安宅産業 の歴史

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創業 1909年
創業者 安宅弥吉
創業地 大阪府大阪市
創業
1904年7月、安宅弥吉氏が大阪で個人経営の安宅商会を創業し、米・砂糖・木材・非鉄金属・雑貨の輸出入を扱った。日露戦争後の時運に乗って立ち上がったものの、貿易はすでに財閥商社が押さえており、昭和初期には三井物産・三菱商事・東洋棉花の3社だけで日本の貿易のおよそ3分の1を扱っている。1919年11月に資本金300万円で株式会社となり、1926年4月に官営八幡製鐵所、1928年に川崎造船所と取引を開始した。1933年には王子製紙のレーヨンパルプの一手販売店になっている。1943年1月に安宅産業へ商号を改めた。1955年5月に安宅英一氏が会長へ就任し、以後は社長も株式も創業家の手を離れたまま創業家が人事を左右した。1956年8月に大阪証券取引所、1957年8月に東京・名古屋の両取引所へ上場した。
決断
原油を10年買い切る義務を、役員会にかけずに三人で引き受けた。1969年に社長へ就任した市川政夫氏は半期売上高1兆円を掲げ、鉄鋼・パルプ・木材の仲介に海外資源開発を重ねる借入依存の拡大へ転じる。1973年、子会社の安宅アメリカを通じてカナダの石油精製会社NRCと総代理店契約を結び、BPから中東原油を10年買い切る義務まで引き受けた。BPから買った中東原油をNRCで航空機燃料へ加工しケネディ空港へ売る三国間貿易は、口銭を取る仲介ではなく価格変動リスクを自ら負う取引だった。同年10月の第1次オイルショックで固定価格販売の精製所が採算を失うと、出口のない購入義務だけが残る。1975年9月末の借入総額は5,248億円に達した。この与信は担当常務と副社長、社長の3人で決まり、役員会での実質的な討議はなかった。
現況
破綻の2年前まで、売上高は総合商社の上位に並んでいた。1975年3月期の売上高は2兆948億円で経常利益39億円の黒字、単体半期の取扱は金属・鉱産物37%、繊維19%、化学品・農水産物17%、木材建材・パルプ紙15%、機械・建設12%と品目も広い。翌1976年3月期に経常損失151億円へ転じ、最終期の1977年3月期は売上高1兆4,901億円・経常損失311億円で終えた。1975年12月に危機が表面化した時点の負債総額は1兆円、取引先は3万5,000社、取引金融機関は223行に及ぶ。商社には凍結できる物的資産も生産設備もなく、会社更生法を申請すれば唯一の手がかりである商権が消える。16行が協調融資団を組み、住友銀行は1,132億円を一括償却した。
競合
一件への与信集中が、3万5,000社との商権を消した。1966年ごろ、住友銀行頭取の堀田庄三氏の勧めで住友商事との対等合併にいったん合意しながら、安宅側の反対で流れている。総合商社の下位から規模で追う方法として選ばれたのが海外資源への投資だった。権益や精製設備を持つ相手と長期契約を結ぶ上位商社に対し、安宅産業は設備を持たないまま原油の買い切りだけを負う側に立つ。1977年10月1日に伊藤忠商事が銀行団の求めで吸収合併し、商権は買い手の側へ移った。同じ非財閥系でも、取引先を一社ずつ増やして与信を散らした阪和興業と一件へ集めた安宅産業とで、独立系の結末は分かれた。
安宅産業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円
1957年3月期1977年3月期

創業ストーリー 大阪の地金商から戦後の総合商社への形成過程 (1904年〜)

大阪の地金商から戦後の総合商社への形成過程

安宅商会の創業と第一次大戦下の株式会社化

1904年7月、安宅弥吉氏が[1]個人経営の安宅商会を創業した[2]。米、砂糖、木材、非鉄金属、雑貨の輸出入[3]を主要業務とし、創業まもなく日露戦争後の時運に乗り[4]、安宅弥吉氏の旺盛な貿易意欲[5]もあって順調に立ち上がった。もっとも、貿易はすでに強大な勢力を張っていた財閥商社が押さえており、拮抗するには非常な努力と苦難を要した[6]。財閥系商社の優位は昭和初期にいっそう固まり[7]、三井物産と三菱商事に物産系の東洋棉花を加えた3社だけで、日本の貿易のおよそ3分の1を扱った[8]。財閥系商社は商売だけをしていたのではなく、それ自体が一つのコンツェルンだった[9]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [1]安宅弥吉が個人経営の安宅商会を創業したのは明治37年(1904年)7月である
    • [3]創業当初は米、砂糖、木材、非鉄金属、雑貨等の輸出入貿易を主要業務とした
    • [4]創業まもなく日露戦争後の時運に乗じて順調に発足した
    • [5]安宅弥吉の旺盛な貿易意欲と相まって順調に発足したとの記述がある
    • [6]すでに強大な勢力を張っていた財閥商社との拮抗には非常な努力と苦難を余儀なくされた
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968)
    • [2]創業者安宅弥吉が個人経営で明治37年(1904年)7月に安宅商会を発足させた。社史の目次も「第一章 個人経営時代〔明治三十七年(西暦一九〇四年)―大正八年(西暦一九一九年)〕」と西暦を併記する
  • 日本産業史1(日本経済新聞社, 1994)
    • [7]高田商会・鈴木商店の倒産のあとも財閥系商社はたじろがず、むしろ地歩をいっそう固めた(昭和初期)
    • [8]三井物産・三菱商事・物産系の東洋棉花の3社で日本貿易のほぼ3分の1を取り扱った(昭和初期)
    • [9]財閥系商社は商売活動だけでなく、それ自体が一つのコンツェルンだった

1914年11月には日本窒素肥料の硫安販売[10]を引き受け、輸出入だけだった商いに国内メーカー製品の取扱を加えた。第一次大戦下の産業貿易の大活況に恵まれて業務は飛躍的に伸び[11]、莫大な収益をあげた。これを機に1919年11月13日、資本金300万円[12]の株式会社安宅商会として設立登記し[13]、東京支店を新設して戦後の不況に備えた[14]。しかし大戦後の不況は深刻で、取引高は戦時の3割へ減り[15]、1920年上期からの3期の損失は資本金の半ばを超えた[16]。木材では1921年に米国からの輸入を始め[17]、非鉄金属と肥料の外へ扱う商品を広げた。

