1904年7月、安宅弥吉氏が[1]個人経営の安宅商会を創業した[2]。米、砂糖、木材、非鉄金属、雑貨の輸出入[3]を主要業務とし、創業まもなく日露戦争後の時運に乗り[4]、安宅弥吉氏の旺盛な貿易意欲[5]もあって順調に立ち上がった。もっとも、貿易はすでに強大な勢力を張っていた財閥商社が押さえており、拮抗するには非常な努力と苦難を要した[6]。財閥系商社の優位は昭和初期にいっそう固まり[7]、三井物産と三菱商事に物産系の東洋棉花を加えた3社だけで、日本の貿易のおよそ3分の1を扱った[8]。財閥系商社は商売だけをしていたのではなく、それ自体が一つのコンツェルンだった[9]。
1914年11月には日本窒素肥料の硫安販売[10]を引き受け、輸出入だけだった商いに国内メーカー製品の取扱を加えた。第一次大戦下の産業貿易の大活況に恵まれて業務は飛躍的に伸び[11]、莫大な収益をあげた。これを機に1919年11月13日、資本金300万円[12]の株式会社安宅商会として設立登記し[13]、東京支店を新設して戦後の不況に備えた[14]。しかし大戦後の不況は深刻で、取引高は戦時の3割へ減り[15]、1920年上期からの3期の損失は資本金の半ばを超えた[16]。木材では1921年に米国からの輸入を始め[17]、非鉄金属と肥料の外へ扱う商品を広げた。
大戦後の不況に対処するため、官営八幡製鐵所は四社指定商制度と呼ぶカルテルを作り[18]、鉄鋼界での実力を認められた安宅商会を三井、三菱、岩井とともに指定した[19]。のちに八幡製鐵所の東京出張所で販売に携わった稲山嘉寛氏[20]によれば、指定商にはおおむね1%の口銭が与えられ[21]、東京、大阪、名古屋の市中問屋[22]がその下に系列化されていた。製鉄所と問屋は毎月1回、指定商の立ち会いの下で先物協議会を開き[23]、緊急の引き合いに応じる臨時売りの注文も指定商を経由して[24]需要家と契約された。当時の日本の鉄鋼は品質もコストも外国品に及ばず、需要の3割から4割を輸入品が占めており[25]、販売のもう一つの使命は外国品の流入を抑えることにあった[26]と稲山氏はふり返った。1921年と1926年の関税定率改正と製鉄業奨励法の改正[27]で鉄鋼業の保護が強まり、指定商の商権は固まった。4社の独占的な取扱は八幡製鐵所が1934年に日本製鐵として発足するまで続いた[28]。
1928年3月にロンドン支店を開き[29]、米国、英国、ドイツの一流メーカーと代理店契約[30]を結んだ。1933年に王子製紙のレーヨンパルプの一手販売店[31]となり、1935年2月には東洋曹達工業の設立[32]に資金を出した。満州事変以後の戦時経済体制への移行[33]で金属の取扱は伸び、1940年までに大連やニューヨークなど8支店[34]を設けた。1942年5月に創業以来の社長だった安宅弥吉氏が退き[35]、翌1943年1月に商号を安宅産業へ改め[36]、同年に貿易業務は交易営団へ移って[37]6,000社の商社が600社へ整理された[38]。終戦で3,000万円を超える在外資産と販売網[39]を失って1945年10月に神田正吉氏が社長に就き[40]、1948年2月に集中排除法の指定を受け[41]、同年5月に解除された。1956年8月に大阪証券取引所へ[42]、翌1957年8月には東京と名古屋へも[43]株式を上場し、1957年3月期は売上の36.0%を金属部門が占め[44]、従業員は1,054名だった[45]。
安宅英一氏が会長に就いたのは1955年5月[46]、数次の増資で資本金が3億円となって2年後[47]である。社長の座は、1945年10月に旧役員の大部分が退陣[48]して神田正吉氏へ移ってから創業家に戻らなかった[49]。1957年の役員は、会長が安宅英一氏、社長が神田氏[50]、副社長が猪崎久太郎氏だった[51]。猪崎久太郎氏はのちに社長を経て会長となり、1968年には越田左多男氏が社長[52]を務めた。株主構成も入れ替わり、1955年9月の大株主名簿[53]では、発行済6,000,000株のうち[54]首位が創業家系の安宅共済会の417,650株[55]、住友銀行と東京海上火災が各300,000株[56]で、安宅英一氏個人は81,400株の9位[57]だった。1961年3月には住友銀行8.3%を筆頭に上位10位[58]を銀行と生損保、証券が占め、創業家の名は消えた。1975年3月も住友銀行8.54%が筆頭[59]で、協和銀行が4.99%で3位[60]に入った。
