ニチメン繊維商社・丸永の吸収合併と、資本金4億3000万円への増強

同業を取り込んで規模を先に作るか、専門商社にとどまるか——総合商社化をめぐる最初の集中

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時期 1954年11月
意思決定者(推定) 岡島美行 社長
論点 専門商社の総合商社化と規模の確保
概要
1954年11月、日綿實業が繊維商社の丸永を吸収合併し、資本金を4億3000万円とした経営判断。朝鮮動乱の反動で商社が戦後最大の危機に見舞われ、政府が1952年から商社強化策を重要施策に据えた時期に、関西五綿の一角が同業を取り込んだ合併であった。当時の記録はこれを「商社統合のテスト・ケース」と記している(東洋経済新報社、1955年)。
背景
朝鮮動乱の反動で商品市況が暴落し、ゴム・原皮・油脂原料の新三品だけで176億円の値下がり損が出た。1951年の夏から秋にかけて中小商社の倒産が続出し、業界は戦後最大の危機を迎えた。輸入外貨が需要者であるメーカーへ割り当てられる制度のもとで、商社は代理商の立場に置かれていた。
内容
丸永を吸収合併し、資本金は4億3000万円となった。9か月後の1955年8月には10億7500万円へ増額している。1954年の実績は輸出6030万ドル(対全国比4.0%)、輸入1億3500万ドル(同6.9%)で、食糧と綿花の輸入では業界の一、二位を占めた。
含意
同じ繊維業者同士の集中であり、扱い品目がその場で広がったわけではない。それでも1955年の丸紅と高島屋飯田、東洋棉花と鐘淵商事、のちの日綿實業と高田商会へと合併は連鎖し、関西五綿の繊維比率は1965年ごろに30%台へ下がった。専門商社のままでは総合商社化の競争に残れないという読みが、業界に共有されていた。
筆者の見解

順位を守るための合併という読み方

1951年度の輸出入取扱高で、日綿實業のシェアは4.3%、伊藤忠に次ぐ二番手であった。この順位は実力だけで得たものではなく、三井物産と三菱商事がGHQの指令で解体され、市場から消えていたからこそ成り立っていた。1952年8月に旧財閥の称号使用禁止が解け、両社の再合同が動き出したとき、岡島美行社長らが見ていたのは両社が戻った後の序列だったとみられる。丸永の合併は、その前に規模を積んでおく判断であった。

ただ、この合併で手に入ったのは同じ繊維業者の商権であり、機械金属の力が加わったわけではない。日綿實業が機械金属部門の強化を狙って高田商会と合併するのは後年のことで、関西五綿の繊維比率が30%台へ下がるまでには十年を要した。1954年の一件で総合商社に変わったのではなく、変わるための資本と時間を確保した合併にとどまる。それでも、専門商社のままでは残れないという読みの正しさは、その後に続いた合併の連鎖が示している。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

朝鮮動乱の反動と、戦後最大の危機

1950年6月に始まった朝鮮動乱は、商社の取引量を短い期間で膨らませた。日本の輸出は1950年の7億7200万ドルから翌1951年に12億9000万ドルへ、輸入は6億4500万ドルから17億2500万ドルへ増えている。反動も同じ速さで来た。1951年3月の米国による戦略物資の買い付け停止と、7月の停戦協定成立で商品市況は暴落し、備蓄の名目で思惑輸入を重ねていた商社は、ゴム・原皮・油脂原料の新三品だけで176億円の値下がり損を負った[1][2][3]

同じ年の夏から秋にかけて中小商社の倒産が続出し、商社は戦後最大の危機に見舞われた。日綿實業も休戦後の反動期に苦境へ立たされている。ただ、損失の大きさは思惑の失敗だけで説明のつくものではなかった。輸入外貨は需要者であるメーカーへ割り当てられ、商社は枠を分けてもらって輸入する代理商の立場に置かれていた。資本の弱さと重なって、この制度が産業資本への従属と商社間の過当競争を招いていた[4][5][6]

関西五綿が上位を占めていた数年

1952年、政府は商社強化策を重要施策の一つに取り上げた。輸出所得控除などの税制措置、海外支店設置の助成、輸出入取引法の改正による過当競争の防止として具体化している。同じころ、業界の内部でも体質の強化をめざす再編が動き出した。ひとつは関西五綿を主軸とする集中で、専門商社から脱皮して総合商社をめざすもの、もうひとつは三井・三菱の旧財閥商社の再統合であった。日綿實業が身を置いたのは前者の流れである[7][8]

