式会社と改称し、翌1940年11月には横浜工場で懸架ばねの操業を始めると同時に本拠を横浜市へ移した。1943年7月には線ばね・薄板ばねを手がける大日本発条を吸収合併して品種を広げ、同年12月には伊那工場で精密ばねの生産に入っている。1954年3月には東京証券取引所へ上場した[1][2]

主力は重ね板ばねであった。乗用車では後ばね、トラックでは前後の懸架ばねに使われ、大きいものはブルドーザー用で一本300キロに達し、小さいものは1000cc級の大衆車向けで一本3キロ程度にとどまる。品目の幅がそのまま納入先の幅につながり、日本発條はほとんどすべての自動車メーカーを得意先としていた。専門部品メーカーとして特定の自動車メーカーの系列下に入らないという方針は、この時期に定まっている[3]

ばね鋼の調達と、素材メーカーが抱えたばね部門

ばねの原価と品質を左右するのは素材のばね鋼である。1950年代の日本発條はばね鋼の供給を神戸製鋼所から受けていたが、自動車の増産に合わせて必要量が膨らむにつれ、その完全な供給を受けることが難しくなっていた。素材が細れば、いくら成形と熱処理の技術を磨いても納期と数量で応えられない。専業メーカーにとって、調達先をもう一本持つことは設備投資と同じ重さを持つ課題であった[4]

相手側にも事情があった。大同製鋼は川崎工場でばねを自社生産していたが、鋼メーカーとして企業体制を一本化したいという意向を持っていた。素材から一貫して作れることは理屈のうえでは強みでも、社内では鋼の消化先という位置に置かれ、専業メーカーと同じ密度で開発と営業に人を割くことは難しい。素材を安定して売りたい側と、素材を安定して買いたい側の利害が、ばね部門の扱いという一点で重なった[5]

決断

半年前に切り出された会社を、そのまま合併する

段取りは大同製鋼の側から組まれた。同社は合併のおよそ半年前に、川崎工場のばね部門を資本金1億5,000万円の大同発条として分離設立する。合併のためだけに作られた会社であり、1958年5月、日本発條はこれを吸収して川崎工場とした。日本発條に次ぐ規模の懸架ばねメーカーを一度に取り込む合併で、同年2月には精密ばねの日発精密工業も設立している[6][7]

合併の勘定は双方で合った。日本発條はばね鋼の供給を主として大同製鋼から仰ぐことになり、調達の細りという不安がひとまず消えた。大同製鋼は自社の一部門を手放す代わりに、ばね鋼の安定需要家を得た。合併から10年後、三浦浩常務取締役は証券アナリスト協会の講演で、この合併は双方ともに効果のあるものであったと振り返っている。川崎工場は以後、板ばねと日産自動車向けのシートばね、線ばね、薄板ばねを担う拠点となった[8]

補修用の販路を、外へ出す

翌1959年5月、日本発條は自動車補修用ばねの販売部門を切り離し、日発販売を設立した。株式はほとんど全額を日本発條が保有し、全国に50店舗を配置して販売にあたらせた。組付用ばねは自動車メーカーの購買部門と設計部門を相手にする商いだが、補修用は整備工場と部品商を相手に在庫と即納で戦う商いになる。同じ製品でも売り方が違うため、営業の物差しごと外へ出したことになる[9][10]

補修用の重みは分離のあとむしろ下がった。かつては売上の40%に達した時期もあったが、道路事情が改善し、積載量が制限され、ばね自体の性能も上がったことで、1968年には組付用90%に対し補修用10%となっていた。それでも販売網を残した理由を、日経ビジネスは後年、国産メーカーが全滅したとしても輸入車は残る、自動車が増えれば補修部品市場は広がるというぎりぎりの読みにあったと書いている。数量が細っても、販路そのものは手放さなかった[11][12]

結果

株主名簿に残った合併の跡

合併の帰結は資本の側にも現れた。1961年3月末の大株主名簿では、大同製鋼が425万株・26.6%を持つ筆頭株主となり、日商が13.3%、神戸製鋼所が5.5%で続いている。資本金8億円、従業員1,593人、本社は横浜市磯子区。1960年10月からの半期の商品別売上高は約29億円で、うち重ね板ばねが51.5%を占め、線ばね15.3%、薄板ばね9.5%、特殊ばね8.4%と続いた。板ばね一本の会社から、品目の束を持つ会社へ移りつつある構成であった[13][14]

首位はその後さらに広がった。1968年には売上の約82%が自動車産業向けとなり、概略書『企業の歴史:明治百年』は、全国のばね生産額のほぼ6割を日本発條が占めると記している。同年の講演で三浦浩常務取締役は、板ばね8,000トン・巻ばね1,000トンの生産能力を持つ工場は日本発條を除けば世界になく、単一ばね企業としては世界一の規模であると述べた。1958年と1959年の二手は、この規模を支える生産と販路の骨格になった[15][16]

「小が大を食う」と呼ばれた取り込み

素材メーカーのばね部門を引き取ったのは大同製鋼だけではなかった。日本発條はその後、住友金属工業のばね部門も傘下に入れている。日経ビジネスは1981年6月15日号でこの経緯を小が大を食うと表現し、ばね鋼から一貫して作れる製鋼会社のほうがコスト競争力を持ちそうに見えて、大同特殊鋼も住友金属工業も赤字に手を焼き、日本発條に任せることにしたと書いた。大企業の一部門と専業メーカーの差であり、ばね鋼の消化という目先の課題に引かれた分だけ視野が狭くなった、というのが同誌の見立てである[17]

切り出した側の日発販売も育った。1997年9月26日に株式を店頭登録し、そのとき清野栄一社長は、補修用ばねが「NHK」のブランドで業界の41%を占め、全国47カ所の拠点と地域倉庫による即納体制が強みであると説明している。ばね以外の商材が売上の6割を占める商社へ姿を変えていた。そして2012年4月、日本発條は株式交換によって日発販売を完全子会社としている。1959年に外へ出した販売部門は、53年をかけて内側へ戻った[18][19]

出典・参考

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