  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
    • [10]1914年11月に日本窒素肥料の硫安販売を開始した
    • [13]1919年11月13日に資本金300万円の株式会社安宅商会として設立登記した
    • [17]1921年に米国からの木材輸入を開始した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [11]欧州大戦時の産業貿易の大活況に恵まれ、業務も飛躍的発展を遂げ莫大な収益をあげた
    • [14]1919年の株式組織への改組に際し東京支店を新設して戦後の不況に備えた
    • [15]戦後の不況で取引高は戦時の3割に激減した
    • [16]大正9年(1920年)上期から3期間の損失は資本金の半ばを越えた
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968)
    • [12]1919年11月に資本金300万円の株式会社組織へ改められた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [1]安宅弥吉が個人経営の安宅商会を創業したのは明治37年(1904年)7月である
    • [3]創業当初は米、砂糖、木材、非鉄金属、雑貨等の輸出入貿易を主要業務とした
    • [4]創業まもなく日露戦争後の時運に乗じて順調に発足した
    • [5]安宅弥吉の旺盛な貿易意欲と相まって順調に発足したとの記述がある
    • [6]すでに強大な勢力を張っていた財閥商社との拮抗には非常な努力と苦難を余儀なくされた
    • [11]欧州大戦時の産業貿易の大活況に恵まれ、業務も飛躍的発展を遂げ莫大な収益をあげた
    • [14]1919年の株式組織への改組に際し東京支店を新設して戦後の不況に備えた
    • [15]戦後の不況で取引高は戦時の3割に激減した
    • [16]大正9年(1920年)上期から3期間の損失は資本金の半ばを越えた
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968)
    • [2]創業者安宅弥吉が個人経営で明治37年(1904年)7月に安宅商会を発足させた。社史の目次も「第一章 個人経営時代〔明治三十七年(西暦一九〇四年)―大正八年(西暦一九一九年)〕」と西暦を併記する
    • [12]1919年11月に資本金300万円の株式会社組織へ改められた
  • 日本産業史1(日本経済新聞社, 1994)
    • [7]高田商会・鈴木商店の倒産のあとも財閥系商社はたじろがず、むしろ地歩をいっそう固めた(昭和初期)
    • [8]三井物産・三菱商事・物産系の東洋棉花の3社で日本貿易のほぼ3分の1を取り扱った(昭和初期)
    • [9]財閥系商社は商売活動だけでなく、それ自体が一つのコンツェルンだった
  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
    • [10]1914年11月に日本窒素肥料の硫安販売を開始した
    • [13]1919年11月13日に資本金300万円の株式会社安宅商会として設立登記した
    • [17]1921年に米国からの木材輸入を開始した

八幡製鐵所の四社指定商と戦後の再建

大戦後の不況に対処するため、官営八幡製鐵所は四社指定商制度と呼ぶカルテルを作り[18]、鉄鋼界での実力を認められた安宅商会を三井、三菱、岩井とともに指定した[19]。のちに八幡製鐵所の東京出張所で販売に携わった稲山嘉寛氏[20]によれば、指定商にはおおむね1%の口銭が与えられ[21]、東京、大阪、名古屋の市中問屋[22]がその下に系列化されていた。製鉄所と問屋は毎月1回、指定商の立ち会いの下で先物協議会を開き[23]、緊急の引き合いに応じる臨時売りの注文も指定商を経由して[24]需要家と契約された。当時の日本の鉄鋼は品質もコストも外国品に及ばず、需要の3割から4割を輸入品が占めており[25]、販売のもう一つの使命は外国品の流入を抑えることにあった[26]と稲山氏はふり返った。1921年と1926年の関税定率改正と製鉄業奨励法の改正[27]で鉄鋼業の保護が強まり、指定商の商権は固まった。4社の独占的な取扱は八幡製鐵所が1934年に日本製鐵として発足するまで続いた[28]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [18]官営八幡製鉄所は戦後恐慌に対処するため四社指定商制度と呼ぶカルテルを作った
    • [19]安宅商会は鉄鋼界における実力を認められ、三井・三菱・岩井とともに指定商に指定された
    • [27]大正10年・15年の関税定率改正と製鉄業奨励法の改正による鉄鋼業保護政策の強化が安宅商会の地位を強固にした
    • [28]四社の独占的扱いは昭和9年(1934年)に八幡製鉄所が日本製鉄として新発足するまで続いた
  • 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社, 1980)
    • [20]稲山嘉寛は昭和3年(1928年)5月に官営八幡製鉄所の東京出張所へ赴任し鉄鋼販売の実務に就いた。四社指定商制度の説明はその当時の実務にもとづく回想で、制度発足(1921年前後)の同時代証言ではない
    • [21]指定商には口銭としておおむね1%が与えられたとする八幡製鉄所東京出張所勤務時の稲山嘉寛氏による記述
    • [22]指定商のもとに東京・大阪・名古屋の三都の市中問屋が系列化されていた
    • [23]指定商立ち会いの下に製鉄所と問屋とで毎月一回先物協議会を開いた
    • [24]先物協議会とは別に余力を残して臨時売りと称し大口需要や緊急引き合いに応じ、「これらの注文はすべて指定商経由で直接需要家と契約されるのである」。「これらの注文」が指すのは臨時売りの注文
    • [25]当時の日本の製鉄業は品質・コストで外国に劣り、需要の3割から4割近くを輸入品でまかなった
    • [26]当時の販売のもう一つの重大な使命は外注防遏だったとする稲山嘉寛氏による記述

