ツガミ三井へ手放した初代の後身・東洋精機を吸収合併し、茨城工場として取り込む

25年前に明け渡した法人を買い戻すか、新設で増産するか——長岡の2代目が選んだ関東進出の形

時期 1961年10月
意思決定者(推定) 津上退助 社長
論点 生産能力の拡張と、分かれた法人系譜の扱い
概要
1961年10月、津上製作所が東洋精機を吸収合併して茨城工場とした経営判断。1936年に三井との方針対立で創業者・津上退助氏が手放した初代の津上製作所は、翌1937年2月に東洋精機へ商号を改めており、25年を経て初代と2代目が一つの事業体へ合流した。
背景
1953年の不渡りから和議法による再建を終えた津上製作所は、1958年3月期に1割復配、1960年5月には倍額増資の余力まで戻していた。神武景気に続く設備投資の波で、工作機械の受注は長岡・信州の2工場では受けきれない量へ膨らんでいた。
内容
合併で加わった工場を茨城工場とし、長岡・信州に関東の生産拠点を足して3工場体制を組んだ。1968年には自動盤・転造盤といった合理化機械が自動車産業から受注を伸ばし、受注残は35億円に達した。
含意
取り戻した拠点は14年しか持たなかった。1973年の石油危機で経営が傾き、1975年1月に社長へ入った大山梅雄氏は同年3月に茨城工場を閉鎖・売却し、身軽になった財務で1978年のCNC複合自動旋盤へ資源を寄せた。
筆者の見解

系譜を取り戻すことと、拠点を持ち続けること

1961年の合併は、増産の手当てと、分かれた法人系譜の回収という二つの意味を同時に持っていた。前者は3工場体制として数字に表れ、後者は商号整理を経て今日のツガミにつながる一本の来歴として残った。ただ、二つの意味は釣り合っていたわけではない。創業者にとって旧法人を引き取ることは特別な出来事であっても、会社にとっての茨城工場は、長岡から遠く、150名を抱える三番目の拠点という位置にとどまっていたとみることができる。

そのことは、危機のときの扱いに表れた。1975年に外部から入った経営者は、由来を問わずに茨城工場を閉じて売却し、その財務改善を自動旋盤への集中に振り向けた。創業者が25年かけて取り戻した拠点を、次の世代は14年で手放したことになる。もっとも、この判断がなければ1978年の主力製品も生まれなかった可能性が高い。何を回収し、どこで手放すか——ツガミの系譜は、その二つの決断が同じ資産の上で重なった例として読むことができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

三井との訣別と、旧法人に残った初代

初代の津上製作所は、1928年に資本金15万円で設立され、蒲田の雑色町に地下の恒温恒湿測定室を備えた工場を構えた。海軍の酸素魚雷用ジャイロの試作に成功したころから将来性を買われ、1934年に三井物産から100万円ほどの資本が入る。翌1935年1月には資本金を500万円へ増やし、精機・兵器・鋳造・測定器・光学の各工場を蒲田区下丸子に整えて、従業員は千数百名に達した[1]

だが生産の中身は兵器へ偏っていった。精密機械は兵器ではなく平和産業のために伸ばすべきだとする津上退助氏の信念と三井の方針は折り合わず、1936年11月、津上氏は辞任して下丸子を去った。三井のもとに残った旧法人は、翌1937年2月に東洋精機株式会社へ商号を改めている。創業者は争って奪い返す道をとらず、法人を相手に明け渡したまま、1937年3月に新潟県長岡市で2代目の津上製作所を興した[2][3]

長岡の2代目が再建を終えるまで

2代目は、精密機械には忍耐強い作業者が要るという創業者の考えから、東京を離れた寒地に置かれた。新潟県出身の石山賢吉氏の斡旋と、長岡出身の山田多計治氏が率いる大阪機械との共同で土地と資本の見通しを付け、1937年3月15日に資本金200万円で創立総会を開いた。1941年9月に長岡工場が全棟そろい、1945年2月には津上精密工学工業を吸収合併して信州工場を加え、1949年5月に東京・大阪・新潟の3証券取引所へ上場した[4][5]

