久光製薬久光兄弟合名・三養基製薬・田代鉱機工業の三社合併による株式会社化
戦時と戦後に三つへ分かれた事業を、なぜ1951年に一つの株式会社へ畳み直したのか
- 概要
- 1951年2月、久光兄弟合名会社が三養基製薬株式会社と田代鉱機工業株式会社を合併し、商号を久光兄弟株式会社へ改めた。1903年から続いた合名会社の形をここで畳み、株式会社として再出発した判断であり、現在の久光製薬へ直接つながる会社組織の出発点となった。新会社の社長には中冨正義氏が就いた。
- 背景
- 1944年5月、久光兄弟合名会社が中心となって統制会社の三養基製薬株式会社が設けられ、医薬品の製造は別法人へ移っていた。戦後の1948年2月には鉱山機械その他鍛造品を手がける田代鉱機工業株式会社も設立され、佐賀県鳥栖市田代の事業体は医薬品と鍛造にまたがる三つの会社に分かれていた。
- 内容
- 1951年2月に三社を合併し、商号を久光兄弟株式会社とした。1934年発売のサロンパスと1907年発売の朝日万金膏を抱える売薬事業を、無限責任の合名会社から株式会社へ移し替える組織変更でもあった。
- 含意
- 合併の翌年から大阪・東京へ出張所を置いて販売網を全国へ広げ、1960年には台湾に合弁会社を設けた。1962年9月には東京証券取引所市場第二部と福岡証券取引所へ上場し、1965年4月に商号を久光製薬株式会社へ改めている。資本市場へ接続するための会社組織が、この合併で整った。
鍛造会社ごと株式会社になる
1951年2月の合併で入れ替わったのは、売る薬ではなく、薬を売る会社の登記であった。束ね直した三社のうち田代鉱機工業は鉱山機械と鍛造品を扱う会社で、朝日万金膏ともサロンパスとも縁がない。三養基製薬も、戦時の統制下で医薬品の製造だけを外へ出すために1944年5月に立てた会社である。中身のそろわない三つを畳んだのは、1903年12月以来の合名会社という無限責任の組織を株式会社へ替えるためであった。中冨正義氏が社長に就いた久光兄弟株式会社は、株式を発行して外から資金を集める資格をこの日に得ている。
ただし、株式を発行できる資格は、外に向かって決算と方針を説明し続ける義務と同じものであった。資格を得てから使うまでには十一年の間があり、1962年9月に東京証券取引所市場第二部と福岡証券取引所へ上場して以降、久光製薬は毎期その説明の側に立っている。1847年に田代で開いた小松屋から社名は替わっても本社は鳥栖市田代を離れず、経営は中冨家が担い続けた。そして2026年、久光製薬は海外への先行投資を理由に非公開化を決めている。株式を発行できる資格も、外へ説明し続ける義務も、七十五年を経てまとめて手放したことになる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
合名会社のまま迎えた戦前の売薬商
久光の商いは、配置薬業が盛んだった佐賀県鳥栖市の田代で始まった。1847年に久光仁平氏が売薬の店「小松屋」を開き、1871年には屋号を久光常英堂へ改めている。会社組織になったのは1903年12月で、売薬製造販売を目的とする久光兄弟合名会社が設立され、初代社長には中冨三郎氏が就いた。合名会社は社員が無限責任を負う組織形態であり、家業の延長として営むにはふさわしくとも、外部から資本を集める形ではなかった[1][2]。
商品は貼り薬に寄っていた。1907年に売り出した「朝日万金膏」が看板となり、1934年には黒い膏体が肌に残る難点を解いた白い貼付剤「サロンパス」を発売する。1936年には後に社長となる中冨正義氏が銭湯で入浴客にサロンパスを貼って回る実物宣伝を仕掛け、製品名は会社名より先に全国へ広まっていった。売る力が先に育ち、会社組織が後から追いかける関係が、この時期にできあがっていた[3][4]。
戦時統制と戦後の分散
事業が三つに分かれた直接の理由は、戦時の統制にあった。1944年5月、久光兄弟合名会社が中心となって医薬品製造を目的とする三養基製薬株式会社が設立される。同社は統制会社であり、医薬品の製造機能は合名会社の外側に置かれた。田代の売薬商にとって、本体と製造会社が別法人として並び立つ状態は、戦時経済がもたらした変形であった[5][6]。
戦後にはもう一つ会社が増えた。1948年2月、鉱山機械その他鍛造品の製作販売を目的とする田代鉱機工業株式会社が設立されている。薬とは縁の薄い鍛造の会社であり、物資が乏しい時期に地元で仕事を確保する道として選ばれたとみられる。医薬品の合名会社、医薬品の統制会社、鍛造の株式会社という三つの法人が、鳥栖市田代の同じ地縁のうえに並んでいた[7]。
決断
三社を一つに畳み、株式会社へ移る
1951年2月、久光兄弟合名会社は三養基製薬株式会社と田代鉱機工業株式会社を合併し、商号を久光兄弟株式会社と改めた。戦時と戦後の事情で分かれた三つの法人を一つに畳み、あわせて1903年以来の合名会社という組織形態を株式会社へ移す再編であった。有価証券報告書の沿革は、この1951年2月をもって現在へ続く会社の記載を始めている[8]。
新会社の社長には中冨正義氏が就いた。1936年に銭湯で実物宣伝を仕掛け、サロンパスの名を全国へ押し広げた当人である。製品の知名度を作った人物が、その製品を売る会社の組織を作り直す側へ回った格好であり、久光の経営は以後も中冨家が担い続けた。組織の一本化と同族による経営継承が、この一度の合併で同時に処理された[9]。
結果
全国販売網から上場、そして社名変更へ
合併の翌年から、会社は売り先を外へ広げにかかる。1952年7月に大阪出張所、1957年3月に東京出張所を開き、九州の売薬商が全国の販売拠点を持つ会社へ変わった。1960年11月には台湾に合弁会社の久光製薬股份有限公司を設立している。本体の商号がまだ久光兄弟であった時期に、海外の合弁が先に「久光製薬」を名乗っていた点は、この会社の名づけの順序をよく表している[10]。
資本市場との接続も、株式会社になったからこそ可能になった。1962年9月に東京証券取引所市場第二部と福岡証券取引所へ上場し、1964年8月には大阪証券取引所市場第二部にも加わる。そして1965年4月、商号を久光製薬株式会社へ改めた。1951年に一本化した会社組織が、上場企業としての体裁と、製品名に合わせた社名を順に受け止めていった[11]。
- 久光製薬 有価証券報告書【沿革】
- 久光製薬 公式サイト「沿革」(https://www.hisamitsu.co.jp/company/enkaku.html)
- 日本家庭薬協会「家庭薬ロングセラー物語 サロンパスAe」(https://www.hmaj.com/kateiyaku/hisamitsu/)