1928年3月にロンドン支店を開き[29]、米国、英国、ドイツの一流メーカーと代理店契約[30]を結んだ。1933年に王子製紙のレーヨンパルプの一手販売店[31]となり、1935年2月には東洋曹達工業の設立[32]に資金を出した。満州事変以後の戦時経済体制への移行[33]で金属の取扱は伸び、1940年までに大連やニューヨークなど8支店[34]を設けた。1942年5月に創業以来の社長だった安宅弥吉氏が退き[35]、翌1943年1月に商号を安宅産業へ改め[36]、同年に貿易業務は交易営団へ移って[37]6,000社の商社が600社へ整理された[38]。終戦で3,000万円を超える在外資産と販売網[39]を失って1945年10月に神田正吉氏が社長に就き[40]、1948年2月に集中排除法の指定を受け[41]、同年5月に解除された。1956年8月に大阪証券取引所へ[42]、翌1957年8月には東京と名古屋へも[43]株式を上場し、1957年3月期は売上の36.0%を金属部門が占め[44]、従業員は1,054名だった[45]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [29]昭和3年(1928年)3月にロンドン支店を開設した
    • [30]米国・英国・ドイツ等の一流メーカーと各種商品にわたって代理店契約を結んだ
    • [33]満州事変以後の戦時経済体制への移行とともに金属取扱を主力とする業務が進展した
    • [34]昭和15年(1940年)までに名古屋・大連・奉天・ニューヨーク・京城・八幡・天津・上海の8支店を設置した
    • [35]昭和17年(1942年)5月に創業以来の社長安宅弥吉が引退した
    • [36]昭和18年(1943年)1月に商号を安宅産業へ改めた
    • [39]終戦とともに3000万円を越える在外資産と膨大な販売網のすべてを失った
    • [40]1945年10月に旧役員の大部分が退陣し、神田正吉が社長に就任した
    • [41]昭和23年(1948年)2月に集中排除法の指定を受け、同年5月に解除された
  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
    • [31]1933年に王子製紙のレーヨンパルプの一手販売店となった
    • [32]『安宅産業六十年史』第二章は「昭和十年二月には日本曹達工業の取締役技術部長岩瀬徳三郎が東洋曹達工業株式会社を創立した。当社はこの時資金援助を行ない、苛性曹達の一手販売権を握って爾後五年余にわたり…供給を行なった」と記す。05-timeline.yaml の「1935/3 出資」は月・関与の形とも社史本文と食い違うため、1935年2月・資金援助へ改めた
    • [42]『安宅産業六十年史』第三章は「当社は大阪市場において三十一年一月、東京市場において同年五月それぞれ店頭銘柄となり、次いで同年八月には早くも大阪の上場銘柄となった」と記す=1956年8月に大証上場
    • [43]『安宅産業六十年史』第三章は「また翌年八月には東京・名古屋の両市場にも上場され、ここに三大市場における取引態勢が確立された」と記す。『証券』1957年(9)(100)の「三二年八月一四日上場」はこの東京上場を指し、1956年8月の大証上場と矛盾しない
  • 日本産業史1(日本経済新聞社, 1994)
    • [37]昭和18年(1943年)に貿易業務は交易営団が行うことになった
    • [38]6000の商社は600に整理され、交易営団の下請け機関になった
  • 証券 1957年(9)(100)
    • [44]1957年3月期の部門別売上高で金属部門の構成比は36.0%だった
    • [45]従業員は1,054名(男703名・女351名)だった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [18]官営八幡製鉄所は戦後恐慌に対処するため四社指定商制度と呼ぶカルテルを作った
    • [19]安宅商会は鉄鋼界における実力を認められ、三井・三菱・岩井とともに指定商に指定された
    • [27]大正10年・15年の関税定率改正と製鉄業奨励法の改正による鉄鋼業保護政策の強化が安宅商会の地位を強固にした
    • [28]四社の独占的扱いは昭和9年(1934年)に八幡製鉄所が日本製鉄として新発足するまで続いた
    • [29]昭和3年(1928年)3月にロンドン支店を開設した
    • [30]米国・英国・ドイツ等の一流メーカーと各種商品にわたって代理店契約を結んだ
    • [33]満州事変以後の戦時経済体制への移行とともに金属取扱を主力とする業務が進展した
    • [34]昭和15年(1940年)までに名古屋・大連・奉天・ニューヨーク・京城・八幡・天津・上海の8支店を設置した
    • [35]昭和17年(1942年)5月に創業以来の社長安宅弥吉が引退した
    • [36]昭和18年(1943年)1月に商号を安宅産業へ改めた
    • [39]終戦とともに3000万円を越える在外資産と膨大な販売網のすべてを失った
    • [40]1945年10月に旧役員の大部分が退陣し、神田正吉が社長に就任した
    • [41]昭和23年(1948年)2月に集中排除法の指定を受け、同年5月に解除された
  • 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社, 1980)
    • [20]稲山嘉寛は昭和3年(1928年)5月に官営八幡製鉄所の東京出張所へ赴任し鉄鋼販売の実務に就いた。四社指定商制度の説明はその当時の実務にもとづく回想で、制度発足(1921年前後)の同時代証言ではない
    • [21]指定商には口銭としておおむね1%が与えられたとする八幡製鉄所東京出張所勤務時の稲山嘉寛氏による記述
    • [22]指定商のもとに東京・大阪・名古屋の三都の市中問屋が系列化されていた
    • [23]指定商立ち会いの下に製鉄所と問屋とで毎月一回先物協議会を開いた
    • [24]先物協議会とは別に余力を残して臨時売りと称し大口需要や緊急引き合いに応じ、「これらの注文はすべて指定商経由で直接需要家と契約されるのである」。「これらの注文」が指すのは臨時売りの注文
    • [25]当時の日本の製鉄業は品質・コストで外国に劣り、需要の3割から4割近くを輸入品でまかなった
    • [26]当時の販売のもう一つの重大な使命は外注防遏だったとする稲山嘉寛氏による記述
  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
    • [31]1933年に王子製紙のレーヨンパルプの一手販売店となった
    • [32]『安宅産業六十年史』第二章は「昭和十年二月には日本曹達工業の取締役技術部長岩瀬徳三郎が東洋曹達工業株式会社を創立した。当社はこの時資金援助を行ない、苛性曹達の一手販売権を握って爾後五年余にわたり…供給を行なった」と記す。05-timeline.yaml の「1935/3 出資」は月・関与の形とも社史本文と食い違うため、1935年2月・資金援助へ改めた
    • [42]『安宅産業六十年史』第三章は「当社は大阪市場において三十一年一月、東京市場において同年五月それぞれ店頭銘柄となり、次いで同年八月には早くも大阪の上場銘柄となった」と記す=1956年8月に大証上場
    • [43]『安宅産業六十年史』第三章は「また翌年八月には東京・名古屋の両市場にも上場され、ここに三大市場における取引態勢が確立された」と記す。『証券』1957年(9)(100)の「三二年八月一四日上場」はこの東京上場を指し、1956年8月の大証上場と矛盾しない
  • 日本産業史1(日本経済新聞社, 1994)
    • [37]昭和18年(1943年)に貿易業務は交易営団が行うことになった
    • [38]6000の商社は600に整理され、交易営団の下請け機関になった
  • 証券 1957年(9)(100)
    • [44]1957年3月期の部門別売上高で金属部門の構成比は36.0%だった
    • [45]従業員は1,054名(男703名・女351名)だった

