1951年2月の合併で入れ替わったのは、売る薬ではなく、薬を売る会社の登記であった。統合し直した三社のうち田代鉱機工業は鉱山機械と鍛造品を扱う会社で、朝日万金膏ともサロンパスとも縁がない。三養基製薬も、戦時の統制下で医薬品の製造だけを外へ出すために1944年5月に立てた会社である。中身のそろわない三つを畳んだのは、1903年12月以来の合名会社という無限責任の組織を株式会社へ替えるためであった。中冨正義氏が社長に就任した久光兄弟株式会社は、株式を発行して外から資金を集める資格をこの日に得ている。
ただし、株式を発行できる資格は、外に向かって決算と方針を説明し続ける義務と同じものであった。資格を得てから使うまでには11年の間があり、1962年9月に東京証券取引所市場第二部と福岡証券取引所へ上場して以降、久光製薬は毎期その説明の側に立っている。1847年に田代で開いた小松屋から社名は替わっても本社は鳥栖市田代を離れず、経営は中冨家が担い続けた。そして2026年、久光製薬は海外への先行投資を理由に非公開化を決めている。株式を発行できる資格も、外へ説明し続ける義務も、75年を経てまとめて手放したことになる。