1969年、市川政夫氏が社長に就任した[61]。1933年に安宅商会へ入って木材畑を歩き[62]、木材部門を稼ぎ頭に育てた実績[63]が就任の裏づけで、56歳は10大商社で最年少[64]だった。安宅一族の支配が強まり社内が沈滞し始めた[65]時期の就任でもあった。市川政夫社長は鉄鋼、化学、木材に偏った体質を改めるため[66]多角化を進め、その一環として石油精製事業への進出を計画[67]し、総合商社最下位からの脱出が社内の合言葉[68]になった。1968年の安宅産業は国内19か所・海外44か所に事業所を置き[69]、従業員は2,900名[70]で、収益性の高さは各商社のなかで抜群[71]であり、通期売上高は1969年3月期の4,467億円から1973年3月期には1兆421億円へ伸びた。1981年に市川氏は、安宅ファミリーの存在に苦労したことは否定しない[72]と述べ、それ以上は語ることを拒んだ。多角化を急ぎ過ぎた事実は認めたうえで[73]、無謀なことをやったつもりはないとふり返った。
1971年3月末、子会社の安宅アメリカ[74]が住友銀行の保証で期間90日・年利4.75%[75]のコマーシャルペーパー300万ドルを米国内で発行[76]し、米国三井物産に次ぐ2例目[77]となった。安宅産業はカナダの石油精製会社NRC(ニューファンドランド・リファイニング・カンパニー)と総代理店契約を結び、その窓口には安宅アメリカ[78]が立った。取引の決定は担当常務、副社長、社長の3人で行われ[79]、役員会での実質的な討議はなかった[80]。ある事情通は、NRCのジョン・シャヒーン社長がいかがわしい人物[81]であることは少し調べればわかったはずだと指摘した。役員に経営者としての自覚があり、自由に物を言える雰囲気だったら、危険な取引は未然に防げたに違いない[82]とも語った。重役会が形骸化した例としては、経営多角化に失敗して会社更生法の適用を受けた興人[83]が、安宅産業と並べて挙げられた。
鉄鋼、化学、木材以外の分野は後発で[84]、10大商社の地位に固執して無理に商権を広げた[85]きらいがあると、1977年になって指摘された。ただし投融資の膨張は安宅産業に限らず、三菱商事と三井物産の2社[86]だけで、1968年3月末から1969年3月末までに[87]718億円の固定資産投資[88]を行い、長期借入金は961億円増えた[89]。住友商事も1969年9月期からの3カ年計画で1972年3月期の半期売上1兆300億円[90]を掲げ、借入金は3,000億円以上に達する[91]と見込んだ。安宅産業の投資先はチリと米国へ伸び、1968年に共同開発を呼びかけた[92]チリのサンタクララ鉄鉱山では、1969年4月に三菱鉱業と基本協定を結び[93]、1970年4月に折半出資の現地法人を設立した[94]。1973年1月には米国ニューヨーク州オーバン市[95]に、安宅産業と共英製鋼の出資[96]で年産15万トンのオーバン・スチールを設立した[97]。
1975年12月半ば過ぎ[98]、業界9位の安宅産業の経営危機が表面化[99]し、1975年9月末の借入総額は5,248億円に膨らんでいた[100]。中心にあったのは、カナダの製油所を運営するNRC[101]への資金投入である。安宅産業に信用状を書かせた英国の石油会社[102]や、安宅産業が保証したTR(受託受領書)のロールオーバーに応じた在米邦銀[103]との不明瞭なつながりも重なっていた。焦げ付き債権はNRC分だけで900億円[104]、安宅産業が抱えた総額は約3,000億円にのぼり[105]、通期の経常損益も1975年3月期の39億円の黒字から1976年3月期は151億円の赤字へ転落し、1977年3月期には311億円の赤字を計上した。
崩壊の原因はカナダの製油所だけではなかった[106]。樋口氏が市川政夫社長にゴルフ場の件数を尋ねたとき、返ってきた答えは1カ所だった[107]が、調べてみると11カ所で工事が進行していた[108]。それぞれ別会社に手がけさせていたため社内でも把握できず[109]、いずれも3ホールか4ホール分しか用地買収[110]が終わっていなかった。終戦処理に当たった住友銀行によれば、安宅産業の年商のうち健全な取引は約半分で、残りは赤字取引[111]もしくは架空取引だった。安宅産業の経営陣は住友銀行から離れようとしており[112]、協和銀行が4〜5年前から急速に接近[113]して、子会社向けを含めた融資量では住友を上回っていた[114]。カナダの石油精製事業は崩壊の引き金になったにすぎず[115]、真の原因は杜撰な経営にあった[116]。
当時の安宅産業は年商2兆円、負債総額1兆円、取引先3万5,000社[117]を抱え、国内の取引金融機関は223行[118]に及んでいた。これを一挙につぶせば鈴木商店の二の舞になる[119]というのが、銀行団が救済に踏み切ったときの関係者に共通する見方だった。商社には凍結できる物的資産も再建の基礎となる生産設備[120]もないため会社更生法という道も[121]選べず、唯一の手がかりである商権も更生法の適用で債権が凍結された時点で消滅する公算が大きかった[122]。伊藤忠商事は1976年1月12日に業務提携を発表[123]した。市川政夫社長はその年の6月に経営責任を取って辞任[124]し、主力の住友・協和両行の仲介で同年12月29日に合併覚書へ調印[125]した。1977年10月1日に安宅産業は伊藤忠商事へ吸収合併され[126]、1904年7月の創業から73年[127]の歴史を閉じた。