最下位脱出を掲げた多角化と役員会を通らない大型取引

株主構成の入れ替わりと市川政夫社長の就任

安宅英一氏が会長に就いたのは1955年5月[46]、数次の増資で資本金が3億円となって2年後[47]である。社長の座は、1945年10月に旧役員の大部分が退陣[48]して神田正吉氏へ移ってから創業家に戻らなかった[49]。1957年の役員は、会長が安宅英一氏、社長が神田氏[50]、副社長が猪崎久太郎氏だった[51]。猪崎久太郎氏はのちに社長を経て会長となり、1968年には越田左多男氏が社長[52]を務めた。株主構成も入れ替わり、1955年9月の大株主名簿[53]では、発行済6,000,000株のうち[54]首位が創業家系の安宅共済会の417,650株[55]、住友銀行と東京海上火災が各300,000株[56]で、安宅英一氏個人は81,400株の9位[57]だった。1961年3月には住友銀行8.3%を筆頭に上位10位[58]を銀行と生損保、証券が占め、創業家の名は消えた。1975年3月も住友銀行8.54%が筆頭[59]で、協和銀行が4.99%で3位[60]に入った。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [46]1955年5月に安宅英一が安宅産業の会長に就任した
    • [47]数次の増資を経て1953年9月に資本金3億円となった
    • [48]1945年10月に旧役員の大部分が退陣した
    • [49]1945年10月に神田正吉が社長に就任した。1942年5月には創業以来の社長だった安宅弥吉が引退し安宅重雄が社長に就いている
  • 証券 1957年(9)(100)
    • [50]1957年の安宅産業の役員は会長が安宅英一、社長が神田正吉
    • [51]1957年の安宅産業の副社長は猪崎久太郎
  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
    • [52]1968年の安宅産業は取締役会長が猪崎久太郎、取締役社長が越田左多男
  • 株式会社年鑑 昭和31年版
    • [53]1955年9月の大株主上位10位のうち創業家個人は9位の安宅英一のみだった
    • [54]1955年9月時点の安宅産業の総株式は6,000,000株
    • [55]1955年9月の筆頭株主は安宅共済会の417,650株
    • [56]1955年9月の2位は住友銀行300,000株、3位は東京海上火災300,000株
    • [57]1955年9月の9位は安宅英一の81,400株
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [58]1961年3月の筆頭株主は住友銀行8.3%で、上位10位は銀行・生損保・証券が占め創業家の名は無い
  • 日本企業要覧 1975年版
    • [59]1975年3月の上位株主は住友銀行8.54%、日本生命保険5.78%、協和銀行4.99%で、上位10位に創業家の名は無い
    • [60]1975年3月の上位株主は住友銀行8.54%、日本生命保険5.78%に次いで協和銀行が4.99%で3位

1969年、市川政夫氏が社長に就任した[61]。1933年に安宅商会へ入って木材畑を歩き[62]、木材部門を稼ぎ頭に育てた実績[63]が就任の裏づけで、56歳は10大商社で最年少[64]だった。安宅一族の支配が強まり社内が沈滞し始めた[65]時期の就任でもあった。市川政夫社長は鉄鋼、化学、木材に偏った体質を改めるため[66]多角化を進め、その一環として石油精製事業への進出を計画[67]し、総合商社最下位からの脱出が社内の合言葉[68]になった。1968年の安宅産業は国内19か所・海外44か所に事業所を置き[69]、従業員は2,900名[70]で、収益性の高さは各商社のなかで抜群[71]であり、通期売上高は1969年3月期の4,467億円から1973年3月期には1兆421億円へ伸びた。1981年に市川氏は、安宅ファミリーの存在に苦労したことは否定しない[72]と述べ、それ以上は語ることを拒んだ。多角化を急ぎ過ぎた事実は認めたうえで[73]、無謀なことをやったつもりはないとふり返った。

  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [61]1969年に市川政夫が安宅産業の社長に就任した
    • [62]市川政夫は1933年4月に安宅商会へ入社し、木材畑一筋で働いた
    • [63]市川政夫は木材部門を安宅産業の稼ぎ頭に育て、その実績を背景に社長へ就任した
    • [64]社長就任時の市川政夫は56歳で、十大商社のなかで最年少の社長だった
    • [65]「安宅一族の支配が強まり、社内が沈滞し始めていた時の社長就任だけに、若い社長にかける社内の期待は大きく」(1981年の記事)
    • [66]市川政夫は鉄鋼、化学、木材などに偏っていた体質を改めるため多角化を進めた
    • [67]多角化の一環として石油精製事業に乗り出す計画を立てた
    • [68]総合商社最下位からの脱出が社内の合言葉となり士気が高まった
    • [72]安宅産業元社長の市川政夫による1981年の発言
    • [73]安宅産業元社長の市川政夫による1981年の発言
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968)
    • [69]1968年時点の安宅産業は国内19か所・海外44か所の事業所を持っていた
    • [70]1968年時点の安宅産業の従業員は2,900名
    • [71]1968年時点の安宅産業の高収益性は各商社中で抜群だった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [46]1955年5月に安宅英一が安宅産業の会長に就任した
    • [47]数次の増資を経て1953年9月に資本金3億円となった
    • [48]1945年10月に旧役員の大部分が退陣した
    • [49]1945年10月に神田正吉が社長に就任した。1942年5月には創業以来の社長だった安宅弥吉が引退し安宅重雄が社長に就いている
  • 証券 1957年(9)(100)
    • [50]1957年の安宅産業の役員は会長が安宅英一、社長が神田正吉
    • [51]1957年の安宅産業の副社長は猪崎久太郎
  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
    • [52]1968年の安宅産業は取締役会長が猪崎久太郎、取締役社長が越田左多男
  • 株式会社年鑑 昭和31年版
    • [53]1955年9月の大株主上位10位のうち創業家個人は9位の安宅英一のみだった
    • [54]1955年9月時点の安宅産業の総株式は6,000,000株
    • [55]1955年9月の筆頭株主は安宅共済会の417,650株
    • [56]1955年9月の2位は住友銀行300,000株、3位は東京海上火災300,000株
    • [57]1955年9月の9位は安宅英一の81,400株
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
    • [58]1961年3月の筆頭株主は住友銀行8.3%で、上位10位は銀行・生損保・証券が占め創業家の名は無い
  • 日本企業要覧 1975年版
    • [59]1975年3月の上位株主は住友銀行8.54%、日本生命保険5.78%、協和銀行4.99%で、上位10位に創業家の名は無い
    • [60]1975年3月の上位株主は住友銀行8.54%、日本生命保険5.78%に次いで協和銀行が4.99%で3位
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [61]1969年に市川政夫が安宅産業の社長に就任した
    • [62]市川政夫は1933年4月に安宅商会へ入社し、木材畑一筋で働いた
    • [63]市川政夫は木材部門を安宅産業の稼ぎ頭に育て、その実績を背景に社長へ就任した
    • [64]社長就任時の市川政夫は56歳で、十大商社のなかで最年少の社長だった
    • [65]「安宅一族の支配が強まり、社内が沈滞し始めていた時の社長就任だけに、若い社長にかける社内の期待は大きく」(1981年の記事)
    • [66]市川政夫は鉄鋼、化学、木材などに偏っていた体質を改めるため多角化を進めた
    • [67]多角化の一環として石油精製事業に乗り出す計画を立てた
    • [68]総合商社最下位からの脱出が社内の合言葉となり士気が高まった
    • [72]安宅産業元社長の市川政夫による1981年の発言
    • [73]安宅産業元社長の市川政夫による1981年の発言
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968)
    • [69]1968年時点の安宅産業は国内19か所・海外44か所の事業所を持っていた
    • [70]1968年時点の安宅産業の従業員は2,900名
    • [71]1968年時点の安宅産業の高収益性は各商社中で抜群だった