上場後の津上製作所は、1953年6月の不渡りから会社更生法の申立て棄却を経て、和議法による再建へ切り替えた。負債総額およそ14億円の半分以上を切り捨て、1956年6月の5分の1減資と翌7月の5倍増資で資本を入れ直すと、同年9月期には黒字へ転じた。1958年3月期には1割の復配を実現し、1960年5月には倍額増資の余力まで戻る。1961年の合併判断は、この回復を終えた直後に置かれている[6]

決断

1961年10月の吸収合併と、茨城工場の獲得

1961年10月、津上製作所は東洋精機を吸収合併し、同社の工場を茨城工場として取り込んだ。増産のための拠点を関東に置くにあたり、用地の取得から設備の据付けまでを新設でそろえる道ではなく、稼働している法人ごと引き受ける道を選んだことになる。合併の結果、生産は長岡・信州・茨城の3か所に分かれ、本社機構は東京に置かれた[7][8]

受注の側にはそれだけの理由があった。10万分の1ミリのブロックゲージを支えた測定技術を土台に、津上製作所がつくる自動盤・転造盤といった合理化機械は、労働力の不足とコストダウンに追われた自動車産業から注文を集めていた。1968年の時点で受注残は35億円、半期の売上高は27億円、利益は2億3,000万円に達し、長岡工場の増設と技術研究所の建設が並行して進んでいた[9]

25年越しの合流と、商号がたどった経路

合併には、生産能力の確保を超える意味があった。1936年に創業者が明け渡した初代の津上製作所は、三井のもとで東洋精機と名を変えていた。その法人を、長岡で再起した2代目が25年を経て吸収したことで、いったん二つに分かれた系譜が一本へ戻った。創業者が自分の手で旧法人を引き取る形になり、以後の商号整理——1970年11月の株式会社津上、1982年10月の株式会社ツガミ——は、この一本化した系譜の上で行われた[10]

ただし、旧法人の商号は戦中・戦後を通じて何度も入れ替わっている。1962年の社史は、津上氏の辞任のあと三井が津上製作所の商号を三井精機株式会社へ改めたと記す。一方、現在の三井精機工業の沿革は、1928年創立の津上製作所が1937年に東洋精機、1942年に三井精機工業、1950年に再び東洋精機、1952年にまた三井精機工業と名を変えたとしている。1961年に津上製作所が吸収した東洋精機が、この系列のどの法人にあたるかまでは、手元の資料からは確定できない[11][12]

結果

3工場体制での増産と、人を増やさない合理化

合流後の内訳は、1969年10月の講演で常務取締役の山本栄松氏が明かしている。主力の長岡工場は敷地約2万5,000坪・建坪1万2,600坪に機械1,400台を並べ、従業員1,100名を擁した。信州工場は敷地約8万坪で350名、合併で得た茨城工場は150名という規模であった。研究開発は各工場から切り離され、1970年9月に津上総合研究所が長岡市へ置かれた[13][14]

拡張した3工場は、そのまま人員の膨張へは向かわなかった。1966年9月期は売上13億6,000万円に対して従業員2,000名超という不況期にあたり、津上製作所は生産部門を除いた間接部門の人員整理に踏み切っている。その後は製作時間の短縮で生産性を上げ、1969年9月期には従業員約1,700名で売上34億6,500万円・利益3億7,000万円を計上した。人員を増やさずに生産性を倍増させるという方針のもと、近代的な請負制度と従業員年俸制度も取り入れられた[15][16]

石油危機と、14年での売却

1973年の石油危機が、拡張の前提を崩した。1975年3月期は経常損益14億円の赤字、当期損益28億円の赤字に沈む。同年1月、東洋製鋼や宮入バルブの再建で知られた大山梅雄氏が社長として外部から入り、交際費をゼロにし100円以上の支出を社長決裁とする倹約を敷いた。大山氏は当時の状態を、4年間無配で資本金40億円に対し赤字が30億円あった、と振り返っている[17][18]

立て直しの手は、財務と資産の両方に及んだ。2分の1減資で累積赤字を消し、第三者割当で18億円を入れて借入金を返すと、年利1割として1億8,000万円の金利負担が消えた。資産の側では、1975年3月に茨城工場を閉鎖・売却している。1936年に手放し1961年に取り戻した拠点は、合流から14年で再び会社の外へ出た。身軽になった財務のもとで、1978年6月にCNC複合自動旋盤マーキュリーシリーズが発売され、以後の津上は自動旋盤に寄った品ぞろえで立ち直った[19][20]

出典・参考

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