安宅英一氏が会長就任
株式上場後も実質的支配を維持した安宅家の影響力
1956年の株式上場後、安宅産業の株主構成は筆頭株主の住友銀行(5.0%)と東京海上火災保険(5.0%)が並び、第3位に安宅英一氏(安宅弥吉の長男・2.29%)が名を連ねた。安宅家の保有比率は支配権の条件とされる50%を大幅に下回っていたが、安宅家は依然として安宅産業のオーナーとして振るまい続けた。創業家の株式保有比率と、経営への実質的な影響力との間には大きな乖離が存在していた。
1955年に安宅英一氏は安宅産業の会長に就任し、以後1977年の経営破綻に至るまで同社の重要人事を掌握した。安宅産業には創業家の奨学金を通じて入社した社員が数多く在籍しており、安宅英一氏はこれらの人物を「安宅ファミリー」として要職に登用した。安宅家に不都合と見なされた社員は課長以上の要職に就けないよう、監視体制が敷かれていたとされる。
創業家の意向が経営人事を左右する統治構造の常態化
安宅英一氏の会長就任以降、安宅産業の経営は創業家の意向によって左右される構造が常態化した。非安宅家出身の社長と安宅ファミリーとの間には対立構造が生まれ、ガバナンスにおける問題を抱えることとなった。会社法上の支配権を持たない創業家が人事権を実質的に行使し続けたことで、安宅産業の組織運営は属人的かつ不透明なものとなっていった。
加えて、安宅家による会社資金の私的流用も横行したとされる。当時の報道(「月刊経済」1976年3月号・7月号)によれば、安宅英一氏の息子(当時専務)は月額1000万〜1500万円の交際費を使い、海外のクラシックカーを十数台にわたって社費で購入していた。安宅英一氏自身も「安宅コレクション」として陶磁器約1000点(うち国宝2件、重要文化財12件)を社費で収集するなど、事業と無関係な支出が積み重なった。
使途不明金100億円超が示す創業家支配の帰結
安宅家による社費の私的利用は長年にわたって継続し、1977年の経営破綻時点で安宅産業の使途不明金は100億円以上に及んだとされる。事業とは無関係な支出が積み重なったことで、安宅産業の財務基盤は知らず知らずのうちに毀損されていった。創業家の私的な浪費は、後年の経営危機において安宅産業が財務的な余力を持ち得なかった一因として指摘されている。
安宅産業のガバナンス構造は、少数持分の創業家が人事権と資金の使途を実質的に支配するという歪んだ形態であった。上場企業でありながら外部からの牽制が機能せず、メインバンクも創業家の経営関与を黙認していた。この統治構造の問題は、1970年代に安宅産業がNRCプロジェクトに傾斜投資する際の意思決定にも影を落としていくこととなる。