3人で決めたNRC契約と商社共通の投融資膨張

1971年3月末、子会社の安宅アメリカ[74]が住友銀行の保証で期間90日・年利4.75%[75]のコマーシャルペーパー300万ドルを米国内で発行[76]し、米国三井物産に次ぐ2例目[77]となった。安宅産業はカナダの石油精製会社NRC(ニューファンドランド・リファイニング・カンパニー)と総代理店契約を結び、その窓口には安宅アメリカ[78]が立った。取引の決定は担当常務、副社長、社長の3人で行われ[79]、役員会での実質的な討議はなかった[80]。ある事情通は、NRCのジョン・シャヒーン社長がいかがわしい人物[81]であることは少し調べればわかったはずだと指摘した。役員に経営者としての自覚があり、自由に物を言える雰囲気だったら、危険な取引は未然に防げたに違いない[82]とも語った。重役会が形骸化した例としては、経営多角化に失敗して会社更生法の適用を受けた興人[83]が、安宅産業と並べて挙げられた。

  • 日経ビジネス 1971年4月19日号
    • [74]1971年3月末に安宅アメリカがコマーシャルペーパーを発行した
    • [75]発行条件は期間90日、年利4.75%だった
    • [76]安宅アメリカは住友銀行の保証で300万ドルのコマーシャルペーパーを米国内で発行した
    • [77]日本企業の米国内コマーシャルペーパー発行は米国三井物産に次ぐ2例目
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [78]日経ビジネスは「この計画の窓口となっていた同社の子会社、安宅アメリカが、カナダの石油会社NRC(ニューファンドランド・リファイニング・カンパニー)へ多額の債権をこげつかせた」と記す。NRCとの総代理店契約を1973年締結とする記録は社内資料(decisions/nrc-oil-collapse-1977.yaml)だけで原典を特定できないため、本文から契約年を外した
  • 日経ビジネス 1976年6月21日号
    • [79]NRCとの取引の決定は担当常務、副社長、社長の3人で行われた
    • [80]NRCとの取引について役員会での実質的討議はなかった
    • [81]ある事情通による発言
    • [82]ある事情通による発言
    • [83]経営多角化の失敗で会社更生法の適用を受けた興人が、重役会の機能を論じた記事で安宅産業と並べて挙げられた

鉄鋼、化学、木材以外の分野は後発で[84]、10大商社の地位に固執して無理に商権を広げた[85]きらいがあると、1977年になって指摘された。ただし投融資の膨張は安宅産業に限らず、三菱商事と三井物産の2社[86]だけで、1968年3月末から1969年3月末までに[87]718億円の固定資産投資[88]を行い、長期借入金は961億円増えた[89]。住友商事も1969年9月期からの3カ年計画で1972年3月期の半期売上1兆300億円[90]を掲げ、借入金は3,000億円以上に達する[91]と見込んだ。安宅産業の投資先はチリと米国へ伸び、1968年に共同開発を呼びかけた[92]チリのサンタクララ鉄鉱山では、1969年4月に三菱鉱業と基本協定を結び[93]、1970年4月に折半出資の現地法人を設立した[94]。1973年1月には米国ニューヨーク州オーバン市[95]に、安宅産業と共英製鋼の出資[96]で年産15万トンのオーバン・スチールを設立した[97]