当時の序列は、旧財閥商社の解体が作ったものであった。三井物産と三菱商事は1947年7月にGHQの指令で解体されている。1951年度の輸出入取扱高に占めるシェアは、伊藤忠の4.7%を筆頭に日綿實業4.3%、丸紅と東洋棉花が各4.0%、兼松3.1%、江商3.0%で、関西系商社が上位を占めた。旧物産の流れをくむ第一物産は2%台にすぎない。1952年8月に旧財閥の称号使用禁止が解け、両社の再合同が具体化に向かった[9][10][11]

決断

商社統合のテスト・ケース

1954年11月、日綿實業は丸永を吸収合併した。当時の記録である『会社銀行八十年史』は、この合併を「商社統合のテスト・ケース」と記している(東洋経済新報社、1955年)。1951年11月に社長へ就いた岡島美行氏のもとでの決定で、合併にあわせて資本金は4億3000万円となった。資本金は1949年5月の1億円から2億円、4億円と段階的に増やされており、合併もその線上にある増強であった[12][13]

合併した年は、業績の伸びる年ではなかった。1954年は金融引き締めの続いたデフレの年で、総固定資本投資は前年より1割下がり、尼崎製鋼や日平産業といった知られた企業までが破綻している。日綿實業自身も休戦後の反動から立ち直りきってはいない。なお合併の月について資料は割れており、『私の商社昭和史』は1954年9月とする(日本経済新聞社、1987年)。本稿は当時の記録である『会社銀行八十年史』の11月を採る[14][15]

繊維だけでは残れないという読み

丸永は日綿實業と同じ繊維業者で、この合併は同業同士の集中にあたる。異業種の商権を買ったわけではないから、扱い品目がその場で広がったわけではない。それでも踏み切った理由は、当時の商品構成にある。1955年ごろまで関西五綿の扱い高の70〜80%はなお繊維品で、専門商品だけでは取引の旨味が薄れていた。多角化そのものは終戦直後の援助物資の取り扱いから始まっていたが、本腰の総合商社化はまだ先にあった[16][17]

総合商社になるには、扱う商品を増やすだけでなく、それを支える資本と人員が要る。輸入外貨の割当を受け、海外に支店網を張り、相場の損失を吸収するには、専門商社の身の丈では足りなかった。同じ繊維業者を取り込んで規模を先に作り、そのうえで機械金属へ広げる順序を選んだ、とみられる。日綿實業は食糧と綿花の輸入で業界の一、二位を占めており、繊維の外にも輸入の商権を持っていた[18][19]

結果

合併の直後に現れた数字

合併した年の実績は、輸出6030万ドル(対全国比4.0%)、輸入1億3500万ドル(同6.9%)であった。輸入側の比率が高いのは、食糧と綿花の輸入で独特の地盤を持っていたからである。機械と金属の輸出取扱高も増え、ニューヨーク、ダラス、カラチ、ハンブルグに現地法人を、ビルマに支店を置いた。繊維中心の総合貿易商社という自己規定に、非繊維の実績が加わりはじめている[20][21]

資本金の動きはさらに速かった。合併時の4億3000万円は、9か月後の1955年8月に10億7500万円へと2.5倍になっている。1955年は世界的な工業ブームの年で、日本は戦後初めて輸出額が輸入額を約1億ドル上回り、外貨保有高は1956年3月末に14億ドルへ達した。大手商社10社の年間取扱高は、1955年3月期で9021億円であった[22][23][24]

連鎖した同種の合併

同種の合併は続いた。1955年に丸紅が高島屋飯田を合併し、八幡製鉄と富士製鉄の商権を持つ鉄鋼部門を得ている。同年8月には東洋棉花と鐘淵商事が合併した。日綿實業と丸永、丸紅と高島屋飯田までは同じ繊維業者の集中であったが、その後は目的が変わる。丸紅飯田と第一鋼材・東通、伊藤忠と大洋物産、東洋棉花と南海興業、日商と白洋貿易、そして日綿實業と高田商会は、いずれも機械金属部門の強化を狙った合併であった[25][26]

日綿實業は1960年に田附を合併した。関西五綿の扱い高に占める繊維の比率は、1955年ごろの70〜80%から1965年ごろには30%台へ下がり、7、8%にすぎなかった機械金属や化学品が30%以上へ上がっている。日綿實業自身も非繊維部門の拡充を進め、1968年時点では非繊維の取扱い割合が65%、繊維関係が35%となった。1954年の合併を商社統合の試験と呼んだ当時の見方は、十年を経て裏づけられたといえる[27][28][29]

出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日綿実業」
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-産業資本に隷属化」
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)金融・商業「商社-進む大型化・総合化」
  • 日本産業史2(日本経済新聞社、1994年)第2編 復興期 展望「成長期への接点」
  • 私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)5章 物産、商事の再興成る
  • 私の商社昭和史(日本経済新聞社、1987年)6章 高度成長期の商社活動
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「日綿実業」

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