合併の実態は営業権の一部譲渡[128]で、提携発表直後の半期に約1兆円あった売上高は1年後の半期に6,700億円まで減り[129]、約3,300億円の商権が消滅した[130]。パルプ・紙本部の社員は三菱製紙や十条製紙へ流れ[131]、担っていた商権もそのまま失われた。1976年3月期に3,681名を数えた社員のうち、合併時に伊藤忠商事へ移ったのは1,058名[132]で、数千人の社員が散り散りになった[133]。銀行は16行で合計4,100億円の貸金を焦げ付かせ[134]、住友銀行は1,132億円を一括償却[135]した。三菱・東京・三井の3行は住友銀行のやり方が商権を吹き飛ばし[136]損失を必要以上に大きくしたと批判し、住友側は結果論だと反論した[137]。
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|---|---|---|---|---|
| 1904〜1956年大阪の地金商から戦後の総合商社への形成過程 | 安宅弥吉氏が個人経営の安宅商会を創業 | ★ | ||
| 日本窒素肥料の硫安販売を開始 | ★ | |||
| 安宅弥吉 | 安宅商会を設立 | ★ | ||
| 安宅弥吉 | 米国からの木材輸入を開始 | ★ | ||
| 安宅弥吉 | 官営八幡製鐵所と取引開始 | ★★ | ||
| 安宅弥吉 | 川崎造船所の薄鋼の指定商として取引開始 | ★ | ||
| 安宅弥吉 | 王子製紙のレーヨンパルプの一手販売店に | ★ | ||
| 安宅弥吉 | 東洋曹達工業(東ソー)の設立に資金援助 | ★ | ||
| 安宅重雄 | 安宅産業に商号変更 | ★ | ||
| 神田正吉 | 過度経済力集中排除法に指定 | ★ | ||
| 神田正吉 | 米国法人 安宅ニューヨークを会社設立 | ★ | ||
| 神田正吉 | 人事を通じた創業家支配の継続と、住友商事との対等合併の撤回 1955年5月に安宅英一氏が会長へ就いてから1977年の消滅まで、社長も株式も創業家の手を離れたまま、会社の重い選択が創業家を会長に戴いた体制の下で決まり続けた経緯である。1966年には住友銀行頭取の勧めでいったん合意した住友商事との対等合併が安宅側の反対で流れ、1969年には越田左多男社長から市川政夫社長への交代が起きた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 神田正吉 | 大阪証券取引所で株式店頭取引を開始 | ★ | ||
| 神田正吉 | 大阪証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 1957〜1973年最下位脱出を掲げた多角化と役員会を通らない大型取引 | 神田正吉 | 東京・名古屋の両証券取引所に株式上場 | ★ | |
| 神田正吉 | 安宅ドイツを会社設立 | ★ | ||
| 神田正吉 | 8本部20部制組織を導入 | ★ | ||
| 猪崎久太郎 | 東京本社を開設 | ★ | ||
| 猪崎久太郎 | 住友商事との合併撤回 | ★★ | ||
| 市川政夫 | 越田左多男氏が社長退任 | ★★ | ||
| 市川政夫 | 市川政夫氏が社長就任 | ★ | ||
| 1974〜1977年経営危機の表面化と伊藤忠商事による吸収合併 | 市川政夫 | 安宅アメリカの業績が悪化 | ★★ | |
| 市川政夫 | 期末時点の借入総額が5248億円に拡大 | ★ | ||
| 市川政夫 | NRC向け債権の焦げ付きで経営危機が表面化 | ★★★ | ||
| 市川政夫 | 伊藤忠商事との業務提携を発表 | ★★ | ||
| 市川政夫 | 市川政夫氏が経営責任を取って社長を辞任 | ★★ | ||
| 伊藤忠商事への吸収合併が決まり合併覚書に調印 | ★★ | |||
| 協調融資団6銀行の頭取が対策会議を開催 | ★★ | |||
| NRC製油所への傾斜投資と戦後最大級の商社破綻 1973年、安宅産業がカナダの石油精製会社NRCと総代理店契約を結び、BPから中東原油を10年買い切る義務まで引き受けて石油事業へ傾斜した経営判断。市川政夫社長の借入依存の拡大路線の象徴で、1973年10月のオイルショックを機に損失が膨らみ、1977年10月の伊藤忠商事への吸収合併という戦後最大級の商社破綻につながった。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(安宅産業)