  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
    • [84]安宅産業の鉄鋼、化学、木材以外の分野は後発だった
    • [85]10大商社の地位に固執して無理に商権を拡大していったきらいがある、と1977年に指摘された
  • 日経ビジネス 1969年11月号
    • [86]1960年代末は大手総合商社でビッグ・プロジェクトが相次ぎ、三菱商事と三井物産の投融資が膨らんだ
    • [87]比較の対象期間は1968年3月末から1969年3月末まで
    • [88]三菱商事と三井物産の2社で718億円の固定資産投資を行った
    • [89]同じ期間に2社の長期借入金は961億円増加した
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号
    • [90]住友商事の3カ年計画は「44年9月期から47年3月期に至る3カ年計画」で、1969年9月期が起点。1972年3月期の売上1兆300億円を目標に掲げた。月間売上1,700億円との併記から半期の数字と読める
    • [91]3カ年計画の最終期には住友商事の借入金が3,000億円以上に達すると見込まれた
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント, 1976)
    • [92]1968年に安宅産業から三菱鉱業へチリの鉄鉱山の共同開発の呼掛けがあった
    • [93]1969年4月に安宅産業と三菱鉱業の基本協定が成立した
    • [94]1970年4月に折半出資で現地法人サンタクララ鉱業有限会社を設立した
  • 日経ビジネス 1977年10月10日号
    • [95]1973年1月に米国ニューヨーク州オーバン市でオーバン・スチールを設立した
    • [96]1977年10月時点のオーバン・スチールの出資比率は安宅産業80%、共英製鋼20%。1973年1月の設立時の比率は資料に無いため、本文からは比率を外した
    • [97]オーバン・スチールは年間生産能力15万トンを計画した
  • 日経ビジネス 1971年4月19日号
    • [74]1971年3月末に安宅アメリカがコマーシャルペーパーを発行した
    • [75]発行条件は期間90日、年利4.75%だった
    • [76]安宅アメリカは住友銀行の保証で300万ドルのコマーシャルペーパーを米国内で発行した
    • [77]日本企業の米国内コマーシャルペーパー発行は米国三井物産に次ぐ2例目
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [78]日経ビジネスは「この計画の窓口となっていた同社の子会社、安宅アメリカが、カナダの石油会社NRC(ニューファンドランド・リファイニング・カンパニー)へ多額の債権をこげつかせた」と記す。NRCとの総代理店契約を1973年締結とする記録は社内資料(decisions/nrc-oil-collapse-1977.yaml)だけで原典を特定できないため、本文から契約年を外した
  • 日経ビジネス 1976年6月21日号
    • [79]NRCとの取引の決定は担当常務、副社長、社長の3人で行われた
    • [80]NRCとの取引について役員会での実質的討議はなかった
    • [81]ある事情通による発言
    • [82]ある事情通による発言
    • [83]経営多角化の失敗で会社更生法の適用を受けた興人が、重役会の機能を論じた記事で安宅産業と並べて挙げられた
  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
    • [84]安宅産業の鉄鋼、化学、木材以外の分野は後発だった
    • [85]10大商社の地位に固執して無理に商権を拡大していったきらいがある、と1977年に指摘された
  • 日経ビジネス 1969年11月号
    • [86]1960年代末は大手総合商社でビッグ・プロジェクトが相次ぎ、三菱商事と三井物産の投融資が膨らんだ
    • [87]比較の対象期間は1968年3月末から1969年3月末まで
    • [88]三菱商事と三井物産の2社で718億円の固定資産投資を行った
    • [89]同じ期間に2社の長期借入金は961億円増加した
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号
    • [90]住友商事の3カ年計画は「44年9月期から47年3月期に至る3カ年計画」で、1969年9月期が起点。1972年3月期の売上1兆300億円を目標に掲げた。月間売上1,700億円との併記から半期の数字と読める
    • [91]3カ年計画の最終期には住友商事の借入金が3,000億円以上に達すると見込まれた
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント, 1976)
    • [92]1968年に安宅産業から三菱鉱業へチリの鉄鉱山の共同開発の呼掛けがあった
    • [93]1969年4月に安宅産業と三菱鉱業の基本協定が成立した
    • [94]1970年4月に折半出資で現地法人サンタクララ鉱業有限会社を設立した
  • 日経ビジネス 1977年10月10日号
    • [95]1973年1月に米国ニューヨーク州オーバン市でオーバン・スチールを設立した
    • [96]1977年10月時点のオーバン・スチールの出資比率は安宅産業80%、共英製鋼20%。1973年1月の設立時の比率は資料に無いため、本文からは比率を外した
    • [97]オーバン・スチールは年間生産能力15万トンを計画した

経営危機の表面化と伊藤忠商事による吸収合併

1975年12月の危機表面化と、引き金にすぎなかったカナダの製油所

1975年12月半ば過ぎ[98]、業界9位の安宅産業の経営危機が表面化[99]し、1975年9月末の借入総額は5,248億円に膨らんでいた[100]。中心にあったのは、カナダの製油所を運営するNRC[101]への資金投入である。安宅産業に信用状を書かせた英国の石油会社[102]や、安宅産業が保証したTR(受託受領書)のロールオーバーに応じた在米邦銀[103]との不明瞭なつながりも重なっていた。焦げ付き債権はNRC分だけで900億円[104]、安宅産業が抱えた総額は約3,000億円にのぼり[105]、通期の経常損益も1975年3月期の39億円の黒字から1976年3月期は151億円の赤字へ転落し、1977年3月期には311億円の赤字を計上した。

  • 日本産業史3(日本経済新聞社, 1994)
    • [98]1975年12月の半ば過ぎに安宅産業の経営危機が表面化した
    • [99]安宅産業は業界9位の総合商社で、その経営危機が突如表面化した
    • [101]安宅産業が経営危機に陥った直接の原因はカナダにおける石油精製事業のつまずきだった
    • [102]危機の要因として「安宅に信用状を書かせた英国の石油会社」が挙げられている
    • [103]危機の要因として「安宅が保証したTR(受託受領書)のロールオーバー(書き替え)に応じた在米邦銀との不明瞭なつながり」が挙げられている
  • 銀行時評 11(3)(1977年3月)
    • [100]1975年9月期末時点の借入総額は5,248億円に拡大していた
  • 日経ビジネス 1977年5月9日号
    • [104]NRCに対する焦げ付き債権は900億円だった
    • [105]安宅産業が抱えた焦げ付き債権の総額は約3000億円だった

崩壊の原因はカナダの製油所だけではなかった[106]。樋口氏が市川政夫社長にゴルフ場の件数を尋ねたとき、返ってきた答えは1カ所だった[107]が、調べてみると11カ所で工事が進行していた[108]。それぞれ別会社に手がけさせていたため社内でも把握できず[109]、いずれも3ホールか4ホール分しか用地買収[110]が終わっていなかった。終戦処理に当たった住友銀行によれば、安宅産業の年商のうち健全な取引は約半分で、残りは赤字取引[111]もしくは架空取引だった。安宅産業の経営陣は住友銀行から離れようとしており[112]、協和銀行が4〜5年前から急速に接近[113]して、子会社向けを含めた融資量では住友を上回っていた[114]。カナダの石油精製事業は崩壊の引き金になったにすぎず[115]、真の原因は杜撰な経営にあった[116]

  • 日本産業史3(日本経済新聞社, 1994)
    • [106]カナダの石油精製事業は崩壊の引き金になっただけで、崩壊の真の原因は杜撰な経営だった
    • [111]終戦処理に当たった住友銀行によれば、安宅産業の年商のうち健全な取引は約半分で、残りは赤字取引もしくは架空取引だった
    • [115]カナダの石油精製事業は崩壊の引き金になっただけだった
    • [116]「崩壊の真の原因は、杜撰な経営である」「低成長下で経営が早晩行き詰まったであろうことは間違いない。社内の管理体制、チェック機能の未整備が崩壊に拍車を掛けたにすぎない」
  • 日経ビジネス 1977年5月9日号
    • [107]樋口氏がゴルフ場の件数を尋ねたところ、市川社長は1カ所しかやっていないはずだと答えた
    • [108]調べたところゴルフ場は11カ所で工事が進行中だった
    • [109]ゴルフ場はそれぞれ別会社にやらせていたため把握できなかった
    • [110]11カ所とも3ホールか4ホール分しか用地買収が終わっていなかった
    • [112]「たまたま、安宅の場合は同社の経営陣が住友銀行から離れようとしていたこともあって」
    • [113]「協和側が4〜5年前から急速に接近」した
    • [114]「子会社向けも入れると、安宅への融資量は住友を上回っていた」。『日本産業史3』の「安宅自身がメインバンクを持たなかった」という記述と、『週刊東洋経済』2017年5月20日号の「メインバンクの住友銀行」という記述の食い違いは、この事情で説明がつく
  • 日本産業史3(日本経済新聞社, 1994)
    • [98]1975年12月の半ば過ぎに安宅産業の経営危機が表面化した
    • [99]安宅産業は業界9位の総合商社で、その経営危機が突如表面化した
    • [101]安宅産業が経営危機に陥った直接の原因はカナダにおける石油精製事業のつまずきだった
    • [102]危機の要因として「安宅に信用状を書かせた英国の石油会社」が挙げられている
    • [103]危機の要因として「安宅が保証したTR(受託受領書)のロールオーバー(書き替え)に応じた在米邦銀との不明瞭なつながり」が挙げられている
    • [106]カナダの石油精製事業は崩壊の引き金になっただけで、崩壊の真の原因は杜撰な経営だった
    • [111]終戦処理に当たった住友銀行によれば、安宅産業の年商のうち健全な取引は約半分で、残りは赤字取引もしくは架空取引だった
    • [115]カナダの石油精製事業は崩壊の引き金になっただけだった
    • [116]「崩壊の真の原因は、杜撰な経営である」「低成長下で経営が早晩行き詰まったであろうことは間違いない。社内の管理体制、チェック機能の未整備が崩壊に拍車を掛けたにすぎない」
  • 銀行時評 11(3)(1977年3月)
    • [100]1975年9月期末時点の借入総額は5,248億円に拡大していた
  • 日経ビジネス 1977年5月9日号
    • [104]NRCに対する焦げ付き債権は900億円だった
    • [105]安宅産業が抱えた焦げ付き債権の総額は約3000億円だった
    • [107]樋口氏がゴルフ場の件数を尋ねたところ、市川社長は1カ所しかやっていないはずだと答えた
    • [108]調べたところゴルフ場は11カ所で工事が進行中だった
    • [109]ゴルフ場はそれぞれ別会社にやらせていたため把握できなかった
    • [110]11カ所とも3ホールか4ホール分しか用地買収が終わっていなかった
    • [112]「たまたま、安宅の場合は同社の経営陣が住友銀行から離れようとしていたこともあって」
    • [113]「協和側が4〜5年前から急速に接近」した
    • [114]「子会社向けも入れると、安宅への融資量は住友を上回っていた」。『日本産業史3』の「安宅自身がメインバンクを持たなかった」という記述と、『週刊東洋経済』2017年5月20日号の「メインバンクの住友銀行」という記述の食い違いは、この事情で説明がつく

倒産処理を選べなかった16行と伊藤忠商事への吸収合併

当時の安宅産業は年商2兆円、負債総額1兆円、取引先3万5,000社[117]を抱え、国内の取引金融機関は223行[118]に及んでいた。これを一挙につぶせば鈴木商店の二の舞になる[119]というのが、銀行団が救済に踏み切ったときの関係者に共通する見方だった。商社には凍結できる物的資産も再建の基礎となる生産設備[120]もないため会社更生法という道も[121]選べず、唯一の手がかりである商権も更生法の適用で債権が凍結された時点で消滅する公算が大きかった[122]。伊藤忠商事は1976年1月12日に業務提携を発表[123]した。市川政夫社長はその年の6月に経営責任を取って辞任[124]し、主力の住友・協和両行の仲介で同年12月29日に合併覚書へ調印[125]した。1977年10月1日に安宅産業は伊藤忠商事へ吸収合併され[126]、1904年7月の創業から73年[127]の歴史を閉じた。

  • 日経ビジネス 1977年5月9日号
    • [117]安宅産業は年間売上高2兆円、負債総額1兆円(うち銀行借り入れ5000億円)、取引先3万5000社だった
    • [119]安宅を一挙につぶしたら鈴木商店の二の舞になる、と銀行団が救済に踏み切ったときに関係者は皆いっていた
  • 日本産業史3(日本経済新聞社, 1994)
    • [118]安宅産業の国内の取引金融機関は223行だった
    • [123]1976年1月12日に伊藤忠商事との業務提携が発表された
    • [125]1976年12月29日、住友・協和両行の仲介で吸収合併が本決まりとなり合併覚書に調印した
  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
    • [120]商社には製造業のような凍結できる物的資産も、再建の基礎となる生産設備もない
    • [121]信用だけで商売している商社には会社更生法適用という法の保護もなかった、と住友銀行は説明した
    • [122]唯一の手がかりである商権も、更生法適用で対安宅債権が凍結された時点で消滅する公算が大きかった
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [124]市川政夫は1976年6月に経営責任を取って安宅産業の社長を辞任した
  • 日経ビジネス 1978年10月9日号
    • [126]1977年10月1日に伊藤忠商事が安宅産業を吸収合併した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [127]安宅商会の創業は1904年7月である

合併の実態は営業権の一部譲渡[128]で、提携発表直後の半期に約1兆円あった売上高は1年後の半期に6,700億円まで減り[129]、約3,300億円の商権が消滅した[130]。パルプ・紙本部の社員は三菱製紙や十条製紙へ流れ[131]、担っていた商権もそのまま失われた。1976年3月期に3,681名を数えた社員のうち、合併時に伊藤忠商事へ移ったのは1,058名[132]で、数千人の社員が散り散りになった[133]。銀行は16行で合計4,100億円の貸金を焦げ付かせ[134]、住友銀行は1,132億円を一括償却[135]した。三菱・東京・三井の3行は住友銀行のやり方が商権を吹き飛ばし[136]損失を必要以上に大きくしたと批判し、住友側は結果論だと反論した[137]

  • 日経ビジネス 1977年5月9日号
    • [128]合併といってもその実態は営業権の一部譲渡だった
    • [134]16行が銀行団を結成し、合計4100億円の貸金を焦げ付かせた
    • [136]三菱・東京・三井の3行は、住友のやり方では商権が吹き飛び損失を必要以上に大きくしたと批判した
    • [137]住友側は捨て牌を入れ替えれば満貫ができるというのと同じで結果論だと反論した
  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
    • [129]提携発表直後の1976年3月期(半期)売上高は約1兆円、1977年3月期(半期)は6700億円だった
    • [130]わずか1年の間に約3300億円の商権が消滅した
    • [131]パルプ・紙本部の社員が三菱製紙に5人、三洋日比谷に4人、十条製紙に2人といった具合に流出し、商権そのものも消滅した
  • 日経ビジネス 1978年6月19日号
    • [132]「伊藤忠商事が安宅産業から引き継いだ商権は約2300億円。人員は1058人だった」(1978年3月期決算から。合併は1977年10月1日)
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [133]経営陣の意思決定の誤りから安宅産業が解体に追い込まれ、数千人の社員がバラバラになった
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [135]住友銀行は旧安宅産業の処理で1132億円の貸し倒れを一括償却し、赤字の所得を申告した
  • 日経ビジネス 1977年5月9日号
    • [117]安宅産業は年間売上高2兆円、負債総額1兆円(うち銀行借り入れ5000億円)、取引先3万5000社だった
    • [119]安宅を一挙につぶしたら鈴木商店の二の舞になる、と銀行団が救済に踏み切ったときに関係者は皆いっていた
    • [128]合併といってもその実態は営業権の一部譲渡だった
    • [134]16行が銀行団を結成し、合計4100億円の貸金を焦げ付かせた
    • [136]三菱・東京・三井の3行は、住友のやり方では商権が吹き飛び損失を必要以上に大きくしたと批判した
    • [137]住友側は捨て牌を入れ替えれば満貫ができるというのと同じで結果論だと反論した
  • 日本産業史3(日本経済新聞社, 1994)
    • [118]安宅産業の国内の取引金融機関は223行だった
    • [123]1976年1月12日に伊藤忠商事との業務提携が発表された
    • [125]1976年12月29日、住友・協和両行の仲介で吸収合併が本決まりとなり合併覚書に調印した
  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
    • [120]商社には製造業のような凍結できる物的資産も、再建の基礎となる生産設備もない
    • [121]信用だけで商売している商社には会社更生法適用という法の保護もなかった、と住友銀行は説明した
    • [122]唯一の手がかりである商権も、更生法適用で対安宅債権が凍結された時点で消滅する公算が大きかった
    • [129]提携発表直後の1976年3月期(半期)売上高は約1兆円、1977年3月期(半期)は6700億円だった
    • [130]わずか1年の間に約3300億円の商権が消滅した
    • [131]パルプ・紙本部の社員が三菱製紙に5人、三洋日比谷に4人、十条製紙に2人といった具合に流出し、商権そのものも消滅した
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
    • [124]市川政夫は1976年6月に経営責任を取って安宅産業の社長を辞任した
    • [133]経営陣の意思決定の誤りから安宅産業が解体に追い込まれ、数千人の社員がバラバラになった
  • 日経ビジネス 1978年10月9日号
    • [126]1977年10月1日に伊藤忠商事が安宅産業を吸収合併した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [127]安宅商会の創業は1904年7月である
  • 日経ビジネス 1978年6月19日号
    • [132]「伊藤忠商事が安宅産業から引き継いだ商権は約2300億円。人員は1058人だった」(1978年3月期決算から。合併は1977年10月1日)
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [135]住友銀行は旧安宅産業の処理で1132億円の貸し倒れを一括償却し、赤字の所得を申告した

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安宅産業の沿革1904〜1977年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1904〜1956年大阪の地金商から戦後の総合商社への形成過程安宅弥吉氏が個人経営の安宅商会を創業
日本窒素肥料の硫安販売を開始
安宅弥吉安宅商会を設立
安宅弥吉米国からの木材輸入を開始
安宅弥吉官営八幡製鐵所と取引開始★★
安宅弥吉川崎造船所の薄鋼の指定商として取引開始
安宅弥吉王子製紙のレーヨンパルプの一手販売店に
安宅弥吉東洋曹達工業(東ソー)の設立に資金援助
安宅重雄安宅産業に商号変更
神田正吉過度経済力集中排除法に指定
神田正吉米国法人 安宅ニューヨークを会社設立
神田正吉人事を通じた創業家支配の継続と、住友商事との対等合併の撤回

1955年5月に安宅英一氏が会長へ就いてから1977年の消滅まで、社長も株式も創業家の手を離れたまま、会社の重い選択が創業家を会長に戴いた体制の下で決まり続けた経緯である。1966年には住友銀行頭取の勧めでいったん合意した住友商事との対等合併が安宅側の反対で流れ、1969年には越田左多男社長から市川政夫社長への交代が起きた。

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神田正吉大阪証券取引所で株式店頭取引を開始
神田正吉大阪証券取引所に株式上場
1957〜1973年最下位脱出を掲げた多角化と役員会を通らない大型取引神田正吉東京・名古屋の両証券取引所に株式上場
神田正吉安宅ドイツを会社設立
神田正吉8本部20部制組織を導入
猪崎久太郎東京本社を開設
猪崎久太郎住友商事との合併撤回★★
市川政夫越田左多男氏が社長退任★★
市川政夫市川政夫氏が社長就任
1974〜1977年経営危機の表面化と伊藤忠商事による吸収合併市川政夫安宅アメリカの業績が悪化★★
市川政夫期末時点の借入総額が5248億円に拡大
市川政夫NRC向け債権の焦げ付きで経営危機が表面化★★★
市川政夫伊藤忠商事との業務提携を発表★★
市川政夫市川政夫氏が経営責任を取って社長を辞任★★
伊藤忠商事への吸収合併が決まり合併覚書に調印★★
協調融資団6銀行の頭取が対策会議を開催★★
NRC製油所への傾斜投資と戦後最大級の商社破綻

1973年、安宅産業がカナダの石油精製会社NRCと総代理店契約を結び、BPから中東原油を10年買い切る義務まで引き受けて石油事業へ傾斜した経営判断。市川政夫社長の借入依存の拡大路線の象徴で、1973年10月のオイルショックを機に損失が膨らみ、1977年10月の伊藤忠商事への吸収合併という戦後最大級の商社破綻につながった。

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出典・参考
  • 安宅産業六十年史(安宅産業, 1968)
  • 三菱鉱業社史(三菱鉱業セメント, 1976)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
  • 企業の歴史 : 明治百年(1968)
  • 日本産業史1(日本経済新聞社, 1994)
  • 日本産業史3(日本経済新聞社, 1994)
  • 株式会社年鑑 昭和31年版
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
  • 日経ビジネス 1969年11月号
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号
  • 日経ビジネス 1971年4月19日号
  • 日経ビジネス 1976年6月21日号
  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
  • 日経ビジネス 1977年10月10日号
  • 日経ビジネス 1977年5月9日号
  • 日経ビジネス 1978年10月9日号
  • 日経ビジネス 1978年6月19日号
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
  • 日経ビジネス 1981年8月24日号
  • 私の履歴書 経済人8(日本経済新聞社, 1980)
  • 証券 1957年(9)(100)
  • 日本企業要覧 1975年版
  • 銀行時評 11(3)(1977